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参考文献・目次

1.穴にかくれて14年―中国人労働者劉連仁の記録
2.鎮魂歌―茨木のり子詩集
3.穴から穴へ13年―劉連仁と強制連行 (母と子でみる)
4.劉連仁・穴の中の戦後
5.中国人強制連行の生き証人たち
6.中国人強制連行の記録―日本人は中国人に何をしたか
7.企業の戦争責任―中国人強制連行の現場から
8.地球は人間だけのものではない―エコロジスト西村真琴の生涯
9.回風歌・脱出―木島始詩集
10.生きる: 劉連仁の物語
11.中国人強制連行 (岩波新書)
12.中国人強制連行の軌跡―「聖戦」の墓標
13.劉連仁(りゅうりぇんれん)物語―当別の山中から
14.木島始詩集・復刻版
15.中国人強制連行
16.CD りゅうりぇんれんの物語

1.穴にかくれて14年―中国人労働者劉連仁の記録

穴にかくれて14年 欧陽 文彬(著)、三好 一(翻訳)
単行本: 250ページ
出版社: 新読書社; 新組新装版 (2002/07)
ISBN-10: 4788050153
ISBN-13: 978-4788050150
発売日: 2002/07
商品パッケージの寸法: 18.8 x 12.8 x 1.6 cm

内容(「BOOK」データベースより)amazon.co.jpより
昭和二十年の七月、北海道のある炭鉱から脱走して以来、まる十三年間も山中に逃亡し、穴居生活を続けて、昭和三十三年二月九日、ついに発見され、その春に本国に奇蹟の生還をした中国人、劉連仁さんの体験記録。劉連仁さんは文字を知らないので、上海の「新民晩報」の記者・欧陽文彬さんが、劉さんの話をくわしく聞き、資料を細かく調べてまとめたものである。

内容(「MARC」データベースより)amazon.co.jpより
日本に強制連行され、中国の一農民・劉連仁の、14年に及ぶ逃亡生活とその脱出記録。新読書社出版部1959年刊の新組新装。

目次

一通の手紙
白山丸
とらわれの身
生き地獄
逃亡
苦難の途
雪穴の冬眠
海へのこころみ
「おれは生きてゆく!」
山のなかの幾歳月
猟師に発見さる
ゆるがぬ証拠
闘いの一頁
ふたたび故郷へ

まえがき から の引用

 一、これは、昭和二十年の七月、北海道のある炭鉱から脱出して以来、まる十三年間も山中に逃亡し、穴居生活を続けて、昭和三十三年二月九日、ついに発見され、その春に本国に奇跡の生還をした中国人、劉連仁さんの体験記録である。
 二、劉連仁さんは文字を知らないので、上海の「新民晩報」の記者・欧陽文彬さんが、劉連仁さんの話をくわしく聞き、資料を細かく調べてまとめたものが本書である。
(後略)
翻訳者代表 三好一

あとがきからの引用

(前略)
救出された時四十六歳であった(劉連仁)氏はすでに八十歳台の後半に入っておられた。そして惜しくも二〇〇〇年の九月一日、胃ガンため自宅にて帰らぬ人となられた。しかし一九九六年三月に彼が東京地裁に提訴した強制労働、強制連行告発事件は、強固な彼の意志の証として、その遺志を実現しようとする息子さんに引きつがれて、つづけられている。※(二〇〇二年六月十五日記)

※引用者注 中国人戦争被害者の要求を実現するネットワーク(略称:すおぺいネット)によると、経過は次のとおり。
東京地裁 2001年7月12日判決 原告勝訴 強制連行、強制労働の事実認定、遺族3名による請求額合計2000万円の全額を認容
東京高裁 2005年6月23日判決 原告敗訴 強制連行、強制労働の事実認定するも、請求を退ける
最高裁  2007年4月27日判決 原告敗訴 上告棄却

http://www.ne.jp/asahi/suopei/net/3_saiban/5_renko/saiban_renko.htm

新読書社「穴にかくれて14年 日本に強制連行された中国人労働者劉連仁の脱出記録」より

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2.鎮魂歌―茨木のり子詩集

鎮魂歌 茨木 のり子(著)
単行本: 123ページ
出版社: 童話屋; 新装版 (2001/12)
ISBN-10: 4887470258
ISBN-13: 978-4887470255
発売日: 2001/12
商品パッケージの寸法: 21.2 x 15 x 1.8 cm

内容(「BOOK」データベースより)amazon.co.jpより
名詩「汲む」のほか「りゅうりぇんれんの物語」を収録。

内容(「MARC」データベースより)amazon.co.jpより
中国人の強制連行を端緒とする実際のできごとをもとに書かれた詩劇「りゅうりぇんれんの物語」を含め、「花の名」「汲む」等全14篇を収録。1965年思潮社刊の新装版。

目次

花の名
女の子のマーチ
汲む
海を近くに
私のカメラ

秋が見せる遠い村
最上川岸
大男のための子守唄
あるとしの六月に
本の街にて
七夕
うしろめたい拍手
りゅうりぇんれんの物語

「りゅうりぇんれんの物語」より 末尾部分を以下に抜粋します。

一ツの運命と一ツの運命とが
ぱったり出会う
その意味も知らず
その深さも知らずに
逃亡中の大男と 開拓村のちび
風が花の種子を遠くに飛ばすように
虫が花粉にまみれた足で飛びまわるように
一ツの運命と 一ツの運命とが交錯する
友人さえもそれと気づかずに

ひとつの村と もうひとつの遠くの村とが
ぱったり出会う
その意味も知らずに
その深さをも知らずに
満足な会話すら交せずに
もどかしさをただ酸漿のように鳴らして

一ツの村の魂と もう一ツの村の魂とが
ぱったり出会う
名もない川べりで

時がたち
月日が流れ
一人の男はふるさとの村へ
遂に帰ることができた
十三回の春と
十三回の夏と
十四回の秋と
十四回の冬に耐えて
青春を穴にもぐって すっかり使い果したのちに

時がたち
月日が流れ
一人のちびは大きくなった
楡の木よりも逞しい若者に
若者はふと思う
幼い日の あの交されざりし対話
あの隙間
いましっかりと 自分の言葉で埋めてみたいと。

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3.穴から穴へ13年―劉連仁と強制連行 (母と子でみる)

穴から穴へ13年 早乙女 勝元 (編集)
単行本: 135ページ
出版社: 草の根出版会 (2000/11)
ISBN-10: 4876481555
ISBN-13: 978-4876481552
発売日: 2000/11
商品パッケージの寸法: 22 x 15.6 x 1.8 cm

内容(「BOOK」データベースより)amazon.co.jpより
戦争中に強制連行で、北海道の炭鉱へ連れてこられ、まるで奴隷のように酷使され、敗戦の直前に脱走、以来一三年間も、北海道の山中に身をひそめていた中国人男性の物語。

内容(「MARC」データベースより)amazon.co.jpより
戦争中、日本軍によって強制連行された北海道の炭坑から脱走し、以来13年間も北海道の山中に身をひそめていた劉連仁。札幌での当時のいきさつから発見救出・帰国などの証言をもとに、戦時中の強制労働について考える。

目次

第1章 劉連仁を知っていますか?
第2章 札幌で当時のいきさつを聞く
第3章 劉さん発見救出から帰国まで
第4章 港町青島の光と影と
第5章 劉さん父子、大いに語る
第6章 草泊村のお宅で考えたこと
さいごに 人権尊重の世界的な潮流

穴から穴へ13年―劉連仁と強制連行 (母と子でみる)  さいごに 人権尊重の世界的な潮流 より

 いわく、「戦争なんだから仕方がない」「悪かったのは日本だけでなくて、どっちもどっち」「半世紀も過ぎて、何を今さら」「個人にいちいち補償していたらきりがない」などなどの声です。それだけ聞いていると、気持ちが軽くなる人もいるだろうけれど、しかし、ほかならぬ日本政府が、次のような決議をしているのを忘れてはなりません。
 「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に過ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのおわびの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます……」
 以上は、「戦後五〇年・村山富市首相談話」(95・8・15)の一部です。首相の個人的なコメントではなく、一五日午前中に閣議決定された戦後の「けじめ」なのです。
もちろん内外の評価はまちまちでして、私は冒頭の「遠くない過去の一時期」なる表現で、まず引っかかりました。戦後五〇年から一〇〇年をさかのぼると、日清戦争(一八九四~五年)になります。近代日本が「富国強兵」策を合い言葉に本格的な対外戦争に突入してからというもの、ほぼ一〇年きざみに、日の丸の旗をなびかせ、海を越えて出兵していったのです。
 したがって、日清戦争から一九四五年八月の敗戦までを、五〇年戦争だったという見方もあるわけで、それが単なる「過去の一時期」なのかどうなのか。
 首相談話の過去の戦争に対する認識は、近現代史の評価も含めて、きわめてあいまい、不十分なものと思わざるをえません。
 にもかかわらず、特に注目すべきポイントが三つ。①先の大戦は「国策の誤り」による戦争だったこと、②その戦争は「植民地支配と侵略」であったこと、③アジアを始め諸国民の苦しみと悲しみに「痛切な反省と心からのおわび」をする--を明確に打ち出したのは、不十分ながらも評価してよいかと思います。決して「どっちもどっち」ではなく、「半世紀も過ぎて」から、わが国の戦争責任があきらかにされたのですから。
 ならば、「この歴史の事実を謙虚に受け止め」て、今からでも「おわび」の気持ちを態度で示すべきであって、態度がともなわなければ、口先だけのものと受けとめられかねないのです。先のドイツ企業やオーストリアの戦後補償の例ではないけれど、もはや国際人権法の世界的な流れから、目をそむけていられる時代ではないはず。民主主義の潮流は、決してストレートではないものの、着実に前進しているのです。
 そのことを心に銘記し、歴史の事実を踏まえて、被害者の苦しみや悲しみを誠実に想起しながら、人権尊重の声を声に結んでいくべき時ではないでしょうか。
(後略)

