
松山城 まつやまじょう
酒井忠恒が庄内藩より2万石分封されて支藩の松山藩を開いた際に築かれた平城で、松山藩の藩庁として幕末まで続いた。現在は中心部が松山歴史公園で、他は公共施設や住宅地となる。▼遺構や見所
■ 本丸跡 ■
本丸にはかつて本丸御殿があったが、今は松山歴史公園の多目的広場になっており、遺構は何も残っていない。周囲の城壁と城門は模擬建造物である。
■ 本丸土塁と水堀 ■
本丸の北端部分の土塁が良く残されており、土塁の西側には水堀の一部も残っている。城跡の水堀の大部分は埋められて今は民家が建っており、残っているのはここと十三間堀だけである。
■ 大手門 【現存】 ■
城内で唯一現存する建造物で、山形県内でも櫓門が現存しているのはここだけなため貴重な文化財である。なお、初代の大手門は1790年に落雷で焼失しているため、この大手門は二代目になる。県指定有形文化財。
■ 大手馬出 ■
丸馬出の形状をしており周囲の水堀は埋め立てられてしまっているが、馬出の土塁がよく残っている。
■ 十三間堀 ■
外堀の水堀の一部で、城跡に残る水堀としては最も大きい。十三間は堀の幅のことで約23mあったようだが、現状は護岸したためか20m未満に見える。なお、残っている長さは50mほど。周囲には桜が植えられており、春には華やかな景色になる。
■ 藩校・里仁館跡 ■
かつて松山藩の藩校・里仁館があった場所はその後も学校の敷地として利用されており、学校が廃校になった後は多目的公共施設の里仁館として利用されている。当時の教育の場が現代まで教育の場になっているというのはなかなか面白い。
■ 上堰 ■
城下町を整備する際に用水として引かれた水路で、当時から現代まで同じ場所を流れている。この水路を境に西側が民衆の町、東側がお城と武士の町だった。現代の町もこの水路沿いで特徴的な風景になっているのが面白い。
■ 松山文化伝承館 ■
松山の歴史資料と美術品を展示している。
開館:1月~12月
時間:9:00~16:30
休館日:日曜祝日の翌日、年末年始
入館料:360円、大学高校生250円、小中学生100円
場所:山形県酒田市新屋敷34
▼歴史
- 年月日出来事城主・城代・持分・守備
- 中世この地には稲荷沢館があったと伝わる。-
- 1647年酒井忠勝の三男の酒井忠恒が庄内藩より2万石分封されて新たに支藩を開府する。-
- 1661年酒井忠恒は所領の中山村の稲荷沢館跡を新たに整備して中山陣所と称した。酒井忠恒
- 1662年酒井忠恒は間借りしていた鶴ケ岡城より中山陣所に移り、この地を鶴ケ岡、亀ケ崎に因んで松山に名を改めた。そしてこの時から松山藩を称する。酒井忠恒
- 1779年酒井忠休は幕府より上州桐生に5千石を加増され家格も城主格となる。酒井忠休
- 1781年庄内藩の軍師・長坂正逸の設計で松山の陣所を改築することになり、上野安邦を総奉行に命じて工事を開始した。酒井忠休
- 1789年本丸御殿が概ね完成し、城としての形が出来たためこの時より松山城と呼んだ。酒井忠崇
- 1790年落雷により大手門を焼失する。酒井忠崇
- 1792年幕府の許可を得て大手門を再建する。酒井忠崇
- 1868年「戊辰戦争」では奥羽越列藩同盟の主力であった庄内藩に従って各地で善戦するが、新政府軍の猛攻で同盟各藩が壊滅したため、庄内藩と松山藩も降伏した。酒井忠良
- 1869年政府の命で廃城となるが、按察使の坊城俊章の進言で大手門が破却されずに残された。-
- 1970年大手門が山形県の指定文化財となる。-
▼詳細情報
最終訪城日 | 2018年4月22日 |
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別名 | 松嶺城 |
前身 | 中山陣所、稲荷沢館 |
普請開始 | 1781年 |
築城完了 | 1789年 |
築城者 (設計者) | 酒井忠休 (長坂正逸) |
分類 | 近世平城 |
規模 | 東西400m×南北500m |
標高 | 標高:33m、比高:- |
文化財指定 | 県指定文化財(大手門) |
現存建造物 | 大手門 |
復元建造物 | - |
模擬・復興建造物 | 歴史公園の外側の城壁と城門は模擬 |
遺構 | 土塁、水堀 |
標柱・説明板 | 松山歴史公園内に説明板あり |
現状 | 松山歴史公園、住宅地 |
イベント | 松山まつり(5月1日) |
注意事項 | - |
場所 | 山形県酒田市新屋敷 |