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4 Love Stories

『四つの愛の物語』

【6】

福原 哲郎




■目次

第1話 『13歳のカオリ〜私はどうしたらいいの?』
【1】 【2】 【3】 【4】 【5】
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第2話 『19歳のカオリ〜性を超える』

第3話 『25歳のカオリ〜一人さまよう、世界の旅へ』
【7】
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第4話 『31歳のカオリ〜私の夫は天才だった』
【8】
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第2話 『19歳のカオリ〜性を超える』

1 心がさわぐ

 私は19歳になった。イスタンブールから帰国してからもう6年がたったのだ。
 お母さんに約束した通り、私はちょうど1年で家に帰った。月に一度はハガキを出していたから、お母さんは警察に捜索願いを出すこともなかった。学校も病気休学の扱いになっていたから、私は何食わぬ顔をしてまたもとの学校に通い始めた。以前のような学校や周囲に対する絶望感はもうなかった。成長したのだろうか。私の成果は一体何だったのだろう? いいところまで行っていたのに、突然ヒロシは去った。理由はわからない。ヒロシのその後の痕跡もまだ見つからない。私はそのことをこの6年間ずっと考えて続けている。
 成果の一つは、男を愛することを覚えたこと? お父さんのような男が、この世界には存在していることがわかった。それはとても大きな収穫だ。私は絶望しなくていいのだ。情熱をもって生きることができるからだ。いま私が学校に戻っても、以前と周囲が違って見えるのはこのせいだと思う。私の世界は、少なくともお父さんの世界と一つの通路をもったのだ。
 ヒロシとやった実験は途中で終わってたわけだから、何だったのかは私にはほんとうのところはわからない。あんな実験の続きが私にできるわけがない。相手が必要なのだ。結局、私はどうなったのか? そして、ヒロシはどうなったのか? ホントに消えてしまったとはとても思えない。どっかに隠れているに違いないのだ。或いは、ヒロシは冗談で隠れただけで、ちょっと宇宙に用事を済ませに戻ったけど終ったからいま迎えに来たよとか、そんなつまらない言い訳でもするつもりなのか? 思い出した。私はヒロシについて、そう思うことに決めていたのだった。私が傷つかないために。
 私が新しい男に出会ったのは、私の19歳の誕生日だった。新しい男は、ヒロシとも、お父さんとも違う。でも、三人とも雰囲気が似ていると思った。私はやはりお父さんタイプに弱いのだ。私の心がまた騒ぎはじめた。

 私は、帰国後、18歳になった時に大学に進学するかわりに、ひょんなことからAV女優になっていた。そして、思った。男と女の関係はこのままではつまらないと。
 私はAV女優になり、その後にグラビアアイドルになり、最後に風俗の女になった。母にはすべて秘密にしていた。楽天家の母は、何も気づいていないに違いない。そして、これも何かの運命のいたずらに違いない。風俗の客の一人と結婚し、何と子どもまで生んでしまった。まだ19歳なのに。人の子の母になってしまった。
 私がアダルトの女優になったのには大した理由はなかった。単なる好奇心。そして、アダルトを早目に卒業したのがよかったのかも知れないけど、グラビアアイドルとしてもデビューしてしまった。そして、1年間の短い期間だったけど、ある雑誌のナンバーワンモデルにもなった。つまりスターになったのだ。身のこなしやちょっとした演技に独特な味があるって、褒められた。AV女優がグラビアのスターになるなんて、以前にはなかったらしい。その雑誌の編集者が、昔なら考えられないことだと言っていたから。でも、グラビアに転向して成功した女の子は私だけじゃない。そもそも、最近は可愛い女の子たちがやたらに増えている。だから、女の子たちもアダルトにも自然に進出することになる。大したことじゃない。いま世間の別の分野で起きている珍しい現象と同じで、単に珍しいということにすぎない。
 グラビアもやめたときによくわかったけど、私にとってはアダルト体験もグラビア体験も大差はなかった。どちらもどうということはない。私自身に何の変化もなかった。そして、グラビアもやめた後は、これも興味半分で風俗に勤め、飢えた男たちを毎晩何人も射精させ、変態男たちとの倒錯プレイも何度も経験した。でも、私はすべてお見通し。小説なんかに書かれているような大それたドラマは倒錯プレイにも何もない。この世界でも大したことは起きていなかった。

