奥羽古城散策
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赤岩城 あかいわじょう

別名
赤磐館、赤巌館
時代
鎌倉時代~安土桃山時代
分類
中世山城
規模
面積:東西700m×南北500m、標高:87m、比高:80m
現状
雑木林・耕地
場所
宮城県気仙沼市松川
最終訪城日
2011年12月10日

熊谷直宗が築いた山城で、以後は(赤岩系)気仙沼熊谷氏代々の居城となった。現在は山林となっているが、西郭の一部は耕地となっている。

城史

年代 出来事
1189年 熊谷直家は奥州合戦での戦功により本吉郡と桃生郡に数邑の所領を賜った。
1223年頃 熊谷直宗は奥州の所領を相続し、「承久の乱」の後に本吉郡へと下向した。そして、赤岩城を築いて居城とした。
1336年4月22日 葛西高清は4月初めに馬籠行胤を攻め、遠野城にて合戦となる。この戦いに馬籠氏の縁戚であった熊谷直時が一門を引き連れて参戦するが、馬籠氏共々敗れて直時も討死した。
1336年4月27日 馬籠合戦に勝利した勢いで葛西氏は熊谷氏の本拠地へと攻め込み赤岩城にて合戦となったが、留守を守っていた熊谷直明はよく持ちこたえ、葛西氏は城を落とせずに撤退した。
1363年 南北朝の争いの最中に葛西氏と熊谷氏は小競り合いを繰り返したが、ついに熊谷氏は葛西氏に降り、以後はある程度独立性を持った家臣として臣従した。
1533年 葛西稙信は赤岩の熊谷直景と長崎の熊谷直光の内訌に付け込み、直景を背任の罪で討伐する軍勢を起こした。直景は赤岩城に立て篭もったが、葛西氏と長崎熊谷氏の軍勢に攻められ、郎党皆撫で斬りにされたという。これ以後、長崎熊谷氏が惣領となった。
1533年以降 先の騒乱で赤岩熊谷氏は断絶してしまったが、弟の直脩が赤岩城に入って赤岩熊谷氏を再興している。
1574年 中館の熊谷直平が長崎熊谷氏に対して反旗を翻して内乱となり、赤岩城も一時戦場となるが、結局中館勢は敗れて鎮圧された。
1578年 月館城の熊谷直澄が長崎熊谷氏に対して反旗を翻し、「松川の合戦」にて長崎熊谷氏当主の熊谷直良を討ち取って勝利した。これにより、1533年より続いた熊谷氏の内訌に終止符が打たれたという。
1590年 「奥州仕置き」により葛西氏は所領を召し上げられ、家臣であった熊谷氏も没落し、赤岩の熊谷氏は後に伊達氏に仕えたという。城はこの時廃城になったとされる。

縄張り

城は松川左岸の山の上に築かれており、最高所の東郭と少し低い場所の西郭を中心にして構成されている。山の斜面は北側以外が急斜面で、西側の沢沿いに登城路が付いており、登りきった場所に枡形状の郭がある。

【八幡社の祠】
東郭の中心には塚のような山頂があり、そこには八幡様を祀った祠がある。石の小さい祠が古くからあったもので、木製の社が新しく設置されたものらしい。ちなみに、赤岩城の標柱もこの場所に立てられている。

【東郭】
郭は城内最高所で南北に伸びた構造だが、中央に前述の塚のような場所があるため、あまり建物を設置できるような広さが感じられない。内部は雑木林で、一部には藪になっている場所もある。

【西郭】
東郭より少し低い場所にあり、内部はそこそこ広いので住居等の建物があったとすればこの場所だと思われる。現在は郭内の半分が雑木林になっており、残りは耕地となっている。

【堀切】
西郭の南側の尾根を利用した郭群との間には堀切が掘られており、草木でわかり辛いが中央に土橋を通している。

アクセス

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