何 を 話 そ う か

光太郎逍遥


高萩市民文化誌『ゆずりは』第10号 2000年3月1日発行


 昨年の秋、休暇で娘が帰ってくるからと、妻が突然温泉行きを言い出した。家族でドライブするのも久しぶりなので、福島の岳温泉に目的地を決め車で出かけた。安達太良山が近くなった時、妻が高村光太郎の詩集『千恵子抄』の中の「あどけない話」の一節を諳んじた。すると、娘はその詩を知らないと言う。

 小さなころから、かなりの読書量を誇っていた彼女が知らなかったこともさることながら、青春の一時期に必ず洗礼を受ける詩歌というものがあり、「あどけない話」などはその中の代表的な一篇だと思い込んでいた僕には少々意外だった。


  千恵子は東京に空がないといふ。

  ほんとの空が見たいといふ。

  私は驚いて空を見る。

  桜若葉の間に在るのは、

  切っても切れない

  むかしなじみのきれいな空だ。

  どんよりけむる地平のぼかしは

  うすもも色の朝のしめりだ。

  千恵子は遠くを見ながら言ふ。

阿多々羅山の山の上に

毎日出てゐる青い空が

千恵子のほんとの空だといふ。

あどけない空の話である。


 安達太良山は日本百名山の一座にも数えられていて、僕も数年前に独りで登ったことがある。あの時も、しきりに光太郎と千恵子の姿を思い描いたものだった。


 光太郎との付き合いは、それほど深いものではない。上の兄が光太郎を好んでいたのは知っていたが、僕自身は宮沢賢治に深く傾倒していたからだ。早熟だった僕は、小学生のころから賢治の感化を受けて、詩や童話を書きなぐっていた。しかし、光太郎が戦時中に岩手県花巻市にある宮沢家に疎開していたことや、戦争末期の空襲で宮沢家を焼け出されてから、戦後は花巻の山間部に居寓していたことなどを知ると、いささかなりとも興味を覚えてはいた。

 詩「道程」のように人生に真正面から向きあうことを強いる、大上段に構えた詩はどうにも好きになれなかった。要するに光太郎は優等生過ぎたのだ。彼の作品には、まるで甲虫のように頑ななところがある。それに比べると賢治の世界はまるで軟体動物だ。

 昔から、優等生の兄二人と常に比べられて育った劣等感の塊のような僕には、賢治の詩世界がどれほどちかしいものだったことか。

 だから、僕は光太郎のよい読者ではなかった。作品群は、ほとんど読んでおらず、評論は草野心平の『わが光太郎』一冊を読んだにすぎない。


 「あどけない話」を知らなかった娘に、僕なりに解釈した光太郎の世界を伝えたい。ここには、今を生きている若い人たちにとっても痛切な問題が横たわっていると思われるから。

 光太郎はその青春の貴重な時期、自己確立を求めて父を代表とする旧秩序と絶望的な格闘をしていた。人は父の息吹の沐浴することで、感性を磨き、自己を鍛え上げる。

 「幼年時代、少年時代には、父以上の人を考へられなかった。」

というくらい、光太郎は父を、「絶対に崇拝してゐた」


 光太郎の父光雲は明治を代表する彫刻家で、有名な「楠公銅像」や「西郷隆盛銅像」などを制作して、社会的に大きな名声を得ていた。弟子もたくさん擁していた。

 しかし、偉大であればあるほど、その存在は成長する光太郎にとって次第に桎梏となっていく。少年が最初に遭遇する敵は父なのだ。

 光太郎はその父の跡を継ぐのを嫌い、逃げるようにして海の外へと旅立っていった。自分自身であり続けたいという彼の願望は、アメリカへの逃避という畸形的な形で始まった。海外生活の中で彼は広い視野を獲得し、日本を、日本文化を外から眺める目をもつことができた。

 だが、厳しい見方かもしれないが本当に父を乗り越えることができたのは、わずかに文芸の分野での成功ではなかったか。


 十年ほど前、宮沢賢治の九月二十一日の命日に開催される「賢治祭」に参加するため夫婦で花巻に行った折、高山山荘まで足を伸ばした。

 わずかの風にも、黄葉が降るように舞い落ちる雑木の木立を抜けると高村紀念館が景色に溶け込むように佇んでいた。そして、光太郎が暮らしたというとても粗末な高村山荘があった。

 この戦後の人里離れた山小屋暮らしは僕を圧倒する。三畳ほどの小さな小屋は、戸の隙間から吹雪が舞い込む古い鉱山小屋を移築したものだ。雪は「平均一メートルくらいしかつもらないけれども、小屋の北がわでは屋根までとどき、地めんのくぼみなどでは人間の胸くらいまでつもる」という、山中に独居自炊することになる。小屋の裏山に登っては、今は亡き千恵子の名を叫んだという。これは、戦時中の光太郎の詩が、時局に呼応して戦争を扇動したとされたことへの贖罪でもあった。

 実際に、彼は詩や評論の中で日本精神を讃え、戦意を高揚する作品を量産している。

 たとえば彼は詩の中でいう。彼を慕って学んできた美学生たちが招集を受けて挨拶に来た時、

 「どんな時にも精神の均衡を失わず、

  打てば響いて

  当面する二つなき道に身を挺するこそ

  美を創造するものの本領、

  美と義とを心に鍛える者の姿だ。」

と鼓舞して、戦場に送り出したのだった。

 これが、与謝野晶子の歌集「白櫻集」に序をささげた光太郎のなれの果てだ。光太郎がどのようにして古い意識にからめとられていったのか。

 光太郎の血を吐くような思想的営為の一つひとつを受け止めながら、彼の作品を根気よく読み解くことで今後考えていきたいと思う。それは、僕たちが時代の中で自己をどう確立し、自己をどう生き抜くかという問題に深く関わっているからだ。

 日本を、外から見つめる目をもっていたはずの彼が、最も尊敬する人物として一も二もなくロマン・ロランを挙げていた彼が。なぜ、父の世界に後退してしまったのか。

 もし、亡命という行為が戦争に対する抵抗の、ひとつのあり方として思想化されていたのなら、光太郎も含めて当時の文壇の人々の生き方は、もっと違ったものになっていたかもしれない。これは、現在を生きる私たちにとっても決して無縁なことではない。彼が尊崇するロマン・ロランはパリを逃れて、スイスのレマン湖のほとりに居を移しているではないか。光太郎ほどの人が、ロランの最良のものを受け継いでいないはずはないのだ。それが、戦後の七年にも及ぶ山小屋暮らしと、『暗愚小伝』に象徴されていると思う。

 昨年は、同時多発テロへの報復として米軍によるアフガニスタン戦争があり、また今年は年明け早々イラクへの攻撃が懸念されている。これに、日本はかつてない踏み込んだ形で参戦しようとしている。戦争には、常に大義名分がある。それはどちらにもだ。戦争への雰囲気に飲み込まれることなく、「殺すな!」という原則を守り通すことの難しさを、光太郎の生涯は僕たちに教えているように思える。