 でも、風俗で出会った客の男たちの中に、ひとりだけ面白い男がいた。31歳で、木原キヨシと名乗っていた。私はこのキヨシに、雰囲気がお父さんに似ているという理由で、恋をしたのだ。
 キヨシは、変わった男で、私を抱いている最中によく記憶喪失に陥った。行為の最中に、自分は一体誰だと突然叫びはじめるのだ。えーっ、何でセックスの最中に? 特別に何かが刺激されたのだろうか。そして、私はキヨシに驚いた。だって、こういう時のキヨシは、イスタンブールで私の前から消えたヒロシによく似ていたから。いつもではないけれど、ある時にはほんとうに瓜二つだった。キヨシとヒロシ。語感まで似ている。
 それで、私は、キヨシに何の仕事をしているかを聞いた。出会って最初の頃は警戒している様子で、仕事については何も喋らなかった。風俗にしょっちゅう来るような男なんて、大体何らかの秘密があるに決まっている。だから私は気にしなかった。でも、打ち解けるようになってからは、彼の方から話しはじめた。そして、また驚いた。キヨシも何とヒロシと同じ脳科学者だったから。偶然にしてはできすぎているのでは? 世の中にはそれこそ数え切れないほどの仕事がある。それが、よりによって何でキヨシの仕事まで脳科学なのか。誰かが仕込んだことなのか。私からすれば、そこに何かの意図が隠されていると疑っても不思議ではない。
 でも、私が、キヨシに、昔のワタシの彼氏もあなたと同じ職業だったのよ、不思議ねと言っても、彼はちょっと驚いただけで、それ以上の関心を示さなかった。以前の記憶を失くしている以上、関心を示したくても無理だったのかも知れない。本人なのか。別人なのか。昔の記憶を失くした男にいくら聞いても無駄だったのだ。
 キヨシがほんとうに31歳で、あの男がほんとうに48歳だったとすれば、当然二人は別人だ。あれから6年がたっている。同じ男なら、キヨシと名乗るこの男はいま54歳のはず。男の年齢が私にはわかりにくいといっても、キヨシが54歳のはずはない。からだつきや雰囲気は、どう見たって20代後半か30代前半だから。いくら何でもそんな馬鹿なことはあり得ない。

