
白河城 しらかわじょう
14世紀に結城親朝が小峰ヶ丘に築いた小峰氏の居城を、1629年に丹羽長重が大改築して整備した近世平山城。白河藩の藩庁。現在は中心部が城址公園で、三の丸は市街地と化している。『日本百名城』の一つ。▼遺構や見所
■ 三重櫓と前御門 【復元】 ■
城の天守閣に相当する三重の櫓と本丸の表門が江戸時代の史料を参考にして木造で復元されており、内部までしっかり再現されている。このため、櫓内部の階段は急で、格子窓は外から内部が見えないように工夫されている等、実戦的な櫓の特徴が良く判る。
櫓の内部見学は無料。開館時間は10時~16時(4-10月は17時)。
■ 櫓から見た城内と城下町 ■
三重櫓は当時の設計に忠実に作ったため、外を見るためには格子の間から覗く形になり、展望は決して良いとは言えないが、それでもやはり眺めはいい。
■ 本丸石垣(修復後) ■
石垣は打ち込みハギで築かれており、ここでは「落とし積み」という水平ではなく谷状に落とし込んで作る技法が用いられている。
画像は震災で全壊してからの修復後のため、新旧の石垣が入り混じっている。
■ 本丸石垣(震災前) ■
参考までに震災前の同じ場所付近の石垣と比べてみると、全壊崩落してしまった割にはよく修復できている。
■ 月見櫓跡 ■
月見櫓は本丸帯郭にあり、二の丸の元太鼓門や本丸の搦手付近を見下ろす絶好の位置にある。櫓台の石垣は震災で崩落したが2018年7月に修復が完了した。石垣は切り込み接ぎで、震災前は風化で石垣の隙間が大きく開いていたが、積みなおしした際に破損の酷い石は交換したため、切り込み接ぎ特有のピッタリ感が戻っていた。
■ 内堀(水堀) ■
城の堀で現存しているのは本丸周辺の内堀だけとなってしまっているが、幅と深さはそこそこあって立派である。なお、堀のちょうど今に残る部分は元は阿武隈川の一部だったという。
■ おとめ桜(2代目) ■
城の築城が上手くいかず「人柱」を建てることになった際に埋められた家臣の娘を悼んで植えられた桜で、初代は戊辰戦争で焼失したという。
■ 太鼓櫓 【移築】 ■
元は二の丸太鼓門西側にあった櫓で、時間を知らせる太鼓があったとされる。1874年に払い下げられ三の丸紅葉土手に移築された。その後、1930年に現在の場所に移築された。移築時に茶室に改造されたため、当時の姿とは違う。
■ 三の丸石垣 ■
三の丸の北側の細長い丘の北面には今も石垣が残っており、櫓台跡もあるという。(遠目でしか見ていないため櫓台は未確認)
■ 道場門跡 ■
三の丸の西側にあった城門で、門の名前は門から出た道の先に時宗道場の小峰寺があったことに由来する。取り壊されて埋められていたが、発掘調査で出土した部分をそのまま公園風に整備してある。
■ 三の丸堀跡 ■
三の丸は市街地化しているため、堀も完全に埋められているが、大手門跡から少し東側に行った場所に一応堀跡を確認できる。絵図ではちょうど三の丸が外側に張り出している部分のため、現在の地形と見比べてみると一致する。
■ 尾廻門跡(搦手門跡) ■
三の丸から城の北側に出るいわゆる裏口の場所にあったのが尾廻門で、桝形にはなっているが裏口のためかなり狭い。震災ではこの通路を塞ぐほど石垣が崩落してしまったが2015年4月に修復が完了した。
■ 築出門跡付近 ■
2018年7月の時点では花畠郭あたり(東側丘陵北面)の石垣を修復しており、離れた場所から撮っている為判り辛いが、画像に見えるのは恐らく築出門跡の石垣。
■ 白河集古苑 ■
白河藩の歴史と城について展示した資料館。
開館:1月~12月
時間:10:00~16:00
休館日:日曜祝日の翌日、年末年始
入館料:320円(小中高生100円)
場所:福島県白河市郭内1-73
▼歴史
- 年月日出来事城主・城代・持分・守備
- 1340年結城親朝が小峰ヶ丘に館を築いて移り住み、小峰氏の始祖となった。結城親朝
- 1510年小峰氏は本家の家督相続問題で結城政朝と対立し、小峰朝脩が自害に追い込まれた。(※生存している記録もある)これに対して小峰直常が兵を挙げて政朝とその子の五郎を追放した。小峰朝脩
