高崎の伝説
先日、本屋さんで”群馬伝説集9 「高崎・群馬Uの伝説」 鈴木重行著 あかぎ出版 1800円”を購入しました。現在、購入困難なこともあり概要を記載します。
今後、現場を訪れ情報を追記する予定です。 第2話
左近地蔵 : 明治初期、飯塚町のはずれに左近の森で怠け者の大酒飲みが、夢のお告げから貝沢掘りでお地蔵様を見つけ、心を入れ替えて毎日祈願すると
すべて事が成就した。 このことが近隣農民の知るところとなり参拝者が増え「酒呑地蔵」に酒を奉納するため村人たちが働かなくなってしまった。
それを見た村の長老たちが裁判所に訴え、お地蔵様は警察官などの手で高崎大手前に出頭させられた。 結局、無罪放免となったが安置場所に
困り長泉寺住職の善山大和尚が引き取り供養した。 現在、長泉寺山門前右に見ることができる。
第3話
左近の生首 : 飯塚町に伝わる血生臭い話、左近の森付近で田んぼを耕作していた弥五郎さんが、一人草取りをしていると森の中へ逃げる若い女を浪人風
の武士が追いかけ女の生首を持ち帰る場面に遭遇した。弥五郎さんは恐ろしさのあまり体調を崩して田んぼを手放すことになった。 村人たちは
この女を憐んで成仏するようお地蔵様をつくった。 現在、長泉寺山門前右に見ることができる。
第5話
舟木の橋 : 上佐野町 朝日の長者、飯野主馬の娘ナミと夕日の長者片岡民部の息子小治郎が恋仲になり、そのことを知った親が船橋の長板を外してしまった。
それを知らないナミは烏川へ流されてしまい小治郎も飛び込んで亡くなってしまった。 土地の人たちが哀れんで供養し佐野窪の下り口に馬頭観音
の
碑が建てられた。 謡曲「舟橋」をこの地の物語として当てはめたようです。 別名
「佐野の舟橋」 第6話
うらみ葛の葉 : 上小塙町 烏子神社 初代宮司 藤原金善の妻の話、金善が報告のため上京中に男が金善さんは死んでしまったと偽りの言葉で妻を奪ってしまった。
金善さんが帰る旨を妻に伝えたところ、我身を恥じて姿を隠してしまった。 この種の話で浄瑠璃「
葛の葉」が有名。
逆さもみじ : 高崎城主の安藤対馬守は、烏子稲荷神社を崇敬しており月に三回お参りしたそうです。 ある時、神社のもみじの木を折って葉の部分を地に挿しました。
ところがそれが根付いて大きくなったので願い事が何でもかなうと評判になり、参詣する人が増えたということです。
義経街道 : 烏子神社裏に通称義経街道と言う細い道があり、途中に一ノ宮という小字に源義経が休憩したと伝えられています。
第8話
見返り阿弥陀 : 下豊岡町 烏川に架かる君が代橋の西端北側に萬日堂があり、ご本尊は「
見返り阿弥陀」。全国に5体と言われ最も有名な京都市
禅林寺に伝わる話では、
永観が念仏行道中に眠くなり読経が途切れたところ、「これ永観、おそいぞ」と阿弥陀仏が壇上から振り向いて声をかけられたと言われている。
豊岡の見返り阿弥陀様は室町時代に作られたと推定され、明治、大正と二度の盗難も神ががり的に難を逃れたそうです。
第9話
目青竹 : 八幡町 碓氷川対岸の鼻高町で農作業中の老夫婦が休憩中に麦香煎を食べていると忽然と一人僧が姿を現し、稲荷の森に正八幡を現ぜんと言い
消え去っていった。 老夫婦はその森で一本の霊竹を見つけ八幡宮を鎮座された。今もこの目青竹(金明竹)が竹林文彦宮司宅の庭に残っています。
第10話
片目鰻と稗 : 和田山(現箕郷町)の松本左衛門の子供二人が疱瘡にかかったが日頃崇拝していた抜鉾神社経津主命が夢に出で鰻に移して回復した。 それ以後、
参詣する人が増えた。また、稗の切り株で目を傷つけたが神社の神水で洗うと治った。その後、池の鰻は片目になったいうことで村の人は神霊を恐れて
鰻を食べず稗を作らずということを守っていた
第11話
