二年前、ハイネはペリー使節団に画家として加わり下田の了仙寺から見下ろす港のこじんまりとした安らぎの風景を描いた。湾の中の犬走島、木立が取り囲む入江。その静かな息遣い。ハイネの気心のやさしさが画の中にも滲む。今回は三度目の来日。米国公使タウンゼント・ハリスの第一秘書ヒュースケンと気が合うのは二人が同質の性向を持っているからだろう。
ヒュースケンは昨年、日本の土を始めて踏んだ。米国仮公舎とした柿崎の玉泉寺にぽつんと取り残されたと彼は日記に認めている。私はあの軍艦に乗って日本へやって来た ― 境内の木に登って下田港から黒煙を上げて去り行くサンジャシント号を見やり泣いたよ、とも。
江戸にアメリカ公使館が移り、プロシアの交易交渉使節団がやって来て近くの赤羽に宿舎を構えてアメリカがプロシアの交易交渉を援ける段取りが生まれ、そこにハイネとヒュースケンのかかわりが始まった。ハイネもヒュースケンも自身のことは何一つ語らないから、二人の間で自由と平等を目指す革命のことが語られたなんてことは誰も知らない。開港や通商の件で頭がいっぱいだったからね。
話していたんだよ。エビデンスなんて見つからないけどね。
ハイネがオイレンブルク伯の部屋の窓の下に作った大きな雪だるまは陽の光に晒され昼頃には融けてしまった。
黒船の襲来。度重なる地震。後に維新の英雄となる薩摩藩の下級武士たちが江戸の夜を血に染める。毎夜の無差別な辻斬りと放火。夜間は外に出るな。ヒュースケンはハリスからそう忠告されていた。
なのにヒュースケンは深夜にプロシアが宿舎にしている芝赤羽接遇所を馬にまたがり後にして近くの善福寺に構えたアメリカ公使館へ至る前、テロリストに襲撃された。襲撃で瀕死の重傷を負ったという悲報を聴いたハイネがヒュースケンの元へ馬を飛ばすと、いや、ここからはハイネの証言にゆだねよう。日本との通商条約調印を控えてその前祝に英仏の外交官、政府の交渉担当者らを招いたパーティが引けて参加者が去った後の夜半だった。
ヒュースケンはいつものようにテーブルに居た。9時半ごろ帰路に就いた。そして10時半、彼が襲撃されたと知らせが入った。私は馬に鞍を置きサーベルとリボルバーで武装し彼がいつも通る道を急いで走った。暗い夜で何も見えない。
ヒュースケン氏を見つけることもできぬままアメリカ公使館に着いた。彼は血まみれで大の字に横たわっていた。腹に大きな傷があった。ロベルト・ルーチウス博士はまだ来ない。日本の医師の一人が傷口からの出血を止めようとしていた。ハリス氏からこの悲しい出来事の一部始終を聴いた。赤羽からアメリカ公使館へ行く道のほぼ中間でヒュースケン氏は突然、刀を持った7,8人の日本人に襲われたそうだ。彼らは大声を上げ、すべての提灯を消し、護衛の役人とヒュースケン氏に襲い掛かった。馬の足並みを上げ襲撃した連中を後にしたが、突然馬から落ちて彼は叫んだ。護衛の役人に寄れば2人が負傷したヒュースケン氏の許に残り3人目がアメリカ公使館に掛け込み助けを求めたという。ヒュースケン氏は重傷を負ったが30分ほど歩き続け、戻ってきた役人たちが隣の家の板戸をもってきてヒュースケン氏を載せ大使館の彼の家に運んだ。
駆け付けたルシウス医師が包帯を巻き終えると、ヒュースケン氏は少し良くなったように見えた。死の淵で青白かった顔が安らかな表情になり、目は生き生きとした。彼はワインを頼み口にし、集まった友人全員に、助けてくれたことを感謝した。彼の血まみれの服を脱がしきれいな服に着替えベッドに寝かした。私たちは、温かいタオルを当て湯たんぽで温め彼の命を回復させようとした。
彼の危機が遠ざかったように思えた。私はルーチウス医師と赤羽接遇所に戻り就寝具を取ってアメリカ公使館へ引き返した。
真夜中近く、ヒュースケン氏の落ち着きが無くなり、さらにワインを求め、水を欲しがり、眠りたくないと言い、穏やかだった息が荒くなった。真夜中を過ぎたとき、彼はもうこの世にはいなかった。アベ・ジラール神父がヒュースケン氏に聖体拝受を与えた。
Eine Weltreise um die nördliche Hemisphäre in Verbindung mit der Ostasiatischen Expedition in den Jahren 1860 und 1861. |
ハイネはこの後こう記している。
長くて悲しい冬の夜は終わりがない。時間ごとに交代する幕府役人。そこにトミーの愛称で呼ばれる立石斧次郎がいた。私はペリー提督遠征に加わった時、彼を見かけていた。ダゲレオタイプで撮った写真が残っている。
トミーは言った。
「 ヒュースケンが天国に行けることを願っています」
天国。キリスト教の死後の世界。異教のことを日本人が話すのを初めて耳にした。(写真家の)ウィルソン氏がこう応えた。
「トミー、あなたたち日本人はアメリカでとても温かく迎えられ、誰もがあなたたちに愛を注いだ。しかし、この日本ではこんな残忍なやり方で私たちの同胞が殺される」