 でも、今では、私はキヨシはヒロシに違いないとなぜか確信している。もちろんその気がするだけだけど。というのも、キヨシは私を抱くときに独特なことをしたからだ。その癖まで似ていたのだ。「この世のすべての女を征服したい」と大げさなことを言ってみたり、逆に「大きな母の愛に包まれたい」と言って、私の前でめそめそと泣いてみせたりすることも似ていた。キヨシもヒロシと同様に相反する欲望に苛まれているようだった。そんな感じが二人は似ていた。こういう男たちは珍しいはすだ。どこにでもいるタイプではないだろう。キヨシは、挙句の果てに、「それもこれも、俺は地球氷河期の恐竜の血を引いている」と言い出し、奇怪な妄想で悩む男でもあった。彼が毎晩見るという夢の話しを聞いて、私はものすごく興味を持った。私も以前同じような夢にうなされていたからだ。いまはどこかに姿を隠してしまったけど、私のアタマのなかにも奇妙な動物が住み着いていた。キヨシは、動物たちの怨念を背負ってしまった男か? 動物たちの怨念を背負い、テロで世界を爆破するのも構わないと宣言したり、人間の進化のためにはサルのボノボの経験が重要だと言って、ボノボのフリーセックスの習慣に憧れたり。要するに、迷い続けているのだ。お父さんも、ヒロシも、キヨシも、皆んな似ている。
 私のこんな判断が正しいとすれば、私だけがキヨシの過去を知っていることになる。つまり、キヨシはヒロシの何らかの形式での生まれ変わりなのだ。キヨシは、記憶喪失気味で、自分のことを思い出せない。私はキヨシの友だちにも何人も会ったけど、誰も彼の過去は知らないようだった。キヨシは、一番肝心な、危険な脳科学的実験をリードしてきた自分の経験を忘れているのだ。だから、私がキヨシに教えてあげる必要がある。自分の経歴を忘れてしまった男。私はその実験材料にされたのに。そして、お父さんに似ているからといって、愛しかけていたのに。忘れてもらっては困るよ。  私には、時間がたてばたつほど、キヨシとヒロシが同じ男に見えてきた。でも、生まれ変わりとしても、年齢はキヨシとヒロシはまったく違うので、ずいぶんと奇妙な形式の輪廻かもしれない。私はふだんは輪廻なんて信じていない。でも、キヨシを見ていると、こういう現象も世のなかには存在するのかも知れないと思う。

2 カナコ

 僕は、木原キヨシ。31歳。
 カオリはアタマが少しおかしいようで、僕のことをカオリの昔の男の生まれ変わりだと信じているようだ。昔の男と僕の職業がたまたま同じ脳科学者だからといって、そして多少顔が似ているからといって、そんな理由だけで僕がその男の生まれ変わりだなんて思われても困る。まったくの別人だ。年齢は違うし、そんなことあり得ない。たしかに、僕の場合、一時的とは思うが、最近はかなり記憶喪失に陥る頻度が増している。確実に覚えているはずの記憶も、最近何だかボヤけ気味だ。脳操作の実験対象には自分も選ぶので、その影響で何らかの弊害が僕の脳に出ているのかも知れない。
 ただ、僕が最初にカオリに近づいたのは、カオリとなら性をきわめることができるかもしれないと思ったからで、それ以外のことは考えていなかった。カオリは男好きのタイプで、男をすぐにその気にさせる女だった。まぁ、別に珍しくも何ともないが、要するにフェロモンが多めに出ていたということだ。その点に僕は惹かれた。そして、何よりもカオリがいいのは性格が明るいことだ。つらい経験を以前にしたらしいが、明るい女であることには違いない。僕の女は明るくなければダメだ。だから、何度もカオリが勤める風俗に通い、カオリを指名した。カオリを指名できない時には、そのまま家に帰った。カオリを抱くたびに、僕は安心して性の深遠にのめりこむことができた。
 それが、いつの間にか、僕はカオリを愛しはじめた。カオリに子どもを生んで欲しいと思うようになった。自分でも意外な展開であり、ある日結婚を申し込んだ。そして、カオリの反応も意外だったが、カオリはその場で「いいよ」と頷いた。そして、カオリはその日に風俗をやめた。僕たちはすぐに結婚し、二人で僕のマンションに住みはじめた。

 僕のなかで何かが大きく動きはじめたと感じたのは、カナコと名前づけた娘が生まれてからだ。毎日カナコを見ているうちに、僕の心にいわゆる脳科学的野心というものが目覚めてきた。ふだんそんなことは考えてもみなかったが、以前からいつかはやりたいと頭の片隅であたためていた実験を、カオリとカナコを対象にすれば試せると急に思ったのだ。対象が、風変わりのカオリと、カオリが生んだカナコという自分の娘ならうまく行く気がしたのだ。人間は、脳操作により、カオリの本能を探るだけではなく、脳科学がこれまで獲得している成果を自分の子にも波及させると、一体どんな人間にカナコはなるのか。幼い子どもに対しての方が、遺伝子の学習速度を速めることが可能になるのではないか。カナコが相手なら、それこそ毎日身近でその影響を観察できる。僕なりにカナコの心をさぐりながら、単なる実験材料として扱うのではなく、親としての愛情を注ぐ形でカナコの脳をムリがないように判断しながら脳操作をしていくのだ。それが、当時の僕が思いついた研究のあり方だった。そして、このようなやり方で進化のレースをデザインすることで、僕もその担い手の一人になれるのかどうか。人工の果てに立つ人間に、果たして神の罰が加わるのかとうか。神など存在しない僕にも? 或いは別の展開が待っているのか。

