奥羽古城散策
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気仙沼熊谷氏

熊谷直家が1189年の奥州合戦の戦功により陸奥国の本吉郡・桃生郡の郡内に数ヶ村を賜った。その後、奥州の所領を直家の三男の直宗が相続し、1223年頃に直宗が下向して奥州の熊谷氏の祖となった。直宗は赤岩に居城を築いて土着し、南北朝時代には葛西氏と激しく戦ったが、1363年には葛西氏に降って以後は臣従することになった。その後、熊谷氏は葛西氏の熊谷党として大崎氏などとの戦いに参加しているが、1533年に葛西氏に嫌疑を掛けられて当主の直景が誅殺されている。この戦いで直景を討伐した弟の直光が熊谷氏の新たな当主となり、以後は長崎を本拠地とする長崎熊谷氏が宗家となった。だが、これに反感を持った一族も多く、以後45年間続く内訌の始まりとなった。後に月館熊谷氏によって内訌に終止符が打たれるが、1590年の奥州仕置きで没落した。

歴代当主

【熊谷直家】 くまがい なおいえ
気仙沼熊谷氏遠祖。熊谷直実の嫡男。小次郎と称する。1189年の奥州合戦に参戦した直家はその戦功として陸奥国本吉郡と桃生郡に所領を賜り、これが奥州の熊谷氏の誕生のきっかけとなった。直家は鎌倉に出仕しており、子の直宗が下向するまでは奥州の所領は代官に任せていたと見られる。
【熊谷直宗】 くまがい なおむね
気仙沼熊谷氏初代。熊谷直家の三男。右兵衛尉、平三と称する。父より奥州の所領を相続したが、始めは鎌倉に出仕しており、1208年の流鏑馬に参加している記録が残る。1221年の「承久の乱」の終結後に奥州へと下向し、気仙沼の赤岩に居城を築いて気仙沼熊谷氏の始まりとなった。
【熊谷直時】 くまがい なおとき
気仙沼熊谷氏4代目。熊谷直光の三男。佐渡守、小三郎と称する。1336年に葛西高清が北条残党討伐の名目で馬籠氏を攻めると、熊谷直時は母の実家の救援のため、一族を率いて加勢している。だが、熊谷軍の奮戦もむなしく馬籠勢は壊滅し、熊谷直時を始めとして多くの将兵が討死してしまった。
【熊谷直明】 くまがい なおあき
気仙沼熊谷氏5代目。熊谷直時の嫡子。弾正忠、十郎と称する。1336年の馬籠合戦時には本拠地の赤岩城の留守を任せれていたが、父が討死して熊谷軍が壊滅すると、残った将兵をまとめて熊谷党を立て直した。葛西軍は馬籠氏を討った勢いで気仙沼へと攻め込むが、直明は篭城してこれを迎い撃ち、激戦の末に撃退した。
【熊谷直政】 くまがい なおまさ
気仙沼熊谷氏6代目。熊谷直明の嫡子。弾正と称する。葛西氏の侵攻を度々撃退してきた熊谷氏だったが、1363年にはついに葛西氏傘下に降り、所領の半分が安堵されたという。
【熊谷直景】 くまがい なおかげ
気仙沼熊谷氏12代目。熊谷直定の嫡子。備中と称する。1533年に葛西氏に背任の疑いを掛けられ、葛西軍によって討伐させられた。赤岩熊谷氏は一族郎党が撫で斬りされ、一度断絶することになる。
【熊谷直光】 くまがい なおみつ
気仙沼熊谷氏13代目。熊谷直定の次男。尾張と称する。分家の長崎熊谷氏を興すが、1533年に葛西氏の命で兄・直景を討伐し、以後は断絶した赤岩熊谷氏に代わって熊谷党の党首(惣領)となった。
【熊谷直良】 くまがい なおよし
気仙沼熊谷氏16代目。熊谷直正の嫡男。伯耆と称する。1578年に月館の熊谷直澄が反旗を翻した「松川の戦い」で、直良は直澄に野戦で敗れて自刃して果てた。
【熊谷直資】 くまがい なおすけ
気仙沼熊谷氏17代目。熊谷直忠の三男。伊勢、淡路と称する。1578年に長崎の熊谷直良を討ち取った月館の熊谷直澄は、長崎家の養子となっていた弟の直資に直良の跡を相続させて新たな熊谷党の党首とした。
【熊谷直長】 くまがい なおなが
気仙沼熊谷氏18代目。馬籠(千葉)新右衛門の二男で、直資の養子となる。掃部頭と称する。1588年の「浜田広綱の乱」では葛西軍の主力として篠嶺の麓に陣を張り、南下してきた鹿折信濃を主将とする浜田軍の一翼を撃破している。1590年に葛西氏が奥州仕置きで没落した後は津谷に隠遁したが、後に伊達氏の家臣となった。

居城

城名 概略
赤岩城 熊谷直宗によって築かれた熊谷氏代々の居城。熊谷直景の代までの本拠地となる。(赤岩系の居城)
長崎城 熊谷直光によって築かれた直光の代以降の居城。(長崎系の居城)
新庄館 熊谷直元の居城。
細浦城 熊谷直元、および子の熊谷直正の居城。

一門衆・家臣団

居城 概略
【後期】
赤岩熊谷氏
赤岩城 一門衆。赤岩の領主。前期の赤岩熊谷氏は熊谷党の党首だったが、長崎熊谷氏の熊谷直脩が再興した後期の赤岩熊谷氏は長崎熊谷氏の臣下として続いた。
月館熊谷氏 月館 一門衆。月立の領主。熊谷直定の庶子の直政が月立に移り住んだのが始まり。直澄の代に長崎熊谷氏の直良を「松川の戦い」で討ち取り、長く続いた内訌を終息させた。
中館熊谷氏 中館 一門衆。中館の領主。熊谷直平は長崎熊谷氏に反旗を翻して戦うが、敗れて一族は没落した。後に長崎熊谷氏の熊谷直房が再興している。
寺崎氏
(寺崎熊谷氏)
寺崎館
波上東館
一門衆。寺崎の領主。熊谷直光の四男の直能が桃生郡の寺崎を相続して移り住んだのが始まり。1336年の「馬籠合戦」にて直能と嫡男・直常、次男・直朝が討死している。なお、直能の末子は出家して後に月泉良印と称した。
下館氏 下館 一門衆。下館の領主。月館の熊谷直行の次男の直房が下館に移り住んだのが始まり。
北館氏 北館 一門衆。北館の領主。寺崎熊谷氏の傍流が北館に移り住んだのが始まり。
岩月氏 八幡館 一門衆。岩月の領主。熊谷上総直継の次男の直時が岩月に移り住んだのが始まり。熊谷直則の代には流庄の葛西氏家臣団の総旗頭を命じられている。
中里氏 中里館 一門衆。中里の領主。熊谷直包の次男の重直が中里に移り住んだのが始まり。
石森氏 石森館 一門衆。石森の領主。熊谷信直の次男が石森に移り住んだのが始まり。
八瀬熊谷氏 仲井館 一門衆。八瀬の領主。熊谷直晴の次男の信延が月館に移り住み、その後に八瀬に移り住んだのが始まり。
唐桑氏
(阿部氏)
唐桑館 熊谷氏家臣。唐桑の領主。奥州安倍氏の子孫で、在地の土豪だったが、1189年の奥州合戦以降に気仙沼に熊谷氏が下向するとその家臣となった。そして、後に葛西氏の家臣となった。