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カルカッタの華麗な艶話
タウンゼント・ハリスのカレーライス
KhasyaReport 2025/08/04



参考
仮名垣魯文の一分銀/7メースと2カンダレーン



HMSSカルカッタ号の客室甲板で。英国海軍乗組員と正装の女性。カルカッタ港の風景でジャムス・ティッソ(1836–1902)の油絵1876。ビクトリア時代の英国植民地カルカッタ港の優雅な風景に描かれた貴婦人はユーラシアンの女性Miss Harrietを彷彿させる。この時代のカルカッタCalcutta(コルカタKolkata)が今回のカレーのお話の舞台。「混ぜて、こねて、で、どうするの?」と女性の母親がしゃしゃり出てくる。ここに描かれたにやけた海軍兵士もカルカッタの酷暑も凍り付くカレーの一件。 The Gallery of H.M.S. 'Calcutta' (Portsmouth), also known as Officer andLadies on Board HMS Calcutta 1876.Tate Gallery, London

 私は唐人お吉の生まれ代わりです。創作話に私はよく登場させられ、ないこと、ないこと、たくさん書かれましたが、誰もこのことを書き記してくれなかったので、令和の世に生まれなおして思い切ってお話しすることにしました。
 わたし、いつもカレーライスを作ってコン四郎さんに召し上がってもらっていたんです。
下田で牛乳を探し回ったのもコン四郎さんの好きなカレーに入れるためなんです。牛乳は椰子汁の代わりになって、カルカッタとか言うエゲレス人の住む街のカレーライスに近くなるんだそうです。
…なんて具合にお吉さんが現代に現れて言うかどうか分からないけど、この間の大戦直前に新聞小説や活動写真で流行ったお吉さんの物語はハリスをくさして鬼畜米英を貶める、文学的なでっち上げの固まりだから、でっち上げ序いでにコン四郎ハリスさんの大のカレー好きという嗜好に準えて、お吉さんにこんなことを口にしてもらって今回のカレーライスに纏わる話を始めてしまいました。
 
KhasyaReport



 

カルカッタ、貴族の娘達がほほえむ町


   お吉さんがハリスのいる玉泉寺を駕籠に乗って訪ね奉公したのはたった二日間で、お吉の体に腫物があったことから三日目にお金でけりつけられてお払い箱とか。新感覚派の先生が拵えて小説にした唐人お吉の情緒は宮永孝先生の研究書からは微塵も流れて来ないけど、逆にこちらでも悲しく寂しい解雇の運命にお吉さんは弄ばれるのです。あんまりでしょ。
 カレー作りの手ほどきをお吉さんがハリスさんから受けたなんて考えにくいけど、ここはハリスさんのカレー好きに免じてさらっと流してください。一言添えれば、コン四郎ハリスさんは香港で中国人のコックさんを雇い入れるとき「カレーライス調理が得意」とコックさんから売り込みを受けて、それじゃあんたに決定とばかり、その奥さんと共に月16ドルで雇いました。クロウが記したハリスの伝記「彼は日本の扉をこじ開けて世界に登場させた」にハリスの日記を引用してそう紹介しているんです。クロウはハリスさんのカレー好きに滅法興味があったのか、あれこれハリスさんとカレーの関係を掘り下げています。注4
 貿易交渉をするために下田に上陸してアメリカ公使館を開いたハリスさん。御供はヒュースケンという若造一人。ニューヨークで市立の学費無料の高校(ハリスはアカデミーと言ってる)を設立するために、貧乏人に学問はいらないと高慢を口にする年寄り金持ちの議員たち相手に、たまさか手にしたニューヨーク市の教育委員長ポストを背景にして大暴れして、なんとも見事なアカデミーを建ててしまった。そのすぐ後、大統領特使として日本へ行って、ペリーの犯したアメリカにとって不平等極まりない為替交換レートのミス(ドルの価値が三分の一に貶められた)を改め、自国アメリカの貿易商人の為に居住権を認めさせ、そしてこれが重要なのですけどキリスト教信仰の自由を勝ち取るという荒業をこなしました。
 そんな奔放な仕事をこなす人ならば当時最先端の英国がインドを範として生み出したカレーライスを召し上がらぬはずがないのです。若き日のハリスさんはインド、中国を起点にしてアジアを駆け巡る貿易商人だった。これも最先端のかっこいいお仕事でした。なんせ、もうけが多い。