3 性を超える

 ただ、あの頃の私には、キヨシの他にも、いつも複数のつき合っている男たちがいた。この男も面白いし、あの男も面白い。その日だけの出会いもある。私には、ひとりの男だけとつき合うという感覚がわからなかった。夫のキヨシがいても、そんな私の行動に不思議はなかった。なぜ、一人の男だけに絞る必要があるのだろう?
 ただ、結局、以前から私はすぐに男を好きになるけど、ヒロシのようには愛したことはなかった。ヒロシに出会う前もそうだった。ヒロシに出会った時、はじめて私は変わりかけた。でも、ヒロシは私から逃亡したのだ。それ以来、私はまた元の自分に戻ってしまっていた。夫のキヨシを、ヒロシと同じように愛せるようになるかはまだわからない。そうなる前は、私はキヨシにも支配されたくはない。だから、私は複数の男たちと同時につき合い、男から男を渡り歩く毎日を続けた。こんな私の行動がキヨシや男の嫉妬を誘い、男たちを苦しめたみたいだけど、私だって本当に愛せる男を求めていたので仕方ない。男に理解して欲しいことだってある。女には、男とは違う本能的な行動原理が与えられているんだと思う。女が、いい男を求めてあれこれするのは自然なのだ。その結果、男たちに競争を強いることも、嫉妬を強いることも、仕方のないこと。それは、男が女とは別の本能的な行動原理をもって女を苦しめることと同じだと思う。
 そんな私だったけど、幸運だったのか、私はキヨシに出会い、恋をして、結婚してカナコが生まれた。それでも、私の男との付き合い方は変わらなかった。キヨシもそれでよしとしているみたいだったから、私もやめなかった。
 でも、ほんとうはそうではなかったことが、病院にかつぎこまれたキヨシを見てはじめて理解した。そんなになるまで黙っていたなんて。私には信じられなかった。私はキヨシの感情に対しては繊細ではなかった。私がキヨシを傷つけたのだ。

