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作詩・作曲者らのメッセージ・目次

1.作曲者が語る カンタータ「脱出」と「うたの学校」
2.作曲者による巻頭言 カンタータ「脱出」(ヴォーカル・スコア)
3.作曲者が語る カンタータ「脱出」(LP)
4.作詩者が語る カンタータ「脱出」(LP)
5.作詩者が語る カンタータ「脱出」(CD「劉連仁追悼コンサート」)
6.作曲者による2001年のカンタータ「脱出」合唱団 結団式挨拶
7.作曲者による2001年劉連仁追悼コンサートへのメッセージ
8.作詩者による2001年劉連仁追悼コンサートへのメッセージ
9.2001年劉連仁追悼コンサートへの寄稿 丸山昇
10.子川上に在りて曰く:逝く者は斯くの如きか 文彬氏の寄稿
11.〈新しい部長ということで〉小島昭三

1.作曲者が語る カンタータ「脱出」と「うたの学校」

CDブック林光の音楽 大原◎この間、新藤監督にインタビューしたときなんですが、「林さんももう大概にすればいいのに、お金にもならないのに(笑)」とおっしゃってましたが・・・。
林◎そうですか、新藤監督も、もう大概にすればいいのに(笑)。
大原◎言い返しましたね(笑)。でも、一般には作曲家、林光さんが、方々へ出向いていって日曜日も土曜日もリュックサックをしょって出かけて、子供たちや先生方と歌を歌っている。外から見たら、やっぱり大概にすればいいのにと思う人は結構いるんじゃないでしょうか。
林◎つまり、そこへ行って、そういうことをやって、おもしろいということがわかってもらえないとそういう話になっちゃうんだよね。
大原◎でも新藤さんはわかっていて言ってらっしゃるんですけど、きっと。
林◎あの人はわかって言っている。ただ、映画監督七十五年か八十年の生涯の中で、初めて見たのでびっくりしたんでしょうね(笑)。
大原◎もう少し、その「大概にしろ」について、さらにうかがいます(笑)。あえて今日はインタビューですからうかがいますけど(笑)。いったい何がおもしろいんですか。という問いには何とお答えになるんですか(笑)。
林◎そうだね・・・。ええ。何て言うか、まあ・・・(少々沈黙あり)さあ、難問だな。何がおもしろいか・・・。音楽を大勢でやるというのは本質的にそれは楽しいことではあるはずなんだけど。ただそういう場所はなかなかなくて、たいていは、もっとお勉強する会だったりするわけです。ただ騒ぐ会だったり、それから今までの名曲や何かをただあがめる会だったりするわけです。そうではなく歌う人がいる。ピアノを弾く人がいる。役割は違うけど一緒にやっているのは楽しいねって言うことなんです。とくに子供たちの場合は、目の前で、やっぱり歌がどんどん変わったりするのを見るのは、すごくおもしろいんだね、ということかな・・・。ほかNHKでいろいろな学校へ専門家が行って授業する番組があるでしょう。あれですね。あの楽しさと共通するものがある。
大原◎いままでどのくらいの学校を回られたのでしょうか。
林◎それは数えきれないな・・・。
大原◎小、中、高校の先生たちを中心に日曜日に集まって、林さんのソングをみなさんで歌って、林さんのお話をきくという「うたの学校」は? 何年くらいになるのでしょうか。いつごろからはじめられたのでしょうか。
林◎二十年くらいになるかな。八〇年代の初めからですね。うたの学校の方は年に十一回。八月は休む。
大原◎全国の音楽の先生方といっしょに歌を歌われるようになったきっかけは何があったのですか。
林◎きっかけは、一九七八年に《脱出》というのを書いた。その後八〇年に再演があって。初演は東京労音の会員が集まって歌った。再演は日本教職員組合が主催して、武道館で教育を守ろうみたいな会があった。急遽それに参加する人を集めたんだけど、練習は六回しかやれなかった。それで本番を迎えたんだけど、その慰労パーティーみたいなのがあって、そのとき今度は少しゆっくり歌う会を作ろうということになったのが始まり。
大原◎カンタータ《脱出》がそもそもの始まりだったんですか。この曲は、日本軍によって中国から強制連行された劉連仁(リュウリェンレン)の実話をもとにして、木島始さんが詩を書いた作品ですね。
林◎そう、はじめは《脱出》のどこかの章を几帳面にやっていたわけだけど、そのうち面倒になって、歌いたい歌を歌おうということになって、ずっと続けているんですよ。それで毎月一回やろうということになっちゃったの。問題は会場で、誰かの勤めている学校を借りられるということになるとそこでやる。
大原◎それがもう二十五年も続いているんですね。(後略)

