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ハンス・フォン・尾籠。.... 渋谷塔一

(03/4/27-03/5/14)


5月14日

BERLIOZ
Symphonie Fantastique
Christoph Eschenbach/
Orchestre de Paris
NAïVE/V 4935
今年はベルリオーズの生誕200年、例によって各方面で関連行事というか、便乗行事が目白押しです。そんな中で、お膝元のフランスでは、パリ管弦楽団とフランス国立図書館が中心になった、「ベルリオーズ 2003」というプロジェクトが進行中です。これは2000年から2004年にかけて行われるもので、ベルリオーズの全作品の演奏はもちろん、著述者、評論家としてのベルリオーズの姿にも光を当てるというもの。もちろん、1967年からベーレンライターで進められてきた「新ベルリオーズ全集」も、この記念年に完成が見込まれています。
このCDのリリースもその一環、指揮は現在のパリ管のシェフ、エッシェンバッハです。パリ管の「幻想」といえば、このオーケストラの初代の音楽監督、シャルル・ミュンシュが1967年に録音した激情あふれる、言い換えれば「くさい」演奏が有名ですね。あれから30年以上経って、パリ管はどのように変わっているのでしょうか。そもそも、それまであった「パリ音楽院管弦楽団」を改組してパリ管が生まれたのには、世界に通用するオーケストラを作りたいという、当時の文化相アンドレ・マルローの思いがありました。就任直後に他界してしまったミュンシュの後を受けたカラヤンのもと、このオーケストラはある象徴的な出来事を以て、インターナショナルなオーケストラへと脱皮をはかります。それは、ファゴット奏者が、今まで使っていたフランス風の楽器「バッソン」を捨てて、世界中のオケで使われているドイツ風の「ファゴット」を使うようになったことです。バッソンというのは独特の柔らかい音色を持った楽器でフランス音楽を演奏するには欠かせないものでしたが、機能的にはファゴットに一日の長がありましたから、このパリ管の選択は音色よりも機能性を重視するインターナショナルな、言い換えれば無国籍な性格を優先したということになるのでしょう。
このエッシェンバッハの演奏、もはや、ミュンシュのような熱い思いは殆ど感じることはできません。そこにあるのは、卓越したアンサンブルに裏付けられた、きわめて見晴らしのよい景色です。各パートの歌い方は、過剰な思い入れは一切込めないというある意味クールなもの、しかし、エッシャンバッハの自由自在なテンポの揺れに、まさに一糸乱れぬアンサンブルで付いていく様は、殆どスリリングな様相を呈しています。第3楽章の「野の風景」には、まるで風が吹き抜ける田園風景のようなさわやかさが宿っていますし、第4楽章の「断頭台への行進」も、金管のシャープなマーチを聴いてしまうと、恐怖感とは全く無縁のイメージが、眼前に広がってくることでしょう。ですから、フィナーレの「サバの夜の夢」からは、もはやおどろおどろしい魔女の集会ではなく、まるでテーマパークのような、こわいけどちょっとウキウキしたような感じが伝わってくるはずです。ミュンシュ時代には不気味な響きだった鐘の音も、ここではカリヨンのような分かりやすいものになってますよん
最近BSで同じメンバーのライブが放映されましたが、あれはこのCDの1年前に収録されたもの。微妙に表現が異なっています。

