
白石城 しろいしじょう
元は藤原経元によって11世紀頃に築かれた城で、1591年に蒲生郷成が大改築して近世城郭に作り変えた平山城。上杉領を経て最後は伊達領となり、伊達家重臣の片倉氏が城主となって幕末まで続いた。現在は本丸と二の丸は益岡公園で、南の丸が学校、沼の丸が野球場になっている。麓の三の丸跡と外曲輪跡は市街地化しているが、一部に武家屋敷が残る。『日本続100名城』の一つ。▼遺構や見所
■ 大櫓(復元) ■
本丸北西隅には事実上の天守閣に相当する大櫓があり、蒲生郷成が城を整備した時には二階櫓で建てられたが後に三階櫓に変わっている。廃城後に解体されたが1995年に当時の絵図や発掘調査等を元に木造で復元された。
開館:1月~12月
時間:9:00~17:00(4~10月)
時間:9:00~16:00(11~3月)
休館日:年末
入館料:400円、高校生以下:200円
■ 本丸大手門(復元) ■
本丸大手門は菱門(一ノ門)と櫓門(二ノ門)から構成されており、この二つの門で桝形を形成している。近世城郭は基本的に方形の桝形を作るが、白石城の桝形は方形になっておらず、地形に合わせた変則的な構造になっているのが珍しい。
■ 鐘堂(復元) ■
当時の本丸にあった鐘を付いて時間等を知らせる為の御堂を復元したもので、当時突いていた鐘自体は今も傳来寺に払い下げられて現存する。
■ 本丸辰巳櫓跡 ■
本丸南東隅にあった二階櫓で、今は櫓台の石垣を残すのみとなっている。今は土に埋もれているせいで判り辛いが、1階部分は一方に突き出ていた為に櫓台はL字状になっている。
■ 本丸未申櫓跡 ■
本丸南西隅にあった二階櫓で今は櫓台の石垣を残すのみとなっている。だが、櫓台の外側は土塁と共に崩落して失われたようで、今残っているのは内側の部分だけである。辰巳櫓と同じ構造と思われるが、こちらは高い土塁の上にあるため土台が異なる。
■ 本丸石垣 ■
本丸の石垣は「野面積み」、「打ち込み接ぎ」、「切り込み接ぎ」の3種類で出来ており、最初は「野面積み」だけだったが修理したり改築した部分が「打ち込み接ぎ」、やがて「切り込み接ぎ」に切り替わり、結果的に3種類が混合する状態になった。
画像は手前の「打ち込み接ぎ」と奥の「切り込み接ぎ」のちょうど境界部分の様子。
■ 二の丸 ■
二の丸の高さは本丸と同じくらいだが、本丸との間には大きな堀切が設けられて分断されている。本丸と違って石垣造りではなく、こちら側は中世色が強い。現在は遊具のある広場で、大砲関の力士像が立っている。なお、本丸周辺の帯郭も含めて二の丸と呼ぶ場合もある。
■ 馬場跡 ■
本丸と二の丸の間は堀切によって分断されているが、かなり広く削ってある為、当時はこの堀切部分を馬場として使用していた。
■ 西の丸 ■
二の丸の西側にあった郭で、今は公園内の緑豊かな広場になっている。西端部には八幡宮が祀られている。
■ 水路 ■
城のある丘の麓には川から水が引かれており、用水を兼ねた水堀として利用されていた。三の丸や外曲輪、城下町にも同様に川から水を引いて水路を通していた。
■ 三の丸堀 ■
三の丸の水堀は今も残っており、当時の絵図に描かれた堀とほぼ一致する位置で見られる。画像の水路左側に石垣が残っており、右側はコンクリートのため、本来の堀幅はもうちょい広かったと思われる。
■ 二の丸東口門 【移築】 ■
かつては白石城の二の丸東口門だった門で、今は当信寺に移築されて山門となっている。東口門とは二の丸大手二の門のことで、幕末には櫓門の二階部分に太鼓を置いて時を知らせていたという。
■ 二の丸厩口門 【移築】 ■
かつては白石城の二の丸厩口門だった門で、今は延命寺に移築されて山門となっている。元々は大手門だったが片倉氏の時代に二の丸大手口が東に付け替えられた為、厩口門となった。城にあった時は入母屋造りだが、払い下げた時に切妻造りに改造された。
■ 武家屋敷「旧小関家」 ■
片倉家の中級家臣「小関家」の武家屋敷。
開館:1月~12月
時間:9:00~17:00(4~10月)
時間:9:00~16:00(11~3月)
休館日:年末
入館料:200円、高校生以下:100円
場所:宮城県白石市西益岡町6-52
■ 歴史探訪ミュージアム ■
白石城と片倉家の資料館、。シアターではミニ戦国ドラマが上演されている。
開館:1月~12月
時間:9:00~17:00(4~10月)
時間:9:00~16:00(11~3月)
休館日:年末
