水燿通信とは
目次

245号

水原紫苑の世界(3)

「水燿通信の夕べ」から

参加者との話合い(アルファベッドで始まるのは参加者の発言、Nは根本)
) こういう傾向の歌人としては、ほかにどんな人がいるのですか?
) 師系としては春日井建ですが、そのほかは山中智恵子さんなんかがそうらしいです。ただ、山中さんは水原紫苑よりももっとむずかしい。でもスケールの大きい凛としたすばらしい作品が、たくさんあります。
山中智恵子を偲ぶ会 先日「山中智恵子を偲ぶ会」というのがありまして、水原紫苑なんかも話をするっていうので行ってまいりました(平成18年7月1日 於日本出版クラブ会館)。そしたら、山中智恵子さんというのは非常にすぐれた方なんですけれども、晩年、他人の歌をそっくり真似たような歌がとても多くなりまして、水原紫苑はそれに関して「後期山中智恵子における自他の境界の消滅について」と称して自分の作品と山中智恵子のとてもよく似た作品をいくつか例に挙げて、「うれしくもありありがたくもあり、またいたましくもあり」と語っていました。高齢になってもしかしたらおかしくなったのではないか、という懸念も含めて言っているのではないかと思います。『短歌』(平成18年5月号)に載った岡井さん、馬場さん、小島ゆかりさんとの鼎談で、「人のものをとることをなんとも思わないところが晩年の山中さんにはあった」という話題になった時に、岡井隆はそのような姿勢を本歌取りなんかと違うのだからということで否定しています。それに対して高橋睦郎、短歌でも俳句でも詩でも何でもござれ、っていう人ですけど、この人はその「偲ぶ会」であった岡井との対談で山中智恵子のそういった姿勢を「これはうんこだけれど、でもこのうんこは栄養があるぞ。ここからいろんな面白いものが出てくるんじゃないかと思っている」と評価しています。実際のところ、そのあたりは山中智恵子がわかっていてやったのかどうか、はっきりしませんね。山中さんの歌っていうのは、よくわからないところがいいというか、ありがたいようなところがあったのですけれども、それが昭和の終わり頃なのですがご主人を亡くされて、とてもなかのいいご夫婦だったらしいのですけれども、その後突然わかりやすくなったのです。すっとわかるようになった。でも、なんか当り前の魅力のない歌になってしまったように私には感じられました。それでも短歌界では一流中の一流みたいな遇され方をどうもしていたみたいなのです。短歌界の人は、こういった作品をいいと考えているのだろうか、私はそのあたりの事情に通じるほど短歌界のことは詳しくなくって、時々好きな歌人の歌集が出たり、作品が発表されたりすると読んでみる程度なのですけれども、山中さんのこれは一体何なのだろうとずっと思っていました。そして今度は晩年にでてきた他人の歌をそっくり真似るという姿勢、これもわかりません。それはともかく、山中智恵子のあとを継ぐ作風の歌人といえば、水原紫苑だと言われています。それで「春日井建先生が亡くなって今度は山中さんが亡くなって、私これからどうしよう」と水原紫苑が電話で言っていた、と例の『短歌』の鼎談で小島ゆかりが語っています。私のわずかな知識から考えても、ほかに考えられる歌人は、ちょっといないですね。(後記。この話のとき、私は葛原妙子の存在を忘れていた。この歌人からも水原紫苑は多くのものを学んでいる。ただし、葛原は水原紫苑が歌人として活動を始めたときはすでに筆を折っていた)
永田和宏が書いた春日井建追悼文
)先ほど永田和宏のことが出ましたけど、彼は春日井建と全然タイプが違いますでしょう。割とマイホームパパ的な歌が多いと思うのですけど、春日井建の『未青年』なんかどう評価しているのですか?
