
山形城 やまがたじょう
14世紀に山形盆地南部の中央に斯波兼頼が築いた最上氏代々の居館で、最上義光の代に大改築されて近世平城となる。江戸時代には山形藩の藩庁となる。現在は二の丸内が霞城公園、三の丸が市街地。日本100名城の一つ。▼遺構や見所
■ 本丸一文字門(復元) ■
本丸の大手にあたる一文字門の周辺が復元整備されており、外枡形の一の門である高麗門とそれに繋がる城壁が復元されているが、二の門の櫓門は復元されていない。なお、夕方の16時頃には閉鎖される他、本丸の状況次第で入れない時もある。
■ 本丸の井戸跡 ■
本丸内部は発掘調査中であるため、土砂山があったり、産出物が散らばっていたりして現状では見所が限られているが、とりあえずこの井戸の跡はずっと見ることが出来ている。
■ 二の丸東大手門(復元) ■
二の丸の東大手門は江戸時代の記録と明治の写真、発掘調査結果などの資料から高麗門と多門櫓門から成る内枡形の門全体が木造で完全復元されており、4月~11月頃の日中は内部も見学できる。
最上義光の時代は実は外枡形だったが、鳥居忠政が堀と土塁を外に拡張した結果内枡形になったという。
■ 二の丸土塀礎石 ■
二の丸の土塁は全周囲がよく現存しているが、そのためか土塁上にあった土塀の礎石がよく残っている。なお、二の丸の北東部は数m間隔で画像のような屏風折れ構造の土塀になっている。
■ 二の丸南大手門跡 ■
二の丸の南大手門は東大手門と同様の構造をしているが、こちらは建造物は復元されていない。現在、門跡東側の石垣の上はベンチのある休憩スペースになっている。
■ 二の丸巽櫓台 ■
二の丸の南東隅にはかつて二重櫓が建っていたが、現在はその櫓台だけが残っている。ここの櫓台の上はベンチのある休憩スペースになっている。
■ 二の丸坤櫓台 ■
二の丸南西隅にもかつて二重櫓が建っていたが、現在はその櫓台だけが残っている。ここは巽櫓と違い、内部には入れないようになっている。
■ 二の丸天守台 ■
二の丸西側の土塁のやや北寄りの場所にかつては天守閣が建っていたが、現在はその痕跡がやや厚めになった土塁としか認識できない。ただ、よく見ると規則的に並んだ石が埋まっているのが目視確認できるため、石垣か礎石の一部が地面の下にまだ残っているものと思われる。
■ 二の丸西不明門 ■
二の丸はどういうわけか正方形ではなく南西側が欠ける構造ののため、ちょうど横矢になった部分に西門があり、構造的にはどの門よりも守りやすくなっている。だが、松平家の時代には門は常時閉門の不明門(あかずのもん)となり、水野家の時代には橋すらなくなっている。
■ 二の丸水堀 ■
二の丸は全周囲に土塁と水堀が残っているため、実に城跡らしい光景が見られが、桜の時期や紅葉の時期には一層絵になる光景になる。
なお、画像の南西の堀は最上義光の時代にはもう少し内側にあったが、鳥居忠政の時代に拡張されて今の形になった。
■ 三の丸土塁堀 ■
パンフレットや看板に載っている三の丸跡はここを指しており、三の丸土塁と外堀の跡をみることが出来る。堀はある程度埋まっているが、三の丸の塁壁の規模が窺い知れるので貴重な遺構である。
■ 三の丸土塁(北東部) ■
山形衛生研究所の裏手付近に土塁の一部が残っており、付近の発掘調査で堀の跡も確認されている(今は埋め戻された)。
■ 三の丸土塁(北部) ■
三の丸跡北部の鉄道沿線の住宅地にも土塁が残っており、石碑には三の丸堀と書かれているが、どうみても土塁の方が目立っている。堀跡の上には住宅が建っており、少し低いことだけはわかる。
■ 三の丸堀跡(北部) ■
「みつばち公園」と呼ばれる場所に三の丸堀の標柱が立っているが、堀自体は埋め立てられているため、埋まった堀の跡がそのまま公園になったというのが判るだけである。
■ 三の丸堀跡(南西部) ■
三の丸跡南西部に堀跡が残っており、今は堀跡がそのまま「双葉公園」となっている。昭和48年まではちゃんとした水堀が残っていたが、その後に埋められて今は浅い窪地となったが、城内側が高くなって塁線の跡をよく残している。
■ 三の丸堀跡(南南西部) ■
三の丸の稲荷口から吹張口の間の堀跡は今は車道になっており、城内側が高くなっているのが確認できる。
■ 三の丸堀跡(南部) ■
