新庄城 しんじょうじょう

1625年に戸沢政盛によって新庄盆地の中心に築かれた平城で、新庄藩の藩庁。幕末に戊辰戦争の戦場となって焼失した。現在は本丸に神社があり、本丸と二の丸・三の丸の一部が「最上公園」になっている。二の丸と三の丸の跡の大部分は市街地化している。

▼遺構や見所

■ 戸澤神社(本丸御殿跡) ■

本丸跡にはかつて本丸御殿があったが、現在は何も残っておらず戸澤神社や護国神社の境内になっている。画像は戸澤神社の鳥居付近にある御殿入口があった場所を示す「御玄関跡」の標柱。


■ 日本庭園(本丸御殿跡) ■

本丸跡の半分ほどは今は日本庭園になっているが、これは昭和5年に折下吉延によって造られたもので城跡とは無関係である。
一応、この場所にはかつては本丸御殿の建物があったので建物の一角に庭園があった可能性はあるが…。


■ 本丸武器櫓跡 ■

本丸南東にかつてあった2階建ての隅櫓で、現在は土台となった土塁だけ残されている。絵図通りならこの上に石垣の櫓台があったはずだが現状ではその痕跡は確認できない。なお、本丸には武器櫓の他にも大納戸櫓、小納戸櫓という隅櫓もかつてあった。


■ 天満神社 【県重文】 ■

本丸南西隅に勧請された神社で、唯一現存する当時の建物。昔の絵図にもしっかり描かれており、今は県指定有形重要文化財となっている。なお、戸沢氏は天神を信仰していたらしく出羽国角館に居た頃から氏神と一緒に祀っていたと伝わる。


■ 本丸表御門跡 ■

正確には枡形を形成していた本丸表御門の内側にあった二の門(櫓門)の跡で、今は門の石垣だけが残されている。なお、絵図とは門の向きが一致しない為、時代によって変わったのかと思ったが、どうも後世に造られた模擬石垣という話もあり、結局真相は闇の中だった。


■ 御用水 ■

城外から本丸まで水を引いていた水路が残っており、三の丸跡から土橋と裏門跡を通って本丸跡へと今も水が流れている。現在は本丸跡の庭園の池の水として利用しているようだが、当時は大事な生活用水だったため、汚れた物を水路に入れることは禁じられていた。


■ 本丸南門跡 ■

本丸から二の丸へ抜ける場所にあった門で、表御門や裏御門と違って棟門が一つあるだけの簡単な造りだった。画像右側の土塁に開いた通路は後世に車を通す為に削った部分で、門があったのは画像左側の通路の部分である。


■ 本丸内堀の東側 ■

かつて本丸の周囲には水堀が巡らされていたが、現在は東側にだけ水堀が残されている。


■ 本丸内堀の西側 ■

本丸内堀の西側は今は埋め立てられて水堀では無くなっており、最上公園の散策路となっている。この部分は本丸の土塁を崩して埋めたものだそうで、その証拠に本丸側はこの堀沿いにだけ土塁が現存していない。


■ 二の丸跡 ■

二の丸跡は画像の標柱のある周辺だけが最上公園の一部になっており、残りはすべて今は住宅地となっている。このため二の丸の周囲にあった水堀も公園側以外は消滅してしまっている。


■ 二の堀跡 ■

二の堀跡は三の丸の外側にあった水堀の跡で、現在は水堀としては消滅してしまっているが、画像の箇所に堀の一部の窪みが確認できる。堀を完全に埋めずに堀跡に民家を建てた為、このように見える形で痕跡が残ったようだ。


■ 大手御門跡 ■

三の丸の大手門があった場所で、画像の右端の看板のあたりに門跡の標柱がある。正確には標柱のあるあたりは土橋と堀があった部分で、門の跡は画像の中心よりも奥の方になる。

▼歴史

▼詳細情報

最終訪城日 2017年7月17日
別名 鵜沼城
前身 沼田城
普請開始 1624年
築城完了 1625年
築城者 (設計者) 戸沢政盛
分類 近世平城
規模 東西750m×南北900m
標高 標高:97m、比高:-
文化財指定 市指定史跡、天満神社は県指定有形文化財
現存建造物 天満神社
復元建造物 -
模擬・復興建造物 藤嵐閣(二条城の茶室を模したもの?)
遺構 石垣、土塁、水堀、水路
標柱・説明板 本丸に城址碑と説明板あり
現状 最上公園、学校、市街地
イベント カド焼きまつり(4月下旬~5月上旬)、新庄まつり(8月下旬)
注意事項 -
場所 山形県新庄市堀端町

▼アクセス

 新庄駅からバスで

JR奥羽本線「新庄駅」から「金山」行きのバスに乗り、「南本町」で下車。そこから徒歩7分で最上公園。 JR奥羽本線「新庄駅」から「鳥越」行きのバスに乗り、「南本町十字路」で下車。そこから徒歩8分で最上公園。 ※バスで移動する距離は少なく結局歩くことになるので、あまりオススメできない。

 新庄駅から徒歩で

JR奥羽本線「新庄駅」から徒歩15分で最上公園。

 駐車場

最上公園に無料の駐車場あり。
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