
九戸城 くのへじょう
築城には諸説あって年代は定かでは無いが、九戸氏によって馬淵川、白鳥川、猫渕川に囲まれた段丘上に築かれた平山城。九戸氏代々の居城となり、戦国時代末期の「九戸政実の乱」では九戸勢はここに籠城して総勢6万の奥州仕置軍と戦った。乱鎮圧後は一部改修されて南部氏の居城となった。現在は九戸城跡の史跡公園と市街地。▼遺構や見所
■ 本丸櫓台跡 ■
本丸の南西隅にある櫓台の跡で、今も根本に石垣が残っている。昔の絵図にもハッキリ「櫓台」と書かれているが、実際にどういう櫓が建っていたかはよく判らない。
■ 本丸跡 ■
本丸は方形に近い形をしており、北と西が段丘崖で、東と南は内堀を挟んで二の丸と接している。本丸内部もよく見ると2段構造になっており、西側が上段で重要施設があった所と思われる。東側は1段低くなって城門に通じている。
■ 本丸追手門跡 ■
内枡形の虎口になっており、今もその枡形の土塁と石垣の根本が良く残っている。門の前の内堀には橋が架かっていたようで、現在は史跡保護の盛り土の上に仮設橋が架かっている。
■ 本丸搦手門跡 ■
追手門とは違ってこちらは外枡形の虎口になっている。二の丸とは堀を介さずに直接繋がっているが、二の丸大手門側からは死角になるように出来ている。
■ 内堀 ■
蒲生氏郷が整備した本丸と二の丸の間の空堀で、ここだけが直線的構造になっている。当時は両側が野面積みの石垣で固められており、今もその残骸が良く残っているが、草が生える夏場は石垣が隠れてしまって非常に確認し難い。
■ 二の丸跡 ■
本丸の南東側にある城内で最も広い曲輪だが、発掘調査の結果では九戸氏時代の曲輪間の堀を埋めて繋げて造られていることが判っている。なお、九戸氏時代の地層からは鍛冶工房があったことが判っている。
■ 二の丸大手門跡 ■
絵図では内桝形の虎口だったようだが、現在は本丸の虎口と違って土塁等が全く残っていない。また、二の丸大手門から石垣で補強された土橋で在府小路の丘と繋がっていたようだが、現在はその土橋も車道が貫通して残骸のような遺構しか残っていない。画像は車道から二の丸に入る為に後から造られた道で、左に見えているのが土橋の残骸。
■ 中堀 ■
二の丸と石沢館や若狭館の間に設けられた空堀で、これらの曲輪を行き来するための堀底道でもあったようだ。内堀が近世の造りなのに対してこちらは中世の造りをよく残している。
■ 石沢館(外館) ■
城内でも九戸氏時代の縄張りそのままに残しているとされる曲輪で、群郭式特有の独立した島型構造になっている。曲輪内部は広く、今はただの草地となっている。名前通りなら石沢氏の屋敷があった場所か。
■ 若狭館 ■
石沢館と同じく、群郭式特有の独立した島型構造の曲輪で、こちらは今は内部が雑木林になっている。こちらは若狭守の屋敷があった場所か。
■ 外堀 ■
本丸、二の丸の外側に設けられた堀で、特に西側などは泥田堀だったことが今でもよく判る。なお、パンフレット等には「深田堀」と書かれている。
■ 松の丸 ■
在府小路と同じ段丘の西側を空堀で切り取って造られた曲輪で、内部は中央を境に南北に別れている。この曲輪は南部氏の屋敷を置くために築かれた場所らしく、地元の言い伝えではここが狭義の福岡城とされている。
■ 松の丸の空堀 ■
松の丸の空堀は深く圧巻である。画像ではイマイチ迫力が伝わらないが、東側の空堀を土橋の上から撮ったもの。なお、南側の空堀にはゴルフセンターの廃墟がすっぽり収まっている。
■ 本丸から見た三の丸 ■
本丸の西側の馬淵川と白鳥川に囲まれた一角が三の丸だが、現在は市街地化してしまっている。なお、江戸時代には既に三の丸は廃止されており、奥州街道が通って宿場町になっていた。
■ 白鳥川 ■
九戸城は馬淵川、白鳥川、猫渕川によって三方向を囲まれており、これらの川が惣堀として機能しているため難攻不落を誇っていた。実際、画像のように白鳥川沿いなどは断崖絶壁で見事な自然の要害となっている。