5月13日

ENTARTETE MUSIK
Various Artists
DECCA/473 691-2
今回は「頽廃音楽」についてです。たいがいの音楽辞典には、この言葉は載っていませんし、本当に限られたジャンルの音楽なのですが、根強いファンがいる事でも知られています(私もその一人かな)。
最初にこの言葉が使われたのは1938年、デュッセルドルフで行われた展覧会の時とされてますが実際広く知られているのは、CDケースにあの独特のロゴをつけたDECCAのシリーズの方に違いありません。そもそも、「頽廃音楽とは1930年代、ナチスに拠って不当に貶められら作品である」と、定義をつけたのが当時のDECCAのプロデューサー、マイケル・ハースでもあるからです。そして、シェーンベルクやベルクの影に隠れていたシュルホフ、シュレーカー、ハース、ウルマン、さらにコルンゴルドなど、当時は殆ど忘れられていた作曲家の作品が次々とリリースされ、その上、国内盤(?)まで製作されたのですから、まさにバブルの世代の申し子のようなシリーズでもあったのです。しかし、シリーズが進行するにつれ、世の中はバブルの崩壊に伴って不景気になり、シリーズ最後のカールマンは国内盤すらも製作されませんでしたし、そのうち既存の国内盤がカタログから姿を消し、相次いで輸入盤も店頭から姿を消し始めました。この現象もバブルの崩壊といえなくもありませんね。それにつれて、ウルマンやシュレーカーの人気も泡と消えてしまうか・・・と思ってました。(コルンゴルトだけは見事に生き残りそうでした)
しかしながら、昨年某日本人指揮者が、ウィーン国立歌劇場でクシェネクの「ジョニーは演奏する」を取り上げたあたりから風向きが変わったようです。この作品を聴きたい人がお店に走っても品切れ続きで、メーカーに苦情でも行ったのか、はたまた「売れる」と踏んだのか、頽廃シリーズの再発が決まったのです。それも少しだけ安くなって。カタログの中には、前任者が取り上げた、ブラウンフェルスの「鳥たち」もありますし、ハースもアイスラーも、もちろんクシェネクの「ジョニー」もありました。ブーム再燃の兆しです。
取り合えず、2枚組みのサンプラーCDがお店にならんでいましたので、懐かしくなって購入しました。(もちろん私は元の形でほとんど持ってますが)こうして、一度に聴いてみるとほんとに作風は雑多です。そうですよね。ただ作曲年代が同じというだけで一括りにされているだけですから。とは言え、あたかもベートーヴェンをそのまま継承したような厳格な作品から、似非ワーグナーオペラ、キャバレーソング、ジャズ、ミュージカル、偶然音楽、はたまた十二音音楽・・・。まさしくごった煮の世界。
歴史の恥部とも言われたりしますが、それにしてはなんと多くの実りがあったのでしょうか。そして完熟を待たずにもぎ取られた果実も多かったこと、いろいろな事に思いを馳せながら、この2枚組みを楽しむとしましょうか。

5月11日

J.STRAUSS
Die Fledermaus
Marc Minkowski/
Mozarteum Orchestra Saltzburg
ARTHAUS/100 341(DVD)
以前「後宮」の奇抜な演出をご紹介したハンス・ノイエンフェルスがまたやってくれました。しかもこちらはザルツブルク音楽祭という大舞台、2001年に行われた公演で、ブーイングの嵐に見舞われたその「こうもり」を、DVDで思う存分楽しむことにしましょう。もう時期は過ぎましたが(それは「こいのぼり」)。
もちろん、この「こうもり」はもはやヨハン・シュトラウスが描こうとしたものとは全く別の世界を創り出したものだということは、頭に入れておかなければならないでしょう。ここでノイエンフェルスが行ったのは、登場人物の設定を含めての、物語全体の再構築です。台本もノイエンフェルスが大幅に書き換えています。その結果、このオペレッタ(もはや、オペレッタとしての体裁すらも崩れ去っています)からは、華やかな上流社会というものとは全く縁のない、暗く、本当の意味での退廃的な雰囲気が、時によっては嫌悪感を抱くほどの強烈な印象を伴って発散されることになります。
キャラクター設定の特異さが最も顕著に表れているのは、牢番のフロッシュでしょうか。本来は、第3幕の刑務所の場面に初めて登場して、アドリブで笑いを取るという、いわばスタンダップ・コメディアンのような役回りなのですが(昔、坂上二郎がやったことがありましたね)、ここでは最初から出てきます。しかも、燕尾服に身を包んでいても、演じているのは女性(実は、ノイエンフェルスの奥さん、エリーザベト・トリッセンナール)。お客を相手にアジテーションをかましたり、意味不明の歌(おそらく、オーストリアでは有名なのでしょうが)を歌って、決して快適とはいえない、不思議な世界に導く役割を担っています。しかし、その彼女にしても、第2幕の舞踏会の場面で奇声を上げて登場するヤク中のオルロフスキー公爵のインパクトには到底かなわないでしょう。ジャケに写っているドレッド・ヘアがその人。デイヴィッド・モスという、ちゃんとした歌手が演じているのですが、そのツボを押さえた錯乱ぶりは、まさに至芸です。もちろん、舞踏会で振る舞われるのは、上物のコカイン、居並ぶ賓客は、芯を抜いたボールペンで鼻からコナを吸引して、ラリってしまうのです。あ、「賓客」などと書きましたが、アルノルト・シェーンベルク合唱団が演じる群衆たちは、およそ「舞踏会」とはかけはなれたコスチューム、男は上半身裸の労働着、そして女はなまめかしいボディースーツにガーターという、あぶないスタイルです。そのほかにも、アイゼンシュタイン夫婦の間に子供がいたという設定。この、兄と妹が、情けないほどこの世界にはまっています。1幕では近親相姦、そして、3幕ではピストルで心中ですからね。
そんな、禁断の世界が錯綜する、とても「こうもり」とは思えない舞台なのですが、ミンコフスキの音楽はいたってまともです。いや、しかし、そのシュトラウスの音楽がこの非現実の世界の中に置かれると、なんと強い力を放っていることでしょう。あるいは、ウィーンの社交界の中に居たのでは決して感じることのできないこの「力」、それに気付かせることが、この演出の狙いではなかったのか、とすら思えてしまいます。

