1歳半で阪神大震災で天国へ旅立った息子と生きていてくれた娘のために
 

【 阪神大震災 】

1月17日の想い
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震災の時のこと

ママのせいで
岩国から西宮へ
新神戸についてから
実家での時間
将君の最後の日

パパとのさようなら
最後の夜
阪神大震災
生き埋め

救出
将君を外に
連れ出すまで
将君発見
将くんとの対面
病院に行くまで
心臓マッサージ
パパ、早く来て
将君の死
みんなが病院へ
電話
駐車場で死者50人
避難先へ
避難先に着いて
パパとの連絡
検死/パパが来るまで
パパとの対面
関東の地から
避難先での生活
お風呂・納棺
お通夜・お葬式

10はじめに

お通夜
ゆうちゃんしみ
お葬式
喪主パパの言葉
出棺
火葬場で
それぞれの想い
31 2004年遺族代表の言葉
きょうだいを亡くした方の思い
NPO法人「1.17希望の灯り」
(HANDS)のこと
震災モニュメントマップ
大震災こども追悼コンサート
震災関連情報&リンク
新聞掲載記事の紹介
心のケア関係
(サポートグループなど)

震災遺児のためのケアハウス
「レインポーハウス」

 
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阪神大震災関連図書

 

 

04

心臓マッサージ

病院へ、着いた私は、しょうくんを抱きかかえたまま、病院の中へ走っていき、
「子供が死んでしまったんです」と何度も何度も叫びながら、ロビー、廊下の人の間を抜けるように診察室の方へ走っていきました。
待合場所のソファー、廊下にはたくさんの人が、横たわっていました。


お医者様と看護婦さんがきてくださり、しょうくんを、診察室の入り口の前の廊下に寝かせるように言われました。ベットでもない、冷たい硬い廊下に直接寝かせるのは一瞬、ためらいました。でも、寝かせるしかなかったのです。持ってきていた、ペンギンのバスタオルとひき、その上に寝かせました。

周りは、電気がない為真っ暗で、懐中電灯で、照らしながらの処置です。先生は、はさみを持ってきて、しょうくんの洋服を切り裂き、胸に注射を打ってくださいました。そして、手動式のポンプのマスクをつけて、心臓マッサージをしてくださいました。

そばには、私のほかに、私の父、私の弟、たまたま付いてきてくださった近所に住んでいた方Oさん(看護婦さん)がいました。

お医者様が、私に「このまま、心臓マッサージを続けてください」といわれました。私は、小さい子の心臓マッサージをしたこともなく知識も全くありませんでした。簡単に心臓マッサージの方法を教えていただきました。そのまま、先生はほかの方の所へ行ってしまいました。しょうくんだけのそばで、手当てをしてほしかったのは、いうまでもありません。でも、たくさんの人を、見て回らないといけなかったので、仕方ないと思いました。

私は、教えてもらったとおり人差し指、中指、(くすり指もだったかな?)をしょうくんの小さな胸にあて、心臓マッサージをはじめました、Oさんが、空気をポンプで口に送ってくださいました。『一瞬でもやめてしまうと、しょうくんが死んでしまう』そんな思いで休むことなく続けました。

父と弟は、体をさすって、温めてくれました。私は、心臓マッサージの方法がこれであっているのかが、ずっと不安でした。何度もお医者様にこれでいいのかを聞きたくて、キョロキョロしてお医者様がしょうくんの所へ来てくださるのを待っていました。でも、なかなか姿が見えませんでした。時々、Oさんに代っていただいたりして、随分長い時間続けました。たまにお医者様が見に来てくださったときに「テレビで、よく胸に電気ショックを与えると、心臓が動き出す、あれはしてもらえないのですか?」と聞きました。でも、「病院全部が停電していて、それは使えない」という答え・・・・。
停電してなかったら、使わせてもらえたのかな・・・?。
先生は、それを告げると またすぐ違う所へ行ってしまいました。

その間も、しょうくんの体は、暖かかったので、必ず心臓は動き出すと信じていました。
「まだ、暖かいから、大丈夫だよね。生きているよね。」と、自分や周りにいる父達に言っていました。
私達の周りの人たちも、みんな同じ状況で家族が心臓マッサージをしていました。
時々、あっち、こっちで泣き叫ぶ声が聞こえていました。

途中で、大きな余震があり、弟が家族の所へ一時帰ることになりました。

いつしか、となりで同じように心臓マッサージをしている家族と話すようになりました。男の子で10歳の子でした。
普通、心臓マッサージをしながら、話をするなんて考えもつかないことですが、あの時のあの場所では、それが普通だった気がします。

すぐそばのソファーでは、女の方が、呆然と私達のことを見ていました。
その方は、家族を亡くされたようでした。泣くこともなく、ただただ私達のほうを見ていました。

パパ、早く来て!

