唾(つばき)姫。.... 佐久間學

(06/12/19-07/1/9)

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1月9日

Magnificat
Emma Kirkby(Sop)
Antony Walker/
Cantillation
Orchestra of the Antipodes
ABC/476 5255


30年以上も「古楽」の世界に君臨しているエマ・カークビー、もはや世界中で、彼女が出演していない「古楽」の音楽祭や、彼女が共演していない「古楽」オーケストラなどは殆どなくなってしまったことでしょう。これは、オーストラリアの音楽祭「ムジカ・ヴィヴァ・オーストラリア」の60周年記念として招かれたカークビーが、地元の合唱団とオーケストラと共に作ったアルバムです。オーストラリア放送協会のレーベルABCへの、これが彼女の最初の録音となりました。
曲目は、アルバムタイトルのヴィヴァルディのマニフィカート、バッハのカンタータ51番、ヘンデルの「Laudate pueri Dominum」、そしてカークビーのパートナー、アンソニー・ルーリーによって蘇演された18世紀イギリスの作曲家ウィリアム・ヘイズの「ザ・パッションズ」というラインナップです。
共演している合唱団がアントニー・ウォーカーの指揮による「カンティレーション」、ご記憶の方もおありでしょうが、これはフォーレのレクイエムのネクトゥー・ドラージュ版を録音していたコンビです。その時のオーケストラはモダン楽器でしたが、今回はピリオド楽器による「古楽」オーケストラです(変わったネーミングですね。ヨーロッパからは「対極」にあるという意味なのでしょうか)。
バッハのカンタータは、合唱が入らないソプラノのためのソロカンタータです。コロラトゥーラ満載の技巧的な曲からしっとりしたアリア、そしてシンプルなコラールまで全部一人で歌いきるという、カークビーファンにとってはたまらないものです。彼女の声やテクニックには、全くなんの不安なところもありませんし、バックのオーケストラともども(ソロトランペットがすごい!)非常に高いレベルにある演奏には違いありません。しかし、やはり、確かに以前はあったはずの「彼女にしかできない」という部分があまり感じられないのは予想通り、ちょっと残念な気がします。
ヴィヴァルディになると合唱が加わります。この団体でフォーレを聴いたときの印象は「ちょっと冷たい肌触り」というものでした。今回もその時と同じ印象、とてつもなくうまいのだけれど、どこか醒めていて熱く迫ってくるものが感じられないのです。しかし、この曲の場合、それが逆に作用してちょっとすごい演奏が生まれています。「Deposuit potentes」という曲は、その前の「Fecit potentiam」という激しい楽想の曲からアタッカでつながっているのですが、なんと合唱とオーケストラの全てのパートがユニゾンで演奏するという、ちょっとすごいオーケストレーションになっているのです。ここでのその合唱が、まさに一糸まとわぬ・・・ではなくて、一糸乱れぬ完璧な「ユニゾン」を披露しているのですよ。こうなってくると、さっきの「冷たさ」は人の声をまるで「楽器」のように聴かせる作用をもたらし、本物の楽器たちとの見事な一体化を見せてくれるのです。これは、ちょっとショッキングなヴィヴァルディ。
ショッキングは、別のところにもありました。「Et exultavit」はソプラノ2人とテノールのトリオで歌われますが、カークビー以外に合唱団のメンバーがソリストとして参加しています。そのソプラノの人が、カークビーとそっくりの声なのですよ。トリオとは言っても、同時に歌うわけではなくそれぞれのソリストが順番に出てくるのですが、最初に出てきた女声2人が、全く同じ人に聞こえてきたのです。こんな人たちが歌っているのですからこの合唱団が「うまい」のは納得。同時に今やカークビーと変わらないほどの才能が数多く育っていることを実感させられたのでした。
フォーレでで見せてくれた派手なティンパニと醒めた合唱の対比は、「ザ・パッション」でも味わえました。これがこの指揮者の芸風なのでしょうか。

1月7日

Music of the Twentieth Century
Günter Wand/
NDR Sinfonieorchester
WDR Sinfonieorchester Köln
PROFIL/PH05042


