
静岡方面研修の補足
掛川市
静岡県西部の都市。 総人口 113,852人、面積 265.69km2、人口密度 429人/km2
安土桃山時代には山内一豊の城下町で江戸時代に東海道の主要宿場町で掛川城を核とした城下町から発達した。
1954年(昭和29年)3月31日、掛川町が曽我村、東山口村を編入し市制を施行して掛川市となる。掛川城 ・築城者・年代・築城目的
室町時代中期の文明年間(1469年 - 1487年)に守護大名・今川義忠が、重臣の朝比奈泰煕に命じて築城したと
伝えられている。ところが、1568年(永禄11年)、朝比奈氏の主家の今川氏が甲斐国の武田信玄・三河国の
徳川家康の両大名から挟み撃ちに遭い、当主の今川氏真は駿府館を捨てて掛川城に逃げ延びた。 このため
掛川城は徳川勢の包囲に遭うが泰朝は城を守ってなかなか落城しなかった。しかし、多勢に無勢もあり和議で
主君氏真の身の無事を家康に認めさせると泰朝は開城を決断した。氏真と泰朝は1569年2月8日(永禄12年1月23日)
に掛川城を開き掛川城には城代として家康の重臣・石川家成・康通親子が入った。
1590年(天正18年)に家康が東海から関東に移封されると、掛川城には豊臣秀吉の直臣であった山内一豊が
5万1千石(のち5万9千石)で入った。一豊は掛川城の大幅な拡張を実施し、石垣・瓦葺の建築物・天守など
近世城郭としての体裁を整えた城郭とした。
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの後、一豊は土佐一国を与えられて高知城に移転した。その後、掛川城には
多くの譜代大名が入ったが最終的には太田氏(太田道灌の一族の系列)が入り何度か城の修築も行われている。
ところが、幕末の1854年(安政元年)末に東海地方一帯を大地震が襲い(安政東海地震)、掛川城も天守を含む
大半の建物が倒壊した。
この際、政務所である二ノ丸御殿は1861年(文久元年)までに再建されたが、天守は再建されることはなかった。
1994年(平成6年)4月 天守が再建された。再建された天守は木造であり、日本初の木造復元天守である。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(42番)に選定される。駿府城 ・築城者・年代・築城目的 14世紀に室町幕府の駿河守護に任じられた今川氏によって今川館が築かれ今川領国支配の中心地となっていた。
今川氏は隣接する甲斐国の武田氏、相模国の後北条氏と同盟を結び領国支配を行ったが、16世紀には武田氏との
同盟関係が解消され、武田氏の駿河侵攻により今川氏は駆逐され城館は失われた。
1582年(天正10年)に武田氏は織田・徳川勢力により滅亡し、駿河の武田遺領は徳川家康が領有した。徳川氏
時代に駿府城は近世城郭として築城し直されこの時に初めて天守が築造されたという。
その後1590年(天正18年)に豊臣政権による後北条氏滅亡に伴う家康の関東移封が行われ徳川領国と接する
駿府城には豊臣系大名の中村一氏が入城する。
江戸時代初期、家康は徳川秀忠に将軍職を譲り大御所となって江戸から駿府に隠居した。ただし名目上は家康
の子の頼宣による駿府藩50万石ということになっている。このとき駿府城は天下普請によって大修築されほぼ
現在の形である3重の堀を持つ輪郭式平城が成立した。
天守閣は石垣天端で約55m×48mという城郭史上最大のものであった。しかし1607年(慶長12年)に完成直後の
天守や本丸御殿などが城内からの失火により焼失した。その後直ちに再建されたが、1610年(慶長15年)再建時の
天守曲輪は7階の天守が中央に建つ大型天守台の外周を隅櫓・多聞櫓などが囲む特異な構造となった。
1616年(元和2年)に駿府城で家康が没するまでの大御所政治時代、駿府は江戸と並ぶ政治・経済の中心地として
大いに繁栄した。
現在では、天守・櫓・門などの建造物や三重の堀のうち外堀の三分の一と内堀(本丸堀)は埋め立てられて
現存していないが残された中堀・外堀の石垣が往時の姿を留めている。また、外堀と中堀の間にある旧三ノ丸には
官庁や学校などの公共施設が立地し中堀の内側にある旧二ノ丸・本丸は「駿府城公園」として整備されている。
1989年に市制100周年の記念事業として二ノ丸南東の巽櫓(たつみやぐら)が、1996年には東御門(櫓門)と
続多聞櫓が日本古来の伝統的在来工法によって復元された。内部は資料館となっており見学することができる。
なお、天守台は明治時代に陸軍歩兵第34連隊を誘致する際に破壊されたが同時に埋められた内堀(本丸堀)は
部分的に発掘され保存されている。また、2014年(平成26年)3月末に二ノ丸南西角に坤櫓(ひつじさるやぐら)
も復元された。