5月9日

PARIS
La Belle Époque
Yo-Yo Ma(Vc)
Kathryn Stott(Pf)
SONY/SK87287
(輸入盤)
ソニー・ミュージック
/SICC120(国内盤)
某評論家が「期待のチェリストたち」として昨年末取り上げたせいか、最近では、チェロというと、ウィスペルウェイやケラス、そしてブルネロの演奏に注目が集まりがちですが、やはり大御所ヨーヨー・マは別格の存在です。彼は持ち前の人懐っこさと、チャレンジ精神で、更なるレパートリーの拡大に努め、リリースするCDのどれもが注目を浴びることになっているのは周知の事実です。もっとも、子供の歌(ドーヨー・マ)や、ダンス・ミュージック(ゴー・ゴー・マ)に手を出すということはありませんが。それはともかく、あの、「リベル・タンゴ」の世界的ヒットを始め、「アパラチア・ワルツ」ではいかにもアメリカ的なくつろいだ音楽を披露してくれたり、そうかと思うと、「ナコイカッツィ」ではフィリップ・グラスの独特な音楽をすすり泣くような音色で表現し「この音楽はヨーヨーでなければ演奏不可」と、現在日本でのグラスの第一人者(?)M氏が語った事も申し添えておきましょうか。
そんな彼の最新作は意外にもフランス音楽集でした。なぜ?と思いましたがこれは解説を読んで納得。なぜなら彼自身が初めてチェロのレッスンを受けたのが、有名な弦楽器製作者エティエンヌ・ヴァテロのパリの仕事場だったのです。4歳のヨーヨー・マの眼に映るフランスはどんなに魅力的だったことでしょう。シルクロード・プロジェクトで自らの音楽的ルーツを探る旅の途中に、蠱惑的なパリの風景が混じりこむのも当然の帰結だというわけです。
人間誰しもそうですが、幼い頃の記憶を辿る作業は楽しいものです。例え、どんなに嫌な思い出があろうとも、時の流れが程よく篩いをかけてくれます。幼い自分の拙い思いを洗い出し、もう一度陽の光に当てることにより、現在の自分の存在価値を考え、新たに歩き出す。このフランス作品集にはそんな思いが込められているのでしょうか。
どの曲も素晴らしかったのですが、特に良かったのが、まず最初に置かれたマスネの「タイスの瞑想曲」。御存知ヴァイオリン・ピースの代表的な作品ですが、(本当はオペラの間奏曲ですけど)ここでは、ヨーヨー・マ自らがチェロ用に編曲し、うっとりするような音楽を聴かせてくれます。チェロの深い音が齎す落ち着きと品のよさがたまりません。
そして、このアルバムのメインの一つである「フォーレ」です。こちらも彼自身の編曲によるものですが、ヴァイオリンソナタをチェロで演奏する時によく行われる、3度下に移調することは一切なし。これは演奏困難だろうな・・・と思うより、あたかも最初からチェロのために書かれた曲のように響くのは、本当に驚くばかりです。ここでも彼の音はとても人懐っこく、少々過剰とも思える程の甘さで、魅力的なフォーレのソナタを弾ききってます。ただ、残念なのがストットのピアノ。これは好き好きかもしれませんが、彼女の演奏は少々力強過ぎて、繊細なフォーレよりはフランクの方があっているように思います。

