今煮える、粥。.... 佐久間學

(06/11/28-06/12/17)

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12月17日

MOZART
Quartets for Flute and Strings
Severino Gazzelloni(Fl)
Salvatore Accardo(Vn)
Dino Asciolla(Va)
Francesco Strano(Vc)
BMG
ジャパン/BVCC-38401

モーツァルトのフルート四重奏曲は、大好きな曲です。フルート+弦楽三重奏という編成で作られていますから、弦楽四重奏の第1ヴァイオリンのパートをフルートに置き換えたという形になるのでしょう。ここでのフルートの役割は、ただ一人の管楽器として、ある時はアンサンブルに溶け合い、ある時はソリスティックに活躍するというもの、そこでは、まさにアンサンブルの妙とフルート奏者の名人芸の双方をたっぷり味わうことができます。痛い思いを味わうことはありませんから、ご安心を(それは「サディスティック」)。
モーツァルトがこの編成で作ったものは全部で4曲、これらがまとめて1枚のアルバムに納められているのが普通ですが、それぞれに特徴的なフォルムを持っているので、続けて聴いても飽きることはありません。最も有名なニ長調は、急−緩−急というオーソドックスな形、溌剌とした両端楽章と、ゆったりとした真ん中の楽章との対比が素敵、モーツァルトのエキスが詰まっているような曲です。2楽章しかないト長調は、言ってみればあまり肩肘を張らないで気楽に作ったという趣の曲で、力の抜けた爽やかなメロディが魅力的。ハ長調の曲もやはり2楽章ですが、こちらはもっと大規模な構成になっています。特に、第2楽章は例の「グラン・パルティータ」にも使われることになる大きな変奏曲です。そして、イ長調の曲は最初の楽章が変奏曲という珍しい形、そのあとにメヌエットとロンドの楽章が続きます。
こんな素敵な曲の集まりなのに、なぜか、今まで「おやぢ」で取り上げることはありませんでした。つまり、最近の新譜で有名なフルーティストが演奏したものはなかった(パユ様の録音は7年前)ということなのでしょうか。今回も、新録音ではありません。これは、ガッツェローニが1970年以前に(正確なデータは分からないのだそうです)録音したもので、今回が世界初CD化になるのだそうです。この前のラインスドルフといい、このメーカーはこういうことには熱心です。聞くところによると、ここには熱意のある社員の方がいらっしゃるそうで、ご自分が持っていたLPをぜひCD化したいために、権利関係で奔走したのだそうです。利益優先で何かと安直に流れがちなこの業界ですが、まだまだ捨てたものではありません。
このアルバムも、純粋に演奏水準だけを見れば特に傑出したものではないのかもしれません。しかし、リアルタイムで「すり減るほど」聴き込んだ人にとっては、優秀なリマスターによって蘇った音は、何にも替えがたいものに違いありません。その様なある意味「文化」を大切にする人たちの存在は貴重です。
RCAレーベルに録音するためにここに集まったのは、いずれもソリストや有名なアンサンブルのメンバーとして活躍している人たちばかり、特にヴァイオリンにアッカルドが参加していることで、通常のフルートだけが目立ってしまう演奏とはひと味違った、スリリングなものを聴くことが出来ます。特に、各楽器がソロを取る変奏曲のあるハ長調とイ長調で、それが強く感じられます。自分の出番ではここぞとばかりに張り切って弾きまくるアッカルド、心なしか、他の部分でもフルートよりヴァイオリンの方が強く聞こえるような録音バランスになっているようにも感じられます。
ガッツェローニのフルートは、フレーズの最後までたっぷり歌い込むという、今聴くと少し古くさいスタイルですし、あまりにおおらかすぎて、楽譜のミスなども目立ちますが、この強力なメンバーの中にあるとそんなことはあまり気にはなりません。何よりも歌心を優先したその演奏を楽しむべきなのでしょう。華麗なテクニックに酔うというのではなく、美しい音色を自在に使い分けて、とことん和ませてくれるものとして、味わいたいものです。事実、速いパッセージはかなり危なげ、ハ長調の第5変奏では、頭の音を出し損なっている部分なども見られます。
ガッツェローニといえば、当時の「現代音楽」に果敢に立ち向かっていた姿ばかりが思い浮かびますが、それとは全く異なるちょっとゆるめのモーツァルト、スタイリスティックなものばかりがもてはやされる今だからこそ、逆に輝いて見えるのかもしれません。