サンジャシント号がなかなかやって来ないのでカレーを食べた

 1855年10月17日、ニューヨークを発ったハリスさんは大西洋を渡りパリで将軍謁見用の金ボタンをあしらった派手な礼服を仕立て、礼服用のタンスも買い求め下田へ送り、スエズ運河を経由してセイロンのゴールに立ち寄り、ヒュースケンが乗っている米国最新鋭戦艦サンジャシントを待っていました。でもサンジャシント号はなかなかやって来ないんです。最新鋭だけどスクリューが止まる故障を繰り返してゴールへの到着が滅法遅れている。そこで、コロンボに旧友を訪ねシンハラのカレー、マレーのカレーライスを食べることにしました。タウンゼント・ハリスさんはアジアなら何処へ行ってもカレーとカレーライスにまつわる話を引っ提げてしまうんです。
 そうそう、カレーライスに纏わる艶っぽい話を思い起こせばマレーシアへ向かう船中でハリスさんはこんな風に華麗に艶っぽいカレーの話を記しています。
 英国植民地のインド、カルカッタでの出来事でした。若輩の貿易商人としてインド、中国を中心としたアジアを飛び回っていたころを思い出して1856年2月20日(水)の日記にハリスさんはこう書き記しています。

マレー人はハンサムではないし、中国人もハンサムではない。しかし、マレー人女性と中国人の子供は実にハンサムである。母親の高い頬骨は消え、父親の斜視は丸く明るく、蛇のような目とは程遠い。顔は丸く、肌はサテンのように滑らか。ふっくらとしたバラ色の地肌に金をまぶしたかのように輝いている。
中国人とマレー人、ビルマ人、シャム人の女性との間に生まれた子は白人男性とそれらの国の女性との間に生まれた子よりもはるかにハンサムであるのは、特筆すべき事実である。
ヨーロッパ人と現地の女性との間に生まれた子は奇妙な人種である。常に温厚で親切であり、白人をもてなす時ほど幸福なのだ。彼らは大げさな表現を好む点で、我々の黒人に似ている。雄弁と多弁を同義語とみなしている。彼らはいつも娘たちに白人の結婚を勧め、そのために母親は自分たちでしか作れないカレーをティフンに盛って、ビールをいつも一番冷やして白人を迎える。若い男たちは、そこで得られる気楽さと、ある程度まで続く遊びの楽しみのために、娘らの家を訪れる。その男たちにとって難しいことの一つは、特定の形容詞の使い方を覚えることだ。例えば、彼女たちを「ハーフ」と呼ぶのは、ひどく侮辱したことになる。「田舎のお生まれ?」と尋ねても気にされることはないが、「リップラップ」(オランダ語で混血を意味する)という言葉を使ったり、女の子を「チーチー」と呼んだりするのは、非常に不快に受け取られる。後者は、女の子たちが遊びに行くときに叫ぶヒンドゥー語の「チー!(ファッ!)」という言葉に由来する。彼女たちは「ユーラシア人」という呼ばれかたをするが、これは「ヨーロッパ」と「アジア」という名詞を組み合わせたものでカルカッタ起源の単語である。注1
 