最晩年のみに高い評価を受けることとなって、ギュンター・ヴァントはその人生をめでたく「巨匠」として終えることが出来ました。彼の演奏するブルックナーは、その高い完成度によって、全てのクラシック・ファンを魅了するものとなったのです。それが果たして指揮者としては幸運なことだったのかということは別にしても、このPROFILレーベルの「ヴァント・エディション」ような、過去の放送用音源を集めたものが続々発売されるという状況は、そんな輝かしい晩年があったからこそ実現したものであることは間違いありません。
その中でひときわ注目に値する、この「現代音楽」を集めたアルバム、このシリーズにはすでにメシアンやオルフといったものもありましたが、ここではヴァントがなんとリゲティの「ロンターノ」を演奏しているということで思わず触手が伸びたものです。その他の収録曲はストラヴィンスキーの「ピアノ、管楽器、ダブルベースとティンパニのための協奏曲」、ツィンマーマンの「1楽章の交響曲」そしてフォルトナーの「大オーケストラのための交響曲」です。
ヴァントが「現代音楽」に取り組む姿勢は、「過去の偉大な作品と同じ」というものだったそうです。彼は演奏会の曲目に頻繁に「現代」の曲を取り上げていたということです。このアルバムを聴くことによって、それはことさら目新しいものを目指したというよりは、「過去」とのつながりをそのまま「現代」の中に求めた結果ではなかったのかという思いが、強く沸き起こってきます。もちろん、鼻持ちならない「使命感」などはさらさら持ち合わせてはいなかったはずです。
ストラヴィンスキーについては、1946年に「交響曲in C(すみません、「ハ調」という言い方には到底馴染まないものでして)」のドイツ初演を行ったヴァント、多くの作品をレパートリーとしています。この、いわゆる「ピアノ協奏曲」では、彼と同じ年齢、1985年の録音当時には70歳を超えていたニキタ・マガロフのピアノとのバトルが最大の聴きものでしょう。ついついもたつきがちなピアノを、的確なリズム感でサポートし、感動的なクライマックスへと導いています。
ツィンマーマンとは、数多くの作品の初演を行うという、親密な関係にありました(後に決別することにはなりますが)。この「交響曲」の演奏もまさにツボを押さえた、多くの美しさを惜しみもなく提供してくれるものです。最初の頃に出てくる「不確定」な要素を感じさせる弦楽器の不思議な響きも、次第に聴きやすいものに変貌、まるで「オケコン」のような派手な部分と、同じバルトークの「青髭」のような幻想的が部分との対比が絶妙です。ひょっとしたら、それこそ「火の鳥」あたりの引用が感じられるかもしれないほどの、微妙に親しみやすいテイストが、ヴァントによって遺憾なく発揮されています。
フォルトナーの曲は、堂々たる4楽章からなる大曲です。ここでも、とことんオーケストラの華麗な響きを出し切った、素晴らしいサウンドが聴かれます。これだけ、他と異なる1960年代の録音ですが、弦楽器に少し輝きが足らない程度で、なんの遜色もありません。魅力的なのは第2楽章でたびたび現れるバルトークのような「泣き」のテーマ。それと並んで、まさにブルックナーのような、低弦のピチカートに乗った流れるテーマも素敵。ほとんどプロコフィエフを思わせるような超絶技巧(ヴァイオリンのペルペトゥム・モヴィレ!)満載の終楽章は、まるで映画音楽のよう。なんの屈託もなく浸りきれる、明るい音楽です。
そういう流れですから、リゲティもまるで別の曲のような「明るく」「華やか」な仕上がりになっています。ここではクラスターさえも、確かな意味を持つ「ハーモニー」に聞こえるから不思議です。彼は「アトモスフェール」も演奏したことがあるそうですが、それを聴いた作曲者が過大な賛辞を送ったのは、もしかしたらそんな意外な世界の広がりに対する驚きからだったのかもしれません。

1月5日

PENDERECKI
Symphony No.7 'Seven Gates of Jurusalem'
Soloists, Narrator
Antoni Wit/
Warsaw National Philharmonic Choir and Orchestra
NAXOS/8.557766


さる指揮者がアマチュアのオーケストラの指揮をしたときに、ちょっと新しめの曲の話をして、「でも、ペンデレツキみたいなわけの分からないものではありません」と言っていたことがあったそうです。プロの音楽家の間でも、いまだに「ペンデレツキ=難しいゲンダイオンガク」という意識が浸透しているほどに、彼のかつての作品はインパクトのあるものだったのですね。そんな、ある時期に確かに存在していたはずの「ペンデレツキ・ブランド」をかなぐり捨てて、今や世界中からの委嘱作品の応対にいとまのない、人気作曲家の姿も、世の流れなのかもしれません。
現時点で8つの交響曲を手がけているペンデレツキの、7番目の「交響曲」は、殆ど「オラトリオ」と言ってもいいような体裁を持っています。最新の交響曲第8番(2005年)も「無常の歌」というサブタイトルの(あ、作曲料は取らなかったそうです・・・それは「無料の歌」)、やはり声楽を伴う曲ですから、彼の中ではもはやその様なものが「交響曲」という範疇に入っているのでしょう。1996年に作られたこの交響曲第7番は、「イェルサレムの7つの門」というタイトル、ソリストに大きな合唱、そしてナレーターまで入った編成です。楽章の数も「7つ」というように、「7」という数字にこだわった曲なのですが、実はその前に出来ているはずだった「交響曲第6番」は、いまだに作曲の途中なのだそうです。したがって、今までに完成した彼の交響曲は全部で7曲ということになります。
低音のうごめくようなサウンドで始まるこの交響曲、そのあたりのモチーフは「ルカ受難曲」の中の「スターバト・マーテル」によく似た、暗い情感を醸し出すものです。しかし、それがごく当たり前の処理で、ほとんど映画音楽のような壮大な景色へと変わっていくのが、今のこの作曲家の姿なのです。ですから、ここは思い切り気持ちを切り替えて、ジョン・ウィリアムスに対抗できるほどのエンタテインメントを、この曲から味わおうではありませんか。そうなってくれば、ヴィットの目の覚めるような切れ味のある指揮から、最大限に発揮された魅力を与えられるはずです。
そんな醍醐味がストレートに味わえるのが、第5曲目でしょう。「スケルツォ楽章」と位置づけられているこの曲は、まさに型通り、リズミカルな部分が最初と最後にあって、その間にリリカルな部分がはさまるというものです。そのリズミカルな部分で大活躍しているのが、「チューバフォン」という「楽器」です。「ブヮン、ブヮン」とまるでシンセのように聞こえてくる特異な音は、かなり目立つものです。実は、この曲を作曲者自身が指揮をしているDVDがあるのですが、それでこの「楽器」の正体を見ることが出来ます。なんのことはない、それは太い塩ビのパイプ(水道管でしょうか)を束ねただけのもの、それの端を大きなスリッパのようなもので叩くと、パイプの中で共鳴してぶっとい低音が出る、というものだったのです。
「交響曲」とは言うものの、第3曲は有名な詩編130番、「De profundis」をテキストにした無伴奏の合唱曲になっています。半音進行が多いものの、基本的には心地よいハーモニーに支配されたとても美しい曲です。
第6曲でナレーターが登場し、ヘブライ語のテキストを朗々と読み上げるあたりが、ちょっと「前衛」っぽいところでしょうか。もはや、彼自身の過去の技法をも、ひとつのアクセントとして取り込んでいこうという、これは開き直りのあらわれなのかもしれません。こんなセルフパロディの中に、彼の昔の作品に対する距離感を感じるのは、ちょっと寂しい気もしますが。
そんな聴き手の感傷は置き去りにして、最後の第7曲で、まるでロシア正教の聖歌のようなものが壮大に歌われる中、唐突に長三和音で終結を迎える、「7つの門」なのでした。

