久保田館 くぼただて
詳細は不明だが窪田氏の居館と伝わる。1588年の「郡山合戦」で伊達軍が接収し、大規模な改修を加えている。現在は住宅地と畑。▼遺構や見所
■ 南側の堀跡 ■
周辺は完全に住宅地と化しているが、古町地区のやや南側に不自然な枝分かれの水路があり、これは堀を埋め立てた際に水路として残した部分だという。70年代のカラー航空写真ではしっかり影が付いている為、宅地開発前までこの辺りに約10m幅の窪地(堀)が残っていたと思われる。
■ 東側の堀跡 ■
アパートと市営団地の間の南北に伸びた駐車場も堀跡であり、アパート側と1~2mの落差があるため比較的分かり易い。70年代のカラー航空写真では水田になっているのが見え、隣が畑と民家なことを考えると約20m幅の窪地(堀)だったことが判る。
▼歴史
- 年月日出来事城主・城代・持分・守備
- 中世安積伊東氏一族の窪田氏の居館と伝わる。窪田氏
- 1404年国人一揆の傘連判状に窪田の領主として修理亮祐守の名前が確認できる。窪田祐守
- 1588年
6月16日「郡山合戦」の際、伊達軍の本陣が久保田館と福原館の中間付近に置かれた。『政宗記』窪田氏 - 1588年
6月16日伊達家臣の飯坂右近と大峰式部が久保田館を接収し、館主の窪田氏は兵を率いて本陣へと合流した。『政宗記』飯坂右近・大峰式部 - 1588年
7月1日久保田館に川から水を引いて堀を造り、土塁を設け、柵を張り巡らせる等の大改修を加えている。『政宗記』当番制 - 1588年
7月4日久保田館の前を通った連合軍の新国貞通を討つために伊達成実が兵を繰り出し、やがて両軍の砦から援軍が飛び出して大規模な乱戦となった。この戦いで伊達軍では伊東肥前も含めて50名ほどが討死した。『政宗記』伊達成実・片倉景綱 - 1588年
8月16日岩城常隆の仲介で和睦が成立し、両軍引き上げとなる。『政宗記』窪田氏?
▼詳細情報
最終訪城日 | 2019年12月14日 |
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別名 | 比丘蓮館、窪田館 |
前身 | - |
前身の築城年代 | - |
築城・普請開始 | 中世 |
築城完了 | 中世 |
築城者 (設計者) | 窪田氏? |
分類 | 中世平城 |
規模 | 不明 |
標高 | 標高:227m、比高:- |
文化財指定 | - |
現存建造物 | - |
復元建造物 | - |
模擬・復興建造物 | - |
遺構 | 堀跡 |
標柱・説明板 | - |
現状 | 住宅地 |
イベント | - |
注意事項 | - |
場所 | 福島県郡山市富久山町久保田古町 |