
松代日帰り研修の補足
1.松代藩
川中島地域は、武田信玄と上杉謙信が衝突した地で知られる要衝の地であった。
1600年、関ヶ原の戦いの後に森忠政が13万7千石で入封し川中島藩が成立。
1603年、徳川家康六男松平忠輝が14万石で入封、1610年に居城を越後国高田75万石へ
移った後も領地であったが、1616年に忠輝は改易される。
1616年、結城秀康の子松平忠昌が12万石で松代城を居城とし、以後松代藩と呼ばれる。
1619年、忠昌は高田へ転封、代わって酒井忠勝(高崎城主であった酒井家次の子)が入封
1622年、忠勝が出羽国荘内藩へ転出した後に、上田藩から真田信之が13万石で入封
沼田藩3万石が独立し、松代藩 真田氏10万石の城下が成立。 2.松代城 元は、1560年頃に武田信玄が上杉を攻める前線基地として築いたと言われる海津城。
10万石の大名の居城としては小規模であった。幕府の疑惑を招かないためや、幕府からの
度重なる課役で財政困窮であったためと言われる。
3.真田家
幸綱−昌幸−信之−信政−幸道 信就−信弘−信安−幸弘−幸専−幸貫−幸良−幸教−幸民 信繁
信吉−熊之助 信利 黒色が松代藩主、 緑色が沼田藩主 幸綱:清和源氏の流を汲む「滋野」が本姓。その一族の「海野」氏の一人、幸綱が真田に移り住んで真田氏を名乗る。
武田信玄に仕え、上野攻略などに戦功を挙げた。 昌幸:幸綱没後、長男の信綱(武田二十四将の一人)が継いだが長篠の合戦で戦死したため、昌幸がその跡を継ぎ、 武田勝頼から上野国吾妻郡の経営を任され、岩櫃・沼田城代。 武田氏滅亡後、直ぐ織田信長に接見し、本領
を安堵される。 徳川家康に属したが、徳川と北条の協定で家康から沼田領引渡しを命じられたが応ぜず、上田城
攻撃を受けたが抗戦し撤退させた。 豊臣秀吉の天下になると長男信之を家康に、次男信繁(幸村)を秀吉に出仕
させ、信之は家康の養女(本多忠勝の娘)と、信繁は大谷吉継の娘と結婚。 関ヶ原の戦いでは信繁と共に西軍に
付き、関ヶ原へ向かう秀忠軍を上田で8日間も足止めさせた。 信之:大阪の陣が終わり江戸幕府体制が固まると、上田から松代へ転封され初代藩主として35年間治める。 跡目騒動 の結果、二代信政は直ぐ没し、三代は幼少の幸道が継ぎ落ち着いた。
幸専:彦根藩井伊直幸の四男で、六代幸弘の娘婿となり彦根藩の支援を受ける。
幸貫:白河藩松平定信の次男で、譜代成りし老中に就任。藩政近代化、文学・武芸の興隆に務め、佐久間象山らの逸材
が輩出した。
信利:沼田藩四代の信政が松代藩10万石を継ぐと、沼田藩3万石をおいの信利が継いだ。信利は松代に対抗して検地をして
無理な石高14万石と幕府へ過大申告、五層の大天守を建てた。そのため領民に過重年貢を課し、磔茂左衛門事件が
起こる。また、両国橋修復の用材手当てが間に合わず責任を取らされ改易、沼田は天領となった。