水燿通信とは |
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243号水原紫苑の世界(2)「水燿通信の夕べ」から |
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〈『客人(まらうど)』の続き〉 |
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甫閑(ほかん)作若女(わかをんな)ふいにきらきらとかざぐるま吹くくちもとならむ |
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甫閑というのは、能面作者の名前です。それから若女というのは、観世流に独特の若い女の面です。よく「能面のような」という言葉を無表情の象徴のように使いますけれども、能楽に親しんだことのある人にはわかっていただけると思うのですが、能面というのは決して無表情なものではないのです。角度をちょっと上に向ける、照らすといいますけど、それだけで笑っているような感じになるし、また下に向ける(曇る)と泣いているようになる。なによりも舞台、いい舞台だと本当に面が動く、動いているように見えるのです。決して無表情なものではないのです。 |
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さてこの作品ですけれど、能面の口元がふっと息をしそうだという視点は、それほど目新しいものではありません。ただ、私はこの歌に接したとき、以前鎌倉を訪れたときのことを思い出したのです。鎌倉駅で降りて、東側に金沢街道でしたかしら、それをしばらく行って右に曲がりますと報国寺、竹の寺がありますけど、それよりもうちょっと手前、左側の急な石段を上ったところに、杉本寺というお寺があります。このお寺に行ったときのことを思い出したのです。石段を上りますと、右手に数体のお地蔵さんがあるのですが、そのお地蔵さんの周りに、セルロイドの風車がいっぱい置いてあったのです。たまたま気持ちよく晴れた風のとても強い日だったのですけど、折からの風にあおられてそれらの風車がカラカラカラ、カラカラカラと勢いよく回っていたのです。そしたらふっと、幼い子供を亡くした母親の悲しみと、それから幼くして命を奪われた子供の怨念みたいなものがあたりに満ち満ちているような気がしてきて、なんかこわくなって鳥肌が立ってしまったのです。そのときのことを思い出して「ああ、いい作品だな」と思ったわけです。ほのかな笑みを湛えているような若い女性の面と、不意に動き出した派手な色の風車の取り合わせは、こわくてしかも深い悲しみを感じさせるような気がいたします。 |
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白露や過ぎにし鷹女銀河ゆきあはれうつくしきほと見するなり |
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これは鑑賞力があっても俳人の三橋鷹女(みつはしたかじょ)についての知識がないと、十分には味わえない作品ではないかと思います。この鷹女というのは三橋鷹女のことで、明治32年生まれ、昭和47年に亡くなっています。一貫して老いとか女の情念を見つめ続けた俳人で、ナルシスティックな側面や激しい気性の部分をのぞかせながら、華麗な感じの句をたくさん作った人です。晩年は老いの境地が辿り着いたような静謐な作品なんかも作っております。 |
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この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉 『魚の鰭』 |
老いながら椿となつて踊りけり 『白骨』 |
枯蔓は焼くべし焼いてしまふべし 『羊歯地獄』 |
消炭を夕べまつかな火に戻す |
老鶯や泪たまれば啼きにけり 『(ぶな・木偏に無)』 |
いまは老い蟇は祠をあとにせり |
椿落つむかしむかしの川流れ (晩年の作品) |
千の蟲鳴く一匹の狂ひ鳴き 『(ぶな・同上)』以後(絶筆) | |
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こういった作品から鷹女というのはどんな俳人だったかということを考え、またこの水原紫苑の作品を味わう場合は、 |
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女一人佇てり銀河を渉るべく 『白骨』 |
白露や死んでゆく日も帯締めて | |
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の二作品を特に念頭に置いていただきたいと思うわけです。 |
