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発情期よ、永遠なれ....渋谷塔一

(01/6/4-01/6/23)


6月23日

MOZART
Sinfonia Concertante, Symphony No.39
Bradley Creswick(Vn)
Semra Griffiths(Va)
Howard Griffiths/
Züricher Kammerorchester
NOVALIS 150 161-2
ここでモーツァルトを演奏しているハワード・グリフィス指揮のチューリッヒ室内管弦楽団は、同じご町内のトーンハレ管がベートーヴェンに対してとったのと同じアプローチ、すなわち、モダン楽器でオリジナルの表現を追及することで、大成功を収めています。
幾分早めのテンポで始まった「VnVaのための協奏交響曲」は、小気味良いスタッカートに乗って快調に進んでいきます。ソロの二人の音色が、とても素敵。多分ガット弦なのでしょう、まろやかで、とろけるような響きに、思わず日頃の疲れも吹き飛びます。オケが前に出るところと、後ろに引っ込むところとの切り替えが実に鮮やかですから、トゥッティとソロの受け渡しも絶妙のフィーリング。演奏する喜びが、ひしひしと伝わってきます。カデンツも、二つの楽器が一つに溶け合って、この世のものとは思われないような至福のひと時を味わわせてくれます。
後半の交響曲第39番については、ちょっとていねいに聴き込んで見ましょうか。第1楽章はびっくりするようなテンポで序奏が始まります。通常の演奏の殆ど半分の音価。しかし、不思議と違和感は感じられませんし、何よりも、ベタベタしたところが一切無い風通しのよさが爽やかさを誘います。ライナーには「トランペットとティンパニはオリジナルを使用」と書いてありますが、そのティンパニ、とても柔らかい響きで、オリジナル楽器にありがちな刺激的なところは一切ありません。木管、特にフルートあたりも、もしかしたらオリジナルに近いものを使っているかと思わせるほどの柔らかな音色です。続く主部もひたすらインテンポで軽快な運び。第2主題でテンポを落とすというようなロマンティックなことは一切行っていません。だからこそ、展開部から再現部へ移る際の木管のほんのちょっとしたルバートが、とても効果的になってくるのです。
第2楽章は、付点音符のキャラクターを生かした演奏。ちょっとせわしない印象がなくはないのですが、変に湿っぽいよりはずっとましです。一瞬短調になるところの音色の変化が、実に見事です。
第3楽章で特徴的なのは、とてもいきいきしたダイナミックスの変化。クレッシェンドやディミヌエンドはもともと楽譜には書かれてはいないのですが、こういう内面から自発的にでてきたものは納得できます。テンポをガラリと落としたトリオも美しいものです。
第4楽章は、標準のテンポこそクリアしてはいるものの、ここまで聴いてきた流れの中ではちょっともたつく印象になってしまいます。ファゴットが乗り遅れているのも気にはなりますが、この演奏を締めくくるにふさわしい颯爽感は、十分に備えています。
久しぶりに、気持ちの良いモーツァルトを聴いたという満足感で、幸せな気分になれました。日々の生活にも〜つかれたと言う方にはおすすめです(つかいまわし)。