5月7日

C.P.E.BACH
Die Auferstehung und Himmelfahrt Jesu
Uta Schwabe(Sop)
Christoph Genz(Ten)
Stephan Genz(Bas)
Sigiswald Kuijken/
Ex Tempore, La Petite Bande
HYPERION/CDA 67364
大バッハの次男、カール・フィリップ・エマニュエル・バッハ(彼を紹介するときはこればっか)は、お父さん同様、たくさんの作品を残しており、ヘルムによる作品目録(H)には、900曲近くの作品が掲載されています。ただ、器楽曲は頻繁に演奏されますが、100曲以上ある彼の宗教曲は殆ど聴かれることはないようです。受難曲など、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネをそれぞれ5曲ずつ、計20曲も作っているというのに、私はまだ1曲も聴いたことがありませんし。教会ではなく、コンサートホールで演奏されるために作られた大規模なオラトリオは3曲残されています。「荒野のイスラエル人」、「救世主の最後の受難」、そして最晩年1787年に出版された、この「イエスの復活と昇天」です。
エマニュエルの作曲様式は、もはやお父さんのそれとははっきり異なるものになっていました。言ってみれば、バロックと古典派、大バッハとモーツァルトの橋渡しをしていると、位置づけることができるでしょう。事実、この曲が出版直後にウィーンで演奏されたときに指揮をしたのが、そのモーツァルトなのですから。
曲は、低弦のユニゾンによるいかにも思わせぶりで不気味な導入部から始まります。しかし、それに続く合唱はとてもおおらかで屈託のないもの、このあたりの対比の妙が、エマニュエルの持ち味なのでしょう。そのあとは、ソリストによるレシタティーヴォ・セッコやアリアが、華々しい世界を描き出します。ただ、アリアの作り方は、大バッハでおなじみ、「ダ・カーポ・アリア」という、全く曲想の違う部分を間に挟んで、同じものを2回繰り返すという、ちょっと古くさい形。このあたりがバロックの名残なのでしょうか。しかし、15番のバスのアリアにファゴットがオブリガートをつけるなどというのは、かなりユニークなことでしょう。私たちが聴くと、オリジナル楽器のファゴットが、まるでアルト・サックスのように聞こえて、ちょっと不思議な気にさせられます。18番のテノールのアリアのように、直前のレシタティーヴォで、アリアの冒頭のテーマを聴かせるというのも、心憎い演出、そんな、聴いている人を楽しませようという工夫が随所に見られて、とても楽しくなってしまいます。場合によっては、ロマン派の先駆けと感じられる部分すら。
クイケンが指揮なので、大バッハの時のように1パート1人で歌っているのでは、と心配してしまいましたが、それは無用でした。合唱を担当しているのは、「エクス・テンポレ」という22人編成の「大きな」合唱団、なかなか充実した響きが味わえます。ソリストでは、ソプラノのシュワーベの清楚な声が聴きもの。ゲンツ兄弟のお兄さん、クリストフの張りのある声も素敵。しかし、弟のシュテファンにはちょっと物足りなさが残ってしまいます。この人の声は、この曲には柔らかすぎて、アリアのキャラクターが十分には出てきません。