4 恋愛病

 僕がこんな病気になるなんて。想像もしていなかった。僕が女に支配されるなんてあり得ないし、ずっと自分はつよい男としてやってはたからだ。
 しかし、ある日、自分の異変に気づいた。はじめての挫折。それもかなり重症。最初は、時計ばかり気にするようになった。そして、自分の心を制御できるという自信があったのに、まったく制御できていない自分を、突然思い知らされた。カオリは風俗はもうやめていたが、その当時知り合った関係から、相変わらず夜の仕事をしていた。それで、私は、夕方カオリが仕事に出かける準備をはじめる度にそわそわし始め、内心では今日はそんな化粧をやめて仕事を休んでくれと頼んだ。玄関を開けてカオリが行ってしまうと、まるでお守りのようにケイタイを握りしめ、カオリが僕に電話すると約束した時間まであと何時間あるか、それまでどうやって耐えるか、考えるようになった。そして、約束の時間に近づくと、居ても立ってもいられないからだの震えに襲われるようになり、正確にその10分前にはケイタイを握りしめ、大きく深呼吸をして外に飛び出すのだった。そして、いつもの道を歩き、いま直ぐに電話してくれとカオリに祈り、約束通りに電話があると涙を流して喜び、「アリガトウ、タスカッタよ!」とカオリに感謝した。それが1分でも遅れると、私は完全に病気になった。
 ある晩のことだった。カオリは終電が過ぎても家に帰ってこなかった。僕はカオリが仕事に出た日はかならず、カナコを寝かしつけた後、駅の改札にカオリを迎えに出ていた。しかし、その夜は、こんな夜がしょっちゅうあるわけだが、約束の時間に電話もなければ、改札にも姿を見せなかった。僕は半狂乱になっていた。
 心の病気というものは、ほんとうに恐ろしい。自分がこんなやわな精神をしているとは、この時まで知らなかった。こんな僕の仕事が脳科学なのだから、我ながらあきれざるを得ない。僕の脳科学者としての力は、僕が陥った恋愛病という病にはまったく無力だった。恋愛とは、それまで頑なに僕の内部に守っていた自分の魂を恋愛相手の前に差し出す行為なので、脳の外部に出てしまった魂を脳科学は守ることなどできないというわけだ。実際、自分の外部に出てしまった魂は、私の管轄外に置かれる。もし相手が悪意をもっている場合には、この魂はいとも容易に傷つけられる。ひねりつぶすことは簡単だ。守ることは一切できない。僕は、その時、改札口で、カオリが他の男と寝ている姿を想像し、それがあまりにもリアルなイメージだったので、僕の魂は完全に傷つき、致命傷を負ったわけだ。幸い、カオリに僕に対する悪意はないことはわかっていた。だから、それ以上の傷を負わされることはないことも承知していたけど、僕にはこれだけで充分に致命傷だった。
 この夜以来、僕は完全に病人になった。カオリに泣きつき、僕から離れた場合には、必ず1時間おきには僕に電話すること。カオリに他の男と付き合うのはやめにしてくれとは言えなかったので、せめて電話だけはしてくれと頼んだ。もちろん、その時に何をしているかなどは聞きたくない。ただ電話してくれればいい。それだけで、その瞬間だけはカオリの魂が僕に向っていることを確認できる。それだけで、僕は安心。僕の魂が幸福にふるえ、安らぐ。だが、その効果は僕の場合には1時間しか続かない。だから、1時間おきに必要になったのだ。カオリも、最初は怪訝な顔をし、僕を疑い、すぐにはウンとは言わなかった。1時間おきに電話するなんて、誰が聞いたってクレージーだと思う。まったく馬鹿げている。しかし、僕の半狂乱状態はウソではない。何度もこの一線を越えたら狂う、と実感する体験を僕は何度もした。カオリもそのときの僕の様子を見ているので、僕がほんとうに病気になっていることを認めるしかなかった。いやいやだったに決まっているが、自分でも1時間おきに電話するわと約束してくれた。それで僕は安心した。しかし、その1時間毎に僕は天国と地獄の思いを体験することになった。やがて僕の精神そのものが疲れはじめ、その後1ヶ月もしないうちに僕は大学の精神科に入院することになった。診断はパニック症候群で、閉所恐怖症とうつ病というおまけもついていた。ふいに自殺への衝動に襲われるようになったのも、このときからだ。僕は自分では自分のことを大変ノーマルな精神の持ち主と思っていた。周囲も僕についてそう感じていたはずだ。それが、最初はちょっとした傷口だったのに、見る見るうちに広がり、僕の精神を破壊するまでに大きくなってしまった。ノーマルな人間もこうなることがあるのだということ。僕はその事実に何よりも驚いた。