6月22日

MOZART
Die Entführung aus dem Serail
Lothar Zagrosek/
Staatsoper Stuttgart
ARTHAUS 100 179
いま、オペラは「演出の時代」と言われています。音楽的な要素と演劇的な要素をあわせもつオペラという舞台芸術では、近年、演出家の占める位置がどんどん大きくなってきているのです。セミヌードのラインの乙女や、燕尾服姿のヴォータンぐらいでは、もはやだれも驚いたりしないような、「何でもあり」の状態は、これからも続いていくことでしょう。
そのような、ある意味で奇抜な演出に慣れているつもりの私でしたが、この、ハンス・ノイエンフェルスの演出による「後宮」を最初にテレビで見たときには、心底びっくりしてしまいました。程なくして、ARTHAUSからDVDが発売されましたので、ご紹介できるというわけです。
一番の特徴は、同じ配役を、「歌手」と「役者」の二人で演じていることです。といっても、こういうジンクシュピールを録音する時によく見られるような、歌の部分と台詞の部分をそれぞれ別の人が担当するという、単純なものではありません。ベルモンテなら、「歌手のベルモンテ」と「役者のベルモンテ」の二人が、同じ黒い服(赤い服だとデルモンテ)で現われて、片方が歌っている間はもう1人はまったく同じ仕草をしているのです。そのうち、このベルモンテ同士がお互いに言葉を交わしたりします。もちろん、原作にはそんな台詞はありませんから、これはノイエンフェルスが挿入したもの。
セリムはもともと台詞だけのキャラですから1人しかいませんが、あとの配役はすべてこのようなクローンというか、ドッペルゲンガー状態、それぞれのペアは、少しずつキャラクター設定が変えてあるというのがミソで、歌手と役者が入り乱れて、摩訶不思議な演劇空間を作り出しているのです。
さらに印象的なのが、特に前半を支配するグロテスクな趣味。全身に刺青をほどこしたオスミンが最初の出番で何をしているのかというと、箱に入ったバラバラの腐乱死体の品定め。セリムの兵隊たちは、生首を槍の先に刺しての登場です。支配者のセリムにしてからが、コートの前をはだけて猥褻物を陳列する変質者ですから、念がいってます。
それが、大詰めになると、セリムと兵隊は燕尾服とイブニングドレスに身を固めての大団円。これが一体何を意味するのかは、正確には把握しかねますが、最初から最後まで何が起こるかわからない展開には、とてもスリリングな心地よさがありました。
200年以上前という、今とはまわりを取り巻く状況がまったく異なる時代に作られ、上演されたオペラを、現代の私たちが鑑賞するというのは一体どういう意味を持つのか、そんな重い問いかけをぶつけられたような、極めて存在感のある演出でした。
歌手の水準が低く、十分に音楽を堪能することが出来なかったのは惜しまれるところです。鬼才ツァグロセクの鈍重な指揮には、何か隠された意図があるのかもしれませんが、それはあいにく不発に終わっています。

6月20日

LIVE OPERAS
Various Artists
DYNAMIC CDT5015
世の中不況のはずなのに、なぜかオペラ関係は充実の日々。小泉首相は、怪力オトコに感激していましたし、ヒレカツ先生も、怪人関係(オペラなの?)で薀蓄のある文章をかいておられました。来年のバレンボイムの「リング」は、すでに各方面で濃いプロモーションが始まっていて、私の元にもでっかいポスターが4枚送られてくることに。MBSさん、どこに貼ればいいんですか?
ま、とりあえず、今一番の関心は今月末のフェニーチェ歌劇場の公演ですね。イタリア中部の車と映画で有名な都市フェニーチェ(フェラーリフェリーニですか。はぁ)、ではなくて、水の都ヴェネツィアの伝統ある歌劇場です。「フェニーチェ」とは「不死鳥」の事、何度も火災にあいながら、それこそ不死鳥のように蘇ったこのオペラハウスの公演、出演歌手の一覧を見ても、メトのような花形歌手の名前はありません。それだけ未知数の人が多いという事ですね。演目は「シモン・ボッカネグラ」と「椿姫」の2つだけ。その中で一番の注目は、椿姫でヴィオレッタを歌うソプラノ、ディミトラ・テオドッシュでしょう。ただし、まだ新進若手のぴちぴちの彼女、脇役で出演したオペラのCDはあるものの、曲もマイナー、その上入手しにくい盤という事もあり、「どんな声なのかをこの耳で確かめたい」という人も多かったようです。
彼女の初のタイトルロールのCDは、「アンナ・ボレーナ」のライヴ盤であるという事はわかっていたのですが、それは入手困難とされていました。ただ、メーカー筋の情報では、サンプルCDのようなものがあって、それでまず、その中の1曲だけは聴けるというのですね。で、これがそのCDです。
しかしながら、メーカーの読みは完全にはずれ。何しろ、入手困難なはずの全曲盤が、このサンプル盤と同時に入荷しちゃったのですから。そうなると当然、全曲盤を買うのが人情。それほどまでに彼女の前評判は高かったのですよ。
で、本来なら「テオドッシュの声をちょっと聴く」ために買ったこのCDですが、その必要はなくなってしまいましたね。
しかし、この1枚はとても面白い曲ばかり。このDYNAMICレーベルというのは、オペラ界のCLASSICOレーベルみたいなもので、同じオペラなら、初稿版や異稿版が好きというところ。ここに収められているアリアも、今まで聴いた事のないヴァージョンがごろごろ収録されてます。
例えば「ルチア」の1839年フランス語版。これは、狂乱の場に続く場面のルチアのアリアが収録されてますが、いつも耳にしている曲より、2度高い調性で歌われるのです。当然難易度は増しますね。はらはらしながら聞くことにしましょう。その他、シモン・ボッカネグラの1857年稿とか、興味深い選曲です。
こういうサンプラーCDも良いのですが、難点が一つ。そう、全曲が聴きたくなってしまうではありませんか。そのくらい面白い一枚です。
そうそう、問題のテオドッシュですが、柔らかくてよく伸びる声の持ち主。表現力も素晴らしく、これは日本公演も期待できそうですね。残念ながら私は行きませんけど・・・。