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この水原紫苑の短歌の眼目といいますか、それはなんといっても〈うつくしきほと〉という表現にあると思います。〈ほと〉というのは、性器のことです。発表当時評判になったというのもうなづける気がします。この〈うつくしきほと〉をどんなふうに考えたらいいのかということですけど、私はこれには性的な意味をあまり持たせないで、むしろ鷹女像から人間的な生々しさを消去し、それを昇華ないし純化させる役割があるのではないかというふうに思っています。〈過ぎにし鷹女〉とあって鷹女はもう生きている人間じゃないことがわかりますけれど、このことによって彼女が現世に訣別したことがより明確になって、遠い美しい存在になるわけです。さらにこの表現は、鷹女像の下の方に読者の意識を向かわせることによってその表情をあいまいにする作用もあるのではないでしょうか。それがかえってこの作品全体の世界を豊かに広げる役割を担っているように思います。 |
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水原紫苑の歌には、このように詠み込まれた題材に対する相応の知識がないと十分に味わえない作品が少なくないのですけれど、いったんそういった知識を共有すると、非常に豊かな広がりのあるすばらしい世界を私たちに見させてくれるわけです。次の『世阿弥の墓』などは、そういった作品がとくに多くなっています。 |
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〈『世阿弥の墓』〉 この『世阿弥の墓』という歌集は2003年に刊行されたもので、タイトルからもわかるように世阿弥や能楽についての作品から成っています。先ほども申し上げたように、私は以前能楽に親しんだ時期がございますので、この歌集は割とわかりやすい作品の多い歌集です。 |
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藤若のひとみほのかに紫を帯ぶる夜半(よは)かも父と舞ひつつ |
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藤若というのは、能の大成者世阿弥の幼い頃の名前です。世阿弥は大変美しい顔の持ち主だったと伝えられています。その世阿弥が12歳のとき、京都の今熊野で将軍足利義満に申楽(さるがく)を見てもらう機会を持つわけですけれども、義満は観阿弥世阿弥父子の舞った申楽と世阿弥の美貌に大いに魅せられまして、その後、世阿弥は義満の寵愛を受け、観世座は将軍の厚い庇護のもと栄華を極めていくわけです。 |
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世阿弥の肖像は残っておりません。ただ美しかった、義満が魅せられた、そんな話ばかりが残っていますし、また関白の二条良基は「一度会っただけでその美しさに呆然として一日中ぼやっとして過ごした」などと書いていますから、一体どんな美しさだったんだろうと私たちの想像力をたくましくさせるようなものがあるわけです。 |
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〈藤若の〉の歌は、〈夜半〉〈舞〉〈紫〉といった妖しさと美しさを喚起する力の大きい言葉を矢継ぎ早に用いて、藤若をこのうえなく妖しく美しく描いて効果的だと思います。 |
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この『世阿弥の墓』という歌集は、最初に「序歌」十首というのが置かれていていずれも非常に心惹かれるものが多いのですけれども、この歌はその冒頭、つまり歌集の最初に置かれている作品です。 |
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鬼の顔まなかひに見しかの日より将軍に会ふ日までのもゆら |
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先ほども申しましたように、将軍足利義満は永和元年(1375)京都の今熊野で演じられた観阿弥世阿弥父子の申楽を初めて見物、ふたりの舞と世阿弥の美貌に魅せられまして、その後、世阿弥は義満の寵愛を受け、観世座はその当時は結崎座(ゆうざきざ)ですけれども、将軍の厚い庇護のもと栄華を極めていくわけです。この世阿弥の時代というのは、稚児愛玩のたいへんに盛んな時代でして、とくに女人禁制の寺院などでは男色の代わりみたいなことで稚児がたいへんもてはやされたわけです。必ずしも男色とは一緒に出来ないですけれども、微妙なところです。 |
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この将軍の庇護は、義満が出家して道義となったあとも絶えることはなく、道義が51歳で死去する日まで続きます。世阿弥の栄華はどれほどだったか、と思うと同時に、義満と世阿弥の2人の関係が長い年月のなかでどのように推移していったか、ということも、私たちの想像力を刺激してやまないわけです。片方は自分の意思ひとつですべてのことがどうにでもなる最高権力者、片や将軍の寵愛を一身に受けているとはいえ、将軍の意向ひとつで明日はどうなるやも知れない河原乞食、そういった意味でとくに世阿弥の側の義満に対する愛憎の思い、もういいことだけではありませんよね、その後2人とも妻を娶り子を生していますし、決してうれしい、ありがたいだけでない、愛憎交々の思いがあったと思われます。さてこの水原紫苑の歌では、〈鬼の顔まなかひに見〉ることと〈将軍に会ふ〉ことを同列においているわけです。これはなかなか意味深いと思います。〈鬼の顔まなかひに見し〉はそのままに解釈することも出来るでしょうし、またそれに類するような体験の比喩と考えてもいいと思います。しかも水原紫苑はこの『世阿弥の墓』のなかで、次のような歌も作っているのです。 |