12月14日

La France et les Beatles Vol.1
V.A.
MAGIC RECORDS/3930591


最近発表された「新録音」など、何かにつけて話題には事欠かないビートルズですが、こんなフランスの60年代のアーティストによるカバーを集めたコンピレーションが、今静かなブームを呼んでいるのだそうです。これはVolume 1ですが、現在同じシリーズがVolume 3までリリースされており、なんでもVolume 5あたりまで用意されているのだとか。
ご存じの通り、ビートルズといえば「ロック・ン・ロール」、アメリカで生まれたものですから、英語で歌われることが大前提の音楽です。もちろん、イギリスでも英語が使われていますから、この国はアメリカと並ぶロック大国となっているわけですね。「ブリティッシュ・ロック」というのでしょうか。ところが、「フレンチ・ロック」とか、「イタリアン・ロック」などというものはあまり聴いたことがありません。というより、そんなフランス語やイタリア語で歌われたものはもはやロックではないような気にはなりませんか?鼻母音でくすぐるように歌われても力が抜けるだけですし、朗々たるカンタービレはちょっと世界が違います。(同じことはわが「日本語」にも言えるはず。でも「スパニッシュ・ロック」だったら、なんだか許せそう?)
ただ、ドイツに関しては、少し事情が異なっているでしょうか。ビートルズもデビュー前はハンブルクあたりで修行をしていたはずですし、なんと言っても「She Loves You」や「I Want to Hold Your Hand」が「Sie Liebt Dich」や「Komm, Gib Mir Deine Hand」というきちんとしたドイツ語バージョンとして本人達の演奏で残っているのですからね。いかにも攻撃的な語感を持つドイツ語は、やはり「ロック」には馴染むのかもしれません。
ということで、ここに収められたフランス語による21曲のビートルズ・ナンバー、基本的にその語感から、オリジナルとは全く異なるテイストを感じてしまうことになるのです。なんという軟弱な「ロック」なのでしょう。聴き慣れた曲の数々が、言葉が違っているというだけで、これだけ印象が変わってしまうとは。殆どの曲が、なまじ「完コピ」を目指しているだけに、その落差は際立ちます。さらに、言葉同様、エフェクターの使い方やフレーズの処理の仕方に、ちょっとした「フランス風」の味が加わっているために、言いようのない無国籍感が漂うのも、不思議。
ただ、本当の意味での「完コピ」がなされているエリック・サン・ローランの「Eleanor Rigby」では、ちょっと事情が異なってきます。この曲の場合、オケは弦楽器だけ(8本?)、リズム楽器やエレキ楽器は全く使われていない、殆ど「クラシック」といっても良いアレンジですから、ある意味「完コピ」は難しいことではないのでしょう。起こした譜面通りに忠実に弾きさえすれば、それは限りなくオリジナルに近づきます。そういうオケでは、フランス語による違和感は殆どありません。これは、この曲(アレンジも含めて)が本来持っていたインターナショナルな資質のあらわれということなのでしょう。最後から2番目のコードだけメージャーに変えたのも、意識してのことなのでしょう。
実は、ビートルズの曲の中には、元々フランス語の歌詞が挿入されているものがあります。それがドミニクという人がカバーしている「Michelle」です。ここでは、もちろん英語の部分がフランス語に変わっていますから、全てフランス語になった結果、アレンジのせいもあるのでしょうが完全な「フレンチ・ポップス」に変貌していました。
ですから、へたにオリジナルに迫ろうとせず、開き直って「フレンチ」を前面に出したものの方が、実りのある結果を出すことになります。その中での白眉がジャン・マリーとラウルの「Yellow Submarine」。バックでグロッケンがポツポツとメロディを弾く中で、ヴォーカルはメロディーを付けないで、淡々とまるで朗読のように歌詞を読み上げているだけなのですから、不思議な「ゆるさ」が漂います。マルセル・アモンの「When I'm Sixty Four」などは、元々の曲が持つ軽さをそのまま増幅して、いかにも小じゃれた「シャンソン」に仕上がっています。ザボの「Hey Jude」などは、例のコーラスの部分で何とも悩ましい声を出して、オトコたちの耳を引くこと間違いなしでしょう。これこそが、フランスのエクスタ・・いや「エスプリ」です。

12月12日

MOZART
Die Entführung aus dem Serail
Laura Aikin(Konstanze), Valentina Farcas(Bonde)
Charles Castronovo(Belmonte), Franz Hawlata(Osmin)
Dieter Kerschbaum(Pedrillo)
Stefan Herheim(Dir)
Ivor Bolton/
Mozarteum Orchester Salzburg
DECCA/00440 074 3156(DVD)


とりあえず国内盤が出ているものを優先させることにして、「M22」のレビューの第2弾は「後宮」にしました。もちろん、私が購入したのは安い輸入盤のボックスですから、日本語字幕は付いてはいません。仕方がないので英語の字幕に頼って見ていると、あちこちで「abduction」という単語にお目にかかります。もちろん、これはドイツ語の「Entführung」に相当する言葉なのですが、これは日本語に訳せば、「拉致」とか「誘拐」という意味になりますよね。普通このオペラのタイトルは「後宮からの逃走」という邦題が一般的ですが、昔はよく使われていた「後宮からの誘拐」というのも、あながち間違いではなかったのですね(確か、国内盤DVDのタイトルはこちらを採用)。
ところが、今回のシュテファン・ヘアハイムの演出には、「後宮」も「誘拐」も、そして「逃走」も出てこないというとんでもないことが起こっていました。そもそも、序曲の中間部でゆっくりした音楽が流れ始めたとき、ステージ上には全裸の男女が現れたのですから喜ん・・・いや、驚いてしまいました。その男女は、堂々と登場した割りには意気地がありません。いきなり恥ずかしそうに前を隠し始めました。もしかしたらエデンの園が入っているのかと思ってしまいましたが、それは見当外れ、男は慌てて前に置いてあったパンツを履いてとても気になる物を隠したかと思うと、燕尾服を着始めたのです。女の方もウェディングドレスで豊満な胸を覆ってしまいましたよ。そう、そこに現れたのは、結婚式を控えたカップル、しかもそれが10組以上ステージに登場したのです。