小学館のCDブック「林光の音楽」
インタビュー・林光さんに聞く創作の秘密 (聞き手 大原哲夫) より抜粋

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2.作曲者による巻頭言 カンタータ「脱出」(ヴォーカル・スコア)

楽譜

 《カンタータ「脱出」》の素材となったのは、日中戦争(太平洋戦争)のおわりちかく、日本での強制労働から脱出し、北海道の原野に14年のあいだかくれ住んで生きのびた中国農民、リュウ・リェンレン(劉連仁)の体験で、その詳細は、欧陽文彬の記録小説「穴にかくれて十四年」(三好一訳・三省堂刊※)で知ることができる。

 木島始の詩は、リュウの体験を中心に、多くの資料を活用して書かれた、大きな構想の戦争叙事詩で、日本人の戦争犯罪を日本人じしんが告発した作品として、同じ作者の「蚤の跳梁」(“731部隊”による細菌兵器の人体実験を主題とする)と並んで、詩の分野で最初に数えあげられるべき価値をもつ。

 この作品は、東京勤労者音楽協議会(略称「東京労音」、勤労者の自主運営による音楽鑑賞組織)の委嘱により、会員自身がうたうための合唱曲として、作詞・作曲された。

林光  カンタータ「脱出」(一ツ橋書房)より

※引用者注 三省堂は当時。現在は新読書社から刊行されていますが、現在、購入するのが難しくなっているようです。

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3.作曲者が語る カンタータ「脱出」(LP)

 劉連仁の体験を中心に、多くの資料を採用しながら書きおろされた、木島始の台本は、そのままですぐれた叙事詩であり、とくに、日本人の戦争犯罪を日本人じしんが告発した作品としては、同じ作者の「蚤の跳梁」と並んで、この分野でさいしょに数えあげられるべきものだが、歌うための詩としての特徴は、こういったばあいにありがちな、叫んだり感情を盛りあげたりということを歌に要求するのではなく、むしろ“語り伝える”ことを求めている点にある。
(中略)
 この曲を歌うためにあつまった200人ちかい合唱団員は、そのほとんどが、合唱経験のない、若い労働者だったが、6月7日から11月28日まで、オーケストラとの合わせを含めて33回の練習で、全曲を暗譜し、そのうえ、印刷された台本はもちろん、荒筋が書かれた解説書なしに、聴衆に叙事詩の内容を、耳から、ほぼ完全に伝えることができた。
(中略)
 このレコードは、《脱出》の初演に参加した人たちの記念としてつくられ、大部分は、その人たちとその友人たちの手に、記念品として手渡されるだろう。
だが、作者たちはおねがいする。このレコードを、個人のもちものとしてしまい込まないで、多くの人びとに聴かせてほしい。聴いてくれた人びとは、できれば歌ってほしい。オーケストラがだめなら、ピアノででも歌ってほしい。それから・・・。

林光 LP「カンタータ 脱出」より

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4.作詩者が語る カンタータ「脱出」(LP)

 ことばが通じなくて、お手あげだったよ、というひとがいる。
 ことばなんか通じなくても、人間どうし、肌でわかりあえたよ、というひともいる。
 民族がちがうところへ行けば、どちらも本当だろう、とわたしは考えている。
 知りあったものどうし、また、知らないものどうし、ふれあうとき、ドラマが生まれる。誤解が、いちばんドラマの火花を散らせやすい。極端な誤解は、戦争殺人への道だ。
 信じられないようなひどいことを、人間はしでかす。しでかしてきた。
 わたしが、このカンタータを《脱出》と名づけたのは、日本語を知らないひとが、日本で奴隷とされている状況から、たったひとり忍耐づよく抜けだしていった足跡をうたっているからなのは、あらためて言うまでもないが、どうじに、そういう奴隷をつくりだす状況から、わたしたちじしん抜けださなければなるまいと思ったからであった。
 これは、現実に起った事件にもとづいて、ほとんどフィクションを導入しないで書いた叙事詩カンタータである。
(後略)