二〇〇〇年八月 著者

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4.劉連仁・穴の中の戦後

穴の中の戦後 野添 憲治(著)
単行本: 232ページ
出版社: 三一書房 (1995/11/1)
言語: 日本語, 日本語
ISBN-10: 4380952894
ISBN-13: 978-4380952890
発売日: 1995/11/1
商品パッケージの寸法: 18.8 x 13 x 1.8 cm

内容(「MARC」データベースより)amazon.co.jpより
農民だった劉さんは中国・山東省から北海道の炭鉱に強制連行され、敗戦直前に炭鉱から逃亡し、日本の敗戦も知らず13年間も厳冬の地北海道で穴ごもり生活を送った。強制連行の実態をするどく描く。

目次

第1章 雪の当別山中で発見
第2章 身重の妻とひきはなし強制連行
第3章 昭和鉱業所で地獄の労働
第4章 「穴」から見た日本の戦後
第5章 日本政府に謝罪と補償を要求
第6章 帰国
終章 再び日本へ

第2章 身重の妻とひきはなし強制連行
注1 趙玉蘭の話 より


 劉連仁は五人の兄弟の長男です。父と養母は、働けるほど健在でした。劉連仁が捕まったその日はまだ朝食を食べていなかったので、そのまま連れて行かれたんです。その時はわたしも途中まで追いかけて行ったのですが、カイライ軍に銃をつきつけられるので、とてもそばまで行けず、追い返されたのです。そのあとも二回ほど行きましたが、最初の子が七ヵ月で腹にはいっていましたから、ムリもできないので、行ってもすぐに家に帰っていました。カネをカイライ軍に渡すと、引っぱるのを止めるという話も聞いたし、実際に近所の人は帰ってきたのを見ましたが、家にはカネがないのです。しかもこの時は運が悪く、父が遠くへ働きに行って家にいなかったため、相談も何もできませんでした。残念でなりません。
 劉連仁が捕まったあと、他の人から高密県に引っぱられて行ったと聞きましたが、その後はどこへ引っぱられていったかは、まったくわかりませんでした。ただ、あとで人の噂として聞いたのは、高密県で汽車に乗るときに逃げて、鉄砲で撃たれたということを聞いたのです。でも、その鉄砲は劉連仁に当たったのかどうか、汽車に乗せられてどこかへ行ったのかどうか、そのあとはさっぱり消息がなくなりました。家にも便りはないし、どこへ行ったのか、何をしているのか、まったくわからないのも不安でした。
 劉連仁が捕まったあとは、同じように捕まるのが怖いと、山奥へ逃げる人がたくさんでましたよ。また、若い男の人が少なくなると、耕作する人がいないのでどうしても畑が荒れてきますから、生活が苦しくなってきますので、逃げ出した人もいます。劉連仁がいなくなった後は、ずいぶんと多くの人が東北部の方へと逃げましたよ。
 昔から山東省の人たちは、生活が苦しくなると「関東下り」といって、関東に行って稼いだものです。実は劉連仁が捕まった時に父も、関東へ稼ぎに行っておったのです。遠くにいるものですから、相談もできなかったのです。でも、稼ぎに行っても、よくなった人は帰って来ないのです。それから、働いても借金を持った人は、帰って来れません。結局、貧しくて関東下りをした人は、なかなか帰って来れない人が多いですね。なかには相当に立派になった人もいますが、立ち上がれないまま、地主の使用人になる人がはるかに多いですよ。でも父は、劉連仁が捕えられたと聞いて、まもなく帰ってきました。劉連仁は旧暦で八月二八日に引っぱられたのですが、わたしはその時二三歳で、七ヵ月の身重でした。一〇月一八日に長男の劉煥新が生まれたんです。子どもが生まれたあとで、爺さんは「?(パン)」という名前と、「尋(ジュン)」という二つの幼名をつけてくれたんです。「?」というのは「首を長くして待つ」という意味だし、「尋」は「父を捜しだす」と意味を持っているんですが、いくら待っても、どんなに望んでも、劉連仁はなかなか帰って来ないのです。
 劉連仁が連れて行かれた時は、弟たちはまだ小さいので、父とわたしが一緒に畑で働きました。そのとき、家にはほんの少しより畑がないので、地主の土地を借りて小作していました。借りた土地は小作料を払わないといけないので、実際の収穫量は多くとも、小作料を払ったあとは、わずかより残りませんでした。
 毎日にのように、食べる物が不足しました。食べ物がなくなると、地主のところへ借りに行くのです。このときは一升を借りると二升返すというほど、大変厳しいものでした。でも、食べる物がない時は借りないとどうにもなりませんから、地主のところへ頭を下げて借りに行きます。春になって土を耕しても、蒔くタネがないものですから、地主から借りて蒔いたものです。そんな訳ですから、秋がきて収穫しても、食べた分やタネの分を地主に返すと、もうたいした残りはないという状態でした。
(後略)

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5.中国人強制連行の生き証人たち

中国人強制連行の生き証人たち 鈴木 賢士 (著)
単行本: 156ページ
出版社: 高文研 (2003/07)
ISBN-10:4874983081
ISBN-13: 978-4874983089
発売日: 2003/07
商品パッケージの寸法: 20.8 x 15 x 1.6cm

内容(「BOOK」データベースより)amazon.co.jpより
アジア太平洋戦争期、中国から、日本国内の鉱山や軍需工場へ「拉致」されてきた人たちがあった。その数、およそ四万人、うち七千人が死んだ。だがこの事実は、長い間闇の中に封じられてきた。ようやくいま、老いた被害者たちが謝罪と補償を求め、訴訟に立ち上がっている。「強制連行」とはいったい何だったのか?中国・華北の地に訪ねた生き証人たちが、その真実を伝える。

内容(「MARC」データベースより)amazon.co.jpより
アジア太平洋戦争期、中国から日本国内の鉱山や軍需工場へ「拉致」されてきた人たちがあった。その数、およそ4万人。「強制連行」とはいったい何だったのか?
 中国・華北の地に訪ねた生き証人たちが、その真実を伝える!

目次

はじめに
生き証人の写真と証言が問いかけるもの〈小野寺利孝〉
中国から強制連行されてきた人たちが投入された日本国内135の事業場
中国人強制連行──歴史的事実と証言
1.放置された日本の戦争責任 ?初めての出会い──劉連仁判決
①福岡訴訟弁護団の訪中に同行して
②画期的な福岡地裁判決の波紋
③農村取材でのハプニング
④中国側研究者の話
2.華北に被害者を訪ねて──証言と肖像 ?張宝恒さん──連行先=福岡・三井田川炭鉱
①劉樹格さん──連行先=群馬県・間組
②趙宗仁さん──連行先=北海道・熊谷組
③孫徳禄さん──連行先=北海道・熊谷組
④陳桂明さん──連行先=福岡・三井三池炭鉱
⑤宋君政さん──連行先=北海道・三菱鉱業美唄
3.裁かれる強制連行の歴史 ?一九四五年八月二〇日付の政府文書
①『幻の外務省報告書』
②全国八カ所で進行する裁判
③求められる日本の誠意ある解決
あとがき

3.裁かれる強制連行の歴史 より抜粋

一九四五年八月二〇日付の政府文書
(前略)
 戦後、中国から連行され日本で亡くなった人たちの遺骨の送還運動に携わった関係者や、強制連行の研究者の間では、敗戦翌年の四六年に外務省がまとめた、中国人強制連行に関する「外務省報告書」が注目されてきました。しかしこれは「幻の報告書」の名がつくほど、長い間そのゆくえがわかりませんでした。国会で何回も取り上げられても、九〇年代の初めまで、政府は報告書を作成したこと自体は認めても、もはやそれは存在しない、焼失したなどという、うその答弁を繰り返していたのです。そして、公的な記録がないという理由で、政府は中国から連行した人の数や死亡者の数さえも、明らかにしませんでした。
 ところが、九三年にNHKがテレビで放映した『幻の外務省報告書』で、日本政府が太平洋戦争中、四万人近い中国人を連行してきて炭鉱や建設現場など一三五の事業所で使役し、そこでの過酷な労働と劣悪な環境のため七千人近くが死亡した、その全体像が明らかになりました。長い間政府によって隠されていた「外務省報告書」と、一三五ヵ所の全事業所から提出させた膨大な資料「事業所報告書」が、ようやく陽の目を見ることになったのです。
(後略)

『幻の外務省報告書』

 全五冊、六四六ページに及ぶ外務省報告書には、「華人労務者移入」という名称で、中国人を日本に連行して、どこでどれだけ働かせていたか、現在はどうなっているかということが、ことこまかに書かれています。
 まず一九四二(昭和17)年一一月二七日、東条内閣の閣議で「華人労務者内地移入に関する件」が決定されたこと。これは中国人を日本に連れてくることが、日本政府の正式な閣議決定に基づいて行われたことを証明しています。
 連行された数は合計三万八、九三五人で、それが雇用主三五社の一三五ヵ所の事業場で就労し、そのうち六、八三〇人が死亡したことが指摘されています。そこに記された全国の配置図を見ると、まず驚くのがこんなにも広く、全国いたるところに中国人を連行していたという事実です。
 すべてが、戦争を遂行するために必要な産業・工事の現場です。日本人には身近な地名でも、知らない他国に連れてこられた中国人が、これらの場所で過酷な労働を強いられ、どんな思いをさせられていたか、想像にあまりあります。
(後略)

中国人強制連行をめぐる略年表

1931 9月18日、関東軍、「満州事変」を引き起こす
 37 7月7日、盧溝橋事件、日中全面戦争へ突入
 41 石門<石家庄>俘虜収容所設置
 42 「華人労務者内地移入」閣議決定
 43 中国人強制連行「試験移入」
 44 中国人強制連行「本格移入」開始
 45 7月1日“花岡蜂起”
   8月15日、日本敗戦。10月より連行された中国人を送還
 46 「外務省報告書」作成
 72 日中共同声明、国交正常化
 78 日中平和条約調印
 93 NHK、『幻の外務省報告書』放映
 95 花岡に連行された生存者・遺族が鹿島建設を告訴
 96 劉連仁はじめ中国人強制連行被害者が、この年以降、全国8ヵ所で告訴
 97 鹿島花岡東京地裁判決、原告側控訴
2000 東京高裁で鹿島花岡裁判の和解成立
 01 劉連仁事件東京地裁判決、国側控訴
 02 三井鉱山福岡地裁判決、被害者と企業の双方控訴。西松建設広島地裁判決、被告側控訴
 03 日本冶金京都地裁判決、被害者側控訴