) 私はあの方の作品は実はあまり知らないし、それに歌の感じも春日井建とぜんぜん違うでしょう。ところが、『短歌』に発表されたこの人の春日井建追悼文、とてもよかったのですけど、そのなかで彼は、最初は春日井建に大変魅せられたと書いているのです。『未青年』が出たとき友達からそれを借りてきて、一晩ですべての作品を書き写したりしているのです。「第一歌集を出す頃には、はしかのようなのめり込みの時期は過ぎていたけれども、それでも春日井建の影響が歴然とした作品が初期の作品には並んでいる」と語っています。ともかく、永田和宏は一時『未青年』に夢中だったというのです。驚きました。ただその追悼文によると、はしかのようになったのはその『未青年』だけで終わっているようです。それに後に春日井が迢空賞を受けた『白雨』、わりと写実的なところのある作品が多いのですけど、それなんかを高く評価していて、それが晩年のもうひとつのピーク、「鏡のこちら側の自分が云々」というふうに言っているのですね。あの人が奥さんの河野裕子さんとやっている『塔』なんかも全然違う傾向のところですし。
)春日井建が歌壇に復帰してきたときの永田和宏はどんな反応だったのですか?
)とても冷淡だったらしいです。「身も世もあらぬといった傾倒であっただけに、その反動もまた大きかった」と書いています。『未青年』の1回こっきりの青春を、いい歳になってまた後追いして繰り返すのもどうか、「殊にも春日井建の青春だけは、短い一瞬の輝きであって欲しかった」ということです。それに写実的になってからの作品に対しても、癌の治療のために温泉に行って岩盤浴をして〈難民テントのごときテントにわれも臥す〉といった歌があるのですが、「これまでの春日井建だったら彼の美学からして絶対歌わなかっただろうことをうたっている、驚いた」とも言っています。
 水原紫苑が春日井に師事したのは、彼の歌壇復帰から数年の頃、まだ輝きの無かったときです。春日井を世に出した中井英夫なんか「春日井は『未青年』で終わり」なんていって、その後の彼をぜんぜん認めていない。
 水原紫苑が春日井に師事して少し経った頃から、「春日井建論」だとか「春日井建特集」などが短歌の雑誌で少しずつ組まれるようになったのです。つまりある程度評価されるようになったのだと思います。それでこのあと、『白雨』で迢空賞を受賞するようになったわけです。でもそのあたりから、歌風が変わったような気がするのですよ。だから、やっぱりそれまでの春日井建というのは、つまり『未青年』も含めてですけど大衆性が無かったのではないでしょうか。熱狂的に支持する人はいるのですよ、だけど多くの人に支持されるようなタイプではない。それが、写実的な歌風になってより多くの人の支持を得るようになった、そんな感じがするのです。水原紫苑はそのあたり、どのように思っていたのかなあ、と興味があるのですけどね。
(春日井建の写真を示して)でもどうですか、この顔。自分がいい顔だということを十分意識している表情ですよね。それに水原紫苑じゃないですけど、バリアを感じませんか?
大勢) 世阿弥なんかだと写真が残っていないだけに、想像の余地があってかえっていろいろ考えられる。写真だと、本物とオーラが違う。三島由紀夫が感じ取ったほどのものはないんじゃないか。(全体としてあまりすてきだとは感じてもらえなかった様子)
専門家の評価にとらわれず自分なりのいい歌を
) どうですか、水原紫苑のこういった作品?