6月17日

R.STRAUSS
Preludes and Intermezzos from Operas
Karl Anton Richenbacher/
Bamberger Symphoniker
Münchener Kammerorchester
KOCH SCHWANN 3-6520-2
知られざるR・シュトラウスのシリーズ第12作目です。ここでも何度も取り上げているので、またしゅとらうすやらせてもらいます(「しつこく」のつもりですが、ちょっと苦しい)。ま、今回はオペラの序曲や間奏曲などということで、ピアノ協奏曲なんかよりは一般受けしそうではありますが、
そこは「知られざる」シリーズ。収録曲は「グントラム」や「無口な女」、「町人貴族」、「火災」、「アラベラ」、「カプリッチョ」よりセレクト。「ああ、そういうオペラもあったっけ」くらいの認識しかない作品ばかり集めて、1枚のCDを作るという、まさにボランティアのような企画であります。シュトラウスマニアだったら、ここに収録されているオペラは全て全曲盤で持っているでしょうが、そんな人は、まずいないのでは。(これはちょっと自慢はいってますね)
さて、このシリーズのマニアの方(そんな人いるのか?)にはお馴染みの指揮者、カール・アントン・リッケンバッハーについてご紹介しましょうか。スイスのバーゼル生まれ、ベルリンで学び、カラヤンとブーレーズの指揮コースにも参加したといういわば叩き上げの人。チューリッヒ歌劇場の補助指揮者として活動を開始。その時、オットー・クレンペラーと出会い、大きな影響を受けたのだとか。
しかし、私はこのシリーズであれこれ聴く前は、どちらかと言うとメシアン指揮者として認識していた人で、1982年録音の「クロノクロミー」の「エポード」での、あの複雑さで有名な「18声部のポリフォニー」での鮮やかな演奏に唖然とした記憶がありますね。そんな彼が、なぜこのようにわがシュトラウスの珍曲ばかりを嬉々として録音してくれるのかはわかりませんが、少なくともメシアンとシュトラウスの両方が好きな人にとっては、愛の対象とまでは言わなくても、気になる存在であります。
さて、このCDですが、シュトラウスの初期から晩年までの作品を網羅している事もあって、曲としての興味もつきません。「あきらかにワーグナー風」と悪評の高い最初のオペラ「グントラム」にしても、こうやってしみじみ聞いてみると、やっぱりシュトラウス。面白いのは「火災」の愛の情景。これを聴いたら、だれもがあの有名な「ばらの騎士」の最初の部分を思い起こす事でしょう。それ程までに特徴的なアノ音形。やっぱりシュトラウスの音楽は基本的にエロですね。
「町人貴族」での偽バロック風の佇まいは、わざと大真面目にやっているから、ちょっと笑えますよ。それから、収録曲の中では割合知られている、カプリッチョの「月光の音楽」。ここのホルンの演奏が、とても素晴らしかった事も付け加えておきましょう。
そんなこんなで、いろいろ楽しめた1枚でした。もちろんシュトラウスマニアでない方にもオススメですね。