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6.中国人強制連行の記録―日本人は中国人に何をしたか

中国人強制連行の記録 石飛 仁(著)
ペーパーバック: 276ページ
出版社: 三一書房 (1997/07)
言語: 日本語, 日本語
ISBN-10: 4380970086
ISBN-13: 978-4380970085
発売日: 1997/07
商品パッケージの寸法: 17.2 x 10.6 x 1.6 cm

内容(「BOOK」データベースより)
歴史から抹殺されようとする戦争犯罪の事実を、「花岡事件」を通して明らかにする衝撃のリポート。

目次

第1章 中国人強制連行を策した時代の証言
第2章 鹿島組花岡事業所「中山寮」の中国人
第3章 七月一日夜の峰起
第4章 逃げる怪物
第5章 戦犯たち

第1章 中国人強制連行を策した時代の証言
4 労工狩り作戦 より抜粋


 一九四一年になると日本政府は、対米戦争にそなえて「作戦軍の自活確保」という決定を行なった。この「自活確保」とはどういうことかというと現地で作戦中のものは、いっさい現地で自活品をまかなえということである。金も食糧も衣料も日用品も現地で調達せよということである。なんのことはない、ドロボウせよということなのである。で、この自活確保の方針は、さらにエスカレートして、現地で確保した労働力を日本国内に移送せよという、一歩も二歩も踏み込んだ方針が現地軍に命じられるようになったのである。
 日本政府は日本の農民・労働者を南方に死ににやらせた穴うめに、こんどは安あがりとみなした労工狩りをおこない、日本につれてきて労働をさせるというプランを実行に移したのである。この政策を最先端で担うことになった作戦が「労工狩り」(うさぎ狩り作戦)である。この労工狩りについて、証言をつづけよう。

矢崎新二氏証言 昭和一八年九月、北支の各師団では、労工狩りの実習がありました。野ッ原に円陣をはり、各中隊旗をたて、ドラをならし、うさぎを追い出し、追いつめ、とらえる演習です。これは、野うさぎを目標にしたわけですが、一か月後には、うさぎが人間にかわるわけです。
わたしはこの作戦には参加しませんでしたが、方面軍からのつぎのような命令がでたことは知っています。
 ①一七~四五歳までの男子は、すべて逮捕すべし。
 ②断髪の女性は逮捕すべし。
 ③逃げる者、反抗する者は射殺すべし。
 そして昭和一八年一〇月、北支派遣軍の作戦として、五九師団が中心に、各師団から部隊が抽出され、山東半島のつけ根に集結しました。
 兵たちは一〇メートル間隔くらいにならび、山東半島をおしあげる形で、人狩りをやっていったわけです。付近の海上は海軍が船をうかべて封鎖するというものものしさです。

劉連仁氏証言 一九四四年のある朝、劉連仁は、村の西端にいる呉元富家の葬式に出かけるところだった。身重の妻に送られてしばらくいくと、「止まれ!」という声がとんだ。
顔を上げると、カイライ軍の兵士が三人、銃をかまえて立っていた。わずか五、六歩しか離れていない。逃げきれないと思って、度胸をすえて立ち止まった。
村役場に連れていかれると、カイライ兵三人は腰をおろして飯を食いはじめ、劉連仁にそばで待っているようにいいつけた。食い終わると、草泊村から北に三里ばかりの尤河頭までいっしょについてこさせて、縄でしばりあげてしまった。
 劉連仁が周囲を見回すと、つかまったものはかなりの数で、みたところみな近郷の農民らしく、草泊村だけでもかれのほかに五人もいた。かれらはみな、一人ずつ縄をかけられ苦悩にみちた表情でそれぞれ物思いに沈んでいる。
 まもなく、いく人かの者が呼び出された。草泊村のものも四人いた。家から金が届いてうけだされたのだという。だが劉連仁の家からは、まだうけ出しにこない。
さらに張家?へとひきたてられた。道みち手当りしだいに人間をつかまえていくので、捕らえられたものは、ますます多くなり、八〇人ほどになった。
 張家?から?行をへて高密県についたころは、もう暗くなっていた。皆は日本人合作会社に閉じこめられた。そこに、つかまえられたものの家族が知らせをきいてとんできた。年寄りもいれば子どももいた。女がいちばん多かったのは、自分から網にかかるバカもいないもので、男はこなかったからだ。皆は泣く泣く夫や息子をさがしまわり、顔をみるなりひとかたまりになって泣きくずれた。そして日本兵にすがりつき、お慈悲をもって釈放してくれるように哀願した。だが日本兵は、ものもいわずに銃床をふるって追いだしにかかった。家族のものも、殴られ放り出された。
 翌朝、皆は、追いたてられるように合作社の庭に集められた。漢奸の保安隊長が出てきた。「こんど、おまえたちに来てもらったのは、飛行場建設のためだ。まず青島までいき、そこから分かれて出発する。 せいぜい一、二か月で終わるから、心配する必要はない」
話が終わると、五人の日本兵が銃剣をつきつけ停車場へひきたてた。東門を出ると、とたんに隊列がざわめき出した。何人かが縄をふりほどいて逃げ出した。上を下への大さわぎになった。日本兵は初めのうち銃床でどやしつけていたが、しまいには銃剣でえぐった。
 このありさまをみて、劉連仁はだめだと思った。銃剣で脅かされながら、一行はまた高密停車場へと追いたてられていった。その後も二度、三度と脱走が起こったが、死人が出るだけだった。
青島につくと、日本政府とカイライ政府がつくった華北労工協会に押しこめられた。この労工協会は表むきは日本が中国人労働者を募集するところになっているが、強制的に拉致してきて奴隷あつかいするところだった。周囲に高圧電流を流した鉄条網をはりめぐらし逃げられないようにしてある。
 劉連仁たちは、着ていた綿入れをはぎとられ、単衣のカーキ色の軍服・ゲートル・靴、それに小さな蒲団が二枚渡された。それを着ると、すぐに写真を撮られ、指紋をとられた。
 青島に六、七日いたが、日本に送られるといううわさが耳に入り、恐怖感は頂点にたっし、八〇〇人からの人が暴動を計画した。だが事前に発見され失敗に終わった。
 船にはいると、八〇〇人はみんないちばん底の大船倉につめこまれた。戸が締まると、小さな丸窓が二つあるだけで中はまっ暗でよくみえない。船倉の中はひどくうっとうしかった。エンジンの音がうるさく響き、船が左右に揺れ、頭がグラグラした。
 昼になると、黒くて硬い小さなトウモロコシのむしパンが渡されたが、みんなゲーゲー吐きだした。
 六日間の船旅が終わって、日本の門司についた。上陸すると、手続きをさせられた。ひとりひとり尋問され、職業はと聞かれたので劉連仁は、百姓だと答えた、だが日本人は兵隊だ、捕虜だといってきかない。ここで初めて、軍装して写真をとられた意味がわかった。
尋問が終わると、二〇〇人が選びだされ、汽車に二日、船に四時間乗ったあげく、函館に上陸した。それから一日中汽車に乗せられ、目的地--雨竜郡沼田村にある明治鉱業昭和鉱業所についた。

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7.企業の戦争責任―中国人強制連行の現場から

企業の戦争責任 野添 憲治(著)
単行本: 358ページ
出版社: 社会評論社 (2009/12)
ISBN-10: 4784513345
ISBN-13: 978-4784513345
発売日: 2009/12
商品パッケージの寸法: 19.2 x 13.2 x 3 cm

内容(「BOOK」データベースより)amazon.co.jpより
炭鉱、金属鉱山、軍事工場、土木、建設、港湾荷役など、中国人が強制労働させられた北海道から九州まで135事業所の現場を訪ねる「慰霊と取材」の旅の記録。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)amazon.co.jpより
野添/憲治
1935年、秋田県藤琴村(現・藤里町)に生まれる。新制中学を卒業後、山林や土方の出稼ぎ、国有林の作業員を経て大館職業訓練所を修了。木材業界紙記者、秋田放送ラジオキャスター、秋田経済法科大学講師(非常勤)などを経て著述業。『塩っぱい河をわたる』(福音館書店)で第42回産経児童出版文化賞を受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

目次

プロローグ・慰霊と取材の旅から
野村鉱業置戸鉱業所―北海道常呂郡置戸町
地崎組北海道第一華人収容所―北海道常呂郡留辺蕊町
北炭天塩炭鉱―北海道留萌郡小平町
土屋組天塩営業所―北海道中川郡美深町
三井鉱山美唄鉱業所―北海道美唄市
鉄道工業美唄出張所―北海道美唄市
三菱美唄鉱業所―北海道美唄市
三井鉱山砂川鉱業所―北海道空知郡上砂川町
瀬崎組・菅原組・東日本造船―北海道函館市〔ほか〕
あとがき