) 私は以前から水原紫苑など若い人の作品を取り上げて欲しいといっていたのですが、ようやく今日実現して。面白いですね。普段こういうものに接していないので、自分ひとりで読んだのではとてもこうは読めなかった。根本さんに説明してもらうと全然違って、こんなに奥行きが出るなんて。今日はとっても楽しかったですね。
) 解説なんか無くてすぐわかればいいんですが、でも私にとってすぐわかるのはありがたみがないというか、「ああ、そう」だけで終わりなのです。それよりも、よくわからないのだけれども、何か妙に心に残る、じーとそれを自分の心のなかに溜めといて、それがあるとき、本を読んでいたり何かを体験したりして、また何かの折に突然「あ、こういうことだったのか」とわかる、そういったものに私は魅かれるのです。ここに資料としてお渡しした「水原紫苑作品抄」、これは私がいいと思ったもの、よくはわからないけれど何か惹かれてそのうちわかればいいなと思ったもの、それから私はとくにいいと思わないけれども評判になったものなども入っています。人間、日々生活して色々なことを体験しいろんなことを感じ考えて生きているわけですから、年月の経過につれていいと思う作品も変わって来ます。「これまでどうしてこの歌のよさがわからなかったのだろう。こんなにいい作品を見過ごしていたなんて」ということがよくあります。ですから、出来ればこれすぐ放かさないで、なんか思い出したときにちょっと見たりして、そうして反芻していただけると「あら、これいいわ」と思うものがあったりすると思うのです。
 それに、ずいぶん生意気なことを言うようですけど、新しい歌集なんかが出たりすると有名な歌人がその評をしたりしますが、鑑賞する力があると感動するようなまた一般受けするような作品ばかり取り上げられのですね。『世阿弥の墓』の場合だと、たとえば次のような作品。
時分の花がまことの花となりうべき妖かしの国、詩歌を愛す
面ひとつたづさへ来たる配流とは月を抱ける常世の旅か
 私なんかは今日最後に取り上げた〈元雅を偏愛したる血肉の惨たる地に却来華咲く〉なんかとてもいいと思うのですが、全く話題になりません。ですから、専門家の選んだ作品というのはひとつの目安にはなりますけれども、でもそれぞれその人なりの人生というものが在るわけですから、ご自分なりに惹かれるものを見つけるのもいいと思うのです。
わかりやすい歌 朝日新聞の夕刊に「ニッポン 人脈記」と言う記事がずっと続いていて、最近「現代の漂泊」というテーマでさまざまな人が載っています。先日そこに松村正直という人が取り上げられていました。東大に入ったのだけれども卒業式の数日前にふらっと家を出て放浪生活を始めて、東大卒だということを隠して全国各地でフリーターをやりながら過ごしていたというのですね。その人がたまたま石川啄木の短歌に出会って「これなら自分でも……」と思って作って投稿し始めたのだそうです。そしたら歌人の河野裕子が注目して、そして結局いろんなところから東大卒ということがわかられてしまって、それでフリーターを辞めちゃった。で、今仕事をやりながら『塔』、河野裕子や夫の永田和宏なんかが中心になってやっている短歌の雑誌ですけれど、そこの編集長もやっているなんていう人の話が出ていました。〈フリーターですと答えてしばらくの間相手の反応を見る〉〈新しい町で暮らせば新しい自分になれる(はずもないのに)〉なんていう歌を作って注目されているわけです。惹かれる部分はあるのですけど、でも私なんかには作品自体のふくらみや美しさも欲しいですし。難しいですね。
) そういうタイプの作品って、全般的にわりと多いですよね。短歌に限らず、他の言葉の世界でも。
) 最近のはそうですね。俵万智がでてからは、思っていることを口語で五七五七七の形にすれば短歌になるみたいな感じになってきている部分がありますからね。本当は俵万智っていう人はそんな安易な短歌を作っているのではなくて力のある人なんですけど、でもそんな風潮が出来てしまったわけです。専修大学でしたかしら、毎年学生から短歌を募集していますが、そこで1位、2位になったなどという作品なんか、私などにはどこに短歌の香りがあるのか、ほとんどわからない作品ばかりです。そういうものを拒否ばかりしていてはだめだと思うのですけれど。
) 水原紫苑の歌もそうですが、言葉の世界に限らず、距離を置いているのではなかなかわからないものっていうのは、世の中にはいっぱいありますけど、「近づかないとわからないもののよさ」というものが無くなるのはまずいな、と今日は感じました。全般的にはわかりやすくなるという世の中の流れは止められないかもしれないけれど、深く関わらないとわからない世界がある、苦労してしか近づくことの出来ないものの充実感というものがあり、そういうものを人間として知る必要性を感じましたね。自分のやっていることにも引き寄せてね。
) この方(註・Mさんのこと)、舞踏をやっているのですよ。舞踏っていうのは「水燿通信」の230号で取り上げた句〈彼岸花果てなき旅のはじまりに〉の註にありますけど、西洋のダンス一辺倒の状況のアンチテーゼとして起こった、東洋的な身体観に基づく身体の内部からの踊りのことで、派手な動きのバレエやダンスに比べてたとえば立ったまま30分も動かない、なんてこともあってなかなか地味でむずかしく従って広がりもないのですけれど、でも深いものを感じますね。
歌会始の歌 新聞の歌壇俳壇
) わかりやすいことって言えば、歌会始のことですけれど、岡井隆さんとか岡野弘彦さんとか選者はそれなりに難解な歌を作るでしょう、そういう選者が選ぶとなるとわかりやすい歌ばかりなんですけど、あれは一体何なんですか?