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永和元年(一三七五)、将軍足利義満、初めて猿楽を見物す。 |
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今熊野申楽の日の十二歳すでに殺意は知りそめにけむ |
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今熊野で申楽を舞った12歳のときから、すでに殺意は知っていたのだ、という歌です。こういうことを考えますと、この作品は私たちにさまざまな解釈の可能性を許容して、豊かに広がる世界を繰り広げて見せてくれるように思います。先の歌にある〈もゆら〉ですけれど、辞書なんかで引いてもでてこないのですが、短歌では割合使われる言葉です。私は「茫洋とした時間や空間の広がり」といったほどの意味に解釈しています。 |
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犬王の昇天の雲ひらひらとくらき世阿弥の額(ぬか)を撫でしか |
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犬王は、近江申楽の名人道阿弥のことです。観阿弥と世阿弥の中間の年代の人で、この親子とも親交がありました。観阿弥の結崎座というのはもともと物まねの傾向の強いところだったのですけれども、近江申楽は幽玄味のわりに強い作風でした。世阿弥はこの犬王や摂政二条良基ら文化人の影響を受けて、音楽と舞踊の要素の強い幽玄味のある芸風を創り上げ、能を芸術的に大成させたわけです。 |
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犬王が没したのは永和20年(1413)、出家して道義となっていた義満はすでに5年前に他界しており、当時の将軍足利義持は田楽の増阿弥を贔屓にしていて、世阿弥の栄華にも翳りが出てきた頃です。そんな時期の世阿弥の心情を、象徴的に美しく描いていると思います。 |
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元雅を偏愛したる血肉の惨たる地(つち)に却来華咲く |
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元雅というのは世阿弥の長子です。「隅田川」とか「弱法師(よろぼし)」などの作者で、すぐれた能役者でした。世阿弥も「子ながらも、たぐゐなき達人……祖父にもこえたる堪能」(「夢跡一帋」)と讃えて、一子相伝の秘伝や奥義などをことごとく伝えて期待したのですが、永享4年(1432)40歳に満たずして伊勢で急死します。その4年前に将軍が替りまして足利義教となったのですが、この義教は世阿弥の甥の音阿弥を重用して、世阿弥をことごとく嫌ったのです。世阿弥の観世座にもどんどん翳りが出てきた、そんな時期に元雅は急死するわけで、観世座は壊滅的な打撃を受けます。しかもその2年後には、世阿弥は72歳の高齢で、佐渡に流されるのです。この元雅の死はいかにも唐突で不自然だったものでしたから、さまざまな憶測を呼びました。他殺じゃないか、自殺じゃないか。結局今に至るまで、確たることはわかっておりません。 |
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それから却来華ですけれど、これは芸位のひとつです。世阿弥の伝書の中に『九位次第』というのがありまして、能の芸意を九つに分けております。上三位、中三位、下三位、それぞれ3つずつです。それで却来華というのは上の2つの位、具体的に言いますと妙花風と閑花風なんですけど、そこにのぼりつめた、それを習得したものが、その芸意をもって下三位の、といってもそのなかの1番上だけですけど、その演技をやれば、それは観客を感動させられるものになり得るんだ、それは単に下から3番目のものをいきなりやるのとは全然違って、感動させるものに成り得るのだ、という風に言っていますけれども、その芸意を却来華というわけです。また、別の言い方でいえば、是風というのは芸位として納得できるもの、評価できるもの、非風というのはそういうのは認められないものを指していますが、非風なんだけれども、それを演じても是風に見えてしまう、そういう芸位のことともいえるかと思います。こういったことを念頭において見ますと、水原紫苑のこの歌というのは何か芸の残酷さといったものを表しているような気がします。私には元雅の不審な死に対する、これは魅力的な解釈のひとつではないか、そんなふうに感じられます。 |
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水原紫苑の作品、わずかな数ですがみてきたわけですけれど、最初の歌集の『びあんか』では歌人の高野公彦が、また第2歌集の『うたうら』では師の春日井建が解説を書いております。どちらも水原紫苑の特徴をうまく捉えておりますので、紹介してみます。 |