 さてカレーの話はここからです。

混ぜて、掻きまわして、こねて潰して、召し上がる

 ユーラシアン(欧州人とマレー人の混血をこう呼ぶ)のハリエットMiss Harrietという名の娘に入れあげた英国青年が今日も彼女の家に遊びに来ている。娘とじゃれ合い豪華なティフィン弁当の昼食まで振舞われている。昼食はもちろんカルカッタのカレーライス。文脈からするとどうもマレーシアのクリーミィなチャツネ入りのカレーっぽい。ハリスが評価する処の、アジア名物のカレーライスの中でも最高のカレーライスがマレーシアのカレーだ。
 母親が英国青年にちょっかいを出される娘の将来を案じた。この若者大丈夫? 娘への気持ちは本物?その真意を聞き出そうとした。あなた、娘と一緒になる気があるの?と直截にずけずけと。
 母親は青年に供したカレーライスに準えて、こんなことを言って青年を凍らせます。

「そうね、あなたはカレーをご飯に混ぜて、掻きまわして、こねて潰して、召し上がるのよね。で、申し込みはするの?」

 申し込みって、つまり結婚のプロポーズのこと。混ぜて、掻きまわして、こねて、と散々に娘をカレーライスを食べるときのように弄んで楽しんでいるじゃないの。で、どうなの色男ちゃん? 本気なの? 何とも嫌味な娘の母親のお節介。ハリスは娘の母親の行動をそう評した。翌日から英国青年は突然蒸発したかのように現れなくなったと記しながら。
 私の家に毎日やって来て、指先でこねてカレーを食べるように指先でいじくりまわして、私の娘にちょっかい出してる。まったく、もう。という母親のじれったい怒りをハリスさんはカレーの食べ方に準えてそう説明するのです。
 民俗文化の視点からこの作法を眺めてみましょう。(って、なんだ、偉そうに)
 カレーは指先で食べる。インド映画もスリランカ映画もB級娯楽作品に若い男女が登場して皿の中のカレーライスを「混ぜて、掻きまわして、こねて」というシーンは定番だ。これは熱烈に求め合う男女と言う愛のアナロジー。スリランカの結婚式で行われるのは新郎が自分の指の腹に載せた「混ぜて、掻きまわして、こねて」作った一つまみのカレーご飯を新婦に食べさせるセレモニー。これがハイライト・シーン。カレーを指先で頂く。カレー食文化の頂点です。
 ハリスさんが絶賛するカルカッタのカレーがクリーミィで香り高いことをそのレシピ―からご紹介しましょう。カルカッタのカレーレシピ―は次回掲載。ついでにその時、日本帝国軍隊の明治期カレーライスレシピ―も比較参考の為に紹介します。
 こんなエッセイを日記に書くなんてハリスさん、カレーを指で召し上がる熱帯アジア系文化に馴染んでいたんだな。ハリスさんがカルカッタに暮らす中産階級の娘さんに言い寄ったかどうかは別にしてですよ。注4
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 ハリスさん、日本へ来てこのカレーの食文化とどう付き合っていたのだろう。お吉さんに指先に転がしたカルカッタ名物のカレーライスを食べさせたかしら。
「コン四郎さん、これがカレーライスというものなの? 私の口に、あなたの指先に包んで運んでくださるの?」
 お吉はこれまでに下田へやって来た露西亜の船員や、仏蘭西の海軍兵らの相手をしたとき、彼らの食文化に触れたことがある。ボルシチもフリカッセも欠乏所バザールでゑびすの外国人に混ざって口にした。しかし、いま、コン四郎が指先に絡めて包んだ香り高いカレーの一つまみは口に含むと遠い昔に海の向こうで出会った味のように思えて。
 そう、懐かしいわ。でも、初めての味。遠い昔に、今の私が生まれる前の私が居て、もしかしてカルカッタとかで「混ぜて、掻きまわして、こねて」指の腹に載せて私、食べていたかも。その時制服を着た船乗りさんがいた。もしかして、あの方はコン四郎さん、あなた?
 南の島で出会っていた味。お吉さんの味覚に佇む前世の人々のおぼろげな記憶。お吉さんがうっとりとしたのはカレーの辛い味が牛乳で包まれて遠ざかり、代りにマンゴーを薄切りにしたカルカッタのチャツネが甘くて、そのやさしさに包まれたからなのでしょうか。