「残念だけど」とトミーが言った。「江戸には夜道にたむろして非道をさらす悪人がたくさんいる」
ウィルソン氏は訊く。
「なぜなんだ?これほど多くの人間が刀を持ち、酒に酔って刀を振り回す。そんな邪悪が許されるのか」
トミーは応える。
「そうなんです、残念ながら。亜米利加では勤務中だけ剣を携行する。でも、そんな警戒の緩さではこの国はすぐに革命が成功して国が滅ぶだろう。この国では二本の刀を持つのが高貴の証で、それが革命を止めるのですから」
「しかし、トミー!」私は二人の会話に口をはさんだ。
「悲しいじゃないか、そんな世界なんて」
「悲しいけどこの国の状況は変わらない。この国に良い学校が建てられ、国民がよい教育を受け、聖書を学ぶまではこの国の状況は決して良くならない」
トミーは聖書と言った。日本人が聖書について語るのを初めて聞いた。私は暫し黙りこんでしまった。
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この記述の後、ハイネはルーチウス博士の検視報告を子細に引き写している。この国のヒュースケンに関する研究書にはヒュースケン暗殺の生々しい、血で汚れた、あるいは日本刀の切れ味のすばらしさを説く文書がまかり通っている。その大元はルーチウス博士の検視報告だから解剖学に興味のある方は正確性を配慮してヒュースケンの肉体状況に関して綿密に余すところなく記述されたその資料をお読みいただくとして、大変だな、ほんとにいつまでも遺体は生々しくて、血で汚れて残忍で。
ハイネはポケット版の聖書を取り出しヘブライ人へのパウロの手紙11章とヨハネ黙示録21章の一部を読み上げた。二つの章は彼が日本へくる直前に亡くなったキャサリン夫人のアメリカでの葬儀の時にも読んでいる。ハイネのヒュースケンへの気持ちの在処が、希望がそこに現れている。
ヒュースケンは日本へ渡る船の中で、喜望峰を越えたあたりだったか、この国へ西洋の災いをもたらそうとしていると自らを評した。セイロンのゴールで同じ思いを吐露した。日本へ上陸してその思いが強まった。私たちはこの美しい国を貶めてはいないか。子供たちから笑顔を奪いはしないか。
今、かれは天国へ召された。パウロの手紙に記された新天地を求め旅立ち、ヨハネ黙示録が語る新しいエルサレムを安住の地として。それでなのだ、オイレンブルク伯は昨日、ハイネの大きな雪だるまが江戸の冬の昼間に融けて小さく小さくなり跡形もなく消え去っていく姿を地上に見ていた。融けて消え去る雪だるまが幻だったにしても、ハイネは、こいつは私の大好きな友人なんだと言いながら誇らしげに大きな雪だるまを、まるでヒュースケンに見立てるかのようにおどけた姿に作った。
ハリスをカレーライスで接待して、オイレンブルク伯はプロシアが日本と結ぶ通商条約への援助を感謝した。接遇所でのパーティでもカレーライスを供して注2、そして、その翌日にこの事件が起きた。テロリストによるヒュースケン襲撃の事件の顛末を私はその現場にいたハイネというやや癖のある写実画家の感性を通して、私のカレーの味付けを加えておおむねご紹介した。それにしても、ハイネが記した日本関連の和訳本にはペリー日本来航時のものがあるが、このヒュースケン暗殺に触れたハイネの Eine Weltreise um die nördliche Hemisphäre in Verbindung mit der Ostasiatischen Expedition 1860 und 1861 には、なぜだろう、和訳本がない。
ヒュースケンはハリスに直接、襲撃の事態を語った。ハリスはハイネにヒュースケン襲撃事件の様子を伝えた。ハイネはヒュースケンが天国へ召される場にあって彼らの信仰をトミーと話した。
ハリスには昨日のパーティの供宴も苦々しい、不味い、後味の悪いものになった。彼のために供されたカレーライスが悲しくてしょうがない。私にすれば幕末のカレーライスを調べているだけだったのに、ハリスとヒュースケンの食事を追っていたら、こんなことに出くわしてしまった。
ヒュースケンの腹を小刀で突き刺し胸のあたりからわき腹を切りつけた(とかいう)攘夷のテロリストは一体何を食べる人だったのだろう。
薩摩藩の下級武士はまだ、カレーライスを知らなかったか。イムタがカレーって何だとハリスに聞きに行って、インドの名物だよ、まあ食べてごらん、と誘われてその辛さに目を丸くしてオリエンタルの夢の味に魅せられたらテロなんて残忍な戦争ごっこは起こさなかったのではないかと真剣に考えてみた。仮名垣魯文が幕末に『西洋料理通』を出していたら、ハリスからクレームが入って、ベジタブルだけのカレーもあるよ、それが本物だよと、ハリス得意の弁舌で捲し立てられ原稿の差し替えを急かされた、なんて。
