
高玉城 たかたまじょう
築城については諸説あるが、二本松畠山氏一門で後に芦名氏の傘下に降った高玉氏の居城と伝わる。現在は山林(竹林)と愛宕神社。▼遺構や見所
■ 主郭跡 ■
下高玉集落の背後の丘の頂上が主郭跡で、東西に伸びた平場になっている。伊達成実の記録を見る限りでは白砂の庭がある屋敷がここにあったようだ。
■ 主郭の土塁 ■
主郭のやや西側にL字状に土塁が残っており、土塁の外側は高さは主郭とあまり変わらない小さな曲輪になっている。
■ 虎口 ■
主郭から土塁を隔てた西の小さな曲輪に虎口があり、ここから下に降りる道が付いている。恐らくここが主郭の大手門で、小さな曲輪は馬出に近い用途の曲輪か。
■ 二重堀 ■
城のある丘は西側が山に繋がっている為、この部分に二重に堀切を設けて遮断している。この二重堀の内側の方は登城路と繋がっている為、通路として使っていた可能性もある。
■ 帯郭 ■
城のある丘の斜面には帯郭が2~3段設けられており、籠城戦時に高玉常頼が指揮を執っていた二の曲輪、三の曲輪はこの帯郭と思われる。
■ 愛宕神社 ■
主郭東側の一段低い腰郭に愛宕神社が鎮座しており、見た感じでは主郭の斜面を削って社殿を建てたように見える。高玉氏が愛宕神社を祀っていたかどうかは不明で、1672年の鰐口があることから少なくとも江戸時代から存在していることは分かる。
▼歴史
- 年月日出来事城主・城代・持分・守備
- 1394年源義家の子孫の顕実石筵冠者太郎左衛門尉がここに城を築いたとされるが定かではない。石筵顕実?
- 1532年この頃に二本松畠山氏一門の高玉氏が築城(改修?)したとされる。高玉氏
- 1586~1589年二本松畠山氏滅亡後、高玉常頼は伯父の高倉氏詮に説得されて伊達政宗の元に降るが、政宗ではなく留守政景の下に付くことを要求された為、立腹して城に戻ったという。高玉常頼
- 1589年5月5日伊達政宗家臣の片倉景綱率いる1万の軍勢に攻められ、高玉常頼は籠城するがその日の朝方のうちに落城した。常頼は全城兵60余名と共に玉砕して果てた。高玉常頼
▼詳細情報
最終訪城日 | 2018年12月15日 |
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別名 | 高玉館 |
前身 | - |
前身の築城年代 | - |
築城・普請開始 | 1532年 |
築城完了 | 1532年 |
築城者 (設計者) | 高玉氏 |
分類 | 中世丘城 |
規模 | 東西200m×南北150m |
標高 | 標高:385m、比高:約50m |
文化財指定 | - |
現存建造物 | - |
復元建造物 | - |
模擬・復興建造物 | - |
遺構 | 土塁、空堀、郭跡 |
標柱・説明板 | 城跡から北東に離れた県道24号沿いに城址碑あり |
現状 | 愛宕神社、雑木林、竹林 |
イベント | - |
注意事項 | 愛宕神社参道入口が判り辛い |
場所 | 福島県郡山市熱海町高玉 |