入館料:400円、高校生以下:200円
場所:宮城県白石市益岡町1-16
▼歴史
- 年月日出来事城主・城代・持分・守備
- 1091年後三年の役の軍功により刈田郡を賜った藤原経元が白石の丘陵に城を築いたのが始まりとされる。経元の子孫は刈田氏、後に白石氏を称することになる。藤原経元
- 1586年「人取橋の戦い」で武功を上げた伊達家家臣の白石宗実は新たに安達郡の旧大内領を加増され、この時に居城を白石城から宮森城に移した。白石宗実
- 1591年伊達政宗は二度目の奥州仕置きにより白石城のある刈田郡の領有権を失い、この地は会津領主の蒲生氏郷に与えられることになった。これにより、蒲生郷成が新たに城代として城に置かれた。蒲生郷成
- 1591年蒲生郷成は城を近世の織豊系城郭に作り変える為に新たに大改築を実施した。なお、蒲生氏以前の白石城は現在地よりも南に離れた場所の丘にあったという説もある。蒲生郷成
- 1598年家中の騒動により会津の蒲生秀行は減封の上で下野国の宇都宮に移され、代わって会津には上杉景勝が120万石で入った。この時、白石城には新たに上杉家臣の甘粕景継が城代として置かれた。甘粕景継
- 1600年7月徳川家康の「上杉征伐」に合わせて伊達政宗は7月24日に上杉領の白石に攻め込み、翌日には城の主要部がほとんど陥落したため、城代の登坂勝乃は降伏した。なお、甘粕景継はこの時は会津に居り不在だった。登坂勝乃
- 1600年7月伊達政宗は城を石川昭光に預け、一旦本陣のある北目城まで兵を引いた。石川昭光
- 1601年9月「関ケ原の合戦」後、上杉景勝は減封されて刈田郡は正式に伊達領となった。なお、伊達郡等も政宗に与えられる約束(通称百万石のお墨付き)は政宗の一揆扇動疑惑から反故となった。石川昭光
- 1602年伊達政宗は片倉景綱に白石を与え、以後は幕末まで片倉家が治めた。片倉景綱
- 1615年「一国一城令」が幕府より出されるが、仙台藩の白石城は対象外とされて存続した。片倉重長
- 1684年城の石垣等が補修される。また、1644年からこの時の補修までの間に大手門が北から東に付け替えられている。片倉村長
- 1819年火災により大櫓を始めとした本丸の建物の大半を焼失する。片倉宗景
- 1823年火災で失われた大櫓の再建が完了する。片倉宗景
- 1868年5月戊辰戦争が勃発し、新政府へ対抗するための「奥羽越列藩同盟」が白石城で締結される。片倉邦憲
- 1868年9月仙台藩は新政府軍へ降伏し、白石城も開城となった。片倉邦憲
- 1869年4月新政府軍へ降伏した盛岡藩は所領を没収され、新たに白石へと移されて白石藩が誕生した。南部利恭
- 1869年7月旧領復帰の嘆願が認められて南部利恭は盛岡へと戻り、盛岡藩が再興した。利恭は東京(江戸)にて謹慎していたため結局一度も白石に入ることなく白石藩は消滅した。南部利恭
- 1869年10月盛岡藩から白石県(後に角田県)知事の武井守正に城が引き渡される。白石県
- 1874年廃城となり城の建物は民間へ払い下げられる。宮城県
- 1900年城跡が「益岡公園」として整備される。白石町
- 1982年城跡が市指定史跡となる。白石市
- 1995年大櫓と本丸大手門が復元される。白石市
- 2011年3月「東日本大震災」により大櫓や大手門の壁が部分的に剥がれたり亀裂が出来たりする被害を受ける。被害から約1年半後に全て修復された。白石市
▼詳細情報
最終訪城日 | 2018年7月15日 |
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別名 | 益岡城 |
前身 | 白石城(※白石氏の白石城を改築した説の場合) |
普請開始 | 1591年 |
築城完了 | 1591年 |
築城者 (設計者) | 蒲生郷成 |
分類 | 近世平山城 |
規模 | 東西750m×南北500m |
標高 | 標高:76m、比高:約20m |
文化財指定 | 市指定史跡 |
現存建造物 | 東口門(移築)、厩口門(移築) |
復元建造物 | 大櫓、本丸大手門、鐘堂、土塀 |
模擬・復興建造物 | - |
遺構 | 石垣、土塁、水堀、空堀、井戸 |
標柱・説明板 | 本丸に城址碑と説明板あり |
現状 | 益岡公園、学校、野球場、市街地 |
イベント | 桜まつり(4月)、鬼小十郎まつり(10月第1土曜) |
注意事項 | - |
場所 | 宮城県白石市益岡町 |