「後宮」の演出で今まで特に印象に残っているものが、ノイエンフェルスによるものでしたが、これは様々なショッキングな設定はあったものの、物語のプロットそのものにはなんの手も加えてはいませんでした。しかし、このヘアハイムの演出は、やはりそのノイエンフェルスが手がけた「こうもり」のように、物語やキャラクター設定そのものまでも大きく変えてしまったものだったのです。つまり、アリアや重唱はそのまま歌われますが、セリフの部分は、ヘアハイムによって新たに作られたものが語られています。
ここでは、ベルモンテとコンスタンツェ、ペドリロとブロンデというオリジナルの恋人同士は、どちらも新郎新婦という設定なのですが、その新婦同士がレズビアンのように振る舞ったり、ペドリロ夫妻にはすでに子供(男の子と女の子が、やはり婚礼の衣装で登場)がいたりと、オリジナルとは完全に別の物語、というか、ある種の教訓劇のような体裁になっています。ですから、その中で歌われるアリアたちは、歌詞は変わっていなくても全く別の意味にとらえることが出来てしまいます。
そんな恐ろしくぶっ飛んだ演出に抵抗がないわけがなく、ここで本来3幕だったものを第2幕の途中でペドリロがそれこそ先ほどの「こうもり」のように「Pause!」と叫んで強引に休憩を作ったときには、盛大なブーイングが巻き起こっていましたね。私は、別に抵抗はありませんが。
ボルトン指揮のモーツァルテウム管は、金管楽器にナチュラル管、つまりオリジナル楽器を使い、さらに通奏低音としてフォルテピアノを参加させています。もちろん、オリエンタルな打楽器もふんだんに使って、異国情緒を強調することも忘れてはいません。演奏も、疾走感にあふれたピリオド・アプローチ、先ほどのような斬新な設定の上に、最新の舞台機構とプロジェクターによる合成映像の合体というステージ上の革新的な景色との違和感は、全くありません。

12月10日

MESSIAEN
Quartet for the End of Time
Tashi
BMG
ジャパン/BVCC-37478

ピーター・ゼルキン(ピアノ)、リチャード・ストルツマン(クラリネット)、アイダ・カヴァフィアン(ヴァイオリン)、フレッド・シェリー(チェロ)という4つの楽器のアンサンブルが誕生したのは1973年のことでした。このちょっとユニークな編成、もちろんメシアンの「時の終わりのための四重奏曲」でとられている編成です。つまり、「タッシ」というのは、そもそもこの曲を演奏するために結成されたグループなのです。決してすきま風を防ぐ窓枠にちなんだわけではありあせん(それは「サッシ」)。武満徹がこの同じ編成のソリスト陣とオーケストラのための協奏曲「カトレーン」を作ったのは、もちろんこのグループの存在があったからです。後に独奏部分だけが「カトレーンII」として独立した曲にもなりましたね。
彼らはグループのメンバーだけではなく、適宜サポートメンバーも加えて、1981年までの間にRCAに8枚のアルバムを残しました。その全てのものが、今回紙ジャケット仕様の国内盤として発売になりました。初回のアメリカ盤を忠実にミニチュア化したもの(ですから、武満のアルバムのようにアメリカ盤とは異なっていた国内盤のジャケットは、ブックレットに採用されています)、その独特のセンスのジャケットたちが蘇りました。中には、これが世界初CD化、あるいは国内盤としては初リリースというアイテムも含まれており、ファンにはたまらないものになっています。
その中で、このメシアンは、すでに何度もCD化はされていました。実は、その中で1997年のもの(BVCC-7423)を持っていたのですが、オリジナルジャケットの魅力には勝てず、こちらも購入してしまいました。1997年盤には、このメシアン以外に「カトレーンII」がカップリングされていたので、それに合わせてジャケットのロゴが微妙に変わっていたのですよ。それと共に、実際に聴き比べてみると音がずいぶん変わっています。今回新たにリマスターされたものは、前回の20ビットから24ビットにスペックが上がっていますし、何よりもそんなスペック以外の要因でしょうか、今までちょっと平板な音だと思っていたものが、今回のものからは見違えるほど生々しい音が聞こえてきたのには驚かされてしまいました。例えば、5曲目の「イエズスの永遠性に対する頌歌」での、フレッド・シェリーのチェロの音などは、とても瑞々しいものに感じられます。この曲の中で、彼の楽器はファルセットのような高い音を薄く奏でていたり、ヴァイオリンとのユニゾンに甘んじていたりとちょっと目立たないものだったのが、ここにきて晴れがましいソロを与えられた喜びのようなものが、その音から伝わってくるような気がするほどです。
今回、そんな素晴らしい音で聴き直したとき、今まで彼らに対して抱いていたちょっとストイックなイメージが、見事に消え去っていたことを感じないわけにはいきませんでした。もっとも、それはストルツマンの振幅の大きいクラリネットの中にはすでに意識されていたものではあったのですが(3曲目の「鳥たちの深淵」は、いつ聴いても圧倒されます)、それが全てのメンバーに共通している資質であったことに気付いたような気がします。それは、6曲目の「7つのらっぱのための狂乱の踊り」という、最初から最後まで4つの楽器がユニゾンで演奏するという場面で明らかになります。それぞれのメンバーは、全体でひとつの楽器であるかのように寄り添ってはいますが、決して内に向かってまとまることはせず、常におのおのがそれぞれのやり方で外へ向かってのアピールを行っているのです。ユニゾンという制約を逆手にとった、とてつもないエネルギーの放出を、そこには見ることが出来ます。最後の「イエズスの不死性に対する頌歌」も、単なるヒーリング・ミュージックには終わらない、もっと艶めかしい情感をカヴァフィアンのヴァイオリンの中に感じずにはいられないはずです。
1978年に武満徹の作品を録音したのを最後に、事実上のリーダーであったピーター・ゼルキンはこのグループを去ります。創設時にはメンバー全員が30歳以下、その若さが存分に発揮されたこのようなスリリングな演奏は、その年代、あるいはその時代でしかなし得なかったことを、もしかしたら彼は悟ったからなのかもしれません。