  繁栄と貧困と虐殺の都市カルカッタ

 ハリスさんがカルカッタに暮らすハリエットという娘さんの華麗な艶話を語ったのは1850年台。英国東インド会社の商館がおかれたカルカッタは1857年のインドの反乱を経て英領インドとなった。豊かな英国の商業資本が惜しげなく注がれて水を打ち掃き清められた大路を敷く街も、ビクトリア朝の正装に包まれ艶話の肴にされるユーラシアンも潤っていた。タウンゼント・ハリスが貿易商としてインド、中国で稼ぎを上げていたのはこの頃で、ビクトリア女王の政府が任命するインド総督の、時に横暴な専制政治を振り下ろす時代をハリスさんは目撃していたのか。
 それから150年が経った。ハリスが触れた優美なカルカッタとは真逆の貧困と暗黒に蠢く現代の街・カルカッタ。日本の若い写真家がカメラのレンズを通して覗いていた。
 廣津秋義という写真家はこの街で人力車と車夫を撮りまくった。
 英国が築いたかつての繁栄に現代の貧困が覆いかぶさる。太守による英国人兵の虐殺は地中に埋められ忘れ去られようとする。極東の海に大陸に寄り添い弧を描いて点在する島を抱える国が今、カルカッタの歩んできた近代の道をたどって転げ落ちてゆくように見えるのは偶然の一致か。歴史の必然か。
 喧騒と狂気。英国の優雅な繁栄。インドの多層な貧困。英国がカルカッタに拠点を置いてインド統治を始めると同時に明と暗がくっきりと浮かぶ。廣津秋義はこの不可解な複層建築の街に惹かれていった。彼の幼児体験が心に与えた深みと重なった。九州熊本に生まれ、幼くして母と名古屋に移り住み、飯場(消された言葉だ)で仕事をする母に手を引かれ、日本中から集まる飯場労働者に可愛がられた。
 その彼がカメラを持った。学生の時にインドを歩き、カルカッタの書店で見かけた写真家ラグビール・シンRaghubir Singhの一枚の写真に吸い寄せられたからだった。汚れ切った人力車。汗まみれの裸足の車夫。腐ったカルカッタ。この写真集を携えて廣津は日本へ帰った。

 若者がインドを放浪する。生と死の喧騒と膨大なエネルギーに圧倒される。廣津もその一人だった。名古屋という都市の飯場に暮らしたのは十代の前半、数年の間だったがインドのカルカッタを訪れたとき、その時代が彼に蘇った。繊細な神経を携える彼が傍若無人の衣装をまとうようになったのは、そうして自我を放出するようになったのは名古屋とカルカッタが重なったことに始まるのだろうか。
 程なくして廣津はカメラを持った。「季刊・民族学」に写真と文を寄せてインドを連載した。それは私が四谷にスリランカ料理トモカを開いたころで、インド行きのチケットをトモカの近くの旅行代理店へ買いに来る時に廣津はよく私の店に寄った。
 1980年代後半から91年に掛けて廣津はカルカッタを頻繁に訪ねた。人力車を引く人々の生を彼は写しとった。悲惨、貧困、福祉。疲れ切った車夫、子供たちの戸惑い。「カルカッタ」というタイトルの彼の写真集には人力車と車夫が200頁に近いその本に中のあちこちにちりばめられている。注5