日本へ向かう蒸気船の甲板でインドの船員が車座になってカレーを指で食べる様子をオイレンブルクは記録した。日本語訳の「遠征記」も「滞在記」も日本に到着する直前のシンガポールから訳が始まるのでそれ以前のことは訳本では埒が開かない。ここはインターネット・アーカイブでも何でもいいから尋ねて行って使節団報告のすべてを洗ってみると、セイロンのゴールに到着する少し前からオイレンブルク伯はカレーライスに触れている。ハリスは日本着任の前、インド・カルカッタのアメリカ領事に依頼したカレー粉送付の受け取りを香港とマカオに住まいを有するドリンカー夫人に事細かに、香港滞在中に書面で指示を送っている。下田に着いたらカルカッタのカレー粉でカレー食べなきゃ。これ、ハリスらしい執念。参照:タウンゼント・ハリス、インドへカレー粉を注文する
ヒュースケンが残虐な襲撃で殺された時、他の欧州使節団がなぜか団結結束して、日本をつぶせ、江戸を攻略しようと意気上がる中注4、ハリス一人が日本挑発を避け江戸幕府(日本政府)の側に立って、戦争ではなく交渉によるヒュースケン事件の解決を探った。なぜだろう。これもカレーに執着するハリスの実直な正義の執念かしら。
新興アメリカはまだ開発途上にあったから軍艦も少なくて、ほかの国々の軍事力に圧倒されて日本との貿易開港交渉の先駆としての優位を失いかねないから戦争反対という立場を取ったと邪推紛いを捻くり出す人もいる。当たっているかも。歴史は正当な科学ではないから唯一の真実なんてどこにも輝かない。ハリスの執念に負けて英仏が何事もなかったかのように江戸に静かに戻ったけど、なんで? あの時代はハリスの真っ当が通ったんだね、そうだったんだね、偉かった、ハリスのアメリカは。通商条約も明治になって盛んに喧伝される不平等なんてなかったし。注4
もっとも、血気にはやる薩摩長州が、これも血気盛んな英仏の戦艦と派手な大砲の打ち合いを始めて、薩長が負けたものだから賠償金だの、関税引き上げだの、金銀を巻き上げられる日本にとって散々のありさま。ハリスの自由で対等な貿易交渉という商人魂の理想が無残に消し飛んでしまう。ハイネの雪だるまが江戸の町に降り注ぐ陽の光の熱で溶け、跡形もなく消え去ったように。
ハイネが雪だるまを作った翌日のこと。
プロシア使節団の公館でパーティが催された。日本・プロイセン修好通商条約が締結されると決まり、オイレンブルク伯が英仏和蘭の代表を招き、アメリカ代表のハリスとヒュースケンを招き幕府外国掛の担当者らを招いて午後1時からパーティを催した。
ひどい一日だった
パーティは終わり、ヒュースケンが最後まで残り、オイレンブルク伯と食事をしてアメリカ公使館へ夜間、戻って行った。そして、事件はその直後に起こった。
オイレンブルク伯が突然の悲報を受けてプロシアへ書き送った手紙の冒頭は「ひどい一日だった!」で始まる。注5
雪だるまが溶けて消え去ったようにヒュースケンもあっけなく江戸に消えた。
ヒュースケンの各国合同葬儀が事件の三日後に催されたとき、ハイネはハリスの依頼を受けてハリスが設定した葬儀の進行を引き受けた。
ハイネはヒュースケンの棺を担ぐ葬儀の様子を彼の写実画に残した。棺を担いで行進するプロイセン兵士らの傍らにヒュースケン夫人と幼い男の子が寄り添い歩く姿が描かれている。描かれた母子二人の評価をする人はいない。ありえない、そんなの嘘だろうというわけだ。ハイネの画には不思議の盛られることが多い。母子二人がヒュースケンの傍らに寄り添って歩く姿はハイネが導く幻想の世界か。
老中諸侯が加わり、英仏独蘭米が参加したヒュースケンの葬儀はキリスト教と仏教の作法で行われた。プロイセンは葬儀の後、日本と通商条約を結びプロイセン遠征団は帰国の途に就いた。ハイネは遠征団の一員として日本を離れるが中国で一行と別れ日本に戻ってくる。横浜ホテルに泊まり、アメリカへ船出する船を待ちしばらく逗留する。ハイネの不思議がここでも顔を出す。
シベリア抑留を脱して箱館、横浜と逃避行を続けるバクーニンがホテルの地下のビリヤード室にいて、同じくアメリカへ向かう船を待っていた。自由と平等を求める革命をプロシアで起こそうとした時のアジテーター・バクーニンと実行者ハイネが同じ時期、同じホテルに滞在していたことになる。二人が旧交を温めたという話はついぞ聞かないし、そもそもハイネが革命を夢見たプロシアで二人が会っていたという話もない。
アメリカへ戻ったハイネは南北戦争に加わり、奴隷解放を求める北軍の兵士となり自由と開放を求めた。職務は戦争画の作成だが軍機に従わぬという理由で除隊し、日本へ行くときに分かれた一人娘---娘の名も母と同じキャサリンだ---を連れ英国リバプールでアメリカ領事館の書記(領事とも)となった。1871年、プロシアを中心にドイツ帝国が生まれるとハイネは生まれ故郷のドレスデンに戻り、日本に関する著作の執筆を再び開始する。江戸の赤羽で拵えた雪だるまのようにオイレンブルク伯が驚き喜んだような大きな雪だるまを作品として残し得たかは定かではない。
