水燿通信とは
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350号

塗籠にまつわるとおい記憶

 塗籠(ぬりごめ)を百科事典などで調べると、日本の伝統的建築における壁に囲まれた部屋のことで、平安時代の清涼殿では「夜の御殿(おとど)」と呼ばれていたとある。寝る場所として使われていたらしい。密室とすることの可能な唯一の場所である。
 この説明では、奥まった重要な場所という感じで、怖いとか恐ろしいなどといったイメージはない。だが、馬場あき子著『鬼の研究』には、塗籠やこれに類するところから登場したり消えたりする鬼や正体不明のものの話がいくつか紹介されている。いずれも『今昔物語』のなかの話である。
 たとえば、醍醐治世の頃(920年代か)仁寿殿の台代の御燈油を夜々奪い去るものがあるので、源公忠が待ち受けていて、夜半、重たい足音がしたので切りかかったが、足音は南に走り去った。夜が明けてみると血は南殿の塗籠におよんでいたが、中には何もひそんでいなかった、という。
 また、乳母が幼子と方違えのため下京の宿にぜひなく泊った時のこと、夜半、塗籠の戸が細めに開いて、5、6寸しか背丈のない盛装した官人が10人ほど馬に乗って通って行ったが、乳母が枕上にあった魔除けの米をつかんで投げつけると、この幻は一瞬にして消え、翌朝みると米には血がついていた、という話もある。
 『鬼の研究』のこの箇所を読んだとき、私には強烈によみがえってくる記憶があった。幼い頃から何かしら気味悪くて近づけなかったあの場所、今もって謎のあの一画……。
 実家には重い扉を開けて入るお蔵があった。二階建てで、階段は漆塗りで黒光りしていて、手摺には橋の欄干にあるよう擬宝珠状のものがついており、階段の下には金具の取っ手のついた引き出しのある凝った造りのものである。二階にあがると畳敷の部屋になっており、いっときは我家で絶対の権力を握っていた祖父が寝起きしていた場所だった。
 二階の畳を敷いた部分には、箪笥が数竿置いてあって、私が40代も後半になったころからだったろうか、帰郷するたびに母はそこに私を連れて行き、喪服の入っている箪笥を開けて見せた。そこには私たち姉妹に用意されたそれぞれの喪服が各自の名札を上にして置かれていて、母はいつも「お前は体が大きいから裄を長く作ってある」と説明したものだ。おそらく、母は自分の葬儀の時にはこれを着てくれと暗に言っていたのだろう。
 だがそれを着るべき母の葬儀のときには、私は体調が悪くて帰郷は叶わず、それ以後もずっと体調はあまりよくないので、母の用意した喪服は一度も着ていない。あの喪服は、今も私の名前を書いた紙片を添えたまま、あの箪笥に収まっているのだろうか。
 畳を敷いた部屋の隣は、四方を壁で囲まれた真っ暗な部屋、まさしく塗籠のような場所だった。障子を開けると、暗くて何も見えずよくわからないがなにか雑多なものがごちゃごちゃと置いてある感じだった。好奇心もあったが、気味悪さが先に立ち奥まで行く気には到底なれなかった。
 部屋に入って左手すぐのところに大きな蓋のついた箱があった。少なくとも畳1畳くらいの大きさはあっただろうか、全体が真っ黒で蓋には金具が付いており、何か開けてはいけないようなものを感じさせた。実際、お蔵に行くたびにその箱のことが気になって仕方なかったのだが、何が入っているのか訊ねることもはばかられ、まして開けることなど思いも寄らなかった。
 その箱のことも――塗籠の奥の部分のことも――何もわからないまま今にいたっているが、最近、しきりにこの塗籠や箱のことが気になっている。あんなものがどうして我家にあったのだろう。箱の中には何が入っていたのだろう。血塗られた鬼が逃げ去ることのできるどこか異界に通じるような通路が、あの箱か塗籠の中にも、やはり存在しているのだろうか。
 実家はもう何年も無人のままになっている。家屋は戦後間もなく建てたもので、お蔵は更に前のものと思われるから、どちらも随分古くなっている。お蔵と庭を隔てて敷地の隅にあった石倉は、2004年東北地方で地震が相次いだときに文字通り崩れてしまった。
 お蔵も家屋も私の喪服も、そしてあの塗籠も、いずれ、長い時間を経て崩れて消滅する時が来るのだろう、と想像することがある。だがそれに対する感傷的な気持ちは、私の中にはない。むしろ、これまで流れた長い人間の歴史の中で、このようなことは幾度となく繰りかえされてきたことであろうし、お蔵の崩落と消滅もそういった歴史の小さな小さな一こまになることなのだ、という想いは、ある陶酔にも似たはるかな気持ちを私に抱かせるのである。
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〈紹介〉
  君まさぬ能楽堂に月入りぬ月は契れるものならなくに
水原紫苑(『武悪のひとへ』 2011年刊)
 1995年に出た水原紫苑のエッセイ集『星の肉体』のなかに、和泉式部の〈夢にだにみであかしつる暁の恋こそ恋のかぎりなりけれ〉を味わった文がある。長くなるが、引用してみよう。
 …[夢にさえ逢えないで想い明かした暁の恋こそ、身も心も尽きる恋のかぎりであることよ]とまずは読める。しかし、下句の異様な高揚感はそこにとどまらない。夢にさえ現われない魂の深みに棲む想い人が、暁という死と再生の時間に、幻の姿で彼女と契りを交す、その喜びが二重映しに読みとれる。
 その時、彼女はどこに存在するだろう。この世ともあの世とも、夢ともうつつともつかない空間の渺々とした風音が、「あかしつるあかつき」と「こひこそこひの」の二つのレフレインの間から聞こえて来るようだ。現実には遠くふれ得ない男は、死者かもしれないし神かも知れない。
 2010年4月23日、水原紫苑は大切な人を亡くした。享年71。その一周忌にあたる日、その人に対する追慕の想いとともにささげた挽歌150首を収めて出版したのが歌集『武悪のひとへ』である。
 水原紫苑が愛するようになったその人は、剛直な芸風で知られた狂言師で、紫苑は豪放磊落、純粋無垢な人柄に魅了されたと語っている。だがその人は夫人を3年前に亡くしたばかりであり、そのせいか紫苑のその人に対する愛は終始控えめで抑えた印象があり、「あとがき」でも、彼女は亡くなったその人に対して敬語を用いている。私はそのことにあるいたましさを感じずにはいられなかった。なお、武悪は鬼の狂言面。同名の大曲もある。
 〈君まさぬ〉の歌はこの歌集の冒頭に出てくる作品だが、私はこの歌を初めて目にした時、とっさに『星の肉体』中の引用部分を思い出した。引用文はまさしくこの歌を鑑賞した文でもあるのではないか、そう思ったのである。
 月の射し入る能楽堂で「現実には遠く触れ得ない男」と交感するというこの情景は、「この世ともあの世とも、夢ともうつつともつかない空間」を描いて、冷え冷えとした壮絶な美と哀しみを顕わしている。
 後に作られた作品の鑑賞文を先に書いておく、といったことも、時には起こりうるものだと思う。
(2016年4月10日発行)

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発行人 根本啓子