私は、心臓マッサージをしながら、しょうくんに、ずっと話しかけていました。
「パパが、もうすぐ来てくれるよ。しょうくんの大好きな新幹線のおもちゃをたくさん持ってきてくれるよ。10時ぐらいには、来てくれるから、頑張って・・・」と、何度も何度も話し掛けました。

私自身、パパがすぐに新幹線に乗って、ここに来てくれると信じていました。
そして、しょうくんも必ず目を開けてくれると・・・・

だから、途中何度も何度もパパの話をしました。
目を開けてくれたら、パパがたくさんのおもちゃを買ってくれるとも言いました。

まさか、西宮、神戸があんな大きな地震になっているとは、知らなかったので・・・。

しょうくんの死

いったい、病院へ来てからどのぐらいの時間がたったのでしょうか?

お医者様が、来てくださって、「これ以上、続けてもダメだから」と、言われましたが、私は、「はい、そうですか?」と、すぐに心臓マッサージを止めることができませんでした。

2,3度そのようなことが、繰り返されて、とうとう
「これ以上、心臓マッサージを続けても、心臓が動いた例はないし、心臓が、止まって5分以上経っていると、脳に血が行かなくて、心臓が動いても、植物人間になってしまう」と説明を受けました。
そうです、死の宣告・・・。私は、それを受け入れることにしました。
私は、しょうくんに抱きつき、何度も何度も「将くーーん、!将くーーん!」と、叫び泣きました。
植物人間になってもいいから、心臓が動いてほしかった。
さっきまで、あんなに暖かかったしょうくんの体が、心臓マッサージをやめると、あっという間に、冷たくなってしまいました。

しょうくんの右手の甲にマジックで死の宣告された時間が書き込まれました。
8:50 ・・・

平成7年1月17日(火)午前8時50分、
しょうくんが死を宣告された時間です

私の幸せな人生が、終わった日です。


あの時、ちゃんとした医療を受けていたら、
家がつぶれてすぐあとに救急車が来てくれて、すぐ心臓マッサージをしていれば・・・あの時に、もう少し、私が心臓マッサージを続けていたら、もしかして、しょうくんの心臓は動き出していたのではないか、という想いが、今も私の中で渦巻いています。

最後の命のともし火を私の判断できってしまったような気がしています。このような想いは、色んな人にどんなことを言われても消えることはない想いです。

今までも、これからの人生もその想いを背負って、生きていかなくてはなりません。

その後

しょうくんの死を告げられて、しばらくその場で、泣き崩れていた私に、父は「そろそろ行こうか」といいましたが、私は、その場を動くことができませんでした。

その時、ずっとそばについていてくださったOさんが、離れて住んでいらっしゃるお子さん達の事が心配だからということで、帰られました。かんたんにお礼を言って、お名前だけをお聞きするのが、精一杯でした。

しばらくして、お医者様、が来られて、「たくさんの人の処置をしないといけないので、この場所を動いてください」といわれました。私達は、泣く泣くそこを離れることにしました。そのときに、その時使っていた、「手動の人工呼吸器のポンプをください」
と頼みましたが、「数がないので、あげれません」という、返事。
仕方がないので、最初にうってもらった、注射器をもらうことにしました。

近くで、一緒に頑張っていた、ご家族から、名前を聞かれました。
その御家族は、しょうくんの事を忘れませんといってくださいました。
私も、心からその10歳の男の子の心臓が動くことをお祈りしました。
そして、「しょうくんの分も生きてください」と、伝えました。
その男の子はどうなったのでしょうか?もし、可能ならお会いしたいと思っています。