プロローグ・慰霊と取材の旅から

(前略)
 日本国内に強制連行された中国人が強制労働をした一三五事業場を、筆者が「慰霊と取材の旅」として歩きはじめた動機と、中国人強制連行のことを簡単に紹介しておきたい。
 日中戦争以来、日本は働き手を兵士に取られて深刻な労働力不足に陥った。そこで労働力確保のため、一九四二年に中国人を内地移入させることを東条内閣は閣議決定した。試験移入をへて一九四四年に「華人労務者内地移入促進に関する件」を次官会議で決定した。日本軍の捕虜であったり、労工狩りと呼ばれる非人道的な方法で集めた約四万人の中国人を日本に強制連行し、日本国内の一三五(外務省報告書)の事業所で働かせた。
 「花岡事件」はそうした中国人によっておこされた、抵抗による蜂起だった。現在の秋田県大館市の鹿島組(現鹿島)花岡出張所は、花岡鉱山から請け負った水路変更工事に九八六人を使役したが、重労働と食料不足、鹿島組補導員らの暴行や虐待に抗議して中国人はいっせいに蜂起した。
 この時の中国人二人が、三日後の七月三日に山を越えて筆者の村に逃げて来て捕らえられた。国民学校の四年生だった筆者たちは先生に引率され、役場前へ見に行った。背中合わせに縛られて地べたに坐っている中国人のまわりを、先生の号令で「チャンコロのバカヤロー」と何度も叫んだ。砂やツバを顔に吐きかけ、村人から元気がいいとほめられた。一九四一年に少国民になった筆者は、軍国少年に育っていた。
 二七歳の時に花岡鉱山に行き、はじめて花岡事件を知った筆者は、村に逃げてきた中国人も花岡事件の人たちであることを知った。軍国少年ではあったが、戦争の加害者ではないと思っていたのが崩れた。筆者も戦争の加害者だったことを知り、それから花岡事件や中国人連行者への聞き書きなどをはじめた。のちに花岡事件の生存者・遺族たちが花岡受難者聯誼会を結成して鹿島に(1)謝罪、(2)記念館の設置、(3)補償などを求めた行動にも参加した。二〇〇〇年に東京高裁で和解が成立したものの、鹿島は謝罪せず、記念館は建てず、五億円は出して中国紅十字会に信託したものの「補償や賠償などの性格を含むものではない」(『毎日新聞』一一月三〇日付)と鹿島はコメントを発表している。被害者が選んだ和解ではなかったし、花岡事件にかかわって四一年になる筆者が望んだ解決でもなかった。
 この時に思い出したのが、鶴見俊輔さんが言ったことばだった。国家が犯した罪を国家が償わない時は、民衆が手弁当でその罪を償わないといけないと、遠い昔に言ったのを覚えていた。花岡事件は被害者が望まない和解をしたが、他の一三四事業所の現場はどうなっているだろうか。その現場に自分の足で行き、現在の姿を直視しながら日本の国家と日本人が犯した罪の重さを考えてみようと思い、「中国人強制連行の現場へ・慰霊と取材の旅」をやることにした。(後略)

明治鉱業昭和鉱業所--北海道雨竜郡沼田町

 中国人強制連行のなかでもとくに異色な例として、秋田県の花岡鉱山で起きた「花岡事件」と、北海道の明治鉱業昭和鉱業所から逃げた連行者が山のなかで一三年間も生き抜いた「劉連仁事件」があげられる。
 昭和鉱業所には一九九一年一〇月に劉連仁が来日した時に筆者も同行した。閉山して二二年目の鉱山は一面に雑木が伸び、建物はなく、コンクリートの土台に腐れた柱やガラスの破片が散乱していた。二〇〇七年に再び昭和鉱業所を訪ねると、通行止になっていた。劉連仁事件はまだ解決されないまま、現場は封印されていた。
 昭和鉱業所の前身昭和炭山は一九一八年に明治鉱業の所有となったが、当時はボーリング調査に入っても「全く人跡未踏と言ってもいい程で、大森林地帯は熊の咆声を聞き乍らテントに寝て、ブリキ缶を叩いて奥地」(『町史』)へと向かったという。それでも一九二九年に開坑となり、四〇戸の長屋も出来た。翌年には昭和鉱業所が開設し、JR留萌本線の恵比島駅から分岐した留萌鉄道が昭和駅まで開通したので、これまで馬の背に頼っていた荷物の運搬や送炭が可能になり、炭鉱は発展した。一九四三年には出炭が一六万トンになり、坑夫も九九九人となった。
 だが、戦況が悪化してくるとさらに増炭を要求されたが、坑夫の増員は不可能だった。そのため華北労工協会と契約し、二〇〇人の中国人強制連行者を使うことになった。青島収容所から青島港に引っぱられ、プルト号に乗って日本に向かったのが一九四四年一〇月一一日だった。下関に上陸し、昭和鉱業所に着いたのが一一月三日でもう冬だった。
 中国人たちを収容したのはささ木沢に建っている木造の長屋で、造りは粗末なものだった。板を打った間にすき間できて、そこから寒い風と雪が吹き込んできた。通路に石炭ストーブが一つ置かれていたが、その熱は長屋全体にひろがらなかった。窓はあったがガラスはなく、板戸が吊され、手で押し、木の棒で支えると明りがはいった。だが、冬は寒い風と雪が吹き込むので木の窓はあけられないので、長屋のなかはいつも暗かった。
 昭和鉱業所のある所は「寒気厳しく、積雪は丈余に及んで半年間は雪のなかに埋まる」(『社史』)ところだが、中国人が着いたころは毎日の雪降りで、雪のたまった長屋の屋根がギシギシと音をたてた。中国人は翌日から、青島で配られた単衣の下にシャツ一枚の体で、屋根にあがると震えながら雪おろしをした。長屋は有刺鉄線に囲まれていたが、雪に埋もれてほとんど見えなくなっていた。
 中国人はまだ暗いうちに起こされるると、板の上に並んだ小さな茶碗にはいっているガータタンを食べた。メリケン粉は少しだけで、塩が沢山はいっているので塩辛く、ひと思いに食べると水を飲みに走った。昼の食事として握り拳よりも小さい饅頭が一つ配られたが、鉱山までは一時間半も歩くので、空腹に我慢ができない人はその間に食べ、昼は水を飲んで耐えた。
 中国人の仕事はさまざまに分かれていたが、坑内で働く人がいちばん多かった。石炭を掘る仕事は一班(一〇人)で何車とノルマがあり、ノルマが終わらないと長屋に帰れなかった。ところが必死に頑張ってノルマを達成すると、翌日には一車がふえた。一日に一車分多くの石炭を掘り、それを車に積むのは大変なことだった。長屋に帰るのが遅くなると、監督たちは働いている中国人の間を歩き、棍棒をふりまわした。空腹と疲れで倒れた人も、監督は棍棒で叩いた。班のノルマが達成されないと監督も坑外に出られないほか、班がノルマをこなすと監督は余分な賃金がいくので、監督は狂暴になるのだ。
 また、坑内ではよく事故が発生した。木の支柱を立てず、掘り終った跡もそのままにしておくので落盤が起きた。逃げても間に合わず、大量の石や土砂に押しつぶされて死んだ。昭和鉱業所に連行された二〇〇人のなかで、日本の敗戦で帰国するまでに九人が死亡している。このうち五人が、作業中に落盤などの事故死で、残りの四人が病死となっている。「中国人が死ぬと、山の上で焼いた。翌日、骨灰は小さな箱にいれると、しばらく監督の部屋に置いていたが、その後はどこへ持っていくのかなくなっていた」(『劉連仁 穴の中の戦後』)という。
 厳しい労働、空腹、監督たちの狂暴な仕打ちに、<ここは地獄だ。このままでは殺される>と連行者の劉連仁は、一九四五年七月に便所の糞つぼをくぐって長屋から逃げた。追っ手たちをふりきり、深い山のなかにはいった。それから一三年間、冬は自分で山に穴を掘ってそのなかに住み、夏は野山や海辺を歩いて食べ物を見つけ、生き抜いた。一九五八年二月八日に当別町の当別山で猟師によって発見された。しかし、中国人強制連行を策定した岸信介商工大臣が首相をしている日本政府は、劉連仁を強制連行し、国内で強制労働をさせたことを認めなかった。劉連仁は責任を負わない岸内閣を強く非難する「声明書」を残し、四月一〇日に白山丸で祖国に帰った。

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8.地球は人間だけのものではない―エコロジスト西村真琴の生涯

西村真琴の生涯 畑中 圭一(著)
単行本: 166ページ
出版社: ゆいぽおと (2008/05)
ISBN-10: 4877584188
ISBN-13: 978-4877584184
発売日: 2008/05
商品パッケージの寸法: 18.8 x 13 x 1.6 cm

内容(「BOOK」データベースより)amazon.co.jpより
日本初のロボット「学天則」をつくった男。植物学を専門とし45歳で北大教授から大阪毎日新聞社に転身。自然を愛し、自然と人間の共生を説きつづけた。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)amazon.co.jpより
畑中圭一
1932年、北海道岩見沢市生まれ。京都大学文学部文学科卒業。童謡の創作と研究に携わり、大阪国際児童文学館総括専門員、名古屋明徳短期大学教授などを務める。1981年、詩集『大阪弁のうた二人集ほんまにほんま』(島田陽子と共著)で第一一回日本童謡賞を受賞。1991年、『童謡論の系譜』で日本児童文学学会奨励賞を受賞。大正期・昭和前期の童謡同人誌の細目・解題を発行するなど、童謡史についての調査・研究をつづけ、2007年、童謡の通史『日本の童謡―誕生から九〇年の歩み』を出版、同書により第三一回日本児童文学学会賞を受賞した。童謡のほか絵本、紙芝居、遊び、わらべ唄など広く子ども文化についての研鑽をつづけている(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

目次

信州松本から広島へ
代用教員から、いきなり校長に
満州植物二千余の標本
コロンビア大学へ留学
マリモとの出会い
「表現者」として楽しむ
輝かしき一九二七年
ロボット「学天則」を制作
日中友好のシンボル 鳩の「三義」
科学とジャーナリズムの融合
幼児教育への情熱
子どもたちへのメッセージ
中国の戦災孤児を大阪で養育
教育のあるべき姿を求めて