12月8日

Bridge across the Pyrenees
RODRIGO BORNE IBERT
Sharon Bezaly(Fl)
John Neschling/
São Paulo Symphony Orchestra
BIS/BIS-SACD-1559


「ピレネー山脈を横切る橋」というしゃれたタイトルが付けられた、シャロン・ベザリーの最新アルバムです。もちろん、それはフランスとスペインの間に横たわる山脈の事ですから、文字通りここにはその2つの国の作曲家による作品が収められています。「パストラル協奏曲」のロドリーゴはスペイン、「フルート協奏曲」のイベールはフランス、そして、「カルメン幻想曲」の作曲者ボルヌはフランスですが、その素材となった物語はスペインが舞台というわけですね。それだけに留まらず、このアルバムの演奏家は「大西洋」まで横切ってしまいました。イスラエルに生まれ、現在はスウェーデンに住んでいるはずのベザリーは、南アメリカ、ブラジルのサンパウロで、その町のオーケストラと一緒にレコーディングを行ったのですから。
そう、ここでは、以前ベートーヴェンでちょっとしたカルチャー・ショックを与えてくれたネシュリング指揮のサンパウロ交響楽団が、ベザリーのバックを務めているのです。あれほどの「ラテン魂」を見せてくれたこのコンビが、スペインのロドリーゴではどれほど弾けてくれるか、楽しみです。
ところが、その「パストラル協奏曲」では、このオーケストラはちょっと醒めていました。実は、ベザリーがこの曲を演奏するコンサートに行った事があるのですが、彼女は冒頭の超絶技巧のパッセージを吹き終わったあと、オーケストラが和やかなテーマを演奏している間、まるでダンスをしているように軽やかに体を動かしていたのです。しかし、そんな浮き立つような感じは、ここからはまるで聞こえてはきませんでした。スペインとブラジルとでは、微妙にノリが違うのでしょうか。
と、幾分失望モードになったとき、次の「カルメン幻想曲」が始まりました。いきなり目の前に広がるその明るさといったら、どうでしょう。その前の曲とはソリストとのバランスも全く変わってしまい、オーケストラがもろ前面に出てきていますし、何よりもいきなりタンバリンやティンパニが、それこそラテンパーカッションのノリで大騒ぎを始めましたよ。この曲はピアノ伴奏がオリジナルの形なのでしょうが、それをオーケストラ用に編曲したジャンカルロ・キアラメッロという人は、例えばゴールウェイの録音の時に編曲を担当したチャールズ・ゲルハルトのようなまっとうなオーケストレーションではなく、とことん派手で手の込んだ伴奏を用意してくれていたのです。
「運命の動機」というのでしょうか、ソロが低音で暗く迫るゆったりとした部分では、普通は「ジャン、ジャン」という重苦しい合いの手が入るものですが、それがいともノーテンキな金管によって奏されると、なんだか体全体の力が抜ける思いです。ソロにバスクラリネットあたりがユニゾンで絡んでくれば、その脱力感はさらに募ります。その部分の最後でのティンパニのロールのすさまじさ。一体何を考えているのでしょう。
「ハバネラ」では、もちろんカスタネットが大活躍、しかし、その背後ではタムタムが加わって、なにやら東洋風の趣も。そして、最後の変奏では、なんとチューバがテーマを吹き出しますよ。これには、思い切り吹き出してしまいました。まさにリオのカーニバルではありませんか。「ジプシーの歌」になると、フルートの十六分音符の嵐にオーボエが負けじとバトルを仕掛けてきて、火花を散らします。「闘牛士の歌」になれば、ピッコロやらシンバルが加わり、まさに運動会のマーチの様相、これ以上はないという賑やかさの中に、エンディングを迎えるのです。
こんな面白い音楽が出来るというのに、イベールの協奏曲ではまたもとのよそよそしい姿に戻ってしまいました。傷は全くないにもかかわらず、心を躍らせるものもないという、スルッとしたいつものベザリーの姿が、そこにはありました。
余談ですが、彼女のこのレーベルに於ける「前任者」であったマヌエル・ヴィースラーは、Bridges to Japanというタイトルのアルバムを最後にレーベルを去っています。いくら似たようなタイトルだとしても、ベザリーにはその様な事はあり得ないでしょうが。

12月7日

MOZART
Die Zauberflöte
Christian Gerhaher(Papageno), Paul Groves(Tamino)
Genia Kühmeier(Pamina), Diana Damrau(K. d. N.)
René Pape(Sarastro), Irena Bespalovaite(Papagena)
Pierre Audi(Dir)
Riccardo Muti/
Wiener Philharmoniker
DECCA/00440 074 3159(DVD)