そして、私達は、その場を離れることにしました。
抱き上げた時に、しょうくんの洋服は、心臓マッサージをしていたので、すごく乱れて、切り裂かれた洋服が、はだけていました。
私は、父に、「しょうくんの洋服がこのままでは、かわいそうだから、きれいにしてあげたい。」と、告げました。

私は、カーテンの中の診察室に連れて行き、あいていたベットの上に寝かせ、切り裂かれていた洋服を下の形のように、寄せて、ペンギンのタオルで体を包んであげました。

しょうくんの顔は、傷一つなく、苦しい表情もしていなくて、ただ、眠っているようでした。
あの地震の瞬間、しょうくんが、苦しまずに天国に旅立ったことをただ祈るばかりです。

それから、たくさんの人がいるロビーを、通り抜けて、外へ出ました。
そして、すぐにゆうちゃんを負ぶった母や弟家族が、玄関の前で立っているのを見つけました。

私達は、トイレに入りました。その時のことで覚えているのは、ゆうちゃんをおんぶしている母に、しょうくんを預けるときに、おんぶに抱っこをさせて『大丈夫?』
と聞いたことでした。

電話
そのあと、私は、主人に知らせる為に、入り口のすぐそばにある公衆電話に行きました。何人かの人が、並んでいましたが、どうにか電話をかけることができました。
一番に、主人に電話しました。しかし、呼び出し音はなるものの、誰も出ません。
2,3度かけましたが、一緒でした。あとで、主人に聞いた所、まさか、しょうくんが亡くなっているとは、知らず、電話のかかりにくかった会社へ、今日は会社を休むかも知れませんと、車で伝えに行っていたようです。

そのあと、私は、主人の実家へ電話しました。
電話は、つながりました。そして、『しょうくんが死んでしまった』と、伝えました。すぐに私は『申し訳ありませんでした』と、誤りました。とっさに、この言葉が、出てきた事には、あとで、考えると、よく出てきたな、と思いました。

そして、父が、非難先になる、寮に電話をし、しょうくんの事、会社のこと、そこが、今どういう常態かということを聞いていました。

次に、義妹が、実家に、自分達の事、しょうくんが亡くなったことを伝えました。
後ろにたくさん、人が並んでいたので、私達は、電話を終え、外に出ました。

駐車場で

それから、私達は、歩いて家に帰ろうということになりました。
駐車所を出た所で、たくさんの人とすれ違いました。何人かの人が、しょうくんのことを聞いてきてくれました。亡くなったことを伝えると、みんなが「こんなに小さいのに、かわいそうに」と、言ってくださいました。
その病院から、家までは、歩いていけない距離ではなかったのですが、しょうくんを抱っこしたまま、家まで帰る気力は、私には残っておらず、『これ以上、歩けない』と、伝えました。そこで、弟と父が、歩いて車を取りに帰ってくれることになりました。

私は、病院の駐車場で、座って待つことにしました。
すると、近所のマンションの方が、しょうくん、ゆうちゃん、弟の子供(当時0歳)を、つれているのを見つけてくださって、寒いから、うちのマンションに、来ないかと、言ってくださいました。

私は、みんなが言ってしまうと、迎えにきてくれた時に、わからなくなるといけないので、駐車場で待っているといいました。義妹と0歳の子供だけが、お世話になることになりました。

スウェット姿のままの私は、外の寒さを、全く感じていませんでした。
あの時は、きっとショックで、すべての感覚が麻痺していたのかもしれません。
母が、持ってきたマフラーを私に掛けてくれました。その時、はじめて、マフラーが暖かいことに、気がつきましたが、私は、自分よりしょうくんにそのマフラーを掛けてあげました。

それから、どれだけの時間をそこで過ごしたのかも、母と何を話したのかも、ゆうちゃんが、母の背中から降りていたのか、おんぶされたままだったのかも、そのときは晴れていたのか、曇っていたのか、全く覚えていません。
ただ、駐車場の上をヘリコプターが飛んでいたことだけが、記憶に残っています。
今でも、ヘリコプターが飛んでいるのを聞くと、あの時のヘリコプターの音を思い出します。

死者50人

しばらくして、弟と父が、母の車で来ました。私達は、車に乗り込み、弟は、義妹と子供を迎えに行きました。
そのときに、車のラジオから地震の被害状況が、流れていました。時間は、多分、9時半前ぐらいだと思います。少しあとで時間を聞いた時から、逆算して考えると・・・

