
長館 ながたて
中世に秋保氏によって名取川と獺沢川の合流地点の舌状台地に築かれた連郭式の丘城で、秋保氏代々の居城となった。現在は住宅地や畑になっている。▼遺構や見所
■ 主郭跡 ■
かつて秋保氏の居館があった主郭跡は現在は畑になっており、西側に稲荷神社や宅地がある他は特にこれといったものは見られない。
■ 稲荷神社 ■
主郭跡の西側に稲荷神社があり、恐らく当時から秋保氏が祀っている社と思われる。
■ ヒヨクヒバ ■
主郭跡の稲荷神社付近には2本の巨木があり、仙台市の保存樹となっている。画像は樹齢300年のヒヨクヒバの方で、もう一本は神社裏の樹齢500年の銀杏。銀杏の方は樹齢から秋保氏が稲荷神社の為に植えたものと思われる。
■ 主郭土塁 ■
遺構としては土塁が部分的に残っており、画像は主郭と二の曲輪の間付近の土塁。
■ 二の曲輪の土塁と堀跡 ■
画像の右側が二の曲輪跡で、左側が三の曲輪跡となっており、どちらも今は住宅地だが、画像のように土塁が残っている。画像の車道も元は空堀の跡と思われる。
■ 三の曲輪の土塁と虎口跡 ■
画像の奥が三の曲輪跡で手前が四の曲輪跡だが、ここにも土塁が残っており、土塁にあった虎口跡を境界に道が折れている為、かつては喰い違い虎口だったと思われる。
■ 四の曲輪の土塁と空堀 ■
城跡の一番外側にあった四の曲輪にも土塁と堀の一部が残っており、この遺構がある部分に今は城跡の説明板や標識が設置されている。
▼歴史
- 年月日出来事城主・城代・持分・守備
- 13世紀?秋保氏は平氏で名取郡秋保郷への土着は諸説あり、平長基の頃は秋保郷の並木に屋敷を構えて住んでいたと伝わる。-
- 1295年秋保基盛は楯山城を新たに築いており、この時に楯山城の街道口を抑える出城として築いたという説もある。-
- 1500年秋保盛房は同じ名取郡の国人領主の長井晴信の急襲を受け、楯山城を放棄して出羽国の最上氏の元へと逃れた。-
- 1512年秋保盛房は最上氏の援助と秋保郷の村民の協力を得て秋保郷から長井勢を駆逐し、再びこの地に返り咲いた。この時に、長館を築いて居城としたという。秋保盛房
- 1543年「天文の乱」では伊達稙宗の側に味方していたようで、秋保則盛は稙宗党の大崎氏の指揮下で動いている。また、伊達家との主従関係が出来たのもこの頃からとされる。秋保則盛
- 16世紀城を焼失して一時最上領へと身を寄せ、この時に菩提寺の和尚から秋保を捨てたと嘆かれて縁を切られる。その後、しばらくしてから帰郷した。秋保勝盛
- 1603年伊達政宗の仙台への本拠地移転に伴い、秋保氏の秋保郷は召上げられて刈田郡に代替地が与えられる。城はこの時に廃城となった。秋保直盛
- 1652年伊達忠宗から秋保郷への復帰が許可され、館山原の屋敷に移り住んだ。-
- 1781年仙台藩の奉行職として活躍し、秋保郷の長袋の町場を知行地として賜ったのに伴い、かつての居城があった長館跡を家中屋敷として再整備して移り住んだ。秋保氏盛
- 1871年廃藩置県により長館も役目を終えるが、その後も子孫の住居として続いたようだ。秋保安盛
▼詳細情報
最終訪城日 | 2018年4月13日 |
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別名 | 長楯城 |
前身 | - |
普請開始 | 1512年 |
築城完了 | 1512年 |
築城者 (設計者) | 秋保盛房 |
分類 | 中世連郭式丘城 |
規模 | 東西350m×南北600m |
標高 | 標高:158m、比高:約20m |
文化財指定 | - |
現存建造物 | - |
復元建造物 | - |
模擬・復興建造物 | - |
遺構 | 土塁、空堀 |
標柱・説明板 | 舘集落入口(四の曲輪空堀跡)に説明板あり。主郭跡に標柱あり。 |
現状 | 住宅地、畑 |
イベント | - |
注意事項 | - |
場所 | 宮城県仙台市太白区秋保町長袋字舘 |