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注1
オイレンブルク伯の『日本滞在記 : 第一回独逸遣日使節』
Ost-Asien 1860-1862 in Briefen des Grafen Fritz zu Eulenburg. Hrsg. von Graf Philipp zu Eulenburg-Hertefeld(フリッツ・ツ・オイレンブルク伯爵からの手紙による東アジア1860年から1862年/フィリップ・ツー・オイレンブルク―ヘルテフェルト伯爵編集)1861年1月13日(日)にこうある。
「夜中に二度私は家中を揺るがすやうな地震で目を覚ました。朝、外を見ると萬物は一吋程の雪に覆われてゐて、その上にキラキラと太陽が映えてゐる。緑の樹が雪に覆はれたのは、全く珍しい眺めだった。ハイネは私の部屋の前に立派な大きな雪達磨を作ったが、日の上るにつれて、融けて小さくなつた。」p.210
以下は手紙原文。ハイネが作った雪だるまの箇所
 Ostasien 1860-1862 in Briefen des Grafen Fritz zu Eulenburg
注2
1月14日付の日本側条約担当者を招いてのパーティで供された食事「カレーライスReis mit Curry」の部分(写真コピー)と14日付手紙の全文
 Ostasien 1860-1862 in Briefen des Grafen Fritz zu Eulenburg
14日付手紙の全文 allen Seiten anſehen konnte, die Amazonenſtatuen; ganz dicht an der papiernen Außenwand ſtand der Schirm mit den Biskuitplatten, An⸗ ſichten von Berlin und der Rheingegend darſtellend und ganz wunder: hübſch ausſehend; an der langen Wand gegenüber waren in gehöriger Entfernung zwei elektromagnetiſche Apparate aufgeſtellt, deren Scheiben ich mit japaniſchen Buchſtaben habe beſchreiben laſſen, und an welchen ſich ſeit mehreren Tagen zwei japaniſche Beamte üben, die ich mir vom Miniſter ausgebeten hatte, um ſicher zu ſein, daß Jemand da iſt, der die Apparate zu gebrauchen verſteht. Rings umher auf Tiſchen, hölzernen Divans und Stühlen lagen die ſchönen Bücher aufgeſchlagen, und auf einem großen Tiſche an der ſchmäleren Wand, dem Regenten gegenüber, ſtanden kalte Faſanen, Enten, Roaſtbeef, Reis mit Curry, Eier, warmes gedämpftes Rindfleiſch mit Kartoffeln, gebratene Fiſche, ſehr viel Bordeaux, ſehr viel Sekt in Schnee und einige Buddeln Schnaps. Gegen 1 Uhr verſammelte ſich meine ganze Geſellſchaft im Salon, und bald darauf erſchienen Harris mit Heusken und Alcock mit ſechs Dolmetſchern, Sekretären und Attachés. Der Verlauf des Frühſtücks war wie der jedes vergnügten Frühſtücks. Erſt bekompli⸗ mentirte man ſich, beſah bewundernd und lobhudelnd die Geſchenke, aß dann etwas Fiſch, trank ein Glas Bordeaux, fing an, auf