6月15日

PENDERECKI
Early Works
Krzysztof Penderecki/
Polish Radio National SO
London SO
EMI CZS 574302 2
ポーランドを代表する現代作曲家、クシシュトフ・ペンデレツキが1970年代にEMIに録音した自作自演集が、「Double Forte」という、2枚組のバジェット盤で再発になりました。メーカーの情報では、「EMIへのすべての音源が網羅されている」ということですが、それは全くのでたらめ。もともとはLP5枚分で発売されていたもの。いくらCDの収録時間が長くなったからといって、とても2枚に収まるとは思えません。
それはともかく、ここに収録された12曲は、ペンデレツキの初期の作曲様式を余すところなく伝えてくれる貴重なものです。彼の作品で、ひょっとしたら最も有名なのかも知れない「広島の犠牲者に捧げる哀歌」(1961)に見られるような、メロディー・リズム・ハーモニーとは無縁の音のかたまりが、刻一刻様相を変えるという、当時としては革新的な手法を前面に押し出ていた時期ですね。ちなみに、このタイトルは後付けで、もともとは広島とは縁もゆかりもない「8分37秒」というジョン・ケージみたいな素っ気無いものでした。ただ、ケージと違って、この時間というのは、楽譜に小節数の代わりにきちんと書き込まれているもの。もっと言えば、音の高さも、音符ではなく黒い帯状の塗りつぶしで範囲を指定してあるという、とても分かりやすいものです。
さらに、この頃のペンデレツキが腐心していたのが、いかにして新しい響きを作るかということ。そのために、特別な奏法を指定したり、とても楽器とはいえないようなものをオーケストラに加えたりして、演奏者の不信感を煽っているのです。例えば、「ヤコブの目覚め」(1974)で虫の音のように聴こえているのはオカリナ。ペンデレツキがこの曲を指揮した現場に居合わせたことがありますが、4管編成の東京都響の木管奏者全員が、あのおもちゃみたいな陶製の笛を吹かされている姿は壮観でした。さらに、「オーケストラとハープシコードのためのパルティータ」(1967)では、エレキギターとエレキベースを加えています。もちろん、ロックとクラシックの融合などという半端なスタンスではさらさらなくて、ひたすら新しいサウンドを追求した結果なのです。このような、旺盛な追求は現在も続いていて、最近の交響曲第7番では「チューバフォン」という、彼が考案した楽器(実は、太い水道管を束ねただけのものなのですが)を使って絶大な効果をあげていましたっけ。
ただ、とても残念なことに、この録音を終えたあたりから彼は作風をガラリと変えて、どこにでもいるような普通の作曲家になってしまうのです。このCDに聴かれるような姿勢を終生貫いて欲しかった私たちにしてみれば、それは裏切り以外のなにものでもなかったのですが、この作曲家にとってはそれは全く賢明な選択だったに違いありません。一部のマニアにしか喜ばれない前衛作曲家の地位を捨てて、世界中から作品の依頼がひきもきらないヒットメーカーになったからこそ、25ヘクタールの広大な土地を手に入れて、桁外れのスケールのガーデニングを楽しむことが出来るようになったのですから。

6月13日

SCHÖNBERG VERESS BARTÓK
Verklärte Nacht
Thomas Zehetmair/Camerata Bern
ECM 465 778-2
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
UCCE-2008(国内盤)
ヴァイオリンのツェートマイヤー率いるカメラータ・ベルンの演奏による、3人の作曲家の作品集です。
余談ですが、このCDは輸入盤の発売が遅れたため、結果的に国内先行発売になってしまいました。しかし、やはりECMレーベルでしたら、「えらく きれいな もんだ」というぐらいですから、輸入盤の方がかっこいいではありませんか。で、輸入盤の発売を待っていたら、既に某雑誌にCD評が載ってしまっていた、と言うわけです。
まず、毎度のことながら、ここのレーベルのジャケデザインには目を見張るものがありますね。「浄夜」と言えば、月の光の中を寄り添って歩く男女の姿が思い浮かびますが、このジャケ写は、夜の町を歩く孤独な男。この暗く厳しい風景はいったい何を物語るのでしょうか?
で、まず浄夜です。シェーンベルクの最初期の傑作であるこの曲は、ロマン派の終焉期と、新しい時代との橋渡し的作品といえましょう。ですから、演奏団体のアプローチによって、ロマンティックになったり、または現代風の響きになったり、その意味でも興味はつきません。ついでに言うなれば、弦楽六重奏版と弦楽合奏版の違いも味わいたいところ。(ちなみに私は曲の性格から言って、小編成の六重奏版を愛好してますが)。
この演奏、最初の部分はやけに行儀良くて、乾いた音。その上、かなり型にはまった印象を受けました。ベートーヴェンで素晴らしい演奏を聴かせてくれたツェートマイヤーのことですから、もしかして、シェーンベルクも古典派として捉えているのかしら。ロマン派臭を一切なくした、こざっぱりしたシェーンベルク。これはこれでいいな。そう思い聞き進んでいたところ、後半部、転調後からは様相が一変しました。弦の音は魔法にかけられたように艶を帯び、滴るような美音に変化します。音楽も全く表情豊かになり、感情の昂ぶりを押さえる事なく最高潮を迎えるのです。この劇的な変化は、青白い月の光のせいなのでしょうか?
この曲にずっしりとした重さを求める人には、多少物足りないかもしれませんが、なかなか良い演奏です。
もう一つのお目当て、ヴェレシュの作品。以前、某高名な批評家が絶賛したこともあり、ヴェレシュもかなり認知されましたが、やはりまだまだ聞ける音の少ない作曲家で、今回のこの録音も貴重なものです。民族色豊かな作風とは言え、響きはやはり世紀末。ここでは。特徴的なリズムの処理と濃厚な音楽が相俟って、なんともいえない心地良さを感じさせてくれます。「現代音楽って苦手だな、」なんていう人にぜひオススメしたい1枚といえましょう。
バルトークはおまけという事で・・・。