1月3日

BACH
Messe in h-Moll
Mechthild Bach(Sop), Daniel Tayler(Alt)
Marcus Ullmann(Ten), Raimund Nolte(Bar)
Frieder Bernius/
Kammerchor Stuttgart
Barockorchester Stuttgart
CARUS/83.211


ベルニウスとシュトゥットガルト室内合唱団の最新アルバムです。しかし録音されたのは2年前の2004年3月、最新の録音ではありません。このコンビの演奏、手元には1996年に録音されたリゲティなどの無伴奏合唱曲集と、1999年のモーツァルトのレクイエム(バイヤー版)がありますが、同じ名義の合唱団でも、そのメンバーはずいぶん変わっています。1996年の時のメンバーは皆無ですし、1999年の時の人も、各パート1人いるかいないかといった具合、ほんの5、6年で全く別のメンバーに入れ替わるという、まるで学生の合唱団のようなローテーションの激しさが見られます。
もちろん、適宜新陳代謝を図ることによって常に若々しい声を保つという方針なのでしょうが、その代わりにアンサンブルに微妙な違いが出てくることもあり得るはずです。
実際、この「ロ短調」を聴いてみると、リゲティの時に感じた完璧なまでの緻密さとはちょっと異なる肌合いだったため、少なからぬ驚きを抱いたものです。アンサンブル自体は非常にしっかりしたものなのですが、今回はもっと一人一人の自発性が前面に出てきているような趣だったのです。
演奏は、押しつけがましいところの一切ない、爽やかなものでした。「Kyrie」の最初のアコードから、いともあっさりとした面持ちで音楽が始まります。オーケストラも、もちろんオリジナル楽器ですが、そこからは厳しさよりはもっと和やかな、殆ど癒しに近い世界が広がります。合唱が入ってきて次第に盛り上がるところでも、これ見よがしの高揚感は一切ありません。いつの間にか緊張感が増してきたな、と思った頃、最後のピカルディ終止を迎えます。その純正な響きの中には、殆どなんの主張も持たない究極の美しさが存在しているかのようです。
Gloria」も、そんな静かな感じで進んでいきます。「Domine Deus」で出てくるフルート2本のオブリガートも、いとも素朴なたたずまい、そんな中で、均等なリズムを敢えて前の音符を短くしているあたりが、かすかに緊張感を呼び覚ます配慮でしょうか。そんなぬるま湯のような音楽が永遠に続くかと思われた頃、このパートの終曲「Cum Sancto Spiritu」になったとたん、ガラリと表情が変わってしまったのですから驚きます。それは、今まで聴いてきた中で初めて見せた激しさ、パワー全開となった合唱は荒れ狂うような輝きを見せています。もちろん、そこでアンサンブルが崩れるようなことは全くありません。
Credo」も、同じような設計がなされていたのでしょう。前半は淡々と進んでいたものが、終わり近く、「Et resurrexit」で爆発という、表現の幅の広さを見せつけてくれるものでした。この曲の後半、バスのパートソロの難しいパッセージを一人で歌わせていたのも、なかなか効果的でした。これは、決してトゥッティに自信がなかったための措置ではなかったはず、確かな緊張感を産むものでした。
ソリストも、端正な人たちが集められています。ソプラノのバッハ(!)は可憐な声が魅力的、アルトのテイラーも深みはありますが、それは少し軽め、「Agnus Dei」のソロもやや物足りなさが残りますが、逆にそれだからこそ、全体の演奏の流れには相応しいものになっています。テノールのウルマンも爽やかそのもの、「Benedictus」のソロでは、ちょっと頼りないフルートのオブリガートによく合わせています。切れて光線を発することもありません(それは「ウルトラマン」)。バリトンのノルテもやはり軽め、ホルンのオブリガートが付く「Quoniam」では、ナチュラルホルンのちょっとユーモラスなゲシュトップと見事な調和を見せています。
ベルニウスの音楽の中にある意外性は、十分予測可能なもの。その基本はあくまで自然な流れなのではないでしょうか。