) 私が思うには、応募してくる作品がわかりやすいものばかりだからだと思います。
) 岡井隆さんなんかもすごく割り切っている感じ。一般の応募者の作品には「え、どうしてこんなのが選ばれているの?」って作品もあって。
) それはね、あなたの目が肥えているからですよ。ともかく応募してくるのは何を詠っているのかよくわかる作品ばかりだと思いますよ。
) 水原紫苑さんの作品なんか、絶対とられなかったりして。
) 専門の歌人は誇りがあるから応募しないのだと思います。新聞の歌壇に応募するような人たちが、歌会始などにも応募するのだと思いますよ。
 私常々感じているのですけど、新聞の俳壇に採られる作品は、専門の俳人の作品とうんと違うとは言えない質のものも多いのに、歌壇の場合はまるで違って、専門の歌人と投稿してくる人の間にはすごい落差があるのです。どうしてこんなに違うのだろうと不思議になるくらい、新聞の歌壇で選ばれる作品はわかりやすくってどうということのないものが多いのです。新聞でのこの俳句と短歌の質の違いは、それぞれの表現形式、性格の違いであって、単なるレベルの問題ではないのではと思うのですけれど、そのあたり理論付けするほどのものを私は持っておりません。
俳句と短歌の違い
大勢) 短歌のほうが言葉が多いからばれちゃう、ぼろが出ちゃう。内面性が出る。
) 俳句っていうのは、作った人の絶対的な人間像が出るっていうよりも、一回性の表現が出てくる、偶然性の起きやすいものという感じがしますよね。長く生きていたらいいのが出来ちゃった、なんていうのがあったりして。
) ああ、そう思う? 成程ね。ともかくよくわからないのですけれど、新聞歌壇では「どうしてこんなのが第1位なの?」って思うのが多いですね。その点、新聞俳壇、うちの場合は朝日なんですけど長谷川櫂や金子兜太の選の句の中には、時々「いいなあ」と思うものがありますね。
) あの、たとえばどん詰まりの生き死にがかかった時の作品というのは、長々と表現できる短歌よりは俳句のほうがびしっと決まるのではないか、という気がします。(実作者のこの発言は重要な意味を含んでいるように感じられたが、この日はこれ以上発展しなかった)
) あのね、俳句の場合、作者は事実としてこうだったからそのように詠みました、というのがけっこう多いわけ。ところがその言葉の取り合わせが、とんでもなく豊かな世界に飛翔するときがあるのです。
) それは自分が意図していなくって?