6月10日

RACHMANINOV
The Bells
Mikhail Pletnev/Russian National O
DG 471 029-2
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
UCCG-1049(国内盤)
ラフマニノフの合唱作品といえば、「晩祷」Op37が有名ですが、彼自身は、こちらの合唱交響曲「鐘」の方がお気に入りだったとかで、後年のインタヴューでも、この作品を自らの最高傑作と評したそうです。
作品は、合唱、オーケストラ、それとソロ2人という大掛かりな編成で、原詩はあのエドガー・アラン・ポー。もともと美しい英語を駆使して書かれたこの詩なのですが、ラフマニノフが使ったのは、それをバリモントがロシア語に翻訳したもの。ですから、あの「大地の歌」のように、もともとの世界とは、幾分異なった味付けがされているであろうことは、この曲を聴くうえで頭の片隅には入れておいた方がいいのかもしれません。
そう、なにしろ、ポーの聞いていた鐘の音と、ラフマニノフの聞いていた鐘の音ですから、これには大きな隔たりがあってあたりまえです。
さて、作品です。全体は4つの部分に分かれています。銀の鐘(鈴)、金の鐘、銅の鐘、鉄の鐘、人生のあらゆる面で打ち鳴らされる鐘の音。それに伴う心象風景に寄り添うような素晴らしい音楽。これは、たしかにラフマニノフの最高傑作のひとつであろうことは間違いありません。
この曲は、ずっとアシュケナージの演奏がBEST盤とされてきました。今回、この演奏を聴くにあたって聞き比べてみたのですが、こうしてプレトニョフ盤を聴いてしまうと、どうしてもアシュケナージ盤が(録音のせいもあるでしょうが)古臭く思えてしまいます。ただし、細かく聴いていくと、「やはり慣れ親しんだアシュケナージの方がいいな。」と思えるところもあるので、これはどちらが良いとは一概にいえません。
勢いで、ぐいぐい迫るアシュケナージ、細部にきちんと目を配らせて、アンサンブルを練り上げるプレトニョフ。ほんとにどちらも捨てがたい出来栄えです。例えば叙情的な2楽章などは、独唱の上手さも含めてプレトニョフ、3楽章の皮肉っぽいざわめきの扱いはアシュケナージ。4楽章の悲しみと感動の入り混じった嘆きの歌は、どちらでも。
そんなこんなで、結局旧譜のアシュケナージもオススメです。ついでにいうなら、プレトニョフはこの曲の改訂版のスコアを使っているので、その興味からでも、聞き比べをお勧めします。なにしろ、演奏の少ない曲なので、こういうのもありでしょうかね
カップリングのタネーエフの「ダマスクスのヨハネ」、こちらも、まず聴く機会のない曲ですね。溢れるばかりの才能があったにも関わらず、自らの才能に自信のもてなかったタネーエフの数少ない作品は、どれもが綿密に練り上げられた、凝りに凝ったもので、美しいメロディよりも、厳格な対位法を重視する作風はあのレーガーを思い起こさせます。このカンタータも、ロシア正教会の伝統的な祈りの特徴と、スラブ聖歌の美しい融合で、聞く人の心を静かな感動で満たします。