それから、弟達が、帰ってきたので、車は動き出しました。

その時、ラジオから、「この地震による死者は、45人です」と発表がありました。私は、そのたった、45人しか亡くなっていないのに、その『45人』にしょうくんが、入ってしまったことが、とっても、悲しかったです。

これからどこへ、行くかということになりました。父が先ほど、電話で聞いた、寮は、被害は少なく電気もついているということで、そこへ、とりあえず行くことになりました。
病院のすぐ北にある2号線は、うちの近くの橋に亀裂が入り、通れないということで、
南側の43号線に出ることになりました。
43号線に出て、、阪神高速が落ちてきているのが、見えました。
私は、今残っているところも、落ちてきそうな気がして、阪神高速のない、端っこを通ってほしいといいました。

寮へ行く途中、家の近くを通りました。母は、通り道だった友達の家の前で、車をとめてほしいといって、車を止めました。母は、そこへ入り、一通り事情を話し、お友達家族と外へ出てきました。もちろん、しょうくんの事も、知ってくれている方達です。
車の窓ごしに、しょうくんを見てくださって、『かわいそうに・・・』と言ってくださいました。
その頃、私の感覚も随分鈍っていたのか、しょうくんの死を認めていなかったの、ショックのためだったが、涙を流すことは、なかったと思います。

着の身着のままで、みんな外へ出てきたので誰も電話を持っていませんでしたので、そこで時間を聞きました。9時50分でした。

それから、私達は、その人達に別れをつげ、寮へ向かって、出発しました。

避難先へ

それから随分の時間をかけて、避難先になった寮へ行くことになります。
あっち、こっちで家が、つぶれ、それをみて驚いたり、ラジオの情報に耳をかたむけながら走っていきました。
私は、ラジオから、流れる死亡者の名前年齢を聞いて、幼くして亡くなった子がいることを知ったら、とってもうれしく思いました。そして『よかった、しょうくんの友達がいて!』と、話していました。そして、しょうくんの死を悲しむというよりも、自分の中で、しょうくんの死を受け入れようと必死になっていた気がします。あとで、まわりにいた家族の証言で、寮につくまでの4時間、私は、ずっとしゃべりまくっていたようです。
何をそんなにしゃべっていたのかは、覚えてません。ただ、『しょうくん今ごろ、この辺(車の天井あたりを指差して)で、こっちをみているかな?』『助けてくれなかったこと怒っているかな』とか、『しょうくんが、天国で恥ずかしくないように、いい人でいなきゃ』と、話していたことは覚えています。『一人だけ、逝かせてしまって、寂しくないかな?』という、気持ちが強かったのです。だから、小さい子が、一緒に天国へいってくれたら、うれしかったのだと思います。

4時間、以上亡くなってしまった、しょうくんの顔をじっと見つけていて、『何度も、何度も
ただ寝ているだけ、みたいだけだね。』といいました。実際、本当に寝ているようでした。今にも、目を開けそうだったし、本当にまぶたが動いたような気もしました。

あの時、横抱きにしてしょうくんを抱っこしていたので、6年経った、今でもゆうちゃんが、寝てしまって横抱きにすると、あの時の事が、一瞬によみがえり、苦しくなります。
今でも、いつも、そのことを考えているわけでは、ありませんが、ちょっとした、瞬間に思い出してしまいます。その想いを振り切って日常生活を続けるのは、必死です。

途中、いつもの道が、すごく渋滞していました。しばらく行ったのですが、目の前に電柱が、倒れていて車は、通れませんでした。今まで、反対車線を来ていた車は、全部Uターンして戻ってきていた車だったのです。

それから、ずっと遠回りして、宝塚の方へ、抜けることにしました。
あっちこっちで、渋滞して、宝塚につくのに4時間以上もかかりました。
途中、宝塚ファミリーランドが見えました。しょうくんと来ようと思っていたファミリーランドだったので、それを見たときに、すごく悲しくなったことは覚えています。

やっとの思いで、避難先につきました。そこは、ほとんど大きな被害もなく、塀が崩れている程度で古い家もたくさん残っていました。

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