5月5日

SORABJI
Piano Music
Michael Habermann(Pf)
BIS/CD-1306
三省堂の「クラシック音楽作品名辞典」にも載っていないカイコシュル・ソラブジという作曲家がいます。法螺貝のための曲(それはヤマブシ)が有名。それはもちろんウソですが、そんなマイナーな作曲家にもかかわらず、彼の作品には一部の熱狂的なファンがいます。最近では「オーパス・クラヴィチェンバリスティクム」の録音も再発、これはあたかも最新録音のような風情でお店に並んでいたのですが調べてみたら、昔の録音だったという余話もありましたね。あのCD5枚分にも渡る大作を聴く事は、モートン・フェルドマンの弦楽合奏の天国的な長さに匹敵する「贅沢な時間の使い方」。250分ひたすら音を聴くという不思議な体験ができます。
今回は、そんなソラブジのピアノ小品集です。ほとんどがトランスクリプション物、そして世界初録音です。彼の音楽の特徴は、なんと言っても音の多いこと。それも無駄な音・・・いえいえ贅沢に音が使われていることです。そう、時間も音も潤沢に使う。これがソラブジの持ち味といえましょう。第1曲目、おなじみラヴェルの「スペイン狂詩曲」のピアノ独奏版から。この曲については、ほとんど原曲通りの進行です。最初の波に揉まれるような下降音形も忠実になぞります。しかし、そこにまとわりつく音が異様に多いのです。例えるなら、部屋で「スペイン狂詩曲」を聴いている横で、家人がテレビでニュースを大音量でかけている感じとでも言いましょうか。微妙に音が交じり合って、でもお互いの世界は主張しあう、そして、それが奇妙な不安感を呼び起こすのです。次は「ヴェネツィアの散歩道」。これはあの有名なオッフェンバックの「ホフマンの舟歌」がベースなのですが、こちらも雑踏の中から、切れ切れに舟歌が聴こえてくるというもの。ヴェネツィアよりも、渋谷の駅前にいる感覚がナイスです。そして、ショパンのソナタ第2番の終楽章をテーマにした56の交響的変奏曲の中の1曲はいかがでしょう?疾風が駆け抜けるかのような短い曲を、長大な変奏曲(スコアが484ページもある!)に作り変えたもので、これもぜひ全曲聴いてみたい逸品です。誰か録音しないだろうか。そして彼自作の「ハバネラのように」を経て、「バッハの半音階的幻想曲」ソラブジ編です。これもスゴイの一言で、原曲の持ち味を損なうことなく、たくさんの音を注入していくソラブジったら・・・。これは本当に説明不可能な世界なので、実際に聴いてもらいたいところですね。気持ち悪い!と言われるかもしれませんけど。
最後は「子犬のワルツ」による狂詩曲。こちらだけは以前ウレーンの演奏で体験済みでしたけど、今回聴きなおして、また改めて気持ち悪さにぞくぞくしました。この世界は、以前ご案内したメラーの「別れの曲」に極めて近いものがあります。
こんな曲ばかりですから、もちろん演奏も超難しいのですが、パリ生まれのハーバーマンは、これらの難曲を難なくこなしています。彼はすでにソラブジのスペシャリストとして認知されているとか。これから「知られざる作曲家ソラブジ」の全貌を明らかにしてくれるに違いありません。