5 私の過ち

 キヨシが病室から姿を消した。
 何度目かの見舞いに病院に行った時、受付で看護婦に怪訝な顔をされ、「旦那さまは、昨日退院されましたが。奥さまが病院の前に迎えにくるので退院の手伝いは不要とおっしゃっていましたが、そうではなかったのですか?」と言われた。私は青ざめた。何ということだ、キヨシは私に黙ってどこかに出て行ったのだ。彼の症状は見た目には何の病気で入院しているのかもわからないほど健康そのものの印象なので、看護婦たちも油断していたのだ。彼女らがキヨシの行動に注意していなかったのも、それは仕方ないのかもしれない。でも、私は知っている。入院を決断するしかなかったのは、キヨシが罹ったパニック症候群につきものの自殺願望にもとりつかれ、実際に自殺を試みるようにまで事態が急変していたからだった。つねに私がそばに付いているか、病院で医者の管理下にでも置いておかないと、キヨシは危ないかもしれない。私はそう感じた。とにかく、急いで病室に行ってみると、たしかに彼もいなければ、彼の少ない荷物も全部なくなっていて、空っぽだった。

 キヨシとは、風俗店の外でもよく会うようになり、仲良くなってからも彼の記憶喪失障害はそのままだったけど、やはりキヨシもヒロシと同じ脳科学者であることがわかった。キヨシがどこの研究所で働いていたかは知らない。ただ、本能についての研究が専門で、動物や人間の男と女の本能について研究していたらしい。それで、その研究を、自分事としてやりたいと考えるようになり、家族になった私とカナコを対象にするのがいいと考えたようだ。以前には、自分で性に耽溺しながら、本能について検証しようとして、危ないことがあり、それで記憶喪失障害になったらしい。
 それで、キヨシは私とは仮想セックスの実験をし、カナコには遺伝子操作の成果を効率化するための実験をした。私については、私が変だと思わないことについては何でも協力もしてあげた。BMIを使用した仮想セックスは、私にも面白い体験だった。私は、タイプとしては、仮想にのめりこむのではなく、健康な現実派らしい。それで、仮想セックスとリアルセックスの差もかなりわかったとキヨシが教えてくれた。
 私としては、キヨシとの生活で、性を卒業し、男遍歴も必要なくなればそれにこしたことはないし、新しい人生のマップを描きたかったのだ。私にあの時にほんとうに必要なものは何だったのか? 大好きなお父さんが無残な死に方をしたので、男と女のいい組み合わせが必要なんだと考えていた。キヨシとの間にカナコが生まれたことで、キヨシが変わり、その可能性か出てきた。
 だから、それに必要と自分で思えることは、私もがんばってやったつもりだ。複数の男たちと同時に付き合うのも、一人の男に支配されないための私なりの方法だった。この方法は別に特別のものではないし、自覚的な女たちが自然にやってきた方法だった。私が男に振り回されるような弱い女なら、キヨシはそれには満足しない。強すぎる女でもダメだろうから、バランスが大事だったのだ。
 しかし、私のやり方が、キヨシを傷つけた。口ではキヨシは大丈夫と言っていたので、それ以上気にすることなく、私は続けていた。電話できないことや遅くなることがあっても、毎晩私は家に帰るのだから、大丈夫だと思っていた。しかし、ある日、破局がやってきた。キヨシの方では限界を超え、病気になっていたのだ。それは私の責任だった。
 私がキヨシの心を傷つけ、彼は自己保存のために私から立ち去ったのに違いない。性を超えることなどはできない。ただ相手に配慮することができるだけだ。配慮し合える相手との間にしか愛は成立しない。これが人間の現状なのだ。私のキヨシに対する配慮は足りなかった。

   私の男は、またしても失踪した。男に逃げられるのが私の運命らしい。なぜ? 私にはとても理解できない。こんな目に遭うのも、もっといい男に出会うための試練なのか。つまり、私の成長のために、私にはもっと素晴らしい男が必要なのか。そう思うことにした。そうでもしなければ私にはとても耐えられない。
 私は、決心し、ふたたび自分の生活を捨て、コスモスを母に預け、遍歴の旅に出た。そして、その旅の果てに、お父さんの生前の軌跡も知りたくて、ふたたびイスタンブールに辿り着いた。お父さんは、謎の死を遂げて、無残な姿で家に帰ってきたが、お父さんは最後はイスタンブールで死んだと、お父さんの友人から聞いていたからだ。
 
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