今年、モーツァルト・イヤーの最大の収穫、ザルツブルク音楽祭で行われた全てのオペラ作品の上演の模様が、DVDとなってボックスセットで一挙にリリースされました。現代のモーツァルト上演の最前線、全ての作品についての「おやぢ」など、果たして可能なのでしょうか。
まずは、なんと言っても「魔笛」です。偶然にも、これは先日の「指環」とおなじピエール・アウディの演出、あのプロダクションのネーデルランド・オペラとの共同制作となっています。
おそらく今が「旬」に違いないアウディに、ここでは田中泯が振り付けでコラボレーションを展開しているのが注目されます。「魔笛」には別にダンスシーンなどはないのですが、ここではきちんと「ダンサー」の名前がクレジットされていて、アウディの演出の確かなアクセントとなっているのです。最初に登場するダンスは、「鳥刺し」パパゲーノの登場シーン、第1幕に共通した趣味は、いかにも安っぽいけばけばしさなのですが、そんなポップ(サイケ?)な「車」に乗って現れるときに、そのまわりには「鳥」に扮したダンサーたちが取り囲んでいます。その、まるで能の動きを取り入れたような「振り」は、この幕を支配するおもちゃ箱のような雰囲気と、見事な調和を見せています。
後半になってザラストロが登場する場面では、なんと、あの歌舞伎のキャラクター「鏡獅子」そっくりのダンサーが現れて、あの長い白髪を振り乱し、不思議な緊張感をもたらします。それは、第2幕になると一転してスタティックな舞台に変わってしまうことへの前触れのように見えます。そう、ここでの演出のプランは、第1幕と第2幕でガラリとその世界が変わってしまうことを狙っていたのではないでしょうか。それは、もちろん、シカネーダーの台本の描く世界が途中で逆転していることへの、明確な回答に他なりません。張りぼてだらけのセット、チープそのものの原色の情景だった幕開きが、大詰めには極限まで抽象化された引き締まった舞台に変貌するなど、誰が想像できたことでしょう。
そんなプランを支えているのが、ダムラウの演じる夜の女王の、ちょっと今までのものでは見られないような圧倒的な存在感です。ほんと、いかにも際物のようなケバい衣装とメークで、ちょっと出てきては超絶技巧のコロラトゥーラで観客を煙に巻いて引っ込んでしまうという印象の強いこの役に、アウディは徹底して人間的なキャラクターを与えました。そもそもダムラウのメークは細かい情感をその表情でしっかり演じることが出来るようにこれ以上ないほど控えめになっています。第1幕のアリア、なんと前半では、この気位の高い女王がタミーノにすり寄って(「寄るの女王」)、「娘を助けて下さい」と懇願しているではありませんか。第2幕の例のアリアの前の「この剣でザラストロを殺せ」というパミーノとのやりとりも、単なる「段取り」ではなく、必然性の感じられる鬼気迫る「演技」になっています。そして、大抵の演出では最後の大団円の前に雷に打たれていつの間にかいなくなってしまう彼女が、ここでは最後の最後まで舞台に残って、その存在の意味を主張しているのです。最後のシーン、真ん中の群衆を挟んで上手にはザラストロ、そして下手には彼女が立ちつくしているのは、この物語の二面性をお互いに強調しあっているという意思の表れなのではないでしょうか。その時のステージ上のセットは、見事にその「光」と「闇」を表現しています。
ムーティとウィーン・フィルという、最近のモーツァルトの流れからはいかにもおっとりとした印象を与えられるコンビは、この変わり身の速い舞台上の展開に、乗り遅れることはなかったのでしょうか。ちなみに、パパゲーノの歌の伴奏にはグロッケンシュピールが使われていますが、これはヤマハがこの前の年のプロダクションのために開発した新しい楽器なのだそうです。いかにも洗練されたグロッケン(「カリヨン」と呼ばれています)の音色、おっとり感はこんなところからも募ります。

12月5日

DURUFLÉ
Requiem
Kaaren Erickson(Sop)
Nancianne Parrella(Org)
Kent Tritle/
Choir of St. Ignatius Loyola
MSR/MS 1141