 その同じころ、トモカの馴染みとなった情報センターの編集者が「私の担当した本です」と言って藤原信也の「メメント・モリ」を店に持ってきてくれた。藤原信也は「メメントモリ」の冒頭にカルカッタの状景を掲げた。死という優雅な壮絶を屍の足を咥える犬の目に写しだした。犬はぼんやりとこちらを見ている。小さな写真集だが頁を開くとインドを真っ先に掲げて広大な第三の世界が広がっている。
 写真家はどこかずれている。被写体の対象を直視しながら、時に掠れ、冒頭の、犬の虚ろな目のようにカメラがずれる。そこが奇妙で気を引かれる。
 廣津秋義は硬い球を直球で投げる。ナチュラル・シュートを投げる。カルペディエムの生を車引きの腕の力こぶに見出し、直視したままファインダーの中に収めている。ラグビール・シンがスナップした人力車の軽い画像を廣津は暗く、重みを足して描く。彼が見たままのカルカッタ。
 ラグビールの写真集のタイトルと同じ「カルカッタ」という書名で1992年、廣津は彼の初めての写真集を世に送り出した。廣津は問う。極限の一瞬を死の側に押しやってカメラを構えるのか、いや、生の側に引き寄せてフィルムに写しとるのか。シャイな彼が叫ぶ。死を問え。死を問え。生きて死を問え。直視せよ。大きく笑え。胸に一杯の花束を抱えて笑え。

 スリランカの仏歯寺脇のカンディ湖を見下ろすゲスト・ハウスで彼は小豆の入った小袋を取り出しカメラをそこに据えて、私に写真の取り方を教えてくれた。柔らかな目をしていた。カルカッタからカンディ、ヌワラエリヤへ彼の視点が移っていたころだった。ヌワラエリアでは終日茶摘みに暮らすインド・タミルの女性の労働とその家族を、名古屋時代の我ことを思い出すかのようにして力強く、笑みを絶やさないその姿を撮った。こちらは写真集になっていない。
 




注1
この部分のハリス日記原文
出典/The complete journal of Townsend Harris, first American consul general and minister to Japan Harris, Townsend, 1804-1878; Cosenza, Mario Emilio, 1880-1966,Japan Society (N.Y.) 1930 Harris日記に関するこのほかの引用も同様出典。

Wednesday, February 20^ 1856. The Malay is not a handsome person, nor is the Chinese good-looking, yet the children of a Malay woman by a Chinese are really quite good-looking. The high cheek bones of the mother disappear, the oblique eye of the father is displaced by a round, bright and not snaky looking eye. The face is round and the skin like satin; color like a solution of gold laid on a rose colored ground. They are always plump. It is a singular fact that the children of the Chinaman by the Malay, Burmese or Siamese women are far better looking than the progeny of the white man by women of those nations. The children of Europeans by native women are a queer race — always warmhearted and hospitable, they are never more happy than when showing their hospitality to white persons. They resemble our negroes in the love of stilted expressions, considering magniloquence and eloquence as synonyms. They always try to secure the hand of a white for their daughters, and to this end the mother has her tifHn spread with curries that only can be made by them, and their beer is always of the coolest. Young men are fond of visiting them from the ease that they can there enjoy and from the pleasure of romping, which is carried to a certain extent. One of the difficulties of the foreigner is to learn how to use certain descriptive words. For example : it is a gross insult to call one of them "half-caste." You may ask them if they are "country born," and no offence is given, but to use the word lip lap (Dutch for mixed blood) or to call the girls chee chees is very offensive — the latter comes from the constant use of the Hindostanee word chee! (fie!) which the girls scream out when romping.
But the name most affected by them is Eurasian — being a compound of the nouns Europe and Asia. This word is of Calcutta origin.

ハリエットに関する記述部分は以下の通り。
A young Englishman had long visited a house where the Eurasian daughter. Miss Harriet, was quite a favorite with him. He had sung with her, romped with her, and talked mock sentiment with her, and was rewarded with capital tiffins and now and then a pleasant romping bout. The mother, having asked her daughter how matters stood between her and her admirer, resolved herself to bring the young man "to book." Accordingly, at his next visit and after tiffin was over, Miss Harriet disappeared from the room; and the mother, seating herself near the young man, addressed him as follows :
"You rice and curry eat 'em; hand you squeeze 'em; fum fum pinch 'em. What for you no propose?" The young man evaporated.