日中友好のシンボル 鳩の「三義」 より

(前略)
 (一九三二年)一月二八日に上海事変が勃発すると、真琴は大阪毎日新聞社医療奉仕団の団長として中国に派遣された。命がけの仕事であった。
 二月六日上海に上陸、郊外の廃墟となった三義里の街を歩いていると、さまよっている一羽の鳩を見かけた。絶え間ない砲火におびえているような、そして食べるものもないのであろう、すっかりやつれている。鳩はゆっくりと真琴の方へ歩み寄ってきた。抱きあげると弱々しくのどを鳴らした。とりあえず乾パンのかけらを与え、水も飲ませ、しばらく保護することにした。しかし、街は店がすべて門戸を閉ざしているために、鳩に与える餌も手に入らない。このままここに置いていくわけにはいかず、日本へ連れて帰ることにした。その時たまたま作家の村松梢風と出会い、鳩のことを話しているうちに、このことを魯迅に伝えておきたいということになった。しかし、魯迅が今どこにいるのか、どうしたら連絡が取れるのかまったく不明だった。そこで、魯迅と親交のあった上海内山書店の内山完造に連絡を頼んだ頼んだ頼んだ。内山は一九一七年に上海で書店を開き、上海租界の日本人が急増したために繁盛していた。一九二七年には国民党に追われて上海に移住した魯迅が店を訪れ、それ以来内山と魯迅の親交がつづいていたのである。内山からは間もなく魯迅に連絡したむねの知らせがあった。
 帰国後、鳩は毎日新聞社の鳩舎で保護し、その後、番とともに真琴の家で飼育していたが、翌年三月一六日の朝冷たくなって倒れていた。忍び込んだテンに血を吸われたのである。村の青年たちが野面石を運んできてくれ、三月二六日、鳩を藤の木の下に埋め、「三義塚」という碑を建てた。重光葵公使が「三義塚」と染筆した。碑の裏面には次の歌が記されている。

 三義里の霊をこの地に安らけくまつりて人の心動きぬ 葵

 真琴はこのことを手紙に書き、自分で描いた鳩の絵を添えて魯迅に送った。まもなく魯迅から次の七言律詩「三義塔に題す」と手紙が送られてきた。

 奔霆飛?殲人子 敗井頽垣残餓鳩
 偶値大心離火宅 終遺高塔念瀛洲
 精禽夢覚仍喞石 闘士誠堅共抗流
 度盡劫波兄弟在 相逢一笑泯恩讐
 (坂井雅一氏訳「日本軍の飛行機の爆弾や銃火が中国人民を殺傷し、井戸や垣根をやぶり崩して町を荒廃させ、一羽の飢えた鳩をのこした。たまたまその鳩が西村博士の大慈悲心にあって火に包まれた家を離れたが、とうとう日本で死に、三義塚をのこして、日本を[一つの気高い心の故に]記念している。死んだ鳩は眠りから覚めて、かの古伝説に言う精衛の如く、日中間をへだてる東海を小石をくわえて埋めんとし、私と貴方[中日両国人民]は誠心かたく時流に抗して闘う。今は、日中両国のへだたりははるかに遠いが、苦難して長い月日を渡りつくせば、日中両国の大衆はもとより兄弟である。その時逢ってにっこりすれば深いうらみも亡び去るだろう。」~『人民中国』一九七八年四月号)
(後略)

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9.回風歌・脱出―木島始詩集

回風歌・脱出 木島 始 (著)
ペーパーバック: 142ページ
出版社: 土曜美術社出版販売 (1981/01)
ISBN-10: 4886250556
ISBN-13: 978-4886250551
発売日: 1981/01

目次

回風歌
執刀の夢
日本共和国初代大統領への手紙(声とオーケストラのための上演用台本)
鼎で煮られるミリオン・ハーツ
カーライ・アイランダーノイ
水母の骨さがし
迷宮刑
とぐろ
かくれかなしばり
ほころびめに股をかけ
きみらの指図うけないところ
さめた抱擁
灰かいくぐり
カンタータ 脱出

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10.生きる: 劉連仁の物語

生きる: 劉連仁の物語 森越 智子 (著), 谷口 広樹 (イラスト)
単行本: 238ページ
出版社: 童心社 (2015/7/5)
言語: 日本語
ISBN-10: 4494020427
ISBN-13: 978-4494020423
発売日: 2015/7/5
商品パッケージの寸法: 19.5 x 13.2 x 2.4 cm

内容紹介
1944年9月日本軍により強制連行された劉連仁。苛酷な炭坑労働から逃亡し北海道の山中で一人、13年間生き抜いた魂の記録

内容(「BOOK」データベースより)
1944年9月、日本軍により中国から連れ去られた劉連仁。苛酷な炭鉱労働から逃亡し北海道の山中で一人、13年間生き抜いた。奪われた人としての尊厳をとり戻すための孤独な闘いの物語。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
森越/智子
1958年北海道小樽市生まれ。北方文藝編集部を経て、2001年NGO「子どもの権利ネットワーク南北海道」設立、子どもの権利条約の普及、民間による「子ども白書」の作成など子どもの権利擁護の活動を続ける。日本児童文学者協会会員。全国児童文学同人誌連絡会「季節風」同人
谷口/広樹
1957年神奈川県生まれ。東京藝術大学大学院美術研究科修了。日本橋高島屋宣伝部(現在ATA)を経て、1983年bise inc.を設立。現在、東京工芸大学芸術学部デザイン学科教授。TIS会員(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

目次

人間狩り

とらわれの身
北へ
生き地獄
脱出
再会
試練
別れ
新たな道
冬とのたたかい
海へ
生きる
ひとりの道
リンゴと銃剣

エピローグ
 過去から、そして今へ
 始まりの地と、終わりの地に立って
 明日を生きる君たちへ~劉さんからの伝言

中国人強制労働の事業所一覧表

エピローグ 明日を生きる君たちへ~劉さんからの伝言 より

 劉さんが連れ去られてちょうど七十年目にあたる二〇一四年十月。幸運にも劉さんの故郷、中国山東省の高密市草泊村を訪ねる機会にめぐまれました。
(中略)
 劉さんの妻の趙玉蘭さんと、息子の煥新さん一家が出むかえてくれました。

 父を探し当てられるようにと願いをこめてつけられた「尋児」は煥新さんの幼名で、父を待っていた十三歳の少年は、七十歳になっていました。
 広い肩幅、理知的な瞳、強い意志に結ばれた唇、さして見上げるほどの巨漢の煥新さんは、まるで劉さんがそのままよみがえったようでした。
 趙玉蘭さんは九十三歳。白髪に黒い静かな瞳が印象的な、ひっそりと小柄な女性です。
 一家の働き手であった劉さんを失ったあと、残された家族の運命は、悲劇的なものでした。劉さんの父親は悲しみのあまり病死し、また母親も息子との再会をはたせないまま、餓死してしまいます。兄弟は仕事を求めて散りぢりになり、玉蘭さん親子は、困窮の中に突き落とされました。劉さんの受難は、同時に家族の受難だったのです。
 劉さんが奇跡の生還をとげ、ようやく一家は再び同じ屋根の下に暮らすことができました。しかしなお、劉さんと家族の困難は続きました。連行されてからの十四年間にわたる過酷な日々は劉さんの心と体をむしばみ、言語障害や対人恐怖症などの後遺症に、劉さんは長い間苦しめられました。また、悪夢にうなされ、山林に入るとパニックを起こす逃亡生活の後遺症は、終生癒えることがなかったといいます。

 しかし、劉さんはその死の間際まで、「私の一生を通して最もうれしいことは、本当に正義感ある日本の友人と交わったことだ」と、発見されてから後の日本人との交流と友情を感謝し、日本に対する恨みや憎しみの言葉を口にすることはありませんでした。
「歴史の教訓をくみ取り、前の間違いを、真心をもって改めて、真の歴史の事実を尊重し、解決することから中日関係は初めて確実に、発展的に、子子孫孫まで続けられるものであり、そして国際社会に貢献できるのです。」(劉連仁強制連行訴訟 一九九六年七月十五日 原告劉連仁の意見陳述)
(中略)
 さて、長い困難を生きぬいた劉さんの強靭な生命力。それを支えていたのは、はたして何だったのでしょう。
 劉連仁さんがどんなことをしても生き延びようとしたのは、愛しい家族に再び会いたいという思いにちがいありません。
 しかしそれと同じくらい強く劉さんを支えていたのは、自分の望まないものの力によって犠牲になる生き方は決してしたくないという気持ちだったのではないかと思います。そして生きることは、踏みにじられた尊厳を、そして、奪われた生きる意味そのものを、とりもどすための闘いだったのではないでしょうか。
(後略)

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11.中国人強制連行 (岩波新書)

中国人強制連行 (岩波新書) 杉原 達(著)
新書: 220ページ
出版社: 岩波書店 (2002/5/20)
ISBN-10: 4004307856
ISBN-13: 978-4004307853
発売日: 2002/5/20
商品パッケージの寸法: 17 x 10.6 x 1.4 cm

内容(「BOOK」データベースより)
第二次大戦中、日本政府によって強制連行された中国人は日本国内だけでも一三五か所の事業場にわたる。それはどのようにして行われたのか?日常の暮らしの中から暴力的に引き離された強制連行を綿密な聞きとり調査や現場探訪によって描きだし、これが決して過去のことではなく現在進行形の問題であることを説き明かす。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
杉原/達
1953年京都市に生まれる。1975年京都大学経済学部卒業。1977年大阪市立大学経済学研究科博士前期課程修了。関西大学経済学部教授を経て現在、大阪大学大学院文学研究科教授。専攻は日本学、文化交流史(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

目次

Ⅰ くらしの中から連行された人びと
Ⅱ 中国人強制連行の政策と思想
Ⅲ 中国人強制連行の現在(一)花岡の現場から
Ⅳ 中国人強制連行の現在(二)香港の現場から
Ⅴ 中国人強制連行の現在(三)河南省原陽・河北省石家荘の現場から
Ⅵ 中国人強制連行と私たち

Ⅵ 中国人強制連行の現在(三)河南省原陽・河北省石家荘の現場から
第二節 大阪への強制連行 より抜粋


連行の概況

 大阪の各事業場への連行については、大阪・中国人強制連行をほりおこす会編『大阪と中国人強制連行』が、いまのところもっともまとまった著作である。本項ではこれによりながら、概況を紹介しておこう。まず表2が示すように、連行先は大阪港の港湾荷役と造船所に集中していた。このうち『外務省報告書』にも出ていない大阪港湾荷役は、『外事月報』(内務省警保局外事課発行)により明らかになった。また伏木港からの移動は、『外事月報』や『日本海事新聞』によって裏付けされた。それは、日本港運業会が業界内部で自分の都合で勝手に中国人を配置転換させていた例証であり、港湾伏木が華北労工協会と結んだとされる「契約」にさえ違反するものである。なお、ほりおこす会では、二〇〇一年八月の時点で、中国国内において生存者四五人、遺族一四四人の消息をつかんでいる。