1月1日

MOZART
Le Nozze di Figaro
Ildebrando D'Arcangelo(Figaro)
Anna Netrebko(Susanna)
Bo Skovhus(Conte)
Dorothea Röschmann(Contessa)
Christine Schäfer(Cherubino)
Claus Guth(Dir)
Nikolaus Harnoncourt/
Wiener Philharmoniker
DG/00440 073 4245(DVD)


あけましておめでとうございます。モーツァルト・イヤーも終わり、新しい年の始まりです。とは言っても昨年の「M22」のレビューはまだまだ続きます。中でも最大の目玉はこの「フィガロ」だったでしょうか。ダルカンジェロ、ネトレプコ、スコウフス、レシュマン、シェーファーという今をときめく大スターたちに、指揮がアーノンクールとくれば、もうそれだけで成功間違いなしのプロダクション、今回改装されて「Haus für Mozart」として生まれ変わったかつての祝祭小劇場のこけら落としに、これほど相応しいものもなかったはずです。
映像では最初にこの新装なったホールの客席が映し出されますが、バルコニーこそ付いているものの、ほぼシューボックスの、ちょっとオペラハウスらしからぬ形をしているのが分かります。そのせいかどうか、オーケストラからも歌手からも、かなり響きの乗った音が聞こえてきます。ステージでは天井から堂々とマイクを垂らしていますから、歌手の声の生々しいこと。普通のライブ録音ではなかなか味わえないようなオンマイクのサウンドが刺激的です。
さらに刺激的なのが、映像のユニークさです。バイロイトの「指環」の映像化で名をあげた映像ディレクター、ブライアン・ラージは、なんとステージの天井にカメラを設置して、上の方から眺めるアングルという、客席からは絶対に見ることの出来ない視線を獲得してしまったのです。言ってみれば、五反田にある劇団四季のキャッツシアターの「ジェリクルギャラリー」のようなものですね。この「フィガロ」のセットは、階段と踊り場が設置されていて、キャストはそこを上り下りして演技をするようになっているのですが、それを「上から」眺めることでその演出の真意が手に取るようによく分かるという、テレビ桟敷(死語!)ならではの、劇場のお客さん以上の楽しみが味わえるのです。
そんな、A、V両面で力の入った中で繰り広げられるクラウス・グートの演出は、それぞれのキャストに人間としての極限までの感情を吐き出させるというヘビーなものでした。その感情のベースはもちろん男と女の間の感情、したがって、そこからは殆ど醜さの一歩手前の、どぎついまでのエロティシズムが押し寄せてくることになります。原作にはないキャラ、キューピッドを登場させ、まるで彼に操られるように恋心を抱いている人間同士が結びつかされる様は、息苦しいほどやりきれないものに見えます。いみじくもそのキューピッドが壁の上に描き出す「相姦図」いや、「相関図」のように、そこではあらゆるキャストが一人ならずとの関係を持っているというドロドロした様相が、しつこいほどの濃密さで示されるのです。
そんな重苦しい印象をさらに助けたのが、アーノンクールです。序曲からしてこの指揮者の面目躍如たる思い入れたっぷりの濃厚な演奏、それは、これからの3時間が、決して気楽に過ごせる時間ではないことを高らかに宣言するものだったのですから。それに続くアリアにしてもアンサンブルにしても、歌手たちの集中力といったらハンパではありません。そこには指揮者の気迫が乗り移ったかのようなとてつもなく完成度の高い音楽がありました。問題は、それほど立派な音楽でありながら、殆ど「美しさ」が感じられない、という点です。モーツァルトが書いた音楽からは、もっともっと美しいものがきこえてくるはずだ、と、ついに最後まで問い続けなければならなかったのは、なぜでしょう。このプロダクション、今年はハーディングが指揮をするそうですから、また別の魅力が期待できるのでは。
このオールスター・キャスト、伯爵夫婦のレシュマンやスコウフスのようにめいっぱい力むことをせず、一見軽くさばいていたかのようなスザンナのネトレプコが最も光っていたのは、ちょっと意外なところです。それは、彼女が天性の「美」に対する嗅覚で、指揮者の世界を退けていたせいなのかもしれません。その点ケルビーノのシェーファーは、どっぷりその世界につかった上で、言いようのないエロスを発散していて、これはもうたまらないほど魅了されてしまいました。

