
山王館 さんのうだて
1588年の「郡山合戦」で伊達軍が陣を置いた陣城で、主に伊達成実によって要塞化された。現在は日吉神社の境内となる。▼遺構や見所
■ 主郭跡(日吉神社) ■
段丘端の小さなピークの上が主郭跡で、西側には土塁が残っている。記録によれば伊達軍が頻繁に物見や軍議を行ったのがこの場所である。現在は日吉神社の境内になっているが、そもそも山王権現が祀られていた場所が陣地にされたのだから元から日吉神社(山王社)の境内といえる。
■ 伊東肥前の碑 ■
「郡山合戦」の時に伊達軍と連合軍が乱戦となっている場所に突入して味方を引き上げさせて討死にした伊東肥前を弔った石碑。石碑だと伊達政宗を助けたことになっているが、「政宗記」では伊達成実と片倉景綱を助けて討死している。
▼歴史
- 年月日出来事城主・城代・持分・守備
- 1588年
6月12日「郡山合戦」で伊達政宗が山王山から佐竹や芦名の動きを観察しており、以後も何度か物見の場所として使われる。『政宗記』- - 1588年
6月16日伊達成実が山王山方面に陣を構えて平地に二重の土手と一重の堀を築いた。『政宗記』伊達成実? - 1588年
6月18日伊達成実の陣の近くで小競り合いが起きる。この時の敵陣では成実の陣を要害と評価している。『政宗記』伊達成実? - 1588年
7月4日窪田付近を通った連合軍の新国貞通を討つために伊達成実が兵を繰り出し、やがて両軍の砦から援軍が飛び出して大規模な乱戦となった。この戦いで伊達軍では伊東肥前も含めて50名ほどが討死した。『政宗記』- - 1588年
8月16日岩城常隆の仲介で和睦が成立し、両軍引き上げとなる。『政宗記』- - 1970年10月道路拡張工事で障害となった「伊東肥前の碑」が現在地に移転する。-
▼詳細情報
最終訪城日 | 2019年12月14日 |
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別名 | 山王砦 |
前身 | - |
前身の築城年代 | - |
築城・普請開始 | 1588年 |
築城完了 | 1588年 |
築城者 (設計者) | 伊達成実 |
分類 | 陣城 |
規模 | 東西100m×南北100m(丘の上のみ) |
標高 | 標高:239m、比高:約10m |
文化財指定 | - |
現存建造物 | - |
復元建造物 | - |
模擬・復興建造物 | - |
遺構 | 曲輪跡、土塁 |
標柱・説明板 | - |
現状 | 日吉神社、住宅地 |
イベント | - |
注意事項 | - |
場所 | 福島県郡山市富久山町久保田山王舘 |