何 を 話 そ う か

星空案内


高萩市民文化誌『ゆずりは』第6号 2000年3月1日発行


 2000年の星空

 今年は西暦2000年、新たなミレニアム(千年紀)の始まりです。人類永遠の隣人の一人、イエス・キリストが生誕してから2000年を数えるということになっています。聖書『マタイ伝福音書』によると突然明るい星が出現し、東方の博士たちが誕生したばかりのイエスの元に導かれたといわれています。この星に関してはさまざまな説が論じられています。中世の画家ジオットは1301年に出現したハレー彗星を目の当たりにして、イエス誕生をテーマにした作品にその姿をたびたび描いています。
この輝星の正体は、一度きり地球に最接近した、もしくは数千年周期で太陽を周回する彗星ではなかったでしょうか。以前『びばじょいふる』誌上でも触れていますのでそちらをご覧ください。
さて、おおよそ2000年前に地球に大接近した彗星かどうか定かではありませんが、今年もまた新たに発見された彗星が接近しつつあります。最近、各所で地球接近小惑星(NEO)の探索がおこなわれています。なかでもアメリカ・ニューメキシコのリンカン研究所で行っているNEOサーベイ(LINEAR)では、小惑星探索活動の結果、その副産物としてかなりの数の彗星を発見しています。その中でも、昨年927日に見つかった彗星は今年7月下旬には3等級ぐらいまで明るくなると予想されています。尾も30度ほどまで伸びるのではないかと期待されています。
 キリスト生誕からちょうど2000年。ミレニアムを飾る彗星になるのかどうか、われわれ星見人は心をときめかせています。
 今年は比較的目立った天文現象が少ないのですが、このリニア彗星の観察会に向け世界中の天文ファンが準備をすすめています。私たちが主宰する天文同好会もほかの天文サークルと歩調を合わせた観察会を予定しています。

  星空観察には

 江戸時代は天動説が支配していました。天上の世界はもっぱら形而上学の範疇だったのです。しかし、長崎で通詞をしていた志筑忠雄は1798年(寛政10年)に日本ではじめてコペルニクスの地動説をまとまった形で紹介しました。その『暦象新書』の中で「天学」をするものは「心遊」という方法が必要であると説いています。志築のいうところによれば人間存在は重力によって地上に縛られているために、この地上からものを眺める。しかし、「知覚の心」を自由自在に宇宙の隅々にまで融通させることが心遊だということです。
 これは、私たち星見人にとっては非常に重要なことです。なぜなら、時間と空間を超越することができるのはひとり人間の精神活動のみなのですから。
 もっとも、私たちはそんなに難しく考えないで、もっと気ままに宇宙の旅を目と心で楽しめればいいのではないでしょうか。
 そして、この心遊をサポートしてくれるのがさまざまな天体観測器具です。代表的なものには天体望遠鏡や、双眼鏡などがあります。以前にも何度か紹介しましたが、天体望遠鏡などは倍率で選ぶよりも、口径の大きいほうが光を集める能力が高く、暗い天体まで観察することができるなどの機材選びのノウハウがあります。でも、やはり天体観察の基本は肉眼で星空を見上げることだと思います。