- 1510-1520年白川結城氏は小峰氏の系統の結城顕頼が継ぐことになったため、小峰館も白川結城氏の持城となった。結城顕頼
- 1574年佐竹義重が白河郡へと侵攻し、結城氏の居城である白川城を攻め落とした。結城義顕は那須へと逃れて無事だったが、佐竹氏に屈する形で和議が結ばれて居城へと帰還した。結城義顕
- 1575年結城義顕が鷹狩りで城から離れている間に結城義親(関義親)が謀反を起こして城を占領した。帰る場所を失った義顕は家臣の田島氏に匿われるが、義親の追討を受けたため郷氏の手助けで会津へと逃れた。結城義親
- 1576年結城義親は佐竹氏に占領されていた所領を取り戻すため赤館を攻め落とすが、佐竹氏の反撃にあって白川城まで撤退する羽目になった。再び攻め込んできた佐竹氏の軍勢は和田昭為の内応もあって城を易々と攻め落とし、結城義親は捕虜となったという。結城義親
- 1579年佐竹氏に屈した白河結城氏の元へ佐竹義広が養子として送り込まれ、結城義親は強制的に隠居させられることになった。結城義広
- 1587年結城義広(佐竹義広)が蘆名氏の家督を継ぐために会津へと移ったため、再び結城義親が白河結城氏の当主へと返り咲いた。結城義親
- 1591年「奥州仕置き」によって結城義親は所領を没収され、白河城には会津の領主となった蒲生氏郷の家臣の関一政が城代として置かれることになった。関一政
- 1591年城代が関一政から町野吉高へと変更になる。町野吉高
- 1598年蒲生氏が御家騒動で宇都宮に転封されると、会津には上杉景勝が120万石で入り、白河城には上杉家臣の五百川修理が城代として置かれた。五百川修理
- 1600年徳川家康を総大将とする会津征伐軍を迎え撃つため、上杉景勝は白河城の修理を指示している。結局、この間に「関ヶ原の合戦」が勃発して家康は小山から引き返しているため、白河では関山での小競り合いだけで戦いは終わった。五百川修理
- 1601年「関ヶ原の合戦」(奥州では「慶長出羽合戦」)で西軍に味方した上杉景勝は会津の所領を没収されて米沢へと移り、会津には再び蒲生氏が入ることになった。そして、白河城には蒲生氏家臣の町野氏吉が城代として置かれることになった。町野氏吉
- 1627年蒲生忠郷の急死によって蒲生氏は伊予国に移され、替わって会津には加藤嘉明が入った。そして白河には丹羽長重が転封されて白河藩が成立した。<丹羽長重
- 1629年丹羽長重は白河城を近世城郭へと造り替えるため改築を実施したという。この工事は1632年に概ね完了した。丹羽長重
- 1643年丹羽光重が白河から二本松へと転封となり、以後領主は榊原氏、本多氏、奥平氏、(越前)松平氏、(久松)松平氏、阿部氏と頻繁に交代した。-
- 1866年白河藩の藩主の阿部正静は棚倉へと転封され、白河藩は二本松藩預かりの地となった。阿部正静
- 1868年「戊辰戦争」が勃発すると白河では新政府軍と奥羽越列藩同盟軍の間で激しい戦闘が行われ、白河城は炎上して落城したという。城は戦後廃城となった。-
- 1991年当時の図面や絵図、発掘調査を元に三重櫓が復元される。白河市
- 1994年当時の図面や絵図、発掘調査を元に前御門が復元される。白河市
- 2010年8月5日国指定史跡となる。白河市
- 2011年3月11日「東日本大震災」により石垣が多数崩落する被害を受ける。白河市
▼詳細情報
最終訪城日 | 2018年7月14日 |
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別名 | 小峰城 |
前身 | 小峰館 |
普請開始 | 1629年 |
築城完了 | 1632年 |
築城者 (設計者) | 丹羽長重 |
分類 | 近世平山城 |
規模 | 面積:約8万平方メートル |
標高 | 標高:373m、比高:約15m |
文化財指定 | 国指定史跡 |
現存建造物 | 太鼓櫓(移築) |
復元建造物 | 三重櫓、前御門 |
模擬建造物 | 公園の城壁は模擬 |
遺構 | 石垣、土塁、水堀、堀跡 |
現状 | 城山公園、市街地 |
注意事項 | 震災復興工事中(2018年完了予定) |
場所 | 福島県白河市郭内 |