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現実と幻想の、どちらともつかぬ、そのあはひの薄明にあそぶたましひの歌、といへるであらう。この世に生まれ出たことに対する否定のこころが、多くの歌に息づいている。だが作者は、現実に対して歯をむき出して逆襲することはせず、薄明の境にひそんで淡い毒のある叙情歌をつくり出す。(高野公彦) |
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水原紫苑は、昭和六十年代のはじめ、突如として歌をはじめ、「短歌」(中部短歌会)誌上に「三十一文字で、ここではないどこかへ飛べたら、とだけ思います」と書いた。その願いどおり、彼女の作品からは不思議な歌空間が広がり、「ここではないどこか」が見えた。それは天稟としか言いようのないもの、努力して得られるものとは異なり、彼女がはじめから身にそなえているものだった。(春日井建) | |
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〈春日井建の死〉 さてこの春日井建ですが2004年5月、咽頭癌のため亡くなっております。65歳。水原紫苑には、その春日井建の死の半年あとに編まれた歌集があります。『あかるたへ』という歌集です。この歌集の帯に「亡師に献る誄歌三百七十余首!」とありまして、つまり亡き春日井にささげた歌集なのです。歌集のタイトルである「あかるたへ」という言葉は古代の祝詞に出てくる言葉で、「かがやかしいあかるさ」という意味なのですが、春日井の好きな言葉だったそうです。この歌集の最後の部分に、春日井建との出会い、思い出、それに亡くなる直前に見舞いに訪れたときのこと、亡くなってからの思いなどを詠んだ歌が収められています。この『あかるたへ』という歌集は決してわかりやすい歌集ではないのですけれど、なぜかこの春日井建を詠んだ部分だけは、とてもよくわかるのです。そこからいくつか選んでみました。 |
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1 | | 白鳥となりますならば虚空(おほぞら)は母なる刀自か闇ふかめゆく |
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2 | | 鎌倉の海辺の砂にゆらゆらと佇ちて礼(ゐや)なす禁色まとひ |
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3 | | 熱き冷酷想ひつつ来たるわが前に奥行き深きやさしさの師ぞ |
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4 | | されど見えぬバリアは在りて師の血肉(ちにく)にふれまつることかなはじとわれは |
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5 | | 『未青年』の底を流るる水ならむ『朝の水』こそ盃に酌め |
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6 | | 変成の男子となりて逢ひまつらむふたたびきみがほむらだつ世に(掉尾歌) | |
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1ですけれども、これをみると『古事記』の日本武尊(倭建命)の最期のシーンを思い出しませんか。伊勢の能煩野で亡くなって、その魂が白鳥となって大和を目指した、という。春日井建の建という文字のせいもあるのでしょうか、水原紫苑の作品の中には建を倭建命に擬したようなものがいくつもあるのです。これなんかもそういった作品のひとつです。 |
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先ほど〈太陽を犯せし〉の歌のときに禁忌とか近親相姦とかお話いたしましたけれど、この春日井建とお母さんというのは、実に仲がいいのです。実際にそういうことがあったとかなかったとか、そういうことではなくて、晩年は年老いたお母さんと病いを得た春日井建とが、とてもむつまじく肩寄せ合って、お互いをいたわりあいつつ生きているさまを詠んだ作品がいくつもございます。そんなお母さんとの関わりを考えますと、この歌は死んだ建を、その少し前に亡くなって大空となったお母さんが包み込んでいるようなイメージが感じられるわけです。春日井建というのはある時期から歌風が変わってきて、わりと写実的なものが多くなります。その転換期ともいえる『白雨』というのがあるのですけれど、それが2000年の迢空賞、短歌の最高の賞ですけれど、を受賞するわけです。この歌集にお母さんを詠み込んだ歌が比較的多くなっています。 |
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次、2と3ですが、実は水原紫苑が春日井と初めて会ったのは、鎌倉で行われた『短歌』の全国大会があったときだったらしいのです、それでこのような歌があるのです。独特の優雅さ、品位といったものを漂わせながら鎌倉の海辺に立っていたとか、〈熱き冷酷〉を有する『未青年』の春日井を想像していた水原紫苑の前に、奥ゆかしくやさしい感じの建が現れたといった歌です。つまり春日井建というのは、輝きがなかったといっても歌の家に生まれた人間ですから、言葉に対する繊細な感覚といったものは豊かにもっていたし、一流の歌人と期待するから輝きがないなどというのであって、決して凡庸な歌人じゃないわけです。その物腰の優雅さとか言葉に対する繊細さといったものは、水原紫苑には十分に魅力的だったようです。しかし〈されど見えぬバリアは在りて〉なのです、おそらく同性愛者が女性に感じさせる独特の近寄り難さ、バリアのようなものを感じて、男と女としてのかかわりはもてなかった、冒しがたいものがあった、と追悼の座談会でも水原紫苑は語っています。でもそれがまた魅力なのだとも言っています。 |