他のものを注文しようと思って海外の通販サイトを検索していたら、偶然発見したデュリュフレのレクイエムです。これはまだ持っていなかったアイテム、さっそく入手しました。録音されたのは1994年の4月ですが、リリースは2005年、まだまだ新譜で通ります。1年ぐらいはもちますから(それは「新婦」)。どんな事情でこんなに長い間リリースされなかったのかは不明ですが、その間にソプラノのソリストが亡くなってしまったそうですね。ですから、このCDにはその人、カーレン・エリクソンに対する献辞が添えられています。
ここで演奏しているのは、聖イグナチウス・ロヨラという、あのイエズス会の創始者の名前を取ったニューヨークにある教会に所属している、20人ほどのプロの聖歌隊です。この教会には1993年に設置されたフランス風の大オルガンがあり、ここでもそれが使われています。従って、当然のことながら、このレクイエムはオルガン伴奏による第2稿です。
オルガン版による演奏では、そのオルガンはあまり目立たないものですが、ここではそれが非常に印象的に聞こえてきます。フランスオルガン独特のリード管やビブラートのかかるストップなどが駆使され、ちょっと他では聴けないような色彩的な音色、それは魅力的なものがあります。ここでオルガンを演奏しているこの教会のオルガニスト、パレラのストップの使い分けが独特で、今までのオルガン版では聴いたことのなかったようなフレーズがあちこちで現れるのが、とても新鮮な体験でした。このぐらいていねいにレジスタリングがなされると、ひょっとするとフル・オーケストラ版に負けないぐらいの迫力と色彩感が出せているのではないでしょうか。ここで足らないのはティンパニやパーカッションなどの「一発」だけです。
そんな立派なオルガンに支えられて、合唱もその人数からは想像できないほどの立派なものを聴かせてくれています。それぞれがソリストとして各方面で活躍している人がメンバーだということですが、それは確かに良く分かります。ただ、パートによってその立派さの程度が少しずつ異なっているのが、ちょっと問題。アルトなどはとてつもない力強さを持っているにもかかわらず、ソプラノがちょっと頼りなさげ、そこで合唱としてのバランスが微妙におかしくなっています。例えば、「Sanctus」の冒頭は女声だけですが、そこでのアルトのパートがあまりにも強すぎるので、肝心のソプラノのメロディーが霞んでしまっています。そんなソプラノですから、逆に「In Paradisum」の前半のパートソロでは、この世のものとも思えないような清楚な味を出すことに成功しています。この部分だけでしたら、かなり上位にランクできる演奏に違いありません。ところが、後半の全パートの合唱になると、それぞれのパートの個性が強すぎて、一つにまとまった響きが出てこないというのが、この合唱団の一番いけないところ、この絶妙のハーモニーが出せないことには、「名演」にはなり得ません。この、トゥッティでハモらないという欠点が、この曲の随所で見られます。それがちょっと残念。
ソプラノソロは、先ほどのエリクソンさんが強烈なビブラートで迫ります。これも、やはりもう少し節度のある歌い方の方が、私は好きです。バリトンソロの部分は、ソリストではなくパート全員で歌っています。これはこの合唱団ですから、ソリスティックな味がでて、おおむね成功しているのではないでしょうか。特に「Libera me」での迫真の表現には惹かれるものがあります。
余白に、オルガニストでもある指揮者のトリトルが演奏した同じ作曲家の「オルガンのための組曲」が収められています。これも、オルガンの音色を最大限に生かした素晴らしいものです。「シチリエンヌ」のえもいわれぬ変奏の妙からは、フランクの語法が垣間見られますし、「トッカータ」の色彩感はまさにメシアンの世界でしょうか。フランスのオルガン曲のレパートリーとして、デュリュフレの曲ももっと聴かれていいな、と思わせられるような演奏でした。

12月1日

WAGNER
Das Rheingold
John Bröcheler(Wotan), Henk Smit(Alberich)
Graham Clark(Mime), Reinhild Runkel(Fricka)
Chris Merrit(Loge), Anne Gjevang(Erda)
Pierre Audi(Dir)
Hartmut Haenchen/
Residentie Orchestra
OPUS ARTE/OA 0946 D(DVD)


「リング」全曲のDVDが、まとめて買うとなんと8000円程度で手に入るというものすごいことが起こっています。CDではありませんよ(CDでしたら、もっと安いものもありますが)。れっきとしたサラウンドチャンネル付きのDVD、しかも、このレーベルにしては本当に珍しい日本語字幕付きというのですから、これはもう買うしかないでしょう。
1999年、ネーデルランド・オペラのプロダクション、グレアム・クラークやクリス・メリット以外には、それほど有名な人が歌っているわけでもありませんが、演出はとても手のかかった、それでいて非常に分かりやすいものですから、存分に楽しめます。衣装が日本人の石岡瑛子さんというのも、親近感のあるもの、事実、彼女の衣装プランは我々にとって非常に親しみやすいものとなっていますから、それを味わうのも楽しいことです。なにしろ、神々族はまるで仏像のようなヒダの入った衣を着ているのですからね。それで、頭は螺髪ときてますから、フリッカなどはほとんど鎌倉の大仏様です。フライアは、まさに興福寺の阿修羅像。ただ、ローゲ(クリス・メリットが演じています)だけはスキンヘッドというのは、彼が正規の神々ではないことの分かりやすい現れなのでしょう。そうなると、○ンタマ丸出しの巨人族は、まるで木彫りの仁王様のように見えてくるから不思議です(そ、「メンタマ」を剥いてます)。
ピエール・アウディの演出プランそのものは、非常に素直なものです。エクストラ・フィーチャーのインタビューでは、「もう『リング』の演出は出尽くしたので、いっそ、何もやらないことも考えた」と言っているぐらいですから、基本的にはワーグナーのト書きに忠実に、ということを考えたのでしょう。しかし、それと共に、お客さんに楽しんでもらおうというサービス精神も旺盛だったようで、出来上がったその舞台は何とも大仕掛けでスペクタクルなものになりました。
このカンパニーは、座付きのオーケストラは持ってはいませんから、演目ごとに別のオーケストラが演奏するという変則的なことを行っています。「リング」では3つのオーケストラが参加、この「ライン」ではハーグ・レジデンティ管弦楽団が担当しています。特徴的なのは、そのオーケストラが殆どステージの上ぐらいの高い所まで上がってきているという点です。一応ピットの中なのですが、その床がかなり高くなっていて、指揮者の腰のあたりがステージ面となっているのです。そして、ステージはそのオーケストラと客席の間にも設けられていて、場合によっては歌手はオーケストラを背中にして歌うこともあります。
その様な配置では、オーケストラのパートが実に鮮明に聞こえてきますから、指揮者のヘンヒェンもそれを意識してか、とても繊細な、場合によってはちょっとワーグナーらしくない緻密な音楽を聴かせてくれています。それこそバイロイトではありませんが、穴蔵の中から不気味に響いてくるようなサウンドとは全く無縁の、隅々まで見渡せられるような、かなり新鮮な響きです。例えば、ヴォータンとローゲがニーベルハイムへ降りていく場面で演奏される間奏曲では、普通は「鍛冶屋のテーマ」が本物の金床などを使ってにぎにぎしく鳴り渡るものですが、ヘンヒェンはいくつかの異なる打楽器で別々のリズムを叩かせるというクレバーなことを披露してくれています。このステージでは、指揮者とオーケストラが常に観客の視界の中にあります。まず、音楽としての「リング」をきちんと聴いて欲しい、そんな演出家と指揮者の願いが伝わってくるようなステージ配置、そして、音楽の作り方です。
そんなオーケストラのまわりで、物語はまるでサーカスのような派手な装置と動きの中で進んでいきます。第1場では、格子が組まれた上の巨大なアクリル板が斜めに立てかけられているのが水の中、実際の「ツルツル感」を味わわせてくれながら、乙女達とアルベリッヒがじゃれ合います。その乙女、ぴったりとボディラインを見せる衣装が、まさに「魚」そのものです。フロスヒルデはかなり○ブ、そんな体型もしっかり見えてしまいます。
後半では、本物の火を使って、ニーベルハイムの喧噪が描かれます。その炎は照明と共に完璧にコントロールされていて、「隠れずきん」のシーンなど圧倒されてしまいます。最後にドンナーがハンマーを振り下ろす所も、見事に火花の爆音とシンクロさせていました。
あれこれ深読みしなくても、素直に楽しめる演出、この先も楽しみです。