木島始 LP「カンタータ 脱出」より
「回風歌・脱出 木島始詩集」の注にも収録

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5.作詩者が語る カンタータ「脱出」(CD「劉連仁追悼コンサート」)

劉連仁追悼コンサートCD (前略)
 劉連仁さんの辿られた生涯の軌跡をおもうと、人間性の生地を守られたひと、その志を全うされたひと、と痛感する。
 「脱出」に書きこめられなかったことの一つに、劉連仁さんを最初に発見した北海道のひとびとが、人間としてまともな応対をされたことがある。
 強制連行と送還とのあいだに挟まれた、人間と人間とが出会う驚きのドラマがある。
 なごみあうきっかけである。
 どうか、《脱出》を聞かれるかたがた、いや、歌うひとびとも、めいめい自分が原野をさまよって、劉さんとおぼしき人(いや、人か人でないかもわからない)に出会って、どう自分が行動するか、行動しないか、想像力で補ってください、とお願いしておきたい。

 度盡却波兄弟在 ※

 果てしない波を渡りつくして兄弟がある

 さいごにくりかえされる魯迅が日本人の西村真琴にあたえたこの詩句を、その想像のドラマで思い起こしてもらえば、《脱出》をふりかえってのわたしの反省は、このカンタータの集まりに参加したみなさんに、確実にとどいている、とおもう。

木島始 CD「劉連仁追悼コンサート カンタータ「脱出」」より

※引用者注 この詩句について詳しくは、下記のWebにありました。参考ください。
「度盡劫波兄弟在」のあとには、「相逢一笑泯恩讐」という言葉が続いていたのだといいます。
「会って笑えば、恩讐は消える」という意味だそうです。

http://machigoto.jp/news/detail/?art_id=3395
http://machigoto.jp/news/detail/?art_id=3473
http://machigoto.jp/news/detail/?art_id=3541
http://machigoto.jp/news/detail/?art_id=3614

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6.作曲者による2001年のカンタータ「脱出」合唱団 結団式挨拶

(前略)
 この「脱出」は、劉さんの生涯を扱っているわけですけれども、それは単純に、劉連仁さんをはじめとした多くのアジアの人達を、日本はひどく扱ったという事が書いてあるというのとは違う。音楽とかそういうものは、それだけではない。
 僕が「脱出」を書こうとした時には、再演の時とは、今回の時みたいに、まわりに差し迫った社会情勢みたいなものがあって思いついたわけではない。
 何か労音で、みんなが参加できる大規模な合唱の曲をつくりたいといった時に、最初考えたのは、アジアと日本と関わりの中にテーマを探したいという事であって、中国という事にいきなり走ったわけではない。
 その中で、僕が劉連仁さんの生涯について本を読んで、あそこに書かれているものが、大変な経験をしたという事なんだけれども、その経験の中で彼が生きてきた雄大さを、つまり単に、ひどいひどい、かわいそうというのではなく、それ自体が波瀾万丈という事が、大きな言葉を持った音楽作品の土台になる。そういうことを書いてみたい。書く喜びにかわりました。
 そして、主人公の経験も、悲惨な経験もしたけれど、脱走して野っぱらで暮らすっていう事の、ある意味で途方もない思い出に残る大経験だった。そういういろいろな事が全部あって、長編小説のように、部分部分で色々な事があって、それが、一つの大きなものにまとまっている。その書く器として、この実際にあった物語は大変すばらしいという事があったわけです。
 僕も書いているうちに、一人の日本人として責任を痛感して、この罪を何とかして芸術で償わなければ、なんていう事を考えたわけではなく、脱走して木のどっち側に苔が生えているかで方向を探るとか、すばらしいじゃないですか。そういうのを自分自身が経験しているかの様にわくわくして書いたわけです。ですから、そこには主人公の生き抜いていく喜びというものがたくさん詰まっている。それをぜひみなさんに考えていただいて、そういう細部にわたる楽しさというものが充実すればするほど、この作品が演奏される時に、その感銘も強くなるし、それがひいては劉連仁さんの事を忘れない、もういっぺん思い出すことになるわけです。
 そういうまわり道をしながら、そこにつながっていく。現実はまわり道ですからね。回り道をしないで、そこに行き着くということは間違っている。練習もまわり道ですからね。音楽自体もまわり道ですね。そこをぐるぐるまわっているうちに、いつの間にか、何か大きなものが育ってくるという風に考えてほしい。
(後略)