三の丸跡南部の鉄道の線路下を潜る通路は三の丸堀跡をそのまま利用したもので、鉄道に隣接する東の道路側(画像手前)はむしろ堀を埋めて道路を通した形である。
■ 三の丸土塁(南部) ■
三の丸跡南部の鉄道沿線の住宅地にも土塁が残っており、手前の車道も周囲よりやや凹んでいるため堀跡だというのがわかる。この車道の延長線上に鉄道の線路下を通る通路がある。
■ 三の丸堀跡(南部吹張口付近) ■
三の丸跡南部の吹張口付近に堀跡の標柱が立っているが、周囲は完全に住宅地になっているにも関わらず堀跡が埋められずに残っている。画面左奥が堀跡で今は通路として利用されており、通り抜けた先に三の丸土塁(南部)がある。
■ 山形県立博物館 ■
山形県の古代~近代の歴史を展示した博物館。
開館:1月~12月
時間:9:00~16:00(16時30分閉館)
休館日:日曜祝日の翌日、年末年始
入館料:300円(学生150円)※無料日あり
場所:山形県山形市霞城町1-8
■ 最上義光歴史館 ■
最上氏の歴史を中心に展示した資料館。
開館:1月~12月
時間:9:00~16:30(17時閉館)
休館日:日曜祝日の翌日、年末年始
入館料:無料
場所:山形県山形市大手町1-53
▼歴史
- 年月日出来事城主・城代・持分・守備
- 1357年羽州管領として出羽国へ派遣された斯波兼頼によって山形城の前身となる居館が建てられる。斯波兼頼
- 1592年最上義光が居城の改築を開始する。最上義光
- 1593年最上義光によって本丸が再構築され、その外側に二の丸が設けられる。最上義光
- 1600年「慶長出羽合戦」では、最上義光は家臣に一部の城を除く各城の空け城を命じ、山形城へと戦力を集中させる戦術をとった。義光自身は城外(稲荷口付近)に本陣を敷いて指揮をとった。最上義光
- 1600年「慶長出羽合戦」において直江兼続は畑谷城を攻め落とした後に東進し、山形盆地に出た所で富神山へと登ったが、山形城は霞に隠れて視認できなかったという。これが後に霞城の異名の由来となった。最上義光
- 1600年最上義光は57万石の大大名となり、二の丸の外に三の丸を構築して城の縄張りが最大規模になる。最上義光
- 1622年
8月21日御家騒動が原因で最上家信(義俊)は処分され、1万石に減封されて近江国大森へと移された。城は永井直勝が幕府請け取り役で回収し、この時に破損が多かったため幕府の手で修復された。幕府一時預かり - 1622年9月新たに鳥居忠政が磐城平藩から移封され、22万石の山形藩となった。忠政は入城すると城に改修を加えており、城門等の石垣はこの時に造られた。鳥居忠政
- 1636年鳥居忠政の跡を継いだ忠恒だったが、病弱だったため父が亡くなった8年後には没している。実子が居らず相続に不備があったため鳥居家は所領没収となり、再び藩主が交代となった。以後、幕末まで11家が交代することになる。鳥居忠恒
- 1873年明治の「廃城令」の中では「存城」に分類されているが、この時点で既に二の丸より外側は破却されて田畑と化していた。明治政府直轄
- 1901年陸軍駐屯地が山形城内に移され、これにより残っていた建物は処分された。そして、本丸の土塁は崩されて堀も埋め立てられた。陸軍省
- 1986年国指定史跡となる。山形市
▼詳細情報
最終訪城日 | 2019年9月21日 |
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別名 | 霞城、霞ヶ城、最上城、大山城、出羽国之御所 |
前身 | 斯波兼頼の山形城(居館) |
前身の築城年代 | 1357年 |
普請開始 | 1592年 |
築城完了 | 1600年 |
築城者 (設計者) | 最上義光 |
分類 | 輪郭式近世平城 |
規模 | 東西1617m×南北1553m、235万平方メートル |
標高 | 標高:131m、比高:- |
文化財指定 | 国指定史跡 |
現存建造物 | - |
復元建造物 | 本丸一文字門(高麗門)、二の丸東大手門(高麗門・多門櫓門) |
模擬・復興建造物 | - |
遺構 | 石垣、土塁、水堀、空堀、土塀礎石、井戸、曲輪跡 |
標柱・説明板 | 二の丸東大手門付近に説明板あり |
現状 | 霞城公園、市街地 |
イベント | 桜祭り(4月中旬) |
注意事項 | 2033年頃まで発掘調査と城址整備工事が続く |
場所 | 山形県山形市霞城町 |