水燿通信とは |
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218号水原紫苑歌集『世阿弥の墓』から |
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藤若のひとみほのかに紫を帯ぶる夜半(よは)かも父と舞ひつつ |
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藤若は、能の大成者世阿弥の幼名。 |
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世阿弥は美しい顔の持ち主だったと伝えられている。彼が12歳のとき、父観阿弥と舞った舞台を見た将軍足利義満が、その美貌に魅せられたという話はあまりにも有名である。世阿弥は肖像を残していないので、今我々は彼がどんな顔をしていたのかを知る術はないが、このことは世阿弥のその後の栄華を極めた人生と相俟って、我々の想像力を刺戟してやまない。また世阿弥がどんな性格の人間だったかということも、興味深いものがある。水原紫苑はこの歌集の中で |
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翁舞ふ父のかたへにみづからを宇宙の岬のごとく置きけむ |
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とも詠んでいる。「翁」という曲名から、この歌は義満がはじめて観阿弥父子の能を見た時のことを詠っていると思われる。〈宇宙の岬〉の解釈はなかなか難しいが、いずれにせよ、世阿弥が自分は特別な存在であるということをこの時すでに知っていた、ということなのだと思う。 |
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さて冒頭の歌に戻ろう。夜半、舞を舞いながらほのかに紫を帯びる藤若のひとみ……、〈夜半〉も〈舞〉も〈紫〉も、たたみ込むように妖しく美しい藤若を描いて効果的だ。 |
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この歌集の最初に置かれた「序歌」には優れた作品が並んでいるが、掲歌はその一首目、つまり歌集冒頭の作品である。 |
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鬼の顔まなかひに見しかの日より将軍に会ふ日までのもゆら |
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先の歌でも簡単に述べたが、将軍足利義満は永和元年(1375)、京都今熊野で演じられた猿楽をはじめて見物、観阿弥父子の能と、世阿弥の美貌に魅せられた。時に義満17歳、藤若12歳。以後、藤若は義満の寵愛を受け、観世父子の大和猿楽結崎座(観世座)は将軍の庇護のもと栄華を極めていく。世阿弥の時代は稚児愛玩の風習の盛んな時であり、しかもこの今熊野の演能のとき世阿弥は、『風姿花伝』の「年来稽古條々」で姿も声ももっとも美しくなる時期(時分の花)として取り上げられている〈十二三〉のちょうどその年齢であった。 |
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若き権力者将軍義満の愛を一身に受けた五歳年少の世阿弥。しかも将軍の庇護は義満が出家して道義となった後も絶えることはなく、道義が51歳で死去するまで続くのだ。世阿弥一座の栄華は如何ばかりと思われるが、義満と世阿弥2人の関係が長い年月の中でどのように推移していったか、ことに世阿弥の義満に対する愛憎の思いはいかなるものであったか、興味の尽きないところである。 |
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山崎正和はこの点について、2人の関係を光と影とする視点を打ち出し、〈闇は光になることもあろうが、影はいつまでも影であり、光が無くなれば消えるほかない〉ことを見据えながらも、影に徹して生き抜いた世阿弥の心の修羅と、その彼をとりまく人間模様を、戯曲『世阿彌』に描いてみせた。 |
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さて〈鬼の顔まなかひに見し〉だが、そのままの意に解釈することも出来るだろうし、また何らかの比喩と解することも可能だろう。ここでは鬼の顔をまのあたりに見るといった体験を将軍に会う前に世阿弥は既にしていた、ないしは何かをそのように感じる感性を早くから持ちあわせていた、というように理解すればいいのだと思う。そしてより重要なことは、〈鬼の顔をまなかひに見〉ることと〈将軍に会ふ〉ことが同列に置かれているという点である。またこの『世阿弥の墓』には次のような作品もある。 |
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永和元年(1375)、将軍足利義満、初めて猿楽を見物す。 |
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今熊野猿楽の日の十二歳すでに殺意は知りそめにけむ |
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〈鬼の顔〉の歌は我々に様々な解釈の可能性を許容しながらも、豊かにひろがる想像の世界を繰り広げてみせてくれている。〈もゆら〉は辞書では見かけない言葉だが、私は〈茫洋とした時間や空間の広がり〉といったほどの意味に解釈した。 |
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犬王の昇天の雲ひらひらとくらき世阿弥の額(ぬか)を撫でしか |
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犬王は、幽玄味の濃い近江申楽の名人道阿弥のこと。観阿弥と世阿弥の中間の年代でこの父子とも親交があった。観阿弥時代の大和申楽は物真似を得意としていたが、世阿弥は犬王や摂政二条良基らの文化人の影響を受けて、音楽と舞踊の要素の強い幽玄味のある芸風を創りあげ、能を芸術的に大成させた。 |