劉連仁追悼カンタータ「脱出」公演実行委員会
カンタータ「脱出」公演News 第1号(2001年4月18日) より

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7.作曲者による2001年劉連仁追悼コンサートへのメッセージ

劉連仁追悼コンサート公演プログラム 2001年のメッセージ  林光

 ぼくは、1978年の春にオペラ「白墨の輪」を、秋にカンタータ「脱出」を、つまり二つの逃亡物語を作曲した。ひとりは他人の生んだ子供を追手から守りながら逃げ、もうひとりは敵の領土でじぶん自身を守りながら逃げた。ふたりを危険に陥れたのは運命ではなく、よこしまな人間の欲望だった。ふたりは、ただ夢中で子供を守り、またじぶんを守っただけだったが、ふたりがしたのは、人間のよこしまな欲望とたたかい人間の尊厳を守ることだった。ふたつの物語を作曲することで、ぼくはコーカサスの娘グルシェのと、中国の農民劉連仁のと、すばらしいふたつの人生の何年かをかれらと共に生きた。すでに「脱出」の中の劉連仁はぼくでもあり、「白墨の輪」の中のグルシェもまたぼくでもある。
 ことし、「脱出」は再演され、秋には「白墨の輪」も再演される。劉連仁はよみがえり、グルシェもよみがえる。ふたりは2001年のこのクニを見て何を思うのだろう。そしてぼくたちに何を語りかけるのだろう。
 「脱出」からきこえるのは1978年のメッセージである。そこから、歌われず語られない2001年のメッセージを聴きとってくださればと、ねがう。

劉連仁追悼コンサート カンタータ「脱出」公演プログラム より

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8.作詩者による2001年劉連仁追悼コンサートへのメッセージ

劉連仁追悼コンサート公演プログラム めいめい想像のドラマを 木島始

 志在守朴
 ときに石や木に刻みだして、十年余りになるが、一度ならず刻んだのは、この詩句である。
三世紀の詩人?康の作から。
 ココロザシハ キジヲ マモルニ アリ
 訓よみにすると、こうなる。
 劉連仁さんの辿られた生涯の軌跡をおもうと、人間性の生地を守られたひと、その志を全うされたひと、と痛感する。
 「脱出」に書きこめなかったことの一つに、劉連仁さんを最初に発見した北海道のひとびとが、人間としてまともな対応をされたことがある。強制連行と送還のあいだに挟まれた、人間と人間とが出会う驚きのドラマである。なごみあうきっかけである。
 どうか、「脱出」を聞かれるかたがた、いや、歌うひとびとも、めいめい自分が原野をさまよって、劉さんとおぼしき人(いや、つまり、人か人でないかもわからない)二つのに出会って、どう自分が行動するか、行動しないか、想像力で補ってください、とお願いしておきたい。
 度盡却波兄弟在
 果てしない波を渡りつくして兄弟がある
 さいごにくりかえされる魯迅が日本人の西村真琴にあたえたこの詩句を、その想像のドラマで思い起こしてもらえれば、「脱出」をふりかえってのわたしの反省は、このカンタータの集まりに参加したみなさんに、確実に届いている、とおもう。