太刀割り石 : 下山名町 常陸の国から来た剣術氏村上天流と馬庭念流樋口十郎右衛門定次が慶長5年(1600年)3月15日、高崎城下聖石川原において
試合をすることになった。 定次は日頃信仰していた山名八幡宮に願をかけ、大沢不動尊の霊域にあったビワの木で作った木刀で社前にある大石を
打ち割った。現在、山名神社の参道入り口、県道高崎・吉井線の端に見ることが出来る。なお、試合の結果は打ち込んできた天流の脳天を定次
が大岩を割った木剣で見事にかち割り、勝ったということです。
第12話
下大類の白衣観音 : 下大類町の福田寺(元禄年間の開山)は聖観音が本尊であったが安政年間に三度も大火に逢い、本尊を焼失してしまったが取りつぶしを
避けるため雑木林のお堂に祀られていた白衣観音を身代りにして再建の許可を得て、大日如来様を本尊とした。先の白衣観音は脇仏としたところ、
お堂のあった畑を耕作する一家に不幸が絶えず、昭和33年 に元の場所にお堂の建てて白衣観音を移し迎えて安置すると事なきを得たとのことです。
第13話
永泉寺の古手狢 : 倉賀野町 鉄道駅ができた明治17年ごろ、永泉寺周辺は、荒地や森もあり狐狸の住処となって人々にいろいろな話題をのこしています。
一説には、今より四百年前に白狐がこの寺に来て、明治初期まで約三百年もこの寺に棲んでいて、火の玉や坊さんになって人々を驚かし、汽車を
止めたり夜道する人を迷わせたりしたと伝えています。 また、永泉寺には倉賀野城主金井淡路守の奥方亡くなった時のものと伝わる幽霊石が境内
に保存されています。
第14話
御手洗の池 : 倉賀野町 第十代
崇神天皇の皇子、
豊城入彦命が倉賀野の地に足を止めた時に、大国魂命よりいただいた御石に腰掛け休み、手を洗おうとしたが
辺りに水が無く、困っていると石を動かすと水が湧き出て御手を洗われた。 その後、手を洗われたくぼみが池となり、そこに住み着いた怪物を飯玉八郎
という人が大国魂命よりいただいた玉石の陰に隠れて切り捨てた。 この時の亀の形をした玉石が倉賀野神社のご神体として祀られている。
また、御手洗いの池はまた怪物が現れては大変とほとんど埋め立てられ倉賀野神社のすぐ東に見ることが出来ます。
第15話
少将桜 : 下滝町 慈眼寺の庭に現在三十本ほどのしだれ桜があり、前橋藩主酒井阿波守親本がある日、慈眼寺に遊びに来られ、余りの美しさにしだれ桜を一本
貰って城に植えたがいっこうに花が咲かなかった。夢枕に花の精が現れて家に帰りたいと泣くので早速、桜は慈眼寺に戻された。この殿様は享保13年
(1728年)に侍従となり酒井少将と言われたので伝説の桜のことを少将桜というようになった。 現在ある桜は二代目、三代目になるものだそうです。
第16話
木部姫 : 榛名湖町 箕輪城主長野業政の娘で木部城主範虎の妻が榛名湖に身を投げ、お供の侍女たちも運命を共にし湖底のカニになったという悲話があります。
武田信玄が長野氏の領内に侵攻すると範虎が妻を城から出し榛名山の山中に隠れさせた。 しかし、山に登った妻が城の方角を見ると空が赤く
染まっており城が焼け落ちて夫が戦死したと悟った妻は榛名湖に入水し龍神になったと伝わっている
木部姫入水と腰元蟹 第17話
妙見寺 : 群馬町 上野国大掾藤原忠明が妙見寺に一宿した折、乾(北西)の方に向かって光明が天に昇るのをみて調べると冷水村の小さな池から金の亀が出て
朝廷に献上された。 朝廷でも吉祥の兆しであるとし年号を和銅から霊亀に改め、元正天皇が即位しました
短編3,5
大雲寺 : 九蔵町 3.山門の怪事 明治になって山門が老朽化し、道路の拡張工事のため解体した。この用材は長屋に使ったところ、夜な夜な「もとの寺に帰りたい」
と声が聞こえ、住民たちは怖さに境内に山門供養塔を建てた。 後でわかったことだが、解体を請け負った仕事師のいたづらであった。