強制連行

 大阪へ連行された中国人たちが拉致された現場とはどんなものであったか。もちろん個々の違いはあるが、典型的な聞き取り例をひとつあげておこう。Ⅰでみた「くらしの中からの連行」が、ここでもあてはまることがわかるのであろう。

 一九四四年六月のある日、家族みんなが寝ていました。夜中の一時ころでした。私の家の庭に何人もの人がなだれ込んできて、ドアをバーンと蹴り破って、部屋に押し入ってきました。日本人は私をはり倒し、下腹部を蹴り上げました。痛くて立ち上がることができませんでした。武装した保定警務段(警務段とは鉄道の治安部門のこと)の日本人六人とそこで雇われている中国人の特務が数人いました。日本人はピストルをかまえ、民間人の服装をした特務は皆銃をかまえて、私や家族を脅しました。父と私、家で働いている労働者一人と魏東児、手習い二人の六人が、すぐ後ろ手に縛られ家から連れ出されました。日本軍は私たちだけでなく、村の男を狙って捕まえに来たようでした。六月ごろは夜明けが早く、村人は朝早くから畑へ仕事に出ます。警務段の者は、寺の前の畑へ通じる道に陣取り、通るものを片っ端から呼び止めては、捕らえていきました。(史克成、一九九五年八月二一~二三日、河北省保定での聞き取り)

強制労働

 では、大阪での労働と生活についてはどうか。日本港運協会大阪築港華工管理事務所が一九四六年春に外務省に提出した『事業場報告書』には、「朝七時宿舎出舎夕十七時頃帰舎す」、「作業修練に意を致し規律作業の訓練に特に無事故希ひ親切叮嚀に指導したり」などとある。だが、その実態がどのようなものであったのかは、以下の証言に赤裸々に示されている。

 荷役の多くは石炭・塩・鉄などです。時には砂糖や食料・布なども運ばされました。毎日六時過ぎころから仕事が始まり、日が沈むころにやっと終わります。一日一二~一三時間の重労働はましな方で、少しでも手を抜くとひどい暴行を受けました。昼も夜もない重労働で、私たちは飢えと眠気に苛まれていました。(魏永禄、一九九三年七月、河北大学の調査による聞き取り)

Ⅵ 中国人強制連行と私たち
中国人強制連行と私たち より抜粋


 『外務省報告書』の思想を自らの問題としてえぐり出し、それと切り結ぶ作業をすすめていくためには、中国人強制連行問題をとりまく現在の日本社会の意識状況をひとまず概観することが要請されるだろう。この点について、最後に一言しておきたい。冷戦と高度経済成長という体制によって形成されてきた日本社会にくらす多くの人びとの意識状況とは、時間(1)だけを切り離して回顧し、それを過去のできごと、戦争という特異な非日常のできごとに(ときに「同情」をもって)封じ込めてしまうとともに、時間(2)と時間(3)の流れの中のいくつもの現場に対して無関心であったり、そもそもそのような現場を不在とみなすという形で関係をもつというあり方である。「帝国意識」と私が呼びたいのは、こうした思考方法のことである。帝国主義の意識や感じ方は、敗戦とともに克服されたのでは決してなかった。それは「帝国意識」として、戦後の日本社会で生まれ育った者たちの中にも、複雑な様相をもちながら無意識のうちに組み込まれていると私は思う。
 どうしてこのような発想が支配的になるのであろうか。その解明は容易ではないが、少なくとも、日本に住む多数の人びとのくらしが、百余年にわたる近現代の「日本」によって、自らの存在そのものに深刻な影響を受けてきたアジアの人々の生活の上に成り立っているにもかかわらず、そのことに無自覚・無関心で生活することができているという構造が存在していることはまちがいない。こうした日本社会の現況の中で、当事者の証言を受けとめようとするとき、私たちには、戦後という時空間に生きてきたこと自体を対象化する姿勢が根底的に求められていよう。なぜなら、強制連行された関係者たちは、語り尽くせぬほどに強いられた困難をくぐり抜けて、ようやく「いま」にたどりついたのであるから。
 だからこそ、現在の日本の中にあって、発話主体の位置が、きびしく問われているのだ。私は、連綿と続く歴史というような予定調和的な観念を拒否し、「特定の過去」と「いま」を往還する時間性にじっくりと寄り添い、そして現場の多様性にわが身を置いてみるというあり方を選び取っていきたいと思う。その問題は、有り体にいえば、自分が生きていることが、どういう繋がりの中で成り立っているのかを、どこまで歴史的かつ将来的な想像力をもって考え得るのかということかもしれない。私が本書によって示したかったのは、中国人強制連行という具体的な問題に即して考えた場合、地理的区画という意味ではなく、同時代的に、また構造的な関係性の中で成立している文脈としての「日本」を通じて、中国人当事者たちと私たちは、実は互いに同じステージ、共通の場において連関し続けているということなのである。
 「『私たち』は発見されるのではなく、(もとより外から表象されるのではありえず)意見交換のプロセスのなかで創出される。私たちのなかにある共通の本質ではなく、私たちの間に形成される共通の問題意識や問題関心が、私たちを繋ぐメディアとなる」(齋藤純一)という現場に私たちは身をさらしているのだ。ここにおいて「私たち」は、単に日本社会の成員だけでなく、中国人当事者も含む形で構成されることになり、それぞれの位置から、現在の具体的な問題に対して、ともに立ち向かうことになる。
 絶対的少数者である中国人強制連行の生存者・遺族の声が、声としてこだまする空間を作り出す営みが、同時に自分自身の姿勢を不断に問い直す形で、中国人強制連行という問題を現在の日本社会の中に広げる営みでもあるようにしていくこと。一方では圧倒的な裂け目をもちながら、他方では「関係ないじゃん」とは言えない共通の場に双方が組み込まれているという認識のもとに、言説空間を積極的に設定していくこと。こうした主体的な応答の営為こそが、生存者や遺族に向き合っていく道筋であろうと考えるのである。

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12.中国人強制連行の軌跡―「聖戦」の墓標

中国人強制連行の軌跡 上羽 修(著)
単行本: 246ページ
出版社: 青木書店 (1993/06)
言語: 日本語
ISBN-10: 4250930181
ISBN-13: 978-4250930188
発売日: 1993/06
商品パッケージの寸法: 19.6 x 14 x 2 cm

内容(「BOOK」データベースより)
「過去の克服」は真相を自ら究明することから始まる。中国人強制連行の歴史を追ってその舞台裏・旧満州へ、表舞台・華北へ…。ルポ・フォトグラファーが日本の自分史を求めて行く。

内容(「MARC」データベースより)
「過去の克服」は真相を自ら究明することから始まる。中国人強制連行の歴史を追ってその舞台裏・旧満州へ、表舞台・華北へ…ルポ・フォトグラファーが日本の自分史を求めて行く。

目次

序章 見えなかったものを求めて
第1部 万人坑を訪ねて―旧満州へ
 第一章 悲劇の舞台裏を行く
 第二章 蜂起した中国農民
 第三章 乱造された安価な労働者
 第四章 強制労働のあげくに
 第五章 「正史」には登場しない日本人
 第六章 そして、万人坑が残された)
第2部 中国人強制連行の舞台―華北へ
 第七章 あたかも陸地に浮かぶ緑の島で
 第八章 「石門労工訓練所」、またの名を
 第九章 「北支労働事情視察団報告書」の嘘と真実
 第十章 「私は中国人捕虜を日本へ連行した」
 終章 中国人強制連行の舞台・華北


終章 中国人強制連行の舞台・華北 より抜粋

北海道の山中で逃亡生活一三年

 戦後一三年、日本もようやく敗戦の混乱期を脱して高度経済成長期にさしかかろうとしていた矢先、北海道の雪穴から、戦争の強烈な体臭をもつ一人の中国人が発見された。彼の名前は劉連仁。
 一九五八年三月一日付、東京華僑総会発行の『華僑報』は、次のような大見出しでこの事件を報じた。
「北海道で一三年間穴居生活、中国人劉連仁氏現わる
 戦時中、日本軍に拉致され、北海道の炭鉱で強制労働させられた中国人捕虜劉連仁氏(現在四七歳、山東省諸城県紫溝村出身)が、終戦直前虐待に耐えかねて収容所を脱走、以来十三年間雪に埋れた北海道の山中に穴ごもりの生活を続けていたが、二月八日石狩郡当別町材木沢の山中で発見されるという事件が起きた。劉氏は目下札幌で凍傷等の治療を受けて静養しているが、もともと日本へ連行してはならないものを、連行してきたのであるから、今後日本政府がどのような処遇を与えるか、注目されている」。