  高萩の星空

 最近の高萩の夜空は街灯が明るいために、見ることができる星は2等星くらいまでがやっと。とても少ない星しか見ることができません。しかし逆に、主な星座を見るのにはそれで十分です。むしろ明るい街内のほうが余分な星を見ないですみ、星座を覚えるのに適しているという皮肉な現象が起こります。
 しかし、本来ならちょっと郊外に足を伸ばせば十分に暗い環境が確保されるのが理想です。今のように、観望会を開催するにしても車で長時間移動しなければならないということは少々異常ではないでしょうか。
 君田などの山間地域では周囲の光がさえぎられて極端に暗い雰囲気が実現します。驚くことに、この周辺ではこれほどの闇は得ることができません。近くでは里美村や美和村に天文施設がありますが、水戸や常陸太田などの市街部の光をかぶってけっこう空が明るくなっています。まして、北茨城市の茜平にある天文施設などは問題外です。直接街の灯の影響をこうむってしまっています。
 一昨年天文同好会の合宿の折に、高萩と里美の中間あたりで見た星空は久しぶりの漆黒の世界でした。この環境はぜひ守りたいものです。
 幼い頃、ただなんとなく星の世界に憧れを抱いてはいましたが、実際に星座を覚え、こんなに星と親密に会話ができるとは想像していませんでした。星の名前や星座を覚える自信がなかったのです。子供の頃に親しんだ宮澤賢治の作品の多くには、たくさんの星たちの世界が織り込まれ描かれていました。『銀河鉄道の夜』はちょっと難しくて、かなり後になるまでなかなか読むことができませんでしたが、ほかのたくさんの詩や童話に描かれた星たちは、実に生き生きと私の心に話しかけてきて、豊かな世界をいつしかしっかりと形成してくれていたのでした。
星空との邂逅は人によってさまざまなのでしょうが、そんな形でもありうるのですね。

  もっと星空を楽しむには

 星見人にはいくつかのパターンがあります。望遠鏡を覗いて宇宙の神秘にただ酔いしれる眼視派、その姿を写真に収めようとする写真派、またいろいろな観望場所に星を追い求めるジプシー派。星は本当にさまざまな楽しみ方ができます。以前紹介したようにCCDカメラの普及によって簡単に画像処理が可能になったため、電子の目で星を捉えようとする人々も急激に増えています。
 私自身の傾向としては、現実の星空を目で見て楽しむのと同時に、星にまつわるさまざまな伝承をたどっていくことが好きです。ギリシャ神話のようなスケールの大きいダイナミックなお話もよいのですが、むしろ日本の各地に残る民間伝承のほうが面白く感じられます。一時ブームになった南方熊楠が、ロンドンの文壇にデビューした論文は「東洋の星座(原題:TheConstellations of Far East)」というタイトルでした。これは『ネイチャー』誌上で星座に関する論争があったのものに、南方が答えた文章です。中国とインドでの星座に対する考え方や名づけ方の違いについて書いています。南方はこの論文によって、一躍有名になったようです。インドは言語圏としてはむしろヨーロッパに親しいのですから非常に面白い比較民俗学のテーマですね。
 世界中の、星にまつわる民話や伝説を比較してみるのも面白いでしょう。離れた地域でも似たような言い伝えが残っていたりもします。
 また、昔話の中に思いもかけず天文現象が語られていることもあります。皆さんがよくご存知なのは、天岩戸伝説でしょう。天照大神が弟のスサノオノミコトの乱暴に嫌気をさし、天の岩屋戸に閉じこもってしまい地上はまっくらになってしまったという有名なお話です。これは説明するまでもなく、日蝕現象を扱ったものです。
 浦島太郎伝説の中にも、竜宮についた太郎が大きな屋敷の前で待たされているときに、七人の子供たちが出てきて「この人が乙姫様のだんな様ですね。」などと言いあっています。続いて八人の子供たちが入れ替わって同じように言います。先の七人の童たちは昴星でした。次の八人は畢星(あめふりぼし)です。
 日本は海に囲まれていますので、昔の人たちには星が海から生まれてくるという考えがあったようです。そういえば、宮澤賢治の『双子の星』でも海の中のシーンがありましたね。意地悪な彗星にだまされて海に落ちた双子の星に向かって、ひとでがこういいます。
 「何だと。星だって。ひとでももとはみんな星さ。お前たちはそれじゃ今やっとここへ来たんだろう。何だ。それじゃ新米のひとでだ。ほやほやの悪党だ。悪いことをしてここへ来ながら星だなんて鼻にかけるのは海の底でははやらないさ。おいらだって空に居た時は第一等の軍人だぜ。」
 まさにひとでは漢字にすると海星です。賢治は前述した心遊を生まれながらに実践できる人だったように思えます。
 皆さんもごいっしょに宇宙の隅々を心遊してみませんか?