5.三本足の狢 明治・大正の頃、大雲寺の床下に永く狢が住んでいたが、世の中が不景気となり近所の食べ物を取るようになり、和尚さん
も殺生戒を破り、罠をかけた。狢はこれにかかり足を一本残して逃げていった。 明治32年に開校した高女の寄宿舎の残飯をあさっていた狢が
三本足だったそうです。
短編7
長松寺の血の出る墓 : 赤坂町 江戸時代、高崎藩氏の甲という人物が、同僚乙の妻を奪って姿を暗ましてしまった。乙は甲を探し回ったが見つからず、再び高崎に戻った時、
甲は既に死亡し長松寺に葬られていた。 乙は槍でその墓石を一突きするとタラタラと血が流れ出たということです。
短編10
歌の橋 : 歌川町、常盤町の中間に歌の橋と呼ばれた石橋がありました。 橋の名称は、昔藤原定家と藤原家隆という有名な歌人がこの場所で歌の詠み比べをした
ことに因ります。 定家は東国行脚の折りに佐野の松原に草庵を結び、観音菩薩を彫って村人に贈るなど村人に慕われていた。常磐町の山車の飾り
人形が藤原定家の理由もここにあります。
定家の歌:「見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦のとまやの秋の夕暮れ」 下佐野町に
定家神社あり
短編12
御船石 : 歌川町、乗附町 前述の歌人、藤原定家と藤原家隆が高崎に遊びに来られ、烏川を渡る家隆と渡らず帰ろうとした定家が歌を詠みました。この場所が
現在の歌川町です。 家隆が傍らにあった大石を船になぞらえて歌を詠んだところ、大石が水に浮かび家隆を対岸に運んだ。里人はこの地を「舟が
乗り着けた所」という意味で「乗附」と名づけたといいます。 また、この大石を「御船石」と名づけ、現在も乗附小学校の校庭に見ることが出来ます。
家隆の歌:「花をのみ待つらん人に山里の 雪間の草の春をみせばや」 乗附町に
家隆神社あり
短編
下小鳥の首塚 : 下小鳥町743番地の屋敷内に「首塚」があります。 元和2年(1616年)秋、米の作柄を見に来た検見役2名のあまりの残酷さに村人たちは激怒し
役人を殺してしまった。 藩主は大いに怒り、翌年正月四日に隣藩安中の力を借り村人を皆殺しにして首や胴を切り離して埋めてしまった。
この首塚の碑が首が埋められていた場所とのことで、碑文は真塩紋弥という人が伝え聞いたことを文章に表わしたものです。
短編
若宮八幡宮 : 下豊岡町 若宮八幡宮は本社である八幡八幡宮の祭神品陀和気命(
応仁天皇)の子大鷦鷯皇子(
仁徳天皇)を祭神としており若宮と呼ばれる。
創建は
源義家が父頼義に従って奥州の
阿部貞任・宗任の征伐に向かう途中、この地に留まり八幡宮を祀って戦勝祈願したのが始まり。
また、この時7月(旧暦)の土用中にも拘わらず乗附山に薄雪がかかったことから「土用に寒が来た」から豊岡と名づけたそうです。
短編
大聖護国寺 : 八幡町 徳川5代将軍
綱吉は、3代将軍
家光の第四子で、母は
桂昌院といい、名はお玉という人で京都の八百屋の娘です。
亮賢という真言宗の僧
が京都で勉強中、たまたまお玉に会い「あなたは天下に名だたる人を生むお方だ」と言葉をかけてその場を立ち去りました。 その後、お玉は春日局
に見出され名も秋野と改め家光の妻となり子を産むことになります。 そこで数年前に行き会った修行僧を思い出し、探したところ大聖護国寺の住職
亮賢であったということです。(開山800年記念事業で改築。以下は改築前後の写真です。)

→
短編
長学寺 : 浜川町 この長学寺に安置してある閻魔像は、明治のころ町内字北城の閻魔堂から移したもので、話によると昔、堂守りに「さき坊主」という男がいて
ある日、托鉢中に閻魔の胴の中に入れておいたお金を盗まれた。さき坊主は大いに怒り酒を飲んで閻魔を口ぎたなくののしったところ、翌朝首を
