水燿通信とは
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352号

水原紫苑歌集『世阿弥の墓』(3)

『世阿弥を語れば』を読んだあとで

はじめに
 当通信ではこれまで水原紫苑の短歌を何度かに亘って取り上げてきた。ところが、最近『世阿弥を語れば』(2003年 岩波書店刊)(注1)という本を読んで、能に関する作品鑑賞の箇所で、理解が浅かったり誤まって解釈していたものがあることに気づいた。そこで今回は、歌集『世阿弥の墓』の中でとくに注目に値する「序歌」(注2)の作品のいくつかを選び、かつての私の誤りを訂正しながら、再度考え鑑賞してみたいと思う。なお以下の文は、煩雑なのでいちいち言及しなかったが、『世阿弥を語れば』中の語や言い回しを用いて作成してあるものが少なくないことを断っておく。
恋の座は乞食(こつじき)の子が奪ふなり心せよとぞ花はうたへる
 将軍足利義満は永和元年(1375)、京都今熊野で演じられた猿楽をはじめて見物、観阿弥父子の能と、世阿弥の美貌に魅せられた。時に義満17歳、世阿弥(幼名は藤若)12歳。以後、世阿弥は義満の寵愛を受け、観世父子の大和猿楽結崎座(観世座)は将軍の庇護のもと栄華を極めていく。世阿弥の時代は稚児愛玩の風習の盛んな時であり、しかもこの今熊野の演能のときの世阿弥は、『風姿花伝』の「年来稽古條々」で姿も声ももっとも美しくなる時期(時分の花)として取り上げられている十二、三というちょうどその年齢であった。
 世阿弥の際立った美貌に、当時の文人として超一流だった二条良基もほとんど惚れたようになり、以後世阿弥は堂上貴族の文化サロンの中心になったという。
 しかし、当時でも美しい風貌であれば誰でも稚児になれたわけではなく、その出自も大きな要素であり、下層の階級の出身者が重用されることはなかった。そんな中で世阿弥は河原乞食と言われた役者の身でありながら稚児のトップの座にのぼりつめた。美貌だけでなく、さまざまなことに対する才覚も並外れたものであったことは容易に推測できる。実際、彼の数多くの著書などから、世阿弥は世間様を強く意識し、今どうやったらいいのかをつかむ能力が非常にすぐれていたことがわかる。役者の多くが文盲だった時代に高レベルの伝書を多く著した文章家で批評意識もあり、非常な自己意識のある特異な人物だったことも窺える。もともとの利発さに加えて、稚児時代の義満や堂上貴族の中で過ごした体験によってその特徴、感性は更に磨きがかかったのだろう。京都で天才連歌少年現れるといった評判が立つほどの連歌の名手でもあった。
 こういったことを考えると、文頭に掲げた〈恋の座は〉の歌は、栄華を極めながらも自らのその地位がいかにあやういものであるかを自覚しつつ、同時にそれを成し遂げたおのれの美貌や多方面にわたる才覚に大きな自負心と誇りを持っている世阿弥という人物を表現したものといえるのではないか。従って〈花はうたへる〉の花を世阿弥伝書に出てくる花などと限定したりせず(伝書の書かれた時期によって、世阿弥の「花」は変化し続けている)、単純に「世阿弥は語っている」くらいの意味にとるのがいいのではないかと思う。
風姿花伝稿講更(か)ふるたび遠ざかる死の弦楽は能には在らず
 『風姿花伝』は長い時間をかけて書かれたものであり、前期は観客をどうやってねじ伏せ納得させるかという視点が強かったのに対して、後期から次の『花鏡』あたりになると、観客の鑑賞眼のレベルが非常に上がってきたこともあり、玉を磨きに磨くように劇を作っていかなければならないと考えるようになった。また、世阿弥の能は足利将軍を非常に意識して作られており、パトロンを言祝いだりする心遣いもしていて、直接権力と関わっている状況の下で能を作っていたことがわかる。
 ところで、「橋の会」(注1で詳述。1980年、松岡心平らが創立した能楽を考える会)で復曲した作品の多くは世阿弥作のものであったが、それを通して幽玄とか花とかいう我々が世阿弥について考えてきたものとは違ったエネルギーを持った、文学的なものを取り去った世阿弥が存在していたことがわかったが、そのような世阿弥を感じさせる作品は、歴史の流れの中で演じられなくなった事実も浮かび上がってきた。「橋の会」ではそのような作品がなぜなくなったのかを追求し、日本の中世以来の美意識による検閲(世阿弥自身が行なったものもあると思われる)を受けたのではないかと、考えるようになったらしい。つまり、世阿弥のところで今の能の核のようなものが押さえられたその功績は大きいが、それは一面からみれば、彼の作品は整っているけれどももう一つ面白みに欠けるものが大半になってしまったといえる、ということらしい。
 ところが世阿弥の子の元雅は権力から離れていただけに、たとえば「戦争で死んでいった人間たちがこんなに美化されて描かれるのはおかしい」と疑問を持つような自由な発想が出来た。世阿弥は歌の世界をよくわかっていてそれを自分の中で血肉化して能の中に引用しているのに対して、元雅は表層的に引用しているがそれが思わぬ効果を生むことがある。また世阿弥の場合、死が他界に通じているということが信じられており、ある種の幻想の共同体があったが、元雅になると共同体が信じられなくなっていて、死の瞬間そのものがジッと見つめられることになり、死のリアリティが出てくる。さらに世阿弥の女婿である禅竹は、中世の神道思想を発想の基盤に置いて能の世界を構成したと思われ、その結果、能の世界がそれまでと違って見えてくるようになった。
 つまり元雅や禅竹の世代になって、世阿弥によって確立された様式をすべて分かりながら壊して能を作るという動きが出てきたのである。世阿弥にとっては心象風景だったものが、禅竹や元雅を中心に考えれば、能はむしろ心象とか文学には集約できないリアルなものになったのだ。