ハリスは同様にカルカッタに貴族のようにして暮らす英国人女性の思考をこう語っている。
Wednesday Feb 20 1856Harris dialy P65 
Another case is quoted to show how recklessly these poor creatures rush into the cares of matrimony.
A young Eurasian, who was employed in a government office as a writer at some sixty rupees ($27) per month, being smitten with the charms of the fair Rosa Matilda, made her an offer of his "hand, heart and fortune." Miss Rosa Matilda simply asked him: "Silver tea pot got?" Yes. "Have buggy got?" Yes. "Can ask mamma."
However, many of these Eurasians are quite well educated (some being sent to England for that purpose), and behave with perfect propriety and decorum. I have passed many satisfactory hours with this class of Eurasians.

このようなかわいそうな生き物が、いかに無謀にも結婚の世話に突っ走るかを示すために、別の事例を引用しよう。
月給60ルピー(27ドル)のライターとして役所に勤めていた若いユーラシア人が、美しいローザ・マチルダの魅力にほだされて、彼女に "手と心と財産 "を差し出した。 ローザ・マチルダ嬢は彼に尋ねた: 「銀のティーポットはある? はい。 「バギーはある? はい "マンマに聞けばいい"
しかし、これらのユーラシア人の多くはかなり教養があり(そのために英国に送られた者もいる)、完璧な礼儀と礼節をもって振る舞っている。 私はこのようなユーラシア人たちと満足のいく時間を過ごしたことが何度もある。

注3
 これまでのハリス研究に水を差してはならぬと方々気を使い、十一谷義三郎の文体をほめちぎる風に紹介し、丹潔のハリスとお吉の長年の交流を是とし、結局ハリスも敬虔な聖教会教徒ながら人の子と宮永孝は結語するが、お吉が「侍妾」としてハリスの近くにいたのは3日間という氏の研究成果は譲らない。この書を一読しただけでは到底「お吉」の存在理由など掴めるものではない。お吉は歴史か、文学か、実在するゴシップか。「侍妾」という意味するところが不確定な単語をお吉に用いたところもお吉の存在を玉虫色にした。研究書として味わい深い。
 「開国の使者―ハリスとヒュースケン」 宮永孝 東西交流叢書1 雄松堂出版 1986/2/28

注4
 カールクロウ ハリス伝に記されたカレーライスは次の3カ所。
43 ページ
... カレー料理までがこれは歓待の序の口にすぎなかった。以前セイロンにいたとき、彼をもてなしたのは友人たちばかりであった。いま彼らはそれ以上に親切である。「肩書というものはえらいものだ」と、彼は日記に述懐している。

With his residence in the Rast he had, like most other Americans, acquired exotic tastes including a fondness for curry; and like others found that a taste for good curry dooms one to almost constant disappointment when in Occidental countries.

44 ページ
... カレーをご馳走してくれたが、彼はそれを口をきわめて推賞した。彼女は正月料理をもふるまってくれた。そして、イギリス軍の ... カレーは、天下一品であった。アラビアの糖菓で、ハルウェイと申すもの、これは米、砂糖、ラクダの乳で作ったものだが ...

84 ページ
.. カレーのことに関するかぎりいかにもくろうとらしい顔をしていた。ハリスは補給のカレー粉とチャットニーを、カルカッタから取り寄せるよう手配した。

The cook had pretended to be an expert in the matter of curries and Harris arranged for an aditional supply of curry powder and chutney to be sent fron Calcutta.

He Opened the Door of Japan: Townsend Harris and the Story of His Amazing Adventures in Establishing American Relations with the Far East.,Carl Crow / Harper & Brothers, New York and London 1939.

注5
「カルカッタ」 広津秋義 平河出版社刊 1992