■ 九戸城ガイドハウス ■
九戸城の資料展示やPV上映、および城内のガイドを実施している。
開館:4月~11月
時間:10:00~15:00
休館日:無し(※正しガイドは土日祝日のみ)
入館料:無料
場所:岩手県二戸市福岡字城ノ内3-3
▼歴史
- 年月日出来事城主・城代・持分・守備
- 平安時代安倍則任の白鳥城とする説もあったが根拠は無く、白鳥繋がりで連想されただけだという。安倍則任
- 1492年
~1501年九戸光政がこの地に城を築いたのが始まりとされる。『実相寺』九戸光政 - 1568年九戸政実が鹿角の戦いでの戦功により二戸郡の福岡を給され、城を新たに築いたとされる。九戸政実
- 1582年南部晴政・晴継の死去に伴う家督争いで、最終的に南部信直が新たな当主となるが、九戸政実は反発して南部家は事実上分裂状態になる。九戸政実
- 1591年3月九戸派の櫛引氏の蜂起を皮切りにして「九戸政実の乱」が始まり、南部領全土で九戸派と三戸派が衝突することになる。九戸政実
- 1591年8月戦況は九戸派が優勢だったが、豊臣秀吉の命で奥州仕置軍が派遣された結果、九戸政実は5千の兵で九戸城に籠城して迎え撃つ方針に変更する。九戸政実
- 1591年9月九戸城の戦いでも総勢6万の仕置軍を相手に奮戦をして難攻不落ぶりを見せつけるが、薩天和尚を使者とした仕置軍からの降伏勧告に従い開城する。だが、降伏条件としていた城兵の助命は守られず撫で斬りにされた。九戸政実
- 1591年9月乱の鎮圧後、蒲生氏郷は九戸城に残って後始末を行い、この時に城の本丸等が改修されて、部分的に穴太積の石垣を用いた織豊系の城郭となる。蒲生氏郷
- 1591年10月蒲生氏郷が上方へと帰還した後は南部信直に城が引き渡され、信直は三戸城から居城を移して新たに福岡城と名付けた。南部信直
- 1592年福岡城では領内の北に寄っていて統治に不便なため、新たに不来方の地に城を築くことが検討される。南部信直
- 1598年上方より築城の許可が出た為、上京中の信直に代わって国元を管理していた利直が総奉行となり新たな城の築城が始まる。南部利直
- 1615年不来方に築城中の城(後の盛岡城)がほぼ完成したため、福岡城より居城を移した。南部利直
- 1625年盛岡城が川の氾濫で崩れた為、福岡城へと再び居城を移した。その後、居城は改めて盛岡城に近い郡山城に移した。南部利直
- 1633年盛岡城の修復を含めた築城工事が完了した為、再び盛岡城に居城を移した。南部重直
- 1634年盛岡城が落雷により本丸と二の丸を全焼した為、再び福岡城へと移り政務を執った。南部重直
- 1636年盛岡城が正式に居城となった為、福岡城は廃城になったとされる。南部重直
- 1935年国指定史跡となる。二戸市
▼詳細情報
最終訪城日 | 2018年9月24日 |
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別名 | 白鳥城、宮野城、福岡城 |
前身 | - |
前身の築城年代 | - |
築城・普請開始 | 1492~1501年 |
築城完了 | 1492~1501年 |
築城者 (設計者) | 九戸光政 |
分類 | 平山城 |
規模 | 東西700m×南北700m、面積:約36万㎡ |
標高 | 標高:137.2m、比高:約35m |
文化財指定 | 国指定史跡 |
現存建造物 | - |
復元建造物 | - |
模擬・復興建造物 | - |
遺構 | 石垣、土塁、空堀、泥田堀、虎口跡、井戸跡 |
標柱・説明板 | 三の丸ガイドハウス前と二の丸に説明板及び城址碑あり。 |
現状 | 史跡公園、市街地 |
イベント | 九戸城まつり(9月下旬) |
注意事項 | 堀底は一部泥状になっており移動する場合は注意 |
場所 | 岩手県二戸市福岡 |