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犬王が没したのは永和20年(1413)。出家して道義となっていた義満は既に5年前に他界しており、当時の将軍足利義持は田楽の増阿弥を贔屓にしていて、世阿弥の栄華にも翳りが出てきた頃である。そんな時期の世阿弥の心情を、象徴的に美しく描いている。 |
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夜の申楽陰を陽に転ずとて白雲(はくうん)を踏み更にゆくかも |
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『風姿花伝』第三「問答條々」に次のような個所がある。 |
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一切は、陰陽の和する所の堺を、成就とはしるべし。……夜は又陰なれば、いかにもうきうきとやがてよき能をして、人のこゝろ花めくは陽なり。これ夜るの陰に、やうきを和する成就なり。 |
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演能の際、その日の見物席の様子を見ることの大切さを説いた部分である。つまり〈何事も陰陽がうまく和合することが成功の秘訣である、夜は陰気であるから、演能はいかにもうきうきと面白い能を演じて、見物人の心が浮き立つようにすることが肝要だ〉といっている訳である。掲歌は、陰を陽に転ずるために白雲を踏み勢いよく翔る様を演じているというもの。 |
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能舞台は、一般の劇の行なわれる舞台に較べると、決して広いものではない。しかし舞台装置が極めて少なく(全く無いことも多い)、ある場合でも極端に簡素化されていることや、舞台向かって左手から伸びる橋掛りの効果によって、かえって広大な空間を演出できる仕組みになっている。天翔る様なども、演者にとって2、3歩足を踏み出したり橋掛りに行ったりするだけでも演じることができるし、また観客にとってもなまじ写実的な大道具、小道具を備えた舞台などより、はるかな天空が浮かんでくるというものだ。 |
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私はこの作品を初めて目にした時、とっさに観世寿夫(ひさお)の舞台姿を想いうかべた。百年に一人出るか出ないかの器とまで言われ次の能楽界を担う人物と目されたが、癌に冒され1978年、53歳の若さで亡くなった観世流の能役者である。学生時代の私は、彼の舞台に魅了され、能楽堂にしばしば足を運んだものだ。彼の舞台姿は、何か硬質のガラスのようなきらきらした美しさがあった。そんな芸風が、天翔る様に如何にも相応しいように思えたのだ。 |
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ひさかたの空ゆ世阿弥の涙降り舞ふすべあらぬ春は来なむか |
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春特有の言いようのないけだるさを表現したものであろうか。世阿弥がすぐれた能役者であるといった程度の知識があれば十分に味わえる作品であるが、世阿弥が河原乞食といわれた下賎の出ながら、時の権力の庇護を得て栄華を極めたこと、観世流の将来を託した長子に早世されたこと、また70歳を過ぎて佐渡に流されたことなどを知れば、味わいはさらに深まるだろう。イメージの作り方も言葉の選び方も見事で上々の短歌作品だと思う。 |
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元雅を偏愛したる血肉の惨たる地(つち)に却来華咲く |
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元雅は世阿弥の長子。父世阿弥が〈子ながらも、たぐゐなき達人……祖父にもこえたる堪能〉(「夢跡一帋」)と称え、能楽の秘伝や奥義をことごとく記し伝え、託したのであったが、永亨4年(1432)40歳に満たずして伊勢で急死した。齢70に達した世阿弥の悲嘆は大きく、観世座は壊滅的な打撃を受けた。 |
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却来華(きゃくらいか)は、元雅の死後に書かれた世阿弥の著書『七十以後口傅』の別名。また、究極まで達した後に再び初心的なものに還る芸風をも言う。闌位(らんい。芸の蘊奥を極めた上手の演者が、時に悪い風と思われる芸を少し交えて演じたりすること)の芸風のひとつ。 |
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元雅の死は、突然でいささか不自然であったことから、人々は様々な憶測を試みずにはいられなかった。掲歌は芸の残酷さを感じさせるところもあり、元雅の謎の死に対する魅力的な解釈のひとつと言えようか。 |
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(『世阿弥の墓 LE TOMBEAU DE ZEAMI』
2003年9月 河出書房新社刊 1500円+税) |
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山崎正和原作の『世阿彌』が、昨年11月27日から12月21日にかけて、新国立劇場中劇場で演じられた。栗山民也演出。舞台装置は斬新だが、物語はほぼ原作に忠実に演じられた。影として生きることに徹した世阿弥、その非情な生きかたに翻弄された葛野の前(山崎の作り上げた架空の人物)、長子の元雅、次子元能、妻の椿や、四代将軍足利義持、異腹の弟義嗣、世阿弥の甥音阿弥、犬王道阿弥、さらに公卿、白拍子などがからむ。 |
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私は最終日にこの舞台を楽しむ機会を持ったが、偶々『世阿弥の墓』を読んでいた最中でもあり、舞台そのものもエンターティメントとして上々の出来であったので、充実したひと時を過ごすことが出来た。 |
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(2004年2月20日発行) |
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発行人 根本啓子 |