5月3日

BRAHMS/Sonata
MENDELSSHOHN/Trio
Martha Argerich(Pf)
Lilya Zilberstein(Pf)
Renaud Capuçon(Vn)
Gautier Capuçon(Vc)
EMI/CDC 557468 2
(輸入盤)
東芝
EMI/TOCE-55560(国内盤)
先頃のデュトワ/N響とのヨーロッパ・ツアーは、あいにくキャンセルになってしまいましたが、5月には「別府アルゲリッチ音楽祭」の総監督として来日、別府と東京で多くのコンサートを控えていますし、10月にはリッカルド・シャイー指揮のミラノ・ジュゼッペ・ヴェルディ交響楽団や、ネルソン・フレイレとの共演のため、またまた来日の予定があるといいますから、最近のアルゲリッチは、とみに日本とは縁が深くなっているようです。昨年も、4月には別府、7月には札幌でのPMFと、やはり度重なる来日で、日本のファンを喜ばせてくれたのも、記憶に新しいところでしょう。
そんな多忙な彼女、その来日の間を縫う形で、昨年の6月にはさらに新しいプロジェクトを誕生させていたと言いますから驚きです。それは、「ルガーノ・フェスティバル/マルタ・アルゲリッチ・プロジェクト」と題されたもの。信州地方(「ナガーノ」か!)ではなく、スイスの南端、殆どイタリア領に近いルガーノ湖に面した風光明媚な保養地ルガーノでEMIの肝いりによって、2002年からアルゲリッチをメインに据えての催しが始まることになったのです。そして、その模様を収録したCDが、早くも届きました。
アルゲリッチの音楽の本質は、いつまでたってもその若々しさが失われることのない「奔放さ」なのではないでしょうか。まるで無邪気な子供のように、常に同じところに立ち止まることはなくめまぐるしく駆け回っているかのようなその演奏スタイルからは、ひとときも目を離すことが許されないほどの多彩なメッセージを受け取ることが出来るでしょう。さらに、彼女の最近のキャリアで目立つのは、ソロではなく、アンサンブルという場での活躍が増えているということです。ヴァイオリンのギドン・クレメルやチェロのミーシャ・マイスキーなどと共演したアルバムは、いずれも個性のぶつかり合いが火花を散らした素晴らしいものになっています。今回のルガーノ・フェスティバルでの録音も主体はアンサンブル、特に若い世代との共演によって、アルゲリッチの音楽が今まで以上に生き生きとしたものになっている様が克明に記録されていて、興味は尽きません。
このCDには、ブラームスとメンデルスゾーンの作品が収録されています。ブラームスの2台のピアノのためのソナタは、有名なピアノ五重奏曲ヘ短調のもとになった形。「2台のピアノのためには内容に無理があるので、変更した方がよい」と言われて今の形になったと言われていますが、ここでアルゲリッチと、若手のホープ、リリヤ・ジルベルシュタインの共演を聴くと、そのような助言が全く無用のものに思えてくるほど、この曲に高い完成度が感じられてしまいます。冒頭、静かな導入部に続いて、一呼吸置くやいなや二人のテンションは全開、そのまま最後まで、時には壊れる一歩手前の様相を呈しながら、グイグイと聴くものを引き込んで離しません。メンデルスゾーンはピアノ三重奏曲第1番。ここでは、幾分おとなしめなカプソン兄弟のヴァイオリンとチェロに、アルゲリッチは「しっかりしなさいよ!」と容赦なく活を入れるかのよう。結局最後は彼女のペースに持ち込んで熱いエンディングを迎えます。

