何 を 話 そ う か

賢治雑感


宮沢賢治雑感 〜定点の文学〜

高萩市民文化誌『ゆずりは』第10号 2000年3月1日発行


 風光の中に宮沢賢治がいる。独りで山に登っているときも、仲間たちと望遠鏡を覗いて星空を散歩しているときも、賢治はいつも傍らにいてくれた。

 小学生のとき(何年生のときだったろうか)真新しい国語教科書を手にして表紙を繰ると、そこには一枚のカラー写真があった。

 ようようと春を迎えたばかりの東北の農地だ。雪解けにぬれて陽炎が舞い立ちそうな黒土の果てにブナや楢、樺などの疎林、さらにその背景にはまだ雪を積んだ山並みがそびえている。

 そして、写真の下には初めて出会う賢治の詩。



陽が照って鳥が啼き

あちこちの楢の林も、

けむるとき

ぎちぎちと鳴る 汚い掌を、

おれはこれからもつことになる

 

 さらに裏のページには、モノクロームの写真。灰黒色の山塊、岩手山だ。そこにも短い詩。



岩手山

そらの散乱反射の中に

古ぼけて黒くえぐるもの

ひかりの微塵系列の底に

きたなくしろく澱むもの


 この賢治との出遭いは、子供のぼくにとってどれほど強烈な出来事だったか。その日からずっと、ぼくは賢治を索ねる旅を続けてきたような気がする。

 詩「岩手山」にとても不思議な幻想を抱いた。それは、何の飾りもない灰黒色の塊に過ぎないようなモノクロームの写真によってさらに増幅された。光に満ち充ちた空に、時の流れに逆らうようにして山嶺がシルエットを描いている。空間と時間が、まるで違った方向で交差しているような奇妙な感覚だ。もちろん少年のぼくが、当時言葉に言い表すことができた訳ではないのだけれども、この感覚は数十年を経た現在も賢治への原体験として持続している。

 時代がどんなに変化しようとも、宮沢賢治の作品たちが少しも瑕つくことなく、ぼくたちの心の中に生き続けられる秘密は実にここにあるのかもしれない。新しいもの好きで時代の風に敏感だったにもかかわらず、賢治の作品はいつも同じ位置にある。時流にあわせた作品解釈の歪曲がいかに滑稽な結果に終わるかは、十五年戦争当時に賢治の作品を戦意高揚に利用しようとしたときに実証されている。

 賢治は「近代人の如き疲れたる幻想」からでなく、定点に立って人間の根源から溢れ出てくるものを誌しつづけた。だからこそ普遍性を保ちうるのだ。


 先号の拙文『光太郎逍遥』で、高村光太郎が父光雲との葛藤のなかで思春期を過ごし、成長し、さらに戦争の波濤に飲み込まれることで結局は“父”に屈服していった過程を述べた。

 宮沢賢治もやはり、巨大な風車に素手で立ち向かうラマンチャの騎士の道を選んだ。

 古着商・質屋という家業が貧しい者たちの犠牲の上に成り立っていることを自覚したとき、それに拠って生きている自分をひどく嫌悪するようになる。(この辺の感情は童話「なめとこ山の熊」に登場する荒物屋の主人に象徴されている。)

 法華経への傾倒もまた、まさに浄土真宗を篤く信仰する父と父の背後にあるものへの反抗であった。だが、教理のみでは父に対抗し得ないことに気づき、行動的な在家宗教団体である「国柱会」に参加する。そして二十五歳のとき、突然の家出上京。国柱会の活動に没頭する。

 賢治の文学活動はここで本格的に開始される。国柱会の理事高知尾の勧めによるといわれている。

 「・・・文学者はペンをもって、各々その人に最も適した道において法華経を身によみ、世に弘むるというのが、末法における法華経の正しい修行のあり方である。その詩歌文学の上に純粋の信仰がにじみ出るようでなければならぬ・・・」

 従って賢治の作品(なかんずく童話)に常に宗教臭がつきまとっていることを否めない。しかし、そこを突き抜けて、先述のように人間の根源から溢れ出てくるものが表象化されていることに気づかされる。

 賢治は生涯国柱会の会員でありつづけたのだが、会が次第に国粋的な色彩を強めるにつれて距離を置くようになっていく。

 宮沢賢治が没したのが一九三三年(昭和八年)三十七歳だった。戦後まで生きて文学活動を続けた高村光太郎と、一概に並べて論ずることはできないにしても、ぼくには二人の人生が描いた軌跡の違いにひどく興味を持つ。

 賢治は、くどいようだが定点に立ってものを見、誌し、表現した人だと思う。社会的な要因から受けるブレが極めて少ないのだ。しかしこれは、賢治が社会状況に対して無頓着だったことを少しも意味しない。むしろ社会改造には積極的な意志を持っていた。

 特に農村問題に強い関心を持ち、羅須地人協会もその意識の延長線上にある。自ら一農民となって、新しい農村文化を生み出そうとしたのだ。

 前出の詩「春」はその実践生活に入るときの決意を詠ったものだ。当時の農村改革は、主に国策的な産業組合が推進していた。賢治は「村落共同体的秩序原理の国家的規模への普遍化・拡大化」などという翼賛化にはとうてい批判的で、もっと違った方法で農民が「明るく生き生きと生活する道を見付けたい」と願っていた。

 労働農民党稗和支部に結成当時から積極的にコミットメントしていたのも、社会主義思想に彼なりの可能性を見出していたことを物語っている。ある意味、賢治にとっては羅須地人協会と労農党は双子のような存在だったのかもしれない。

 だから、「もし仮に賢治がその後も生きつづけ、昭和十六年十二月八日を迎えていたとしたら、・・・・高村光太郎のように『天皇あやふし』と書くことになったのだろうか」という疑問には、ぼくは断じて「否」と答える。


 ついに、日本はルビコン川を渡ってしまった。どんな理由をつけようとも、若者たちを戦場に送り出すのだ。しかも、その手に武器を握らせて。

 ぼくは、彼らがかの地へまで出向いて命を奪われるような事態が起こりうることを考えると、たまらなく心が痛くなる。そして、もし彼らがその銃を撃って人を殺したなら、彼らの心はいつまで病みつづけるのか。誰が、何が彼らを癒すことができるというのだ。

 住基ネットという国民全体への監視・管理システムのインフラが整備され、自衛隊の海外派兵も現実のものとなった。

 ぼくたちは本丸の平和憲法を、いつまで守ることができるのだろう。このことを決して他人事と思わないでほしい。だって、やがてはあなたがたの子供が銃を執って、戦場に向かうことになるのだから。

 今は、賢治の言葉で本稿を閉じよう。

 「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない/ 自我の意識は個人から集団社会宇宙へと進化する/ この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか/ 新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある/ 正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである/ われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である」