 『世阿弥を語れば』に登場する人たちの多くも同様に感じているようで、世阿弥の整った作品よりも元雅や禅竹の作品の方がより豊穣で面白いと語っている。この対談に登場する人物の一人水原紫苑は「・・・世阿弥だと、死の中で生のイデアみたいなのが完成するという感じがあって、死というのはどこにもないような感じがします。・・・世阿弥は戦乱の名残りを知っている時代ですね。元雅はいわば私たちみたいな(戦争を知らない世代で)ひ弱な時代の子だったのだと思います。そうすると、元雅にある表層から表層をすくい上げるしかない存在の不安みたいな感じというのは、私にはむしろ世阿弥の豊かさよりもずっと共鳴するところがあるんです」と語っている。
足利きの世阿弥よ星の公転のごとき序の舞いかに堪へけむ
 この作品は250号で取り上げている。そこで私は、「最初の〈足利き〉が長いあいだ謎だったが、あるときこれは〈あしかが〉を懸けているのではとひらめき、解釈の糸口がつかめた」と書いたが、これは大きな誤りであった。
 世阿弥は多くの演技論を著している。前期の代表作『風姿花伝』では40代、50代になると体が衰え顔も悪くなってくるから、舞台では何もしないでいなさい、といっていたのが、後年の著作になると、老人は舞台ではそんなに動かなくていいけれども、内部の心の力を出すことで、そこにもっと面白い何かが出てくるようにすべき、というように変っていっている。
 ところが世阿弥自身は50代でも挙措動作が実にきびきびしていたらしく、『申楽談義』の最後のところで「われは、足利きたるによつて、おとりたるなり」と告白しているのである。世阿弥にとって足利きは役者としては大きな欠点であったというわけである。
 40〜50代にかけての世阿弥は、ほとんど動かない状態でひとつの様式的な身体を作っていって、そこから観客の想像力によって自由に物真似をも含んだ劇的世界を構築する方向を目指したのだが、自らは足が利く身体故に、ほとんど動かない星の公転のような序の舞にはとりわけ苦労し工夫が必要だったのだろうと、紫苑は想いやっているのだろう。
狂世阿弥 まこと呼ばれしことなきか金島書なる光のやみよ
 これまで世阿弥の生涯は、足利義満の時代はよかったが義持将軍になると音阿弥(注3)を重用して世阿弥たちは無視され、息子の元雅は伊勢で客死(暗殺という説もある)、さらに70歳を越える高齢になって佐渡に流される、という不幸が続いた、というように伝えられて来た。だがこれには、世阿弥の生涯を悲劇的にするための誇張、歪曲があったらしい。
 足利義満の時代は、能を演じてもいいところだけほめられ悪いところの指摘はなかった。ところが義持の時代になると、観客の鑑賞眼のレベルが非常に上がってきて、悪いことをするとすぐ観客からクレームがつくようになった。義持の時代になると音阿弥がもてはやされるようになるが、世阿弥がないがしろにされていたというよりも、当時の能役者はエリート観客の批判によって自分を磨き立てられるようになったといういい意味での緊張関係にあったようだ。つまり、義持の時代(世阿弥46歳からの20年間)は能にとって特権的な時代だったといえるというのだ。
 ところで、世阿弥は70歳を過ぎてから佐渡配流となる。そこで書かれたのが八つの謡から成る『金島書』である。
 世阿弥がなぜ佐渡に流されたかに関しては、謎が多い。『金島書』で世阿弥は“つみなくてはいしょの月をみる事は、古人ののぞみなるものを、身にも心のあるやらん”(「罪無くて配処の月を眺めるといふことは、古人が望んだことであるのだから、かやうの境涯になることは、自分にもさうした心があるのであらうか」の意。『世阿弥十六部集評釈』より)と書いて、無実であることを匂わせている。しかし国家反逆の罪に問われたのではないか、と主張する研究者もいるし、それに近いことを匂わす文章も時々見受けられる。
 『金島書』を読んで意外に感じられるのは、その中に嘆きのトーンはほとんどなく、あたかも趣味人の老人が名所旧跡を訪れて楽しんでいるような風情があることである。「北山」と題する謡などでは、土地の古老に聞いた佐渡の神秘結界に触れ、そのような妙なる黄金の島に住ませてもらっている自分は幸せだといわんばかりの書きぶりなのだ。元々、世阿弥の中には「見る自己」と「見られる自己」がはっきりしていて、自分自身まで客観的に見るような側面があったといわれているが、それにしてもこの冷静さは一体なんなのだろうと思う。
 『世阿弥を語れば』に登場する対談者の一人多田富雄は「世阿弥は一座を背負ってゆかなければならない立場の生涯だったが、西行などに倣って自分も放浪して歩きたかったのではないか、だから佐渡流謫など案外いいチャンスで、心の片隅では配流の月を楽しんでいたのかもしれない」と語っている。いずれにせよ、世阿弥は己れに何が起ころうとも自分の感情を表面に出すようなことは稀だったのか。
 元雅に先立たれ、観世座の栄華を失い、そして佐渡に流されるようになっても、狂うことも悲嘆にくれることもなく、なんとも冷静な筆致で『金島書』なるものを著した世阿弥なる人物に、水原紫苑は驚嘆とも嫌悪とも、なんとも名状し難い感情にとらわれたのだろうか。
(注1)「世阿弥に親炙すること当代随一の論客(松岡心平)が、世阿弥に惚れ込むことでは人後に落ちない各界の識者十一人と縦横無尽に語り合った対談集」(本著カバー)である。
 松岡心平は土屋恵一郎などとともに、能からさまざまなところへ橋を架けようとの願いをこめて1980年に「橋の会」を創立し、四百年くらい演能記録のないものを復曲するなどさまざまな試みをやった。その活動を通して従来の世阿弥像や能楽の歴史そのものも大きく変えるような事柄がわかったという。それらについて本著で詳しく述べられている。なお対談相手は、順に大岡信、横道萬里雄、水原紫苑、松岡正剛、多田富雄、多木浩二、渡邊守章、渡辺保、観世栄夫、丸谷才一、土屋恵一郎。
(注2)松岡心平に同人誌「ZEAMI」創刊号に寄稿を要請されて作った「世阿弥十首」と題して発表した作品。『世阿弥の墓』を編むに際して、「序歌」として冒頭に掲げられた。以下の10首である(末尾の数値は当通信で取り上げた際の「水燿通信」の番号)。

