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その他・目次

1.「十二の月のおくりもの2」は政治目的ではありません。
2.カンタータ「脱出」と大阪・豊中との不思議な縁

1.「十二の月のおくりもの2」は政治目的ではありません。

政治団体からの後援などをご辞退しています。

 「十二の月のおくりもの2」で歌われるカンタータ「脱出」は、中国人強制労働という歴史的事実を扱った作品ですが、政治目的をもって演奏するものではありません。政治団体から後援、協賛などの支援申し出をいただきましてもご辞退しますので、あしからずご了承ください。

 趣旨に賛同の音楽団体、教育・保育関係団体など文化団体からのご支援は、ありがたくお受けいたしますので、どうかよろしくお願いします。

2015年3月22日 大阪音楽教育の会・「十二の月のおくりもの」実行委員会

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2.カンタータ「脱出」と大阪・豊中との不思議な縁

 カンタータ「脱出」の終曲・第18章「果てしない波を渡るための歌」は、次の歌詞を繰り返す。

 ♪ 果てしない波を渡りつくして兄弟がある

 詩の木島始によると、これは、中国の革命家・詩人の魯迅がある日本人におくった次の詩句「三義塔に題す」によるという。

 「度盡劫波兄弟在」

三義塚  しかし、実はこれには続きの詩句があった。
 詩は「度盡劫波兄弟在 相逢一笑泯恩讐」と結んであり、その日本人とは西村真琴。のちに豊中市議会議長や豊中市立中央公民館の第二代館長を務めた人だった。魯迅と西村真琴との交友を記した記念碑が豊中市立中央公民館の庭に建立されているという。なんという不思議な縁なのだろう。

 「相逢一笑泯恩讐」は、「会って笑えば、恩讐は消える」という意味。
 「度盡劫波兄弟在 相逢一笑泯恩讐」はつまり、「荒波を渡っていけば兄弟がいる。会って笑えば、恩讐は消える」という意味になる。
 西村真琴は、北海道帝国大学の教授でプランクトンやマリモを研究してきた植物学者。大阪毎日新聞の懸賞論文に応募したことがきっかけで学芸部記者に転身し、さらには日本初のロボット「学天則」を作るなどした学者。
 日中戦争が起きて間もない頃、西村は医療団を率いて上海に渡り、戦いで負傷した人たちを治療する活動を行ったという。
 また、西村真琴は、TV二代目水戸黄門役などで知られる俳優・西村晃の父でもある。

 以下は、「マチゴト・豊中池田ニュース 読者と作る地域密着ウェブ」からの引用。

 (西村は)市郊外の三義里で飢えて飛べなくなったハトを見つけ、「三義」と名づけて、日本に連れ帰って育てた。
 三義に二世が生まれたら、西村は日中友好のあかしとして、上海に送るつもりだった。残念ながら、三義は豊中市の自宅で、イタチの襲われて死んでしまった。西村は「三義塚」と刻んだ碑を建て、その思いを手紙にしたため、「西東国こそ異(たが)へ小鳩等(こばとら)は親善(したしみ)あへり一つ巣箱に」の歌と、三義の絵を添えて魯迅に送った。
 魯迅は感激し、漢詩「三義塔に題す」を作って西村に贈った。詩は「度盡劫波兄弟在 相逢一笑泯恩讐」と結んである。

 魯迅の詩「題三義塔」

 奔霆飛?殲人子 敗井頽垣残餓鳩
 偶値大心離火宅 終遺高塔念瀛洲
 精禽夢覚仍喞石 闘士誠堅共抗流
 度盡劫波兄弟在 相逢一笑泯恩讐

 さらに、同サイトから次のような文章も引用しておきたい。

 西村真琴は大阪毎日新聞(現毎日新聞)の学芸部記者の後、大阪毎日新聞社会事業団(現毎日新聞大阪社会事業団)の幹事に就任し、やがて常任理事となった。
 事業団は日中戦争の最中の1938年、四天王寺などと合同で隣邦孤児愛護会を組織した。その中心にいたのは、西村だった。設立趣意書は日中戦争について、「現地の戦禍が、幾多民衆の不幸を現じつつある中にも、最も哀れなるは、父母を喪(うし)ないかつ寄辺(よるべ)なき孤児が飢に泣きあるいは病に悩む姿である。我等はこの惨状を目撃しては到底捨て置く事ができない」と書いている。
 西村ら愛護会は39年1月に中国に渡り、敵国である中国人の戦争孤児68人を、日本に呼び寄せた。子どもたちは、四天王寺が運営する養護施設で養育された。

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