 山東省高密県人民政府外事弁公室が用意してくれた車はフルスピードで走った。高密の小さな町並みはたちまち遠ざかり、かわってトウモロコシ畑や綿畑の広がる農村部に入った。(中略)
 やがて、村が見えてきた。こんもりと樹木が重なりあっている。劉連仁さんの故郷、井溝鎮草泊村である。
(中略)
 訪問の目的は、村で捕まり北海道の炭鉱へ連行され、そして一三年にわたる逃亡生活という劉連仁さんの苦難の足跡を、写真で記録するという仕事の一環であった。といっても、半世紀ほども前のことである。生活の具体的な跡を記録することはほとんど不可能に近く、いきおい心象的に表現せざるをえないのである。そのために、劉さんが北海道の山中で何を想いながら生きていたのかを、本人に直接確かめておきたかった。
 四か月前に、私は北海道での劉さんの足跡をたどっていた。連行された雨竜郡沼田町の明治鉱業昭和鉱業所はすでに廃坑となり、坑口と選炭場、戦後建てられた工員宿舎などが深い熊笹の中にその残骸を晒していた。
 案内に立ってくれた沼田町職員の話によると、ここは道内きってのヒグマの出没地域だったとのことで、いまでも山に入るときには猟師をともなうのだという。彼はもしものためにと爆竹を用意してくれた。たしかに、ここは人里をはるかに離れた山中である。熊笹のざわめきも思わずギクリとしてしまう。
 劉さんが最後に発見された当別町材木沢の小高い山の頂上部は、背丈ほどもある熊笹に覆われていた。少し木のしげみに入るとブヨの大群が襲ってきた。これは予想もしていなかった。刺されると腫れ上がり、激しく痛むという。頭から防虫網をかぶり、石油で濡らしたタオルを帽子の上にのせた。こんな用意は決してできなかった劉さんは、どのようにしてブヨの襲撃から身を守ったのだろうか。
(中略)
 私はキャンピングしながら北海道での劉さんの足跡をたどった。少しでもその逃避行を追体験できないものかと思ったからである。
 だが、それは基本的なところで無理があった。私は国営や町営のキャンプ場を利用したのだが、そこは、いわば日本政府と自治体によって宿泊者の安全が保証されたところであって、闇に閉ざされた夜の原生林はなんとも不気味な存在であった。反対に劉さんにとっては、人に見つかれば殺されるという逃亡生活なのだ。体制から逃避する者にとって、権力の及ばない深い熊笹と暗黒の闇こそ、安全な隠れ家だったにちがいない。この倒錯した世界だけは、いかにしても追体験することができない。
 日本人社会への恐怖は、同時に母の懐のように自分を受け入れてくれる社会、生まれ故郷への想いに駆り立てたであろう。望郷の念はやがて失望に変わる。失望の中で一層故郷を想う。それを幾度繰り返したことだろう。故郷を想うことにも疲れ果てたのちにはいったい何を想い、何を頼りに何年も何年も生きつづけてきたのだろうか。劉さんの想いを追体験することもむろん私にはできない。
 しかし、一方では、自然のなかで安全に生活する術を一通り身につけたあとは、自然は、日本人から身を守る保護地となり、唯一安らぎと喜びをもたらしてくれる源に変ったのではあるまいか。身を隠した深い熊笹の蔭に射す木もれ日を顔に受けながら、生きていることの喜びを無意識のうちに噛みしめ、明日への生きる力を劉さんは育んでいったのではないだろうか、と思った。

 劉さんと差し向いで、お茶を飲みながら、当時の体験を聞いた。劉さんはまるで昨日のことのように話してくれた。
 「冬のあいだ、五か月間も穴の中でくらしました。暗い穴の中で、自分はこのまま死ぬかもしれないという想いにかられながら」。
 劉さんの一言に、私はおのれの軽薄さを思い知らされた。
 劉さんは絶えず“死”と直面していたのである。
 劉さんと村の中を散歩した。
 トウモロシコの実を切り取っている老人や、むしろに綿花を広げている婦人に冗談を投げかけ、陸に上がっているアヒルを見つけると、両手を挙げて池へ追い込む。こんな平和な生活を劉さんは送っていた。そんな劉さんを見て、私は本当によかったと思う。
 同時に、新婚の平穏な生活を奪った当時の日本に、どれほどの憎悪を持っているだろうか、気になる私に劉さんは言った。
 「いまの日本政府に、謝罪と賠償を要求します。しかし、カネを求めているわけではありません。
 お母さんは、私が帰国する十数日前に、私の名前を呼びながら死にました。それを思うと、針を刺されるようにつらい。
 私が死んだあとも、息子が、孫が、日本政府に要求するでしょう」。
 文字どおり風雪に耐え、達観していると見えた老人が、思わず声を詰まらせた。劉さんは、日本政府が自ら真実を明かにし、誠意をもって謝罪することを求めているのである。

 一九四二年一一月二七日、東条内閣は「華人労務者内地移入ニ関スル件」を閣議決定したが、当時の商工大臣は岸信介であった。そして、劉さんが発見された一九五八年、日本の内閣総理大臣は、皮肉なことに奇しくもその岸信介であった。
(後略)

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13.劉連仁(りゅうりぇんれん)物語―当別の山中から

劉連仁物語―当別の山中から しみず みきお (著)、おおさわ つとむ (イラスト)
大型本: 30ページ
出版社: 響文社 (2009/09)
ISBN-10: 4877990674
ISBN-13: 978-4877990671
発売日: 2009/09
商品パッケージの寸法: 26 x 18.6 x 1.4 cm

内容(「BOOK」データベースより)
あなたは、劉連仁という人を知っていますか?劉連仁生還50周年記念。劉連仁さんはどうして、13年間も北海道の山中をさまよったのでしょうか。どうして、中国から北海道へ連れてこられたのでしょうか。1958年、当別の山中から奇跡の生還をとげた劉連仁の物語。

本編には目次なし

しおり目次

中国語訳/劉洋 訳
莫言、当別を語る/松井博光 編訳
1958年の聞き書き・書き置き/木屋路喜一郎
劉連仁さんの逃走経路図/席占明
劉連仁生還記念碑案内図

莫言、当別を語る/松井博光 編訳 より抜粋

 劉連仁と同郷の、世界的に著名な作家莫言は、札幌市の招請で、2004年12月25日から05年1月5日までの間、北海道を訪れている。(中略)
 莫言の北海道訪問の大きな関心の一つは、劉連仁が生還した地当別を訪れることだった。
(後略)

莫言、戦争を語る

(前略)わたしが北海道に来ようと思ったのは、むろんこの故郷の伝説的人物を書くためです。前に彼を取材した時、彼の家に二泊二晩泊まりこみました。個々の事柄については、あの日当別町の農民よりはっきりと知りえたのに、家の中に閉じこもって想像した北海道の厳しい様子は、やはり雪の白さはどれほど目に刺激的かといった程度にとどまって、実地に体験したことには遠く及びませんでした。劉連仁が潜んでいた洞穴は大きなものと想像していたのですが、当別町の塑像(注‥洞窟をかたどった記念碑)を見て、はじめてごく小さなものだったことがわかりました。しかも劉連仁を救出した農民も想像と違いました。袴田清治(注‥劉連仁を山中に発見し救出にあたった当別町の町民)は当時中国を侵略した日本軍兵士ですが、映画に出てくる日本兵とはまったく違いました。いま彼はもう晩年の人です。救出に携わった時、彼は一人の普通の農民だったとわたしは信じています。戦争は彼にとってやはり一場の悪夢だったのです。
 劉連仁の物語は戦争が生んだ伝奇です。戦争は全体からみると一つの混乱ですが、具体的にそれぞれの家庭、それぞれの個人について見れば、それぞれの家庭に離合悲歓をもたらし、多くの人を自分では予測しようのない運命に陥らせます。劉連仁は、日本に来る前には、一生にこんな経験をすることがあるなんて、夢にも思わなかっただろうとわたしは思います。それは彼にとって一場の悪夢です。われわれ部外者には、その13年、彼が一日一日、一分、一分をどうやって過ごしたのか、想像もつきません。最も重要なのは、彼が敬服すべき偉大な生命力を体内に備えていたことです。むろん彼とて動揺した時もあり、三度自殺を考えましたが、最終的にやはり頑強に生き続けました。生命への愛着と故郷への執念が彼を支えたのです。
 当初、彼は深山に逃げ込み、人から遠ざかることばかり考えたけれど、そのうちにだんだん村里に近づくようになったと、語ったことがあります。人との交流を渇望して、相手は日本人でも構わなかったのです。最後に彼は鉈をぎゆっと握りしめていました。それは本能だとわたしは思います。もし彼が日本語を知っていたら、とっくにどこか日本の家庭にはいって、その家族と友達になっていたでしょう。  人と人は本来非常に親しい間柄なのに、戦争がすべてをぶち壊しました。当別の人々が劉連仁を発見してから示した人間性・善良・正直、そしてそれ以来40年以上劉連仁の事跡を語り継ぐために払った努力は、中日両国の人民が本来友好的であり、いかなる矛盾も存在するはずがないことを雄弁に証明しているのです。今では、劉連仁事件は戦争がもたらした伝奇から、友好の証拠へと変化しました。わたしは当別町で大和胡弓の演奏を聞いた時、思わず目が潤みました。もし当時劉連仁が洞窟の中で村里から流れてくるそのような音楽を聴いたなら、彼は熱い涙を流したにちがいないとわたしは思います。
 当別町も劉連仁の故郷高密(ガオミー)県草泊(ツァオポー)村も、どちらもそれぞれの国の辺鄙な地域なのに、戦争はまったく無関係だった人を一緒におし流して、運命を交錯させました。この小さな具体例が戦争の総体を把握し認識しようとするわたしにとって、大いに役立ちました。中国の「文革」とそれに先立つ17年間(注‥中華人民共和国建国から文革開始までの17年。1949~66)のいくつかの戦争小説が生命力にとぼしく、読者に偽りを感じさせたのは、概念だけに頼ったからで、戦争をそれぞれの家庭、それぞれの個人について具体的に把握していないために、豊かで生きいきとした個人が活躍するロシアの戦争小説のようには、運命感を表現できなかったのです。北海道に来てみて、もしまた戦争小説を書くとしたら、わたしはまさに生きいきとしたものが書けるように思います。
 劉連仁の伝奇によって、人は大きな悲劇的運命を前にしては、なす術を知らないが、しかし同時に大きな力を発揮できるのだということを教えられました。戦争とは、血と血の抗争だけでなく、人と動物、人と自然の衝突・融合でもあります。具体的な各個人にとって、運命の行方と感触はそれぞれ違うものでしょう。具体的な木一本、岩石一つ、風一吹きでさえ、人の運命の行方に決定的な作用を及ぼすのです。

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14.木島始詩集・復刻版

木島始詩集・復刻版 木島 始 (著)
単行本: 255ページ
出版社: コールサック社; 復刻版 (2015/7/15)
言語: 日本語
ISBN-10: 486435202X
ISBN-13: 978-4864352024
発売日: 2015/7/15
商品パッケージの寸法: 19 x 13.6 x 2.2 cm

【目次】

詩・わが年代記
 起 点 ―一九四五年―
 戦 後 ―一九四六年―
 師 よ ―一九四七年・中井正一氏に―
 大 学 ―一九四七・八年―
 徴 侯 ―一九五〇年―
 嘔 吐
 虐 殺 ―一九五二年五月一日―