劉連仁追悼コンサート カンタータ「脱出」公演プログラム より

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9.2001年劉連仁追悼コンサートへの寄稿 丸山昇

劉連仁追悼コンサート公演プログラム 「果てしない波を渡りつくして兄弟がある」について

(前略)
 西村が、このいきさつと自分の書いた鳩の絵を魯迅に送り(『魯迅日記』によれば33年4月29日)、詩を請うたのに応えて、魯迅が詠んで送ったのが、「三義塔に題す」という詩だった。
 詩の全文と注釈を書くと煩雑になるので省略し、入谷仙介氏の口語散文訳だけを引用しておく。関心のある方は、高山淳著『魯迅詩話』(中公新書)または学習研究社版『魯迅全集』第9巻(この部分の担当は入谷氏)に詳細な注釈があるからご覧いただきたい。
 「走るいなづま、飛びかう猛火が、人の子をみな殺しにしたとき、壊れた井戸、破れた垣根のあいだに、飢えた鳩だけが取り残されていた。/この鳩は、たまたま大慈悲に会って、苦の世界を離れることができたが、結局は世を去って高い塔のみを残すことになり、その塔のある日本のことを思わせる。/鳩は眠りからさめれば、古えの精衛のように、石をくわえて東海を埋めようとするであろうし、中日両国の闘士たちは、堅固なまごころでもって協力して時代の流れに抵抗している。/大災厄の波を渡りおえたさきに、両国の兄弟がいる。めぐりあって一笑すれば、その時、古い仇恨は消滅するのであろう。」
 その第7句「劫波を渡り尽くして 兄弟あり」が、ビラの冒頭に使われた言葉の原文である。「劫波」は元来より梵語のカルバの音訳。仏教で長い長い時間を指すが、後に自然または人為による災厄をいうのにも用いる。「文化大革命」のことを現在の中国では「十年洪劫(十年間の大災厄)」と呼んでいるのはご承知のとおり。魯迅は、日中間の大災厄を渡りおえたさきに、両国の兄弟が笑いあえる日がくることを願ったが、あの「大災厄」=戦争が侵略戦争であったことを否定しようとする人びとが、また動きを強めている。日本の政府はまだ公式には認めていない。「大災厄」をほんとうに「渡りおえ」、両国の兄弟が心から「一笑」できる日を一日も早く招き寄せなければなるまい。
(後略)

(中国文学・東京大学名誉教授)

劉連仁追悼コンサート カンタータ「脱出」公演プログラム より

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10.子川上に在りて曰く:逝く者は斯くの如きか 文彬氏の寄稿

 子川上に在りて曰く:逝く者は斯くの如きか!昼夜を舎かず。(論語・子罕)

 時間は流れていく。あと数時間で世界は世間一般の言う新しいミレニアムに滑りこむ。「創造と消耗交互に織り込みて明日を拓くやコンピータ最前線(フロント)」と歌われている「不夜城」からしばし離れ、時間が流れているのを意識することが出来て久し振りに解放感を味わっているのは私だけではないはずだ。
 時間が経つのを速く感じるのは、充実した人生を送っているからだとよく言われているが、日々更新されている情報と情報技術に追い付けなくてただ呆然と百花繚乱たるものを看過する時も多かったと反省する。朱熹が詠む「少年老い易く学成り難し」とはこういうことを言うのだろうか。
 107歳で微笑みながら目を閉じた国民的アイドル成田金さんは、人生を振り返って「百年は短いですね」とおっしゃったという。だが、我々人間は時間を速めることも、遅らせることも出来ない。時間は誰にとっても同じスピードで流れている。ただ、我々は時間の前で常に受身的ではなく、時間をある心象風景に固定させることが出来る。それはある時は思い出溢れる川辺の小道であり、ある時は果てしなく広がっている玉蜀黍畑に立つ一本の白樺である。また、それは亡くなった母が手編みしてくれたセーターであり、それぞれが異国へ旅立つ時に、幼少からの友と交した励ましの言葉である(目に見えるものはないが、心のメモリーに永遠に刻まれている)。
 心の傷を癒してくれるのも時間である。人間、あるいは民族同士の誤解、憎しみを解いてくれるのも時間である。小さく言えば、一年間ギクシャクしていた友人関係も忘年会での「ごめんなさい」の一語で氷解することもあるし、大きく言えば、殺しあったことのある民族同士の関係修復も不可能ではない。魯迅の「度尽劫波兄弟在,相逢一笑泯恩讐」【注】はまさにこのことを願っているのであろう。ただ、それにはもっと長い時間が必要となるのだ。数十年、あるいはもっと長い年月が必要かも知れないが、我々の日々の小さな努力によって必ずそうなると確信している。
 時間はこれからも流れていくだろう。その方向が、良い方向である事を願っている。

【注】
魯迅の詩「題三義塔」

奔霆飛?殲人子 敗井頽垣残餓鳩
偶値大心離火宅 終遺高塔念瀛洲
精禽夢覚仍喞石 闘士誠堅共抗流
度盡劫波兄弟在 相逢一笑泯恩讐

┛┛┛【日本語読み】┛┛┛┛┛┛┛┛┛
三義塔に題す

はんていひひょう ひとのこをほろぼし
はいせいたいえん がきゅうをのこす
たまたまたいしんにあいて かたくをはなれ
ついにこうとうをのこして えいしゅうをおもう
せいきん ゆめさむるも なおいしをふくみ
とうし まごころかたく ともにながれにこうす
ごうはをわたりつくして けいていあり
あいおうていっしょう おんしゅうをほろぼす