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5ですけれども、この『朝の水』というのは、春日井建の最終歌集です。亡くなる直前に完成して、亡くなってから関係者に送られてきたということらしいです。水原紫苑は『未青年』と『朝の水』との間に通底するものを感じているわけです。つまり私がもしかしてと勘ぐったみたいな失望感だとか、それから写実的な歌風になって失望したとか、そういったことはあまり無かったのかな、という感じがいたします。このあたり、作品そのものを通してだけの推測で、実際のところははっきりわからないわけですけれども。最後の6の〈変成の男子となりて〉ですが、今度生まれ変わったならば男に生まれて、あなた春日井建が華々しく活躍するときにお会いしたいものだ、というものです。これは『あかるたへ』の最後に置かれた歌です。 |
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歌人の永田和宏は、角川『短歌』2004年9月号に載った春日井建追悼文「鏡のこちらと鏡のむこう」のなかで、春日井建の歌について「かつては鏡の向こう側にこそ真実が、本来の自分があると思っていたに違いない。…その晩年に鏡のこちら側の世界にしっかりした自分を見定めようと思いいたった」、これが晩年の春日井建のひとつのピークになった、それで迢空賞を受賞することになったのではないかといった意味のことを述べています。晩年のひとつのピークとは歌風が少し変わった、そのあたりをさしていっているのだろうと思います。 |
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水原紫苑は追悼号である『春日井建の世界』(思潮社刊)で、9冊ある春日井建の歌集から三百首選ぶ役割を仰せつかっているのですけれど、それについて選後にこんなことを述べています。 |
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わが師春日井建の九冊の歌集から三百首を選ぶのは、悲しみのうちにも心が晴れるつとめだった。思い責任には身がふるえたが、それでも亡き師の肉声にふれるような喜びは抑えられなかった。歌がある限り、春日井建は永遠に生きている、私たちの前に。 | |
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また追悼座談会などでも、何か相談をするとすぐに「それは…」ということで力強い答えがかえってくる頼もしい師であった、と語っていますし、水原紫苑にとって春日井建は、一貫していい先生だったのかなあと思うようなことばかりなのです。 |
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ただひとつ、1991年、春日井建に師事して数年経ったころなのですけれども、水原紫苑はこんなことを書いています。 |
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彼にどんな晩年が訪れるのか知らない。ただ、少年の日の輝かしい奇蹟により陰影ふかい、存在と言葉の奇蹟を眺めつづけるばかりである。 | |
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なかなか意味のとりにくい文章です。でも何度も読みかえしてみると、どうでしょうか、結局『未青年』の春日井建を追っているようなそんな感じがしませんか。一貫して「いい師だった」と言っていますけれども、『未青年』以上の感動は無かったんじゃないか、とそんなことも思ったりするのですが。今日のお話は大体こんなところです。 |
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* | 最近、堂本正樹の著書『喝食抄』『演劇人世阿弥』を読んで、戦前に作り上げられた世阿弥像が、戦後のめざましい研究成果によって大きく訂正されたことを知りました。そして元雅についても「世阿弥の実子ではあるが次男で、観世の正統は名人音阿弥(世阿弥の弟の子。養子にして家を嗣がせた)だった」というのが、最近の能楽界の常識になっているようです。元雅を世阿弥の長子としたことや世阿弥の境遇に関する今回の私の話は、私が能楽に親しんでいた頃に信じられていた世阿弥像に則ったものであることを、申し添えておきます。 | |
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(2007年2月20日発行) |
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発行人 根本啓子 |