11月30日

MOZART
Requiem
Saramae Endich(Sop), Eunice Alberts(Alt)
Nicholas DiVirgilio(Ten), Mac Morgan(Bar)
Erich Leinsdorf/
New England Concervatory Chorus etc.
Boston Symphony Orchestra
BMG
ジャパン/BVCC-38391/92

このCDは、1963年の1122日にテキサス州ダラスで殺された(「敵、刺す」でも、刺殺ではなく射殺)当時のアメリカ合衆国の大統領、ジョン・フィッツジェラルド・ケネディを追悼するために、翌年1月19日にボストンの聖十字架大聖堂で行われた「死者のためのミサ」の模様を収録したものです。言ってみればドキュメンタリー録音のようなものなのですが、そこで用いられた音楽が、モーツァルトの「レクイエム」だということで、「クラシック」のLPとして録音直後に発売されました。日本国内でもその年の3月に発売になったといいますから、当時としては異例とも言えるスピーディなリリース、それだけこの事件が全世界に与えた影響は大きなものだったということなのでしょう。
そんな大騒ぎも今は昔、このLPは長いこと再発もされず、カタログからは姿を消していたそうです。確かに、以前ご紹介した「クラシックジャーナル」のディスコグラフィーには、このラインスドルフ盤は見当たりません。もっとも、これはかなりいい加減なものでしたから、それも当然でしょうが。そんな「歴史的」な録音が、今回国内盤でCD化、もちろんこれが世界初CD化となります。ミサの一部始終が収められていますから、録音時間は1時間半、2枚組となってしまいました。
40年以上も前の出来事ですから、この曲を取り巻く状況も今とは異なっていたことでしょう。ブックレットには、1964年のライナーノーツがそのまま掲載されていますが、「バセットホルンは通常はクラリネットで代用される」などという記述から当時の「通常」を知ることは、何ともエキサイティングな体験です。事実、この演奏でのボストン交響楽団でも、クラリネットが使われています。
しかし、そんな「原典主義」のかけらもなかった時代の演奏であるにもかかわらず、ここから伝わってくる心からの訴えかけには、圧倒されてしまいます。教会の鐘の音に続いて、オルガンがフランソワ・クープランのオルガンミサ曲を演奏した後、なにやら祈祷文の朗読があって、やっと「レクイエム」が始まります。かなり大編成(4つの合唱団のクレジットがあります)の合唱が、最初の頃は大味に聞こえてきたものが、次第にそのベクトルが整えられるにしたがって、なにやら恐るべき力を持つようになってきます。それは「Kyrie」のフーガあたりでは完全な方向性を確立、音程や音色などという細かいことなどを問題にするのが虚しくなるような、強い意志がそこからはみなぎっているのを、誰しもが感じることでしょう。
お祈りで一休みした後の「Dies irae」は、まさに感情の炸裂といった趣、思わず引き込まれずにはいられません。最後の方の「Sanctus」あたりでは、何もかも吹っ切れたような、音楽に全てを委ねる幸福感のようなものすら感じることが出来ます。最近の演奏では考えられないほどのゆったりとしたテンポを終始キープしているラインスドルフ、それだからこそ、合唱もソリストもそれぞれの思いを心ゆくまで表現できたのでしょう。そこにあるのは、一つの思いに向かって奉仕する音楽の姿、最近20何年かぶりに来日したいわゆる「巨匠」が見せた、自身のエゴだけで作り上げた醜い音楽とは別の次元の、時代を超えて通用する人類の営みでした。いくら「作曲された当時の演奏習慣」だの「自筆稿の研究」だのという理論武装をしたところで、最後には「音楽性」が物を言うのはまさに自明の理だということを、この演奏は教えてくれています。
たった今まで生きていたかけがえのない人を悼む気持ちを、このCDからは間違いなく受け取ることが出来るはずです。ライナーにもあったまさに「一期一会」の感動が成就された記録が、ここにはくまなく収められています。