die Faſanen und Enten einzuhauen, ſchlürfte Sekt mit großem Appetit, wurde lauter und lauter, bis die ganze junge Geſellſchaft berauſcht war und meine Telegraphen in Gefahr brachte. Auf allen Geſichtern ſtand großes Vergnügen geſchrieben. Das iſt dann der richtige Moment, um abzubrechen. Ich proponirte einen Spazierritt, und wir ſetzten uns zu Pferde, 17 Herren und 23 Jakunins. So waren wir 40 Reiter. Die Sonne ſchien prächtig klar und warm. Ich und Alcock ritten in ehrſamem Trabe voraus, die übrige Geſellſchaft machte in ihrer Trunkenheit Unſinn, und der unergründliche Schmutz ſpritzte uns um die Ohren.
(戦闘の馬に乗る)アマゾン女族の彫像を四方八方から見ることができました。紙の外壁のすぐ近くには、ビスケットのプレートが付いたスクリーンがあり、ベルリンとライン川地域の景色が映し出されていました。とても素晴らしい映像です。とてももきれいでした。向かい側の長い壁には適度な距離を置いて電磁通信機が二台設置されています。その通信機のディスクには私が日本語の文字を書いたのですよ。通信機の操作を覚えるために二人の日本の役人が数日間練習しました。私が大臣に通信機操作の出来る役人を連れてくるように依頼していたのです。美しい本がテーブル、木製の長椅子、椅子の上に広げて置かれています。摂政の像が置かれた反対側に面した大きなテーブルには、冷たいキジ、アヒル、ローストビーフ、カレーライスが置かれ、卵、温かい蒸し牛肉とジャガイモ、フライドフィッシュが置かれていました。加えて大量のボルドーワイン、大量の雪の中のシャンパン、そしてシュナップスのボトル数本。会食のコースには幸福が溢れんばかりでした。1時ごろ、私の派遣団全員がパーティ会場に集まり、その後すぐにハリスがヒュースケンと現れ、また、オールコックが通訳、秘書、武官ら6人を連れて現れました。パーティでは最初に皆がお互いを褒め合って挨拶し、展示されている将軍への献上品を賞賛しながら眺め、さて、それから肝心、まず魚を食べ、ボルドーを飲み、次にキジとアヒルを叩き食欲旺盛に食べ、シャンパンを飲み、若い人が多いのでどんどん騒々しくなってゆきます。酔っ払って電磁通信機に倒れ掛かる人も出て危なく通信機を壊されるところでした。皆の顔には大きな喜びが浮かんで、今こそが最高の一瞬。パーティは御開きにして私は皆で馬に乗ろうと提案し、老練な17名と若い人23名、総勢40名の騎手で江戸の町に繰り出しました。太陽が美しく澄んで暖かく輝いていました。私とオールコックは勇壮な速足で先頭を走り格好も良かったのですが残りの騎手仲間は酔っ払って見るも無残で、彼らはぬかるみの泥を踏み散らかし私たちの耳の周りに飛び散らかす有様でした。
注3
ハリスを糾弾する声は英国に鳴り響いた。例えば英国のパトリオット紙はタウンゼント・ハリスを公然とこう非難した。
--- endavour to prove that Mr.Aleock was wrong in leaving and Mr.Harris right in staying at Jeddo after the assaccination of Mr.Heusken the interpriter.Our opinion always ran that Mr.Aleock was right and Mr.Harris decidedly wrong,and event not ---Patoriot Thursday October 1861
(彼らは)通訳ヒュースケン氏の暗殺後、アレック氏が去ったのは間違いであり、ハリス氏は江戸に留まったことが正しかったと証明しようと努めている。我々の意見は常にこうだ。アレック氏が正しく、ハリス氏が明らかに間違っている。そして、---パトリオット紙 1861年10月木曜日の記事
こうした論調は英国国内に限らず、中国でもロンドン=チャイナ・エクスプレスなどで展開される。これにに対してハリスはドリンカー氏の長女ケイトへの私信でこう弁明している。