12月30日

Piccolo Tunes
Peter Verhoyen(Pic)
Stefan De Schepper(Pf)
ET'CETERA/KTC 1296


「ピッコロとピアノのためのオリジナル作品集」というサブタイトルが付いているように、編曲ものではなく最初からピッコロのために作られた曲を集めたアルバムです。殆どが21世紀になってから作られた「新曲」であるというのが、そそられます。演奏しているのは、ロイヤル・フランダース・フィルのピッコロ奏者、ペーター・フェルホーエンです。
オーケストラの中では、ピッコロという楽器は実に華々しい役割を担っています。曲のクライマックスで他の楽器たちがどんなに大きな音を出していても、ピッコロの甲高い音はまるで全てのものを見下ろすかのように、輝かしく響き渡ります。それは、あたかもオーケストラの全ての栄光を一手に引き受けているようにすら、聞こえます。
しかし、そんなピッコロもソロ楽器としては必ずしも親しまれているものとは言い難いところがあるのは、紛れもない事実でしょう。低音はいかにも「木管」という感じの素朴な音色ですが、フルートの低音ほどの力はありません。最も美しく聞こえるのは中音ですが、かなり注意しないと音程がいい加減なものになってしまいます。そして、高音は、それだけ聴いてしまうとあまりに目立ちすぎて刺激が強すぎます。よほどのマニアでない限り、この分野には足を踏み入れない方が無難なのでは、というのが一般的な評価でしょう。
しかし、現代の作曲、そしてピッコロの演奏の才能は、そんな制約の多い楽器にも確かな喜びを見いだせるような素敵な曲を産み出してくれました。まずは、自身もフルーティストであるヒット・メーカー、ゲイリー・ショッカーの「ソナタ」(2005)です。これは、ピッコロの素朴な音色と音程を逆手にとって、ちょっと古風なテイストを演出しているという聴きやすい曲です。あくまでメロディを大切にして、その間に先鋭的なものを挟むといういかにも彼らしい作品に仕上がっています。最後の「ミニ・チキン」という速いパッセージのユーモラスな曲で、ピッコロのキャラが存分に発揮されています。
マイク・モウアーという人の「ソナタ」(2001)は、この人のフィールドであるジャズのイディオムが存分に盛り込まれたものです。殆どインプロヴィゼーションのような技巧的なひらめきが、存分にエンタテインメントとして楽しめます。同じように、クラシック以外の分野で活躍しているマルク・マティスという人の「エコーズ」(2006)という作品も、肩肘を張らずに楽しめる仕上がりになっています。小さなパターンの積み重ねという、ポップ・ミュージックの定石をうまく生かした語り口が魅力的、特に後半の5拍子によるテーマが何度となく繰り返され、その間に「間奏曲」が入るという部分は、おそらくこのアルバムの中では最も光っているものではないでしょうか。チック・コリアの「ブラジル」のようなテイストが入っているのが、そう思わせられる「わけ」なのかもしれません。
やはりフルーティストのレイモン・ギオーが作った「Onivatto」という曲は、タイトルがピッコロのイタリア語「Ottavino」を逆に読んだもの、おそらく曲の中の音列にも、その様な仕掛けが施してあるのでしょうが、そんな厳格さよりは生理的な楽しみが前面に出てきているので、退屈することはありません。それは、このアルバムのソリストによって委嘱されたヤン・ヒュイレブロック(オランダ系の表記は苦手)の作品のように、作曲と演奏の技巧にのみ圧倒される一歩手前で踏みとどまっています。
残りの曲は、フランス6人組のオーリック、ミヨー、プーランクが作った、ピッコロの前身であるファイフ(マネの「笛を吹く少年」という絵でお馴染み)のためのもの、いかにも瀟洒なたたずまいを、この楽器から引きだしています。ちょっと匂いが残りますが(それは「ガーリック」)。
フェルホーエンの演奏は、どんな難しいパッセージでも破綻のないテクニックと、ピッコロの可能性を信じ切った歌い口で、見事にこの楽器の魅力を伝えてくれています。ピアノのデ・シェッパーも、特にリズムの面で確かなサポートを見せていました。

12月28日

MOZART
Don Giovanni
Thomas Hanpson(DG), Ildebrando D'Arcangelo(Leporello)
Christine Schäfer(DA), Piotr Beczala(DO)
Melanie Diener(DE), Isabel Bayrakdarian(Zerlina)
Martin Kusej(Dir)
Daniel Harding/
Wiener Philharmoniker
DECCA/00440 074 3162(DVD)