5月1日

BRAHMS
Symphony No.4
Eliahu Inbal/
Radio-Sinfonie-Orchester Frankfurt
DENON/COCQ-83591
私が楽しみにしているシリーズの一つに、このインバルのブラームス交響曲集があります。もともとインバルが好きで、実演も聴いてますし、マーラーの交響曲も、全集としては一番完成度が高いと思ってます。これには異論もあるでしょうけどね。
彼の演奏には、独特の雰囲気があって、これを「パトス」と表現する人もいれば(「バスト」では雰囲気あり過ぎ)、「狂気」と表現する人もいるというわけです。もちろん、そこまでの表現に持ち込むためにはオーケストラを完全に手中に収めることが大前提。(付き合いの長いフランクフルト放送響とは、もう完全に一心同体。)だって、ただ単にアンサンブルが乱れているだけでは、そこから狂気など感じられるわけがありません。ただの混沌というか、「がんばっているけどまだまだだな」と同情するか。だから、極めて純度の高いアンサンブルが見せる一瞬の異常性、それこそが狂気だと言い切っても差し支えないでしょう。ブーレーズなんかも同じような傾向がありますが、彼の音楽はもっと冷たく感じますから、やはりインバルは独特なんですね。
そんな指揮者は、大編成の曲も上手くて、例えばマーラーの8番や、ベルリオーズのレクイエム、そしてシェーンベルクのグレの歌などは、一様にその曲の最高の名演の一つと評価されているのはみなさんご承知の通りでしょう。
さて、そのインバルのブラームスです。今回はついに第4番です。私はこの曲が以前から大好きでして、いろんな演奏を聴いてきましたが、このインバル盤を聴いて正直なところ、「今まで私は何を聴いてきたのだろう?」と自問する瞬間が何度もあったことを告白しなくてはいけません。例えば1楽章の中間部よりもう少し後、ここに終楽章への伏線があるのですが、ここが余りにも鮮やかで、すっかり聞き惚れてしいました。ここまで有機的に音楽の断片(ホントに切れ端)を準備しているんだ。と思い、一度音楽の流れに逆らって、冒頭に戻ってみると、全てが終楽章と関連していた・・・。と言うよりも、「序奏なしに始まる第1主題の音形が、全てを支配している」という、譜面ではわかっていたことが、音として初めて体感できた一瞬でした。ここまで注意深く聴けたのには、フランクフルト放送響の豊麗な音も一役買っていたのかも知れません。それほどまでに耳を欹てる響きでした。
このシリーズには、毎回のお楽しみとして新ウィーン楽派の音楽がカップリングされています。(嫌いな人にとっては迷惑でしょうが)今回は、さきごろ別の指揮者とアンサンブルで聞いたばがりのウェーベルンの編曲した「バッハのリチェルカーレ」が収録されているのが興味深いところです。先頃の指揮者とは、あのポッペンですが、あちらの音の重ね方はどちらかというと「つぶやき系」ちょっと気を抜くと音楽がするするとほどけて空中霧散してしまいそうな危うさがありますが、こちらは全くの建造物。一つ一つの音が絡み合い、堅牢なオブジェを立ち上げるかのようです。もう一曲の「パッサカリア」もまさにプラームスと直線で繋がっているかのような、中間部の悲痛かつ美しいメロディには、誰しも涙することでしょう。

4月29日

HAENDEL
Rinaldo
Genaux(MS),Persson(Sop),Zazzo(CT),Visse(CT)
René Jacobs/
Freiburger Barockorchester
HARMONIA MUNDI/HMC 901796.98
(輸入盤)
キングレコード
/KKCC-492-4(国内盤)
ヘンデルの「リナルド」といえば、第2幕で歌われる「Lascia ch'io pianga(私を泣かせてください)」というアリアだけがやたら有名になっています。特に、最近、さるソプラノ歌手(サル・ブライトマン)が歌ったものがテレビの中から(あるいは「島田さん」の部屋から)流れてきたということで、クラシック人気曲のランキングでも3位あたりにつけたという「名曲」になってしまっています。しかし、だからといって、この「リナルド」が、たとえば「アイーダ」の様によく聴かれる曲かというと、そうではありません。そもそもヘンデルのオペラというのは、一度は完全に忘れ去られていたもの、最近になって、やっと本来の形で聴かれ始める様になってきたのですから。
「カストラート」という映画がありましたが、ヘンデルの時代は、そのカストラートの全盛期、強靱な声と超絶的なテクニックという、男性でありながら女性の声を出す彼らの持ち味が、ヘンデルのオペラにはなくてはならないものだったのです。ですから、時代の流れでこのような人権をないがしろにした職業がなくなってしまうとともに、ヘンデルの作品も忘れ去られてゆきます。それが、最近になって、カストラートが復活したという訳ではないのですが、それに近い声を出すカウンター・テナーとか、女性でもちょっと低めの、カストラートのレパートリーに十分対応できるようなドラマティックな声とテクニックの持ち主が現れてきたために、今まで埋もれていた多くの作品が日の目を見るようになったのです。
この「リナルド」は、ヘンデルの40以上あるオペラの7番目のもの、後に彼の活動拠点となるロンドンで上演された最初の作品です。タッソーの「解放されたエルサレム」が原作ですが、十字軍の戦士と、魔女アルミーダが登場するこの物語は、以前取り上げたハイドン始め、多くの作曲家がオペラの題材として採用しています。しかし、ヘンデルのオペラというのは、いわばカストラートやコロラトゥーラ・ソプラノの技巧を思う存分楽しませるという趣向が勝ったものですから、話の筋はそれほど重要なものではありません。さらに、このオペラの場合、そのアルミーダや、もう一人、十字軍の味方となる魔法使いも登場して、スペクタクルな音楽が堪能できますから、台本を見ないで音だけ聴いても、十分に楽しむことができるようになっています。もし、初めてこのオペラに接した方は、こんな生き生きとした音楽を今まで聴かなかったことが、おおいに悔やまれることでしょう。
この分野での第一人者、ルネ・ヤーコプスは、そんなヘンデルの音楽を、メリハリのきいたダイナミックなものとして聴かせてくれています。歌手では、エルサレム王アルガンテ役のジェームズ・ラザフォードがちょっと見劣りするのを除いては、皆粒ぞろい、特に、現在売り出し中、リナルド役のヴィヴィカ・ジュノーのカストラートもかくやと思えるほどのコロラトゥーラと、アルミーダ役のインガ・カルナの表現力には圧倒されます。「Lascia ch'io pianga」を歌うアルミレーナ役のミア・パーションも素敵。さらに、第3幕で魔法使い役で登場するのが、あのドミニク・ヴィス。もっとも、彼にはもっとはじけて欲しかったという思いは残りますが。