11月28日

BRAHMS, REINECKE
Sonatas
Emmanuel Pahud(Fl)
Yefim Bronfman(Pf)
EMI/373708 2
(輸入盤)
東芝
EMI/TOCE-55873(国内盤 12月6日発売予定)

今年の2月にニューヨークで録音されたパユ様の最新アルバム、コンテンツはブラームスとライネッケのソナタです。ライネッケはともかく、ブラームスにフルートのためのソナタなどあったっけ、と訝しがるのも当然のことでしょう。この大作曲家は、フルートという楽器のために、協奏曲はおろか室内楽やソナタすらも、ただの1曲も作ってはくれなかったのですから。
ブラームスの時代、いわゆる「ロマン派」の頃は、実はフルートにとっては何とも寂しい時代でした。同時代の「大作曲家」シューマンにしても、フルートソロのための曲は全く作ってはいません。ヴァイオリンやピアノにはあれほどの名曲をたくさん作ってくれているのに、管楽器、特にフルートに対するこの冷たさはどうでしょう。
なぜそんなことになってしまっているのか、一つには、楽器の問題があります。テオバルト・ベームが、他の木管楽器、オーボエやクラリネットと同じように大きな音が出て、コンサートホールでも十分ソロ楽器として通用するフルートを「発明」したのはやっと19世紀の半ば頃でした。もちろん、新しい楽器が出来たとしても、それが普及し、さらにそれを演奏できる奏者が育つまでには相応の年月がかかりますから、この「モダン・フルート」が作曲家の中にきちんとした「楽器」として認知されるようになったのは、ほぼ20世紀に入ったた頃、それまでは大作曲家がベーム・フルートのために曲を作るようにはならなかったという事情があったのです。
ブラームスの場合、交響曲第1番のフルートパートでは、最高音は3オクターブ目の「シ♭」までしか使われていません。例えば第4楽章の170小節目のように、他の管楽器が「シ」を出しているのにフルートだけ(ファゴットもおつきあい)3度下の「ソ」に置き換えるというように、巧みに「出ない高音」を回避しているのです。それが、交響曲第2番になると最高音は「シ」まで延びています。おそらくこの時点で、ブラームスは新しい楽器の存在を知ったのでしょう(ちなみに、ベートーヴェンは「ラ」までしか使っていません)。しかし、その楽器にオーケストラの中での輝かしいソロを託すことはあっても(例えば、交響曲第4番のフィナーレ)、ついに単独のソロ楽器としての曲を作ることはありませんでした。
ここでパユさまが演奏しているのは、ですからフルートのためのオリジナルの作品ではありません。同じ木管楽器であっても愛着の度合いが桁外れに高かったクラリネットのためのソナタを、フルートで吹いているのです。このような「トランスクリプション」は、この時代のレパートリーの少ないフルートでは良く行われることです。特に、ヴァイオリンのための曲をフルートで吹くというのは、意欲的な演奏家であればもはや殆どなんの抵抗もなく取っている方策になっています。
しかし、このフルート版クラリネットソナタ、なぜかオリジナルの持つ深い肌触りが殆ど伝わってこないのが気になります。そんな、殆ど拭いがたい違和感が生まれるのは、もしかしたらこの2つの楽器の間には、単に音域や音色だけではないもっと根元的な違いが横たわっているせいではないのでしょうか。それは、表現としてのビブラートの有無です。クラリネットには、クラシックの場合まずビブラートをかける演奏家はいません。そこからは、何とも言えぬ骨太で重厚な、まさにブラームスが作る音楽そのものの肌合いが生まれてきます。しかし、現代のフルートではビブラートは表現の上での重要なファクターになっていますから、それをかけない演奏など考えられません。ヴァイオリンと同じようにたっぷりとしたビブラートこそは、まさにカンタービレとエスプレッシーヴォを産む源とされるのです。
したがって、このブラームスのソナタは、おそらくオリジナルに慣れ親しんだ人にとっては全く別の趣味の入った音楽のように聞こえることでしょう。しかし、そこまでしてブラームスのパトスをフルートで表現したがったパユ様の熱意は、もちろん存分に味わうことは出来ます。
逆に、元々フルートのための作品であるライネッケの「ウンディーヌ」で、ごく当たり前の情感しか表れてこないことの方が、深刻な問題のように思えます。いずれの曲に於いても、旋律楽器であるフルートよりも、ブロンフマンのピアノの方にさらなる豊かな歌心が感じられるのは、パユ様のリーダーアルバムとしては物足らないところなのではないでしょうか。

さきおとといのおやぢに会える、か。


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