
大越城 おおごえじょう
1566年に田村氏一門の大越顕光が築いた山城で、大越氏の居城。田村家中が伊達派と相馬派に割れた際に、伊達成実の攻撃を受けるが落城しなかった。現在は山林と大越神社(鳴雷神社)。▼遺構や見所
■ 本丸跡 ■
山頂の広い曲輪が本丸跡で、籠城時にはここで指揮を執っていたという。建物を置くには十分すぎる広さがあるため、指揮所以外にも施設があったと思われる。
■ 大越神社(鳴雷神社) ■
本丸の北西隅の櫓台のような場所には大越神社(鳴雷神社)の社殿があり、由緒書きが無い為ハッキリしないが、城の守り神だったものだろうか?もしくは廃城後に勧請したものか?
■ 本丸東虎口跡 ■
本丸の東の一段低い場所にある馬出のような小さな曲輪にある虎口で、三の丸や押上から本丸へ向かう場合はここを必ず通る。
■ 馬場跡 ■
本丸の南西の一段低い場所にある小さな曲輪で、西の二の丸とは同じ高さにある。恐らく厩があった場所で、ここにある巨岩は「駒石」と呼ばれており、城主の愛馬の朝霧号の蹄跡とされる窪みが岩の上についている。
■ 二の丸跡 ■
本丸の西の一段低い場所にある曲輪で、本丸の東の三の丸と対になるように配置されており、そこそこの広さがある。
■ 御殿跡 ■
本丸南の谷戸の奥にある広い曲輪で、城主の住む御殿がこの場所にあったとされる。現在は井戸が残されており、大越氏の以前の居城が水が原因で落城したエピソードから、この場所が城内で最も重要な場所だと判る。
■ 押上 ■
城の東の虎口から本丸に向かう途中のエリアは「押上」と呼ばれており、谷戸に階段状に設けられた沢山の曲輪がこのあたりにも確認出来る。
■ 西の館 ■
城の南の中腹の尾根にある曲輪で、家臣の屋敷跡と伝わる。「西の館」と呼ばれているが、恐らく御殿跡の西側を守る場所という意味か。
■ 東の館 ■
東の虎口から南側に伸びる尾根にある曲輪で、尾根伝いに登ってくる敵や館坂から虎口へと攻め寄せる敵を攻撃するための曲輪。
■ 大手側の虎口 ■
館坂を登って来る時に通る虎口で、説明板では堀切とあるが、正確には虎口を兼ねた切通である。城下町に近い為、こちらが大手口と思われる。
■ 搦手側の虎口 ■
城の西側の山々に繋がる場所には今は車道となった堀切跡があり、そこから南東に行った場所には搦手と思われる虎口がある。こちらも大手側の虎口と同じ構造で、切通を兼ねた虎口を抜けた先は階段状曲輪群となる。
■ 本丸からの景色 ■
本丸からは北側~東側へかけての展望が素晴らしく、眼下には城下町や船引から小野へと延びる脇街道を望むことが出来る。ちなみに大越氏の以前の居城である朝霧城は画像の左奥の方にあった。
▼歴史
- 年月日出来事城主・城代・持分・守備
- 1566年大越紀伊守顕光は新たに山城を築き、朝霧城から居城を移した。大越顕光
- 1586年田村清顕が亡くなると、家中は伊達派と相馬派に別れ、大越氏は相馬派に属した。大越顕光
- 1588年
6月5日伊達政宗家臣の伊達成実が城に攻め寄せるが、大越顕光は城を守り切った。成実は城が容易に落ちないとみると城下町を焼き払って撤退した。大越顕光 - 1589年大越顕光は岩城氏の支援を受けつつ伊達氏に抗戦するが、一方で伊達氏に降る交渉も進めており、これが後に岩城氏へと漏れて誅殺された。大越顕光
- 1589年4月大越顕光の妻の弟の大越甲斐守が岩城氏の家臣となり、大越城の城主となった。大越甲斐守
- 1589年
11月27日伊達氏と岩城氏の間で和議が結ばれ、岩城氏から伊達氏傘下の田村氏へと大越城が返還された。これに伴い、田村月斎(顕頼)が新たな城主となった。田村顕頼 - 1591年伊達政宗の所領なっていた田村庄一帯が豊臣秀吉の奥州仕置によって没収され、城はこの時に廃城となったという。-
▼詳細情報
最終訪城日 | 2018年12月16日 |
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別名 | 鳴神城、大越館 |
前身 | - |
前身の築城年代 | - |
築城・普請開始 | 1566年 |
築城完了 | 1566年 |
築城者 (設計者) | 大越顕光 |
分類 | 中世山城 |
規模 | 東西600m×南北500m |
標高 | 標高:561m、比高:約120m |
文化財指定 | - |
現存建造物 | - |
復元建造物 | - |
模擬・復興建造物 | - |
遺構 | 土塁、堀切、切通、井戸、郭跡 |
標柱・説明板 | 本丸に説明板と城址碑あり。大越娯楽場前にも説明板あり。 |
現状 | 大越神社(鳴雷神社)、山林、竹林 |
イベント | - |
注意事項 | - |
場所 | 福島県田村市大越町上大越字蟹沢 |