6月8日

Le Quintette Moraguès fait la fête
CHANT DU MONDE LDC 2781137(輸入盤)
キングインターナショナル
KKCC-4327(国内盤)
木管五重奏というアンサンブルの形態は、弦楽四重奏のようにレパートリーも確立していて、きちんとした需要もあるものとは異なり、何かの機会に結成されたようなケースが多く、なかなか「もっかんやろうよ」ということにはならないため、同じメンバーで長期の活動をしているグループというのは、あまり聞きませんね。そんな中で、モラゲス3兄弟が気のあった仲間と一緒に作ったをモラゲス木管五重奏団は、いつの間にか20年も続くことになっていたのです。
このアルバムは、そんな彼らの20年間のレパートリーから、お得意のアンコールピースを集めたものです。どの曲も、メンバー一人一人の名人芸と、20年の間に培われた不動のアンサンブルで、聴く者に確かな喜びを与えてくれます。
その卓越したアンサンブルの見本ともいえるのが、ビゼーの「ジプシーの踊り(カルメン)」。サポートメンバーのクレール・デセールのピアノに乗って軽やかに始まるフルート二重奏、えっ、まさか、フルートはミシェルしかいないはず、ですよね〜。実は、殆どフルートと見分けのつかない音を出していたのは、クラリネットのパスカルだったのです。合わせるためだったら、ヴィブラートをかけることさえ厭わないという奉仕精神。ここでは、メンバーはそれぞれの楽器のプレーヤーではなく、「木管五重奏」という有機体の一部分と化しているのです。パトリック・ヴィレールの楽器が「ファゴット」ではなく「バソン」であるというのも、ポイントが高いですね。この包み込むような音色が、どれだけアンサンブルに貢献していることか。
もちろん、ピッチには寸分の狂いもありませんから、ファルカシュの「ハンガリー古代舞曲」や、スイス民謡の「グリオンのモンフェリーヌ」のようにほんの少しずれたピッチを用いることによって得られる絶大な効果に笑うことが出来るわけです。その意味では、最後に収められたラヴェルのピアノ協奏曲の第2楽章も、デセールのたどたどしい弾き方には何か意味があるのだと考えるべきなのでしょう。
印象的だったのは、キューブリックの遺作「アイズ・ワイド・シャット」でも使われていた、ショスタコーヴィチの「ジャズ組曲のワルツ」。あの映画の中の醒めた印象を追体験しようと思って聴いた人は、完璧に肩透かしを食らうに違いない、熱い情感にあふれた音楽を聴くことができます。同じ曲でも、演奏が変われば印象はまるで変わるということ。最近、映画の中で使われたクラシックを集めたコンピレーションアルバムを良く見かけますが、権利の関係で全く同じ音源を使うことは出来ないため、とんでもない演奏のものを聴かされてしまって失望したリスナーは、その怒りの矛先をいったいどこに向けたら良いのでしょうか。

6月6日

Eterno amore e fè
高橋薫子(Sop)
ビクターエンタテインメント VICC-60237
このHPでは、すでにおなじみ。注目のソプラノ歌手、高橋薫子さんの初のアルバムです。
実は彼女のCD、以前自主制作盤という形で、讃美歌集が発売されていたのですが、こちらは一般では手に入りにくいので、やはり今回のアルバムを「初」と考える事にしましょう。
さて、高橋さんといえば、前回のニューフィルの定期演奏会に出演されていましたね。私も演奏会のビデオを拝見させていただきましたが、とても「華」のある方で、彼女が舞台に出てくると、そこだけ光が増すという感じ。もちろん歌もすばらしく、しばらくは、彼女の「今の歌声は」が耳から離れなかったくらいです。
それから少しして、私は彼女の実演を聴く機会が持てました。ここにも再三書いたのですが、それは東フィルのオペラコンチェルタンテシリーズでの事。ストラヴィンスキーの「夜鳴きうぐいす」と、ツェムリンスキーの「王女様の誕生日」の2本立ての演目で、彼女はそのどちらにも出演。絶賛を浴びました。そこでの彼女の驚くほど繊細な表現力と、コケティッシュな魅力の前には、並み居るおぢさんたちもたじたじ。おそらく拍手が一番多かったのではないでしょうか。
さて、そのように一部では絶大な人気を誇る彼女のことですから、国内のCDメーカーが目をつけないわけはないと思っていましたよ。今回の1枚はロッシーニ、ドニゼッティ、ベッリーニというイタリア物の王道です。ただし、オペラアリアではなく歌曲。最初手にしたとき、「アリア集の方が良かったな」と感じたものです。イタリア物は、どうしてもアリアに眼が向いてしまい、歌曲は低く見られがちな傾向がありますね。オペラの片手間に書いたという印象も強いではありませんか。あとは音大生の練習用としてのイメージもありますし。「彼女の強烈な表現力が、こんな小さな歌曲ごときに収まるものですか!」そう考えてしまったのですよ。
しかし、それは全くの思い過ごしでした。よく通る透き通った声は、小さな歌一つ一つに新しい息吹を与えています。技巧的なパッセージを含む華やかな歌と、叙情的な歌をうまく取り混ぜた構成も素晴らしいものです。とりわけ良かったのがベッリーニ。高橋さんの澄んだ声は、ベッリーニ独特の繊細なメロディにぴったり。彼が24歳の頃の作品「優雅な月よ」は、様々な歌手に愛唱されてきた美しい曲。遠くの恋人に寄せる思いを、夜空の月に託す、この身をよじるような切ない思いを、彼女は心からの共感を持って歌います。それも極めて清潔な歌い方だから、ほんとにまっすぐに月まで届きそう。
ロッシーニの歌曲は、どれもがポケットティッシュ、ではなくて、コケティッシュでかわいらしいものです。あのロジーナの赤いドレスが目の前に浮かぶ思いでした。
彼女の活躍を目の当たりにするのは、まさに、おやぢ冥利につきるというものです。