藤若のひとみほのかに紫を帯ぶる夜半(よは)かも父と舞いつつ(218
恋の座は乞食(こつじき)の子が奪ふなり心せよとぞ花はうたへる
鬼の顔まなかひに見しかの日より将軍に会ふ日までのもゆら(218
物真似をきはめむことのさびしさよ思ひ虚空満(そらみ)つ大和猿楽
風姿花伝稿講更(か)ふるたび遠ざかる死の弦楽は能には在らず
犬王の昇天の雲ひらひらとくらき世阿弥の額(ぬか)を撫でしか(218
足利きの世阿弥よ星の公転のごとき序の舞いかに堪へけむ(250
〈白鳥、花をふふむ〉一瞬にして白鳥はもつとも蛇に近づくならめ
元雅を失いしのちきみが手のあふぎに憩ふ白き鳥はも
狂世阿弥 まこと呼ばれしことなきか金島書なる光のやみよ
(注3)実父は世阿弥の弟。世阿弥に子どもがなかったため、幼くして世阿弥の養子となったが、しかる後世阿弥に実子元雅ができたため、音阿弥を長男、元雅を二男とすべきという説も強い。なお、観世太夫職は音阿弥の子孫に受け継がれ、現在に至っている。
当通信では、水原紫苑の作品を幾度か取り上げています。173号『客人』、218号「『世阿弥の墓』」、242号「水原紫苑の世界(1)」、243号「水原紫苑の世界(2)」、245号「水原紫苑の世界(3)」、250号「『世阿弥の墓』から(2)」です。これらを併読していただくと、水原紫苑の世界がより鮮明になると思います。また350号で、歌集『武悪の人へ』中の作品1首を紹介しています。
(2016年6月10日発行)

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発行人 根本啓子