抜かれて死んでいたといいます。それからこの閻魔のことを「首抜き閻魔」と呼ぶようになりました。
短編
玉清水 : 浜川町字行力に小塙堰の水源といわれている清水があります。昔、
在原業平朝臣がこの地で休憩され、その水の清らかさに驚き、「青木庄井出の水原
の玉清水」と感嘆なされた。 以後、この清水を「玉清水」と呼ぶようになった。
短編
弘法井戸 : 寺尾町 昔、弘法大師が山へやって来て、ここで休んで杖をついたら水が出たといいます。 弘法井戸の水は、旱魃の時でも絶えることがありません。
井戸から少し離れた所に摩利支天様が祀ってあってそこから流れてくる水だからだそうです。
八幡町 木島源太郎氏の庭先に堀井戸があり、半夏生(夏至から11日目)の頃になると地下水が湧き出て村人は大変重宝して「半夏井戸」と呼んで
いた。 この井戸が伝説の弘法井戸です。 また、弘安2年(1279年)、時宗の祖 一遍上人が木島家で休んだ時に、半夏井戸の水を用いて
墨をすり「南無阿弥陀仏」の文字を書き軸をこしらえたといいます。この軸と上人の袈裟を併せて板鼻の聞名寺で寺宝として保管しているそうです。
短編
芭蕉の俳句塚 : 日高町 旧前橋・高崎街道に面して文安2年(1445年)建立の薬師堂に芭蕉が即吟した俳句を刻んだ塚があります。 ある夏、ここを通り木陰で休憩
をとった時に、「涼しさや 直に野松の 枝の形」と即吟したといわれ、この碑は轟重次郎氏を中心として文化7年(1810年)建立したものです。
短編
柄杓で水を飲むな : 上小塙町 明治2年に起きた五万石騒動で処刑された三人の総代のひとりが上小塙の小島文次郎さんで、奥さんがただ一人処刑場に入ることが許され
柄杓で水を飲ませて来ました。 文次郎さんは水を飲んだ後、首を切られたので小島家では今でも柄杓で水を飲まないことにしています。 また、
戻ってきた遺体は柄杓の柄を使って首と胴体をつなぎ、さらしでしっかり巻いてあったそうで、柄杓の柄をやたらなものに使わないようにしていました。
短編
火吹きの面 : 柴崎町 進雄神社(すさのおじんじゃ)の社宝にかかわる伝説。 代々宮司であった高井家に対して堀込播磨守が乗り込み宮司になった。この時に社宝
の来国光作の名刀と井関上総介親信の彫った能面が不思議な力を現し、能面が境内の樹木に飛び上がって火を吐くなど播磨守を悩まし、遂に
狂気して城主和田兵衛太夫より追放されることになった。 追放から許された高井左衛門太夫は戻され、この能面は現在も社宝として保管されています。

高崎の歴史 その爪跡を写真で 石原町および若田町
矢島八郎翁を偲ぶ

観音山 清水寺の上方にある顕彰碑(石原町)の4枚 八幡霊園のお墓(若田町)
石原町
白衣観音
宮元町
堤辰二先生を偲ぶ石碑 : 下仁田戦争で戦死した堤金之丞の四男で、市川左近に学んだのち、東京師範学校を卒業すると群馬県師範学校教師となった。
高崎小に転出し、小学校教育に二十年余従事し大日本教育会から表彰される。著書に「植物教授書」「動物教授書」「上野史談」
「尋常小学作文書」「父兄必読」「新田氏及び上毛人勤皇事蹟一班」。 明治38年(1905年)4月1日50歳で病没。石碑は
頼政神社に
鼻高町
小林山地すべり跡
鼻高町
洗心亭
下小塙町
北野神社
片岡町
七士殉職供養塔
白岩町
長谷寺(白岩観音)
町屋町
町屋の宝塔
下大島町
春念仏供養地蔵立像
八幡町
八幡八幡宮唐銅燈籠
箕郷町
箕輪城の復元城門
鼻高町
若田原の戦い
中豊岡町
中乗橋 :
台風19号で流出した他の橋より復旧が7か月も遅れた訳は?
流木食い止め鉄筋高さが低くなったが満水時機能する?(確認します。)

2021年2月22日開通 1月15日 2月5日 2月12日