You have no doubt heard of the Murder of my Secretary Mr. Heusken,* last January This Event caused a great panic among my Colleagues , who thought their lives were in danger and they fled to Yokohama for security -
I remained here alone , and my action probably prevented some very aggressive measures from being adopted by the French and English-
My course has been approved by the Foreign Community both in Japan & China , and the Japanese are loud in their thanks to me , saying that I had prevented the horrors of war from being brought on them. This affair has broken off all intercourse between me & the French & English Legations , which makes my position here a very isolated one I go down to Kanagawa , once in a while and visit the Missionary ladies (there are three families ) who are very agreeable persons , but with this exception , my life is almost as isolated as it was while living at Simoda. Yedo July 1st 1861
昨年1月に私の秘書ヒュースケン氏が殺害されたことは、あなたもご存知でしょう。この事件は同僚たちの間で大パニックを引き起こし、彼らは命が危険にさらされていると考え、安全を求めて横浜に逃げました。
私は一人でここに残りましたが、私の行動により、フランスとイギリスが採用した非常に攻撃的な措置を防いだ可能性があります。
私の行動は日本と中国の外国人コミュニティが認めており、日本人は戦争の恐怖が私たちに及ぶのを防いだと大きく感謝してくれています。この事件により、私とフランス公使館、イギリス公使館との交流は完全に断たれ、私の立場は非常に孤立したものとなりました。 江戸1861年6月1日
注4
笠谷和比古の“幕末の「不平等条約」問題に関する一考察”はハリスと井上清直らの結んだ通商条約が自由で平等を貫いていたのに対し、後にそれが江戸幕府の外交政策を引き継いだ薩長の明治政府によって変形させられてゆくことを指摘した。井上清直が日露和親条約を締結した勘定奉行川路聖謨の実弟であることをそれとなく指摘し、川路がロシアと結んだ条約が完全なる相互主義に徹していたことにも触れる。 “幕末の「不平等条約」問題に関する一考察” 笠谷和比古 大阪学院大学法学研究第47巻 大阪学院大学法学会2021-03-31
ハリスのもたらした<通商条約>は締結当時の日本にとって、かなり好条件の条約であったと言えよう。しかるに、それは明治時代に入るとともに急激に不平等条約との非難の声が高まり、そして条約改正運動が高潮を見せるようになっていく。幕末の「不平等条約」問題に関する一考察 p.31
注5
15日付の日記、冒頭部分。ヒュースケン殺害のこの日をオイレンブルク伯は「ひどい一日だった」と書き出している。
 Ostasien 1860-1862 in Briefen des Grafen Fritz zu Eulenburg
【参考】
WILHELM HEINE AND THE OPENING OF JAPAN: THE ARTIST AND WRITER AS PROMOTER OF NINETEENTH-CENTURY WESTERN EXPANSIONISM
Richard Szippl 南山大学ヨーロッパ研究センター報 第24号 pp.63‒103
The Assassination of Henry Heusken Reinier H. Hesselink / Monumenta Nipponica
Vol. 49, No. 3 (Autumn, 1994), pp. 331-351
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