┛┛┛【解説】┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛

1932年の「1・28」事変で日本軍の空爆で上海の閘北は廃虚になった。日本人の西村真琴博士は、廃虚となった三義里という町でくずれおちた垣根のなかから戦火におびえる鳩を救い暫く育てていたが、間もなくその鳩が死んだ。西村氏は、塔を建て鳩の骨を埋めた。魯迅は、西村氏の求めに応じて、この詩を書いた。魯迅は、日本人と中国人は必ず戦争を乗り越えて、再び兄弟のように親善関係になると確信している。戦時中を生きた魯迅と西村博士と比べて、今日になってもなお国民感情をやたらに煽ることを能とするジャーナリストと政治家のことを腹立たしく思う。

┛┛┛【参考】┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛

豊中日中友好だより=http://www.threeweb.ad.jp/%7Eryouhei/nittyu/

(2000.12.31)
(文彬)

掲載元 中国情報専門サイト「サーチナ」
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2000&d=1231&f=column_1231_001.shtml

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11.〈新しい部長ということで〉小島昭三

小島昭三先生の退任

 1984年からの7年間、部長教授をお願いしていた小島昭三先生が1990年を最後に退任なされた。小島先生には特に詩人=木島始先生として「回風歌」(高橋悠治作曲)「路標のうた」(三善晃作曲)の書き下ろしをいただき、今でも特に愛唱されている作品。ここでは1985年3月発行のOB会報創刊号に掲載された小島先生の就任の挨拶文を掲載したいと思う。

〈新しい部長ということで〉  小島昭三

 わたしが法政大学に赴任したのは、1963年4月で、今年でもう満20年を越えたことになる。ずっと第一教養部で英語を教えているが、今は文学部英文科のゼミもひとつ持っている。
これだけ年数を経てくると、わたしが木島始という筆名で、詩集やエッセイ集や翻訳書を出していることを、法政大学の関係者で知るひとも多くなってきた。
 ちょうどその接点になったようなのが、アリオン・コール第28回定期演奏会の委嘱作品である「回風歌」の制作であった。
 教室で接する学生諸君の中に、ときたまアリオン・コールのメンバーもいて、この1979年の時には、1年から4年までずっとわたしのクラスに顔を出した英文科の稽古庵哲也君がいて、わたしの文筆活動を知るようになっており、アリオン・コールために書いてもらえるだろうかという打診を受けたのだった。それで顧問指揮者の田中信昭さんと正式にお会いし、委嘱を受けることになった次第である。詩から委嘱というのは、数々の委嘱作品をつくってきたアリオン・コールとしても初めてのことであった。
わたしは詩集を何冊も出しているけれども、最初からコーラスを想定して詩を書いたというのは、ほんの僅かで、三宅榛名さんの曲のために書いた「ひとみのうた」(これはNHKの高校のための課題曲)と、林光さんのために書いたカンタータ「脱出」くらいだった。そして、田中さんから作曲は高橋悠治さんと聞いていたので、また別の合唱世界が生れることを想像し、ふしぎな陣痛の予感に苦しめられたのだった。
 そのころから急にわたしの詩が、合唱曲になることが多くなって、林光さん、新実徳英さん、石井眞木さんと、毎年のように作曲され歌われ、何とも嬉しいこのごろではある。
今までのつながりから、吉本正樹先生の退任されたあと、アリオン・コールの部長という役を、お引き受けしたものの、吉本先生の10分の1も、役を果たせないのではないかと心配している。部長としての最初の定期演奏会にも、体調を崩して、欠席してしまい、まことに相済まないと思っている始末である。
 さて、以上のように自己紹介をかねて、アリオン・コールとのことを書いてきたが、O・B会への要望をといわれても、じつはとくべつ思い浮かばないのである。多摩の地に経済学部・社会学部が移転しだしたので、この部活動としては思いもかけなかった難問題に、現役の諸君がどうして対処して克服の道を見いだしていくか、おそらくはO・Bの方々にもいい処方箋は出せないであろうが、苦境にある現役の諸君にこの過渡期をのりきるような、折あれば暖かい御支援、御助言をお願いしたいと、ここに特別に訴えておきたい。今までと全くちがう状況、ちがう難題にぶつかっているようですよ、と。

法政大学アリオンコール HISTORY 1991(平成3年) より

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