まさに「演出の時代」のオペラの最先端を行っているザルツブルク音楽祭ですから、この「M22」でもとことんとんがった演出に出逢うことが出来ます。今回の「ドン・ジョヴァンニ」でのマルティン・クシェイの演出では、この主人公の「色好み」という嗜好を大々的にフィーチャーした、下着姿のオンパレード、時にはトップレスなども現れるという大胆な設定に、おやぢの目は釘付けになってしまうことでしょう。しかし、そんなサービスカット(いや、違うはず)を堪能しているうちに、しばらくすると実はもっと斬新な読みかえが施されていることにも気付くことになるのです。
まず、いかにもキビキビとしたハーディングの指揮で序曲が始まります。演奏しているのはウィーン・フィルですが、フルートのトップの人は見たことがありません(2番はフォーグルマイヤー)。なかなか伸びのあるいい音ですね。そろそろ、世代交代が始まっているのでしょうか、などという映像ならではの突っ込みができるのがたまりません。
しかし、その序曲の間、ステージにはパンスト1枚の女性たちが後ろ向きに寝ころんでいるという「悩殺的」な巨大な絵が描かれたカーテンがかかっているのです。そこには出入り口があって、そこにサングラスをかけ、厚いコートを羽織った女性がたくさん入っていきます。序曲が終わってその「カーテン」が上がると、しばらくしてその女性たちのコートの中は下着だけだというのがわかります。それは、ドン・ジョヴァンニに殺された騎士長が、その女性たちによって中に引きずり込まれるシーンで、彼女たちがコートの前をはだけていることにより明らかにされます。このステージは大規模な回り舞台となっていて、2つの同心円に沿った何枚もの壁が複雑に動き回って、様々な状況を作り出しています。その陰で、本当は観客には見えないはずのアングルを、別のカメラがとらえているのですが、そこで騎士長は女性たちによって大詰めの時のための着替えをさせられているのが分かります。その時には、彼女たちは完全な下着姿となっています。
「スペインだけで1003人もの女と寝た」というドン・ジョヴァンニの女性遍歴を歌った「カタログの歌」の背景に、その女性たちが様々なコスチュームで登場することから、彼女たちが今までの「相手」の象徴であることが分かります。中にはかなり高齢の「お掃除おばちゃん」や、縄跳びに夢中の少女まで・・・。
殆どマネキン人形のように無表情で立っている彼女たちも、ツェルリーナ(彼女の巨乳を強調した衣装も、意図したものなのでしょうか)がマゼットへの思いを語る時の苦しげな表情など、不気味にドン・ジョヴァンニの心理を反映しているかのような仕草を見せる時もあります。何よりもショッキングなのは、騎士長をディナーに招待するシーン。後ろを向いてTバックのショーツ姿を惜しげもなく披露してくれる彼女たちが振り向いた瞬間、その顔は老婆に変わっていたのです。いや、たるみきった腰のあたりは、これが本物の「老婆」であることを示しているではありませんか。ここまでやるとは。いくら大詰めでそれまでの「白い」下着を脱ぎ捨てて(あ、楽屋で、ですが)黒い、それこそボンデージが入った勇ましいいでたちに変わるとしても、この「醜さ」はちょっと許せません。
と、ちょっと「下着」にこだわりすぎましたぎ、実はもっと根元的な演出が、そもそも幕開きに登場します。最初に「Notte e giorno faticar」と歌い出したのが、なんとハンプソンだったのです。彼はドン・ジョヴァンニ役のはず、なぜレポレッロの歌を歌っているのでしょう。と、当のレポレッロがズボンのファスナーを上げながら登場、歌を引き継ぎます。そこで、いったい今まで何をやっていたのか、という疑問がわきます。もしかしたらドンナ・アンナをレイプしていたのは、レポレッロだったのかも、とか。そんな、確か以前ピーター・セラーズが取っていたこの2人を同一視するという視点を、クシェイも持っていることがうかがえます。「セレナーデ」のシーンで、最初は「変装」しないのもその現れでしょうし、「地獄落ち」では、レポレッロはドン・ジョヴァンニに手を引かれて、あわや一緒にオフステージに消えてしまいそうになります。もちろんそんなことになってしまったらその次の六重唱が成り立ちませんから、レポレッロは主人を刺し殺さなければならないのでしょうが。
ドンナ・エルヴィラやドン・オッターヴィオのアリアで、「2番」を歌う時にまるでバロック・オペラのような自由な装飾が施されていたのが、印象的でした。これはハーディングの指示だったのでしょうか。そのオッターヴィオを歌ったベチャーラ、やはり素敵でした。写真では田舎臭い顔立ちでしたが、よく見てみるとあのヴンダーリッヒにどことなく似てません?

12月26日

Lipservice
清水ミチコ
ソニー・ミュージック
/MHCL 950

昨今の「お笑い」のレベルの低さにはつくづくがっかりさせられます。殆どが「一発芸」の世界、賞味期限も極端に短いものになってくるのも当然でしょう。「レーザー・ラモン」は一体どうしているのでしょう。「テツ&トモ」など、今では影も形もありません。
例えば「タモリ」のように、何十年経っても色あせない魅力を放つ芸人は、必ずベースとなるスキルを持っているものです。彼の場合は音楽的なルーツでしょうか。今でこそアルバムをリリースすることもなくなりましたが、LP時代の「TAMORI」や「TAMORI/2」での作り込まれた「お笑い」は、今なお強烈なパワーを放ち続けています。

