
小倉城 おぐらじょう
1235年に束塚実恒が築いた平山城で、後に安積伊東氏一族の中地氏代々の居城となる。一時、新国氏が城主だった時期もあるがその後に復帰している。1589年の伊達政宗の会津侵攻時に落城した。現在は小倉神社と中野保育所。▼遺構や見所
■ 小倉神社(主郭跡) ■
独立丘陵である小倉山の上が主郭跡で、現在は小倉神社の境内となっている。曲輪内部は広く、縁に土塁跡らしき高まりも確認できる。南西部に虎口がある。
■ 登城坂 ■
丘の東麓から南の斜面を通って主郭南西部の虎口へと続く坂で、恐らく大手道か。現在はこの坂の途中でショートカットするように階段が付属し、神社の参道として利用されている。
■ 出丸跡 ■
丘陵の北東側の麓に出丸跡があり、中地氏の平時の住処の根小屋とされている。現在の中野保育所のグラウンドとその西側の宅地?が曲輪跡とされる。なお、保育所の建物の方は堀跡を埋め立てて北側に拡張した場所に建っている。
▼歴史
- 年月日出来事城主・城代・持分・守備
- 1235年束塚丹波守実恒が城を築いて宗像大社より勧請した社を城内に祀る。束塚実恒
- 1320年伊東彦三郎が中地村の領主となり中地氏を称する。中地彦三郎
- 1404年国人一揆の傘連判状に中地の領主として沙弥性久の名が見える。※沙弥は仏門の在家信者のこと中地性久
- 15世紀前半この頃に中地氏は蘆名氏の傘下に入る。中地氏
- 1468年蘆名氏の傘下にあった長沼の新国信濃守が中地の領主となる。新国信濃守
- 1561年伊東氏が再び中地の領主に復帰する。伊東盛祐?
- 1573年~1588年中地の領主として伊東薩摩守盛恒の名が確認できる。伊東盛恒
- 1589年伊達政宗の会津侵攻時に落城し、伊東盛恒は会津の黒川へと逃れる。横沢彦三郎の誘いを断った為、横沢氏に落とされたとも伝えられており、伝承ではこの時に死亡した説もある。伊東盛恒
- 1590年奥州仕置で伊達政宗は会津を没収され、代わって蒲生氏郷が会津の領主となる。伊東盛恒は蒲生氏に仕えて復帰する。伊東盛恒
- 1590年11月伊東盛恒は蒲生氏に従って「葛西大崎一揆」の鎮圧に参加するが、その戦いで討死し、跡を継ぐ者が居なかったため御家は断絶した。伊東盛恒
▼詳細情報
最終訪城日 | 2019年12月15日 |
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別名 | 鶴島城、中地城 |
前身 | - |
前身の築城年代 | - |
築城・普請開始 | 1235年 |
築城完了 | 1235年 |
築城者 (設計者) | 束塚実恒 |
分類 | 中世平山城 |
規模 | 東西130m×南北130m |
標高 | 標高:543m、比高:約15m |
文化財指定 | - |
現存建造物 | - |
復元建造物 | - |
模擬・復興建造物 | - |
遺構 | 曲輪跡、土塁跡、堀跡 |
標柱・説明板 | - |
現状 | 小倉神社、中野保育所 |
イベント | - |
注意事項 | - |
場所 | 福島県郡山市湖南町中野諏訪前 |