動物・鉱物・植物
 牛
 麦
 鳩
 電気機関車
 通勤人群
 向日葵
 主婦たち
 穂高岳
 谺
 位置について
 風とともに徒渉する
 霧明け
 五月の香り
 恋よぼくらふたりの……
 せいめいの……
 夜の推移をみはりつつ
 とおくのひとに
 初春に
 きみの眼よやさしく燃えよ
 ぼくたち地下水の……
 映 す
 遠 望
 友の死は……
 厳寒の河岸を追うて

星芒よ、瞬け (長 詩)―放送のために―

直 射
 日比谷
 ポプラそびえたつ闘いの土地に
 五・三〇の兇弾にたおれた小学校教員の妹よ
 予 兆
 病 巣
 悼む ―宮本百合子に―
 ポール・エリュアール
 誕 生
 序 曲
 部 署
 獄中におくるハガキ

断 章
 Ⅰ
 Ⅱ
 Ⅲ
 Ⅳ

蚤の跳梁 (長詩)

跋 文
 野間宏 凝血にふるえる葉先

復刻版に寄せて―各界からのメッセージ―
 山田太一/信長貴富/佐川亜紀
 有馬敲/水田宗子/中村不二夫
 こたきこなみ/田部武光/小島光子

解 説
 佐相憲一 伝説の戦後詩集を今日・未来へ
鈴木比佐雄 「列島」の精神を継続し日本の詩を世界につなげた人
編 注

復刻版に寄せて―各界からのメッセージ―  小島光子 より

戦後七十年に

 この詩集冒頭の〈手にふれるものは/みな熱い〉(「起点ー一九四五年ー」)は、当時十七歳であった木島始少年が原爆投下当日、岡山の旧制・第六高等学校生(理科甲類)として現・東広島市内の疎開工場の屋内で光を受け、屋外で茸雲を見たこと、そして広島から担がれてきた人たちに赤チンをつけるしかなく、家族を呼んだり徹夜で看病した体験からである。ただならない状況の中にいた少年からほとばしり出た詩であり、読むたびに息づかいも聞こえてくる。国内外で多数の犠牲者を出していたにもかかわらず、私(十歳)も関東の田舎町で〈目隠しされていたことさえ/わからなかったほど/いまいましい過去〉(「起点」)の中にいた。
 現在の為政者たちは、自衛隊海外派兵やオスプレイ配備などをおしすすめているが、過去の戦争に向きあったことのない人のやり方だ。どんな大義名分を掲げたとしても、犠牲者の出る戦争の前には有効ではない。木島始の詩は、今日の壁に向かってなお発信し続けている。

編 注 より

 一、本書は詩人・作家・英米文学者・翻訳家の木島始(一九二八~二〇〇四年)が一九五三年五月に未来社から発表した第一詩集『木島始詩集』の復刻版である。すでに入手困難な伝説の詩集を、今日的な装いで、詩文学出版社コールサック社より刊行する。(後略)

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15.中国人強制連行

中国人強制連行 西成田 豊(著)
単行本: 496ページ
出版社: 東京大学出版会 (2002/06)
ISBN-10: 4130266039
ISBN-13: 978-4130266031
発売日: 2002/06
商品パッケージの寸法: 21.2 x 15.2 x 3.2 cm

出版社からのコメント

日本近代史上に「中国人強制連行」を位置づけた労作。中国人強制連行政策と強制労働の実態を明らかにし、その連行過程から就労の実際、花岡事件をはじめとする数多の抵抗と敗戦後の送還、賃金問題までを丹念に追う。一三五事業場「華人労務者就労顛末報告書」をはじめて本格的に分析、中国人強制連行を日本近代史上に位置付ける。

【担当編集者から】
この本をひらき西成田先生の検証に導かれて資料を読んでゆけば、交戦国の俘虜を使役したということ、過酷な使役条件など、これが「帝国」日本経済の極限形態を示す事実であることが明らかになります。国家政策から中国人たちの食事まで、中国人強制連行のほぼすべての面をカバーした決定版となりました。

内容(「MARC」データベースより)

1943年前後から実行された中国人強制連行政策と強制労働の実態を明らかにし、連行過程から就労の実際、花岡事件と数多の抵抗と敗戦後の送還、賃金問題までを丹念に追う。中国人強制連行を近代史上に位置付ける。

目次

序論 第1章 中国人強制連行政策の成立過程
第2章 中国人強制連行の組織と構造
第3章 中国人強制連行の過程
第4章 被連行中国人の構成と特徴
第5章 中国人強制労働の構造と実態
第6章 被連行中国人の生活条件
第7章 被連行中国人の死亡と疾病・傷害
第8章 被連行中国人の要求・抵抗・蜂起
第9章 「帝国」日本の敗戦と政治的・経済的諸主体
結語
おわりに

序論 より
(前略)これまで朝鮮人・中国人強制連行が学術研究の対象として俎上にのせられることはほとんどなかった。朝鮮人強制連行については五年前に著わした拙書で世に問うたが、中国人強制連行については、優れた啓蒙書・ルポルージュが存在するにもかかわらず、中国人強制連行の構造的総体を解明した学術書はまったく存在しない。中国人強制連行に触れた学術論文として松村高夫の研究があるにすぎない。一九六七年に発表された松村のこの論考は、中国人強制連行について幾つかの重要な事実を指摘しているにもかかわらず、松村の論考はその後発展・展開されることなく、三十余年の時を経て今日に至っている。
 本書が、中国人強制連行をその政策と構造に即して実証的に解明することを課題として設定したのは、ほぼ以上のような理由による。実証的考察を重視したいまひとつの理由をのべれば、「中国人強制連行は存在しない」という一部の論者の主張を批判するためには、その事実が存在することの体系的実証がつよく求められていると、考えたからである。

あとがき より
(前略)本書の基本史料となっている各事業場『華人労務者就労顛末報告書』が、陳焜旺氏(後述)の広い執務室の片隅にダンボール箱一三箱に山積みにされているのを発見したとき、またIPS文書のなかに花岡事件を中心とする中国人強制連行に関する重要な史料が含まれているのを見出したとき、率直に言って私は身震いする思いがした。そのほか、本書ではほとんど利用することができなかったが、北海道立文書館、北海道大学北方資料室、群馬県文書館、福岡県立図書館の各機関が所蔵している中国人強制連行関係史料を含めると、私がコピーして収集した史料は八〇〇〇ページを超える。
(中略)
 本書を書き終えてあらためて私が感じたことは、中国人強制連行それ自体が、日中戦争、アジア・太平洋戦争の性格--日本の中国に対する侵略戦争--を、端的にものがたっているということである。この戦争における日本の侵略性について言えば、被害国である中国がもっともよくその本質を知っており、加害国である日本が「植民地解放戦争だった」と言っても、それは言い訳にすぎない。本書のような学術書に以下のような例を引き合いに出すことに多少ためらいを感ずるが、それはセクハラ、イジメについての規定と同じである。被害者が、セクハラ、イジメと感じとったら、それがセクハラであり、イジメである。加害者に事の性格を規定する資格はない。被害者は心身に深い痛手を負っているだけにもっともよくことの本質を知っている。加害者が「そのつもりはなかった」と言っても、それは言い訳にすぎず、被害者を納得させるものではない。日中戦争、アジア・太平洋戦争については、「そのつもりはなかった」どころか、「侵略」という表現こそないものの、日本の侵略性を客観的に示す史料が多数存在するのである。

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16.CD りゅうりぇんれんの物語

CD りゅうりぇんれんの物語 沢知恵(曲・弾き語り)
CD (2007/7/18)
ディスク枚数: 1 (全文掲載ブックレット付)
レーベル: コスモスレコーズ
収録時間: 73 分
ASIN:B000R5OPQS
EAN:4543662000248

メディア掲載レビュー

ここにひとつの物語があります。戦後を代表する詩人、故・茨木のり子の名作を沢知恵がピアノで弾き語る!! 大戦中に旧日本軍に強制連行された中国の一般人、劉連仁(りゅうりぇんれん)さんの北海道での13年間に及ぶ逃亡生活を綴った壮大なスペクタクル。実話にもとづく衝撃の叙事詩。70分超のこの長編詩1曲のみを収録。 (C)RS

全文掲載ブックレット
  沢 知恵が「りゅうりぇんれんの物語」を歌うまで
            宮崎 治 (茨木のり子の甥)

 「りゅうりぇんれんの物語」は詩人・茨木のり子が一九六一年に詩誌「ユリイカ」に発表した長編の詩劇で、一九六五年出版の第三詩集『鎮魂歌』に収録されている。
 近年童話屋から復刊された『鎮魂歌』のあとがきには書かれていないが、絶版になった思潮社のオリジナルのあとがきを読むと、伯母は「りゅうりぇんれんの物語」を朗読のための詩として書いたと記載している。声に出して読むために作られた詩が、発表から四十五年を経て、楽曲として新しく生まれ変わり、CD作品となったことは感慨深い。
 この物語のテーマは「運命と運命の出会い」であるが、沢さんと「りゅうりぇんれんの物語」についても、運命の出会いが交錯している。
 叔母は少女時代に沢さんの祖父である韓国の詩人、金素雲氏の『朝鮮民謡撰』(岩波文庫)を愛読し、氏の秘められた抵抗精神を受け取らざるを得なかったと随想に書いている。
 その金素雲氏の孫娘から、ある日一通の手紙が届く。
 五十年以上前に愛読した詩人の孫娘が歌手となり、今度は「わたしが一番きれいだったとき」を歌にしたと知り、さぞ深いえにしを感じたことであろう。
(中略)
 物語を最後を飾るフレーズは「交わされざりし対話」である。
 金素雲氏のパワフルな孫娘は、時代を越え、国境を超え、運命の交錯を越え、その隙間をしっかりと自分の言葉、自分の音楽で埋めるという夢を達成したのだ。
 このCDには、誰にも真似のできないその瞬間が、永遠に記録されている。
(後略)

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