
一戸城 いちのへじょう
13世紀に南部義実によって馬淵川右岸の段丘上に築かれた丘城で、一戸氏代々の居城となった。戦国時代末期には南部信直と九戸政実の対立に巻き込まれて戦場となる。現在は北館が公園で、他は畑や果樹園と住宅地。▼遺構や見所
■ 北館跡 ■
一戸城を構成する曲輪のうちの北端部にある曲輪で、現在は一戸公園と水道施設となっているが、やや藪化しかけている。
■ 北館の虎口跡? ■
北館には腰曲輪が設けてあり、腰曲輪から北館内部へ入る場所に虎口らしき部分が確認できる。なお、腰郭には今は三神社が祀られている。
■ 八幡館堀切跡 ■
段丘の東側は山に続いているため、一戸城はこの部分に堀切を設けて切断していたが、現在明確な堀切の痕跡が見られるのは八幡館の曲輪だけとなっている。他の堀切は国道4号の工事でほぼ消滅してしまった。
■ 神明社 ■
一戸城の主郭と考えられている神明館の名称の由来とされる神社で、神明館曲輪南西部中腹の出丸のような場所に今は鎮座している。なお、神明館の曲輪内部は畑と果樹園。
▼歴史
- 年月日出来事城主・城代・持分・守備
- 1249年
~1256年一戸摂津守(南部義実)によって一戸郷に城が築かれ、以後は一戸氏代々の居城となる。南部義実 - 1581年一戸政連の弟の平舘政包により政連親子が刺殺され、一戸氏本家は滅亡する。政連は南部信直擁立派だったため、家督相続を巡る争いに巻き込まれて九戸側に加担した弟に殺害されたのだという。一戸政連
- 1581年九戸政実家臣の一戸図書が新たに一戸氏を継いで城主となる。一戸図書
- 1582年南部信直が新たに南部家の当主となると、一戸城は接収されて北秀愛が城代として置かれた。北秀愛
- 1591年3月九戸派の櫛引氏の蜂起を皮切りにして「九戸政実の乱」が始まり、一戸城にも九戸勢が攻め寄せるが、北秀愛の奮戦により撃退されている。この戦いで秀愛は銃撃を受けて重症となっており、ここで討死した説もある。北秀愛
- 1591年9月南部信直は石井新助を城代として新たに送っており、乱の鎮圧後も新助が預かっている。石井新助
- 1592年6月豊臣秀吉の命に従い、一戸城は廃城となった。『南部大膳大夫分国之内諸城破却共書上之事』-
▼詳細情報
最終訪城日 | 2018年9月24日 |
---|---|
別名 | - |
前身 | - |
前身の築城年代 | - |
築城・普請開始 | 1249~1256年 |
築城完了 | 1249~1256年 |
築城者 (設計者) | 南部義実 |
分類 | 群郭式丘城 (連郭ではなく群郭式が並列になった縄張り) |
規模 | 東西300m×南北700m |
標高 | 標高:178.2m、比高:約40m |
文化財指定 | - |
現存建造物 | - |
復元建造物 | - |
模擬・復興建造物 | - |
遺構 | 空堀、郭跡 |
標柱・説明板 | 北館の曲輪に標柱あり |
現状 | 一戸公園、畑、果樹園、住宅地 |
イベント | - |
注意事項 | 整備されているのは北館のみ |
場所 | 岩手県二戸郡一戸町一戸字北舘 |