) していないの。だから下手に自註なんかで「このときこうだった、だからこう詠った」なんていうのを読むとがっかりするわけです。「書いてくれるな」っていう感じでね。俳句の人でそのあたりを文章でうまく表す人って意外に少なくて、素朴に書いてしまうのです。ただ、ある程度俳句に馴染むと、だらだらと泣き言ばっかり言っている饒舌な短歌、しかもそういう自分に陶酔しているような歌がたまらなく嫌になるときがありますね。その点、俳句は短いだけに表現に際してある程度の断念を強いられますから、そこを逆手にとって味わいを出すことが出来るように思います。
 あ、もう時間が過ぎてしまいましたね。今日はここまでにします。ありがとうございました。(了)
これは2006年9月29日、ストライプハウスギャラリー(東京都港区六本木5−10−33−3F)で行なわれた「水原紫苑の世界」(「水燿通信の夕べ」第4回)の話を文章化したものです。
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〈今月の一首〉
われ十八、母四十八 菜の花の咲く道ゆきて八(や)寺(てら)めぐりき  高野公彦
 2003年に出た高野公彦の歌集『渾円球』に収録されている作品。「昭和三十五年三月、伊予。」との前書きがある。同歌集には〈なのはなの花のさかりの遍路路は晴れこそよけれ曇り日もよし〉という作品もあり、母親と四国遍路に出た折のことを思い出して作られたものと思われる。
 遍路のときから現在までに流れた40余年の歳月は、人の一生のなかでは決して短いものではないだろう。それにしてもここに詠われた少年の日の何というはるけさ、そして情況の甘美さであろう。もはや決して取り戻すすべのない日々を菜の花を背景にして描いたこの作品に接すると、私は実際にあったことを回想して詠んだというよりは、何かあの世の楽しい一こまを表現したものではないかという思いにとらわれてしまう。菜の花を詠みこんだ作品には、掲歌と同じように作品の背後にあの世的なものを喚起させるものが意外に多いように思われる。菜の花の持つ平和であたたかく穏やかな感じ、そして同時にこの花の黄がどこか死者の国に通じる明るさを漂わせているからではないだろうか。〈黄泉比良坂どうぞ菜の花明かりなど 木内怜子〉などという句があるのも、そのような特質の故だろう。
 〈家々や菜の花いろの灯をともし 木下夕爾〉は直接菜の花を詠んだ句ではないが、〈菜の花いろの灯〉という表現によって、やはり同じように感じられるものを持っている。いかにも幸せそうで穏やかな春の夜の感じを美しく描いた作品として味わうのも勿論構わない。だが私は、その背後にあの世的なものの存在をどうしても感じてしまう。人の世のはかなさやそれ故のいとおしさなどもほのかに感じられ、句の奥行きがぐんと深まるのもいい。
 一方、直接死を題材とした〈農夫の葬おのがつくりし菜の花過ぎ 加藤楸邨〉といった作品に、かえって現実の景がくっきりと浮かぶというのも、面白い。
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読者からの手紙
243号)能面のようなという一般的な言い方は能面というものをよく知らないからだというお話、なるほどと思いました。舞踏なども白塗りで顔から来る印象を消し、からだや空間を見てもらいたいという意図で行なっても、観客はやはりライトに照らされた顔の角度や陰影から表情をうかがってしまう、人間とは顔を見てしまう動物なのですね。
 〈今熊野申楽の日の十二歳すでに殺意は知りそめにけむ〉……庇護される者が支配者に抱くコンプレックスは、まさに殺意、権力者と芸人でなくても、日常的にも、教師と生徒、上司と部下、親子、夫婦、あらゆる関係のなかに、殺意は含まれているのでしょう(略)。
 春日井建への想い、男子に生まれ変わって……紫苑のひたむきな想い、かなわぬ悲しみが胸をうちますが、建も禁忌への憧れと苦悩を作品に昇華し、紫苑もまたそのようであったことを思うとき、芸というものはかなわぬものへの激しい想いと悲しみを美しく表現するものなのだろうというふうに、得心しました。 (千葉県在住 女性)
(2007年3月20日発行)

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発行人 根本啓子