4月27日

WAGNER
Siegfried-Idyll
Mikhaïl Rudy(Pf)
EMI/CDC 557181 2
ロシアのベテランピアニスト、ミハイル・ルディの新譜です。あまり知名度はありませんが、既に何枚ものアルバムもあり、洗練された技巧で、根強いファンを獲得しているピアニストです。
今回のアルバムはワーグナーの作品集です。「ワーグナーをピアノで」と聞くと一番に思い出すのが、リストによるパラフレーズでしょう。19世紀の稀代の名アレンジャーであったリストは、当時流行の曲をすぐさまピアノで演奏できるように作り変え、自らの技巧の誇示を兼ねて演奏会で披露したのですね。その編曲法にもいろいろあり、原曲に自由な装飾を加え全く違う姿に創り上げるもの(パラフレーズ)と、原曲をほぼ忠実に移し変えたもの(トランスクリプション)があるのですけど(さらに、曲芸みたいな編曲を「トランポリンアクション」と言います)。もちろんワーグナーの作品は、そのものが複雑なスコアですから、それをピアノに移し変えるだけでも困難なこと。このアルバムの最初に収録されている「タンホイザー序曲」に耳を傾けてください。確かに最初の部分は荘重ですが、途中の乱痴気騒ぎの部分の凄まじいこと。ピアノの鍵盤を縦横に走り回る指が眼の前に浮かぶこと間違いなしです。ルディの演奏は、少々技術的に無理しているかな?と思わせる部分もないではないですが、それは各々のメロディの表現が濃いからなのかもしれません。実に色彩的で、ホントにピアノ1台で演奏しているの?と不思議に思うくらい華やかなものです。
御存知の通り、リストとワーグナーの関係は濃密なものがあります。その関係に翻弄されたのが、あの可哀想なハンス・フォン・ビューロー。彼の編曲「マイスタージンガーからの五重唱」を聴いてみましょう。真面目だけど、面白みがないのがまるわかりではありませんか。コジマの気持ちが伺いしれるというものです。
ヴォルフに拠る「ヴォータンの炎の音楽」。響きが幾分モダンで時代を少し先取りしています。次のジークフリート牧歌は安心して聴く事ができました。そして、あまり聴く機会のないワーグナー自身のピアノ作品が2曲。「ヴェーゼンドンク夫人のアルバムのためのソナタ」は興味深い作品です。極めて個人的な作品ですが、やはり聴こえてくる音楽はワーグナーのもの。ピアノ曲にすら、管弦楽の響きを求めていたということでしょうか。
このところ、必要に迫られて編曲物ばかり聴いていた私ですが、このアルバムはなかなか面白いものでした。正統派ファンを自認する人からは、どうしても異端視されるレパートリーかも知れませんが、ひとつの表現方法であることは間違いありませんよね。

さきおとといのおやぢに会える、か。


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