
勝山館 かつやまだて
1470年頃に武田信広(蠣崎信広)によって築かれた城館。信広の子の蠣崎光広が大館に移り住むまでの蠣崎氏の居城となった。その後は蠣崎氏一門の居城となる。▼遺構や見所
■ 主郭大手口 ■
切岸と二重の横堀で守られた平入り虎口で、副郭との間に落差があるため、橋は坂のように架けられている。画像の奥が主郭で、手前が副郭。
■ 主郭搦手口 ■
土塁と二重の堀切(1本は現在埋まっている)で守られた平入り虎口で、背後の山と繋がる唯一の箇所のためか、堀切は2~3度作り直されている。
■ 水の手(寺の沢用水) ■
搦手口外側の寺の沢に降りた所に水の手があり、井戸と樋の跡が確認できる。水の手はここの他に鶴の池などがある。
■ 主郭内部 ■
主郭内部はゆるやかに傾斜しており、一番低い箇所に城主の館とされる御殿の跡がある。大手口から搦手口まで一直線に通路が設けられ、その脇に家臣の館や厩、鍛冶場などがあった。ただ、通路の真ん中から櫓門跡が発見されているため、主郭内部は2つに別れていたようだ。
■ 館神跡 ■
主郭の最も高い場所には館神(守り神)として八幡社が祀られていた。この八幡社は現在は麓に移されて、上ノ国八幡宮の本殿となっている。なお、八幡社は源氏の氏神であり、武田信広は甲斐源氏一族の末裔にあたる。
■ 夷王山 ■
勝山館から沢を隔てた隣にある標高159mの山で、医王山薬師寺があったとされる。物見台としても使用されていた。後に武田信広が祀られて夷王山神社となった。
■ 夷王山からの景色 ■
眼下に上ノ国一帯と勝山館を見下ろせるスポットで、ここから見る全方位の絶景が素晴らしい。
■ 荒神堂跡 ■
勝山館のやや麓に近い場所に荒神堂跡があり、元は謀反を起こして討死した蠣崎基広の墓所だったが、基広の悪霊が暴れたため荒神堂を建てたという。現在は礎石と石段しか残っていない。
■ 勝山館跡ガイダンス施設 ■
勝山館跡について展示した資料館。
開館:4月下旬~11月上旬
時間:10:00~16:00
休館日:日曜祝日の翌日
入館料:200円(子供100円)
場所:北海道檜山郡上ノ国町勝山427
▼歴史
- 年月日出来事城主・城代・持分・守備
- 1470年頃武田信広(蠣崎信広)によって二つの沢に挟まれた山の上に築かれる。武田信広
- 1473年
(文明5年)勝山館に館神として八幡社が勧請される。
『上ノ國八幡宮御由緒』武田信広 - 1513年6月アイヌの軍勢(蠣崎光広の軍勢とする説もある)が大館を襲撃し、城主の相原季胤が討死する。武田光広
- 1514年3月蠣崎光広は居城を大館に移し、勝山館には泊館の蠣崎高広が城代として入った。蠣崎高広
- 1548年3月勝山館主の蠣崎基広が謀反を起こし、蠣崎季広家臣の長門広益によって討伐される。
『新羅之記録』蠣崎基広 - 1562年勝山館の城代の南条広継が妻が起こした毒殺事件に連座して自害させられる。広継は自分の棺桶に逆さに水松を植えさせて命を絶ち、この松が根付くことを潔白の証とした。
『逆さ水松伝説』南条広継 - 1678年勝山館に置かれていた檜山代官所が江差に移され、館は破却されたという。代官
- 1977年国指定史跡に指定される。上ノ国町
▼詳細情報
最終訪城日 | 2013年10月14日 |
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別名 | 和喜館 |
前身 | - |
普請開始 | 1470年頃 |
築城完了 | 1470年頃 |
築城者 (設計者) | 武田信広 |
分類 | 連郭式山城 |
規模 | 面積:35万平方メートル |
標高 | 標高:約110m、比高:約100m |
文化財指定 | 国指定史跡 |
現存建造物 | - |
復元建造物 | 橋、柵列、建物平面復元 |
模擬建造物 | - |
遺構 | 郭跡、土塁、空堀、井戸 |
現状 | 史跡公園、山林 |
イベント | - |
注意事項 | - |
場所 | 北海道檜山郡上ノ国町勝山 |