タモリと同程度の音楽的なバックボーンを生かして、長期間にわたってレベルの高いギャグを提供してくれているのが、清水ミチコです。彼女の最新アルバム、基本的に「ものまね」を集めたものですが、その完成度の高さには注目すべきものがあります。
01 ホーミーの声
ご存じ、モンゴルの「倍音唱法」ホーミーに挑戦です。元ネタは「虫の声」。しかし、このホーミーは「蛙の鳴き声」にしか聞こえないというのが、辛いところです。
02 希望の星
中島みゆきのものまねですが、歌い方だけではなく、「彼女が作ればこんな曲になるだろう」という、曲作りからの「ものまね」がすごいところ。これは感動的です。
03 サンババ・トリオ
細木数子、三輪明宏、ユーミンという有名な3人の「ババア」が登場して三重唱を披露、特にユーミンは至芸です。
04 日本三大ピアニスト
清水ミチコが選んだ「三大ピアニスト」は、なんと中村紘子とフジコ・ヘミング、そして、もう一人です。演奏まで真似られているフジコが痛快、「もう一人」もやはり演奏のものまねですが、すぐ分かります。
05 入れ歯のカスタネット
「更年期への不安」を歌ったものだそうです。特にコメントはありませんが、このハスキー・ヴォイスは中森明菜でしょう。
06 ミミックレッスン
これは、彼女のものまねのノウハウを披露しているもの。ただ、正直言って誰のものまねか分からないものが多いのは、なぜでしょう。
07 My Black Eyes
「人名ではありません」というコメントが意味深。聞いてみれば、まさにそのものズバリの「人名」であることが分かります。宝塚系の発声と、不安定な音程を強調されれば、その方が眼前に現れます。
08 おしゃべりレーサー
早口がウリの3人が息も切らせぬスピードで喋りまくります。
09 大きな古時計
あの名曲をバックに、3人の有名なナレーターが(あ、その前にもう一人超有名なナレーター)歌詞を自分なりに朗読します。
10 欲望
男声ボーカルまでレパートリーにあるというのが、彼女の芸の幅広さを物語っています。これはさっきの中島みゆきと同じ趣向、井上陽水っぽい歌の陽水のものまねです。
11 私のフォーク・メドレー
これは、懐かしい曲のカバー。デフォルメして本人よりも本人らしいものに仕上げるというのが、彼女の凄さでしょう。ここでも清志郎、憂歌団の木村、拓郎などの男声に挑戦、見事な成果を挙げています。もちろん森山良子やチェリッシュのえっちゃんの本人以上に「似ている」歌は絶品。でも谷山浩子は似てね〜。
12 琉球慕情
これは歌詞にぶっ飛びました。いかにも沖縄っぽい歌詞も、良く聞いてみると食材を並べただけなのです。このアルバムでの一番のお気に入りになりました。
13 A Song for Me
これも歌詞が最高。偽善的なチャリティソングを見事におちょくっています。
ちなみにアルバムタイトルは、彼女のリップな、いや立派な「唇」がサービスで付いてくることから来ています(いらね〜よ)。

12月23日

GODÁR
Mater
Iva Bittová(Voice)
Marek Stryncl/
Solamente Naturali
Bratislava Conservatory Choir
ECM/476 5689
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCE-2057(国内盤)

アルヴォ・ペルトの「タブラ・ラサ」でスタート、ペルトの名を一躍世界中に知らしめることとなったECMの「ニュー・シリーズ」の最新リリースは、スロヴァキアの現代作曲家ヴラディミール・ゴダールの作品集です。1956年生まれのゴダールは、映画音楽なども多数手がけている作曲家、いかにもECM向きの親しみやすい曲調を持っています。
このアルバムで全ての曲にフィーチャーされているのが、イヴァ・ビッタヴァーという女声ヴォーカルです。ゴダールはこの方の声にインスパイアされてこれらの曲を作ったといいますから、もちろん彼女に歌われることを前提とした作品が、ここには収められていることになります。彼女の声は、クラシック風の「ベル・カント」からは最も遠いところにあるもの、それは「民族的」という範疇で語られるべきものなのでしょうが、それと同時に彼女でなければ出せない独特の「味」のこもったものです。これらの曲の場合には彼女が歌うことによってのみ、曲の正しい(あるいは作曲者が想定した)姿が現れるという、そういう意味でもクラシックからは距離を置いたものです。そう、例えば、「クイーン」でのフレディ・マーキュリーのパートをポール・ロジャースに置き換えたところで、決してファンは満足しないというロック・ミュージックにも通じる、「持ち運びの出来ない(武満徹)」音楽として、彼女の声は存在しているのです。その様なキャラクターと、クラシック音楽のルーツであるルネッサンスやバロックの音楽を、同時に進行させる(作曲者は「ポリ・スタイリスティック」と言っています)というところが、とりあえずこのアルバムに現れているゴダールの「作風」です。
「マイコマシュマロン」というタイトルの曲で始まったとき、誰しも彼女のその特異な声の魅力にまず注目することになることでしょう。ヴィオラとチェロという薄いバックに乗って、「東欧」と言うよりは、「イスラム」、あるいは「ケルト」といったカテゴリーの方がぴったりするような、地声による独特のコブシとビブラートが淡々と響きます。何となくそれが私たちにも馴染みがあると感じられるのは、我が「演歌」に通じるようなものさえ、そこには漂っているからなのかもしれません(そんなこと言ってええんか?)。
「マニフィカート」という曲は、もちろんあのラテン語のテキストをスロヴァキア語に訳したものが歌われます。3つの部分に分かれていて、最初と最後がビッタヴァーのソロ、ハープの低音と弦楽器のドローンの中に、あまたの同名の曲とは全く趣の異なるテイストのヴォーカルが流れます。中間部は全く別の世界、ここでは普通の西洋風の発声をしている合唱団が「マニフィカート」と繰り返す中で、弦楽器が極めてショッキングな不協和音のパルスを幾度となく打ち込みます。もっとも、驚くのは最初だけ、次第にそのパターンが分かってくると、それは心地よいアクセントに変わります。これと同じ手法が、その少し後に出てくる、このアルバムのタイトルともなった「スターバト・マーテル」で使われているのは、アルバムとしてのコンセプトなのか、作曲家の手の内の少なさが露呈された結果なのかは、分かりません。
Ecce Puer(この子供を見よ)」という、ジェームス・ジョイスの英語の歌詞による曲は、チェンバロやキタローネまでも入った「バロック風」の伴奏が、「AmGFE7」という(実際のキーはDmですが)ありふれた循環コードを延々と繰り返します。これも、作曲者により、あくまでもモンテヴェルディからの引用だということが強調されています(もちろん、そんなことはライナーを読まない限り分かりません)。「レジナ・チェーリ」は、もろヘンデルかヴィヴァルディのオケになっています。その中で、ソリストはちょっと力んだ歌い方をしていますから、それは限りなく「演歌」に近づきます。ヘンデルをバックにした演歌、これは笑えます。最後に、リプリーズとして冒頭の「マイコマシュマロン」が、全く異なるコブシによって歌われます。これこそが、譜面にあらわすことの出来ない「非クラシック」を象徴する出来事なのでしょう。
ペルトに飽きた人にはこのゴダールがお薦めです。しかし、この音楽はペルト以上に飽きられてしまうのが早いかもしれません。