6月4日

星条旗よ永遠なれ
SPECTACULAR MARCHES
Eugene Ormandy/Philadelpia O
BMG
ファンハウス BVCC-38129
ユージン・オーマンディという人は、1938年から1980年までフィラデルフィア管弦楽団の音楽監督を務めていて、レコーディングもSPからLP、ステレオ、そして、最晩年にはディジタル録音も体験しているという、ものすごいキャリアの持ち主です。特に、当時のCBS(現在はSONY)に残した膨大なカタログは、いまだにこのレーベルのバジェット盤として、コレクションの基本をなしています。しかし、たしか1968年ごろに、オーマンディはCBSと袂を分かって、RCA(現在はBMG)へ移籍します。CBS時代の華やかで分離の良い録音を聴きなれていた人たちは、RCAに変わってからのいかにもモッサリした音には、少なからず衝撃を受けたことでしょう。
このアルバムは、そんなRCA時代の一作。すでに何回も何回もCD化されたものですが、今回は「初CD化」の2曲がボーナストラックとして入っています。
オーマンディの作り上げる音楽というのは、決して奇を衒うことのない、誰にでも受け入れられやすいものです。そのために、オーケストラの音を徹底的に磨き上げることに最大限の努力を払います。したがって、ちょっと刺激的なものを求めたり、意外性を期待したりすると、がっかりすることになります。
ここで取り上げられているのは、行進曲。そんなオーマンディの手にかかるわけですから、思わず歩き出したくなるような躍動感などはまず感じることは出来ないでしょう。さらに、オーマンディに決定的に欠けているのがドラマ性。この中にはオペラの中の曲がたくさんありますが、「カルメン」の闘牛士の行進からは、闘牛場の喧騒は連想しづらいですし、「タンホイザー」の入場行進曲から、続く歌合戦の場面を想像するのは不可能に近いこと。「アイーダ」の大行進曲に至っては、有名なアイーダトランペットのメロディーはほとんどニニ・ロッソの「夜霧のトランペット」のように聴こえてくる始末です。
オーマンディは1950年にメトで「こうもり」を振った以外は、オペラに手を染めることはなく、コンサート指揮者として生涯を全うしました(62年に「青ひげ」を録音していますが、これは普通の意味でのオペラではないので、無視)。これはとても賢明な選択だったのではないでしょうか。人それぞれの適性というものがあるのですから、背伸びして無理なことをやることはないのですよ。その点、日本人は「オペラが出来ないと一流じゃない」と本気で信じていますから、悲惨な結果を招いている場合が・・・これは余談。
皮肉にも、最も楽しめたのは、オリジナルのトラックではなく、今回新たに追加されたモートン・グールド編曲の「ヤンキー・ドゥードゥル(邦題あるぶす一万弱)」。軽妙なアレンジをメンバーが心から楽しんでいるのがよく分かります。

おとといのおやぢに会える、か。


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