12月21日

VERDI
La Traviata
Anja Harteros(Violetta)
Piotr Beczala(Alfredo)
Paolo Gavanelli(Germont)
Zubin Mehta/
Bayerisches Staatsorchester
FARAO/S 108070(hybrid SACD)


2005/6年のシーズンを最後にバイエルン州立歌劇場の音楽監督のポストをケント・ナガノに譲ったメータの、この歌劇場での置きみやげともいうべき録音です。2006年の3月に行われたこの公演は、アニャ・ハルテロスとピョートル・ベチャーラという、若手の実力シンガーを主役に得て、格別に精気あふれるものとなったことが、この「音だけ」のCD(SACD)からもうかがえます。昨今はDVDで「映像付き」のオペラを楽しむことが主流化した感がありますが、こんなピュア・オーディオにもまだまだ捨てがたい魅力があることが再認識されたものです。
そんな、まるで眼前に舞台が広がるような文字通りドラマティックな音楽を作り出していたメータにこそ、まず拍手を送るべきでしょう。第1幕の前奏曲がはじまったあたりこそ、あまりに即物的過ぎて物足りなさを感じたりもしますが、そもそもこの指揮者にはジメジメした深い情感は似合いません。後半の「ズンチャッチャ」が聞こえてくれば、持ち前の浮き立つような音楽の始まり、そのままパーティーの喧噪へとつながっていきます。この場面では、オーケストラ、合唱とも完璧なアンサンブルで大いに盛り上がります。メータは、そんなスタッフをとことん信頼して、ドラマの要所要所で、時には許容量の限界に挑むほどの高いテンションの感情を与えていきます。そのはまりようといったら、まさに百戦錬磨の強者といった感じでしょうか。ことごとくツボを押さえた小気味よさは、どんな人をも納得させる力を持ったものです。そんな芸風ですから、第3幕の細かい情景がちょっと心配になりますが、意外なことにこの場面から繊細さが失われることはありませんでした。それどころか、少ない編成でのしっとりとした語り口はとことん魅力的。ヴィオレッタとアルフレードが再会し、甘い「パリを離れて」のデュエットの前にオーケストラで奏でられるちょっと不思議な和声も、この物語の結末を物語る重要な意味を持っていることが、メータの指揮によって実に明らかに教えられたような気にもなって、好感度は増すばかりです。
歌手では、アルフレード役のベチャーラが最大の収穫でした。出だしの「乾杯の歌」から、その声には圧倒されっぱなしです。「リリック」ではありますが、もっと芯のある声には、とてつもない力を感じることが出来ます。そんな「強い」声に「泣き」が入るものですから、この役にはまさにうってつけ、純情な一徹さと、女心を虜にする甘さを遺憾なく発揮してくれています。ライブならではの傷もありますが、そんなものは気にならないほど、その疾走感は光っています。写真で見る限り、ルックス的にちょっと難があるのが心配ですが、そもそもパヴァロッティだって、フェロモンを感じるにはほど遠い風貌、軟弱なやさ男より、やはり勝負どころは声そのものです。そもそも、このようにCDで声だけを聴いている限りではなんの問題もないのですから。
ヴィオレッタ役のハルテロスも、その表現力の大きさには圧倒されます。ただ、それがあまりにも際立っているために、多少荒っぽく感じられなくもありません。正直、ここではベチャーラの端正さに比べるといくらか暴走気味なものも感じられます(「ハリタオス」ほどではありませんが)。ただ、おそらく実際のステージで他の役を見たらより一層の存在感が確かめられるのではないでしょうか。グリーク・オリジンのエキゾティックな風貌も、映像では映えることでしょう。
ジェルモン役のガヴァネッリは、渋い味を出してはいますが、オペラ歌手にはあるまじき「小室等」のような細かいビブラートがちょっと耳障りです。
ジャケットを見ると、第1幕でのデュエットで、アルフレードがヴィオレッタに自分が着ていた燕尾服を着せてあげるような演出になっていたようです。このオペラ、音だけで十分堪能できましたが、ステージの写真がもっと掲載されていれば、あれこれ想像できてさらに楽しめたのかもしれません。

さきさきおとといのおやぢに会える、か。


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