
片平城 かたひらじょう
12~13世紀頃に伊東祐長が築いた丘城で、安積伊東氏の最初の居城、後に片平伊東氏の居城となったと伝わる。芦名氏に属していた片平親綱が伊達氏に降り、奥州仕置後にこの地を去ったことで廃城となった。現在は畑と雑木林。▼遺構や見所
■ 主郭跡 ■
丘の上の平場は堀切で南北に分断されており、北側の曲輪が主郭跡とされる。曲輪の周囲には土塁が残っており、特に堀切沿いの土塁の構造からここが重要な曲輪だというのが分かる。今は内部に鳴雷神社の祠が祀られている。
■ 堀切と土橋 ■
城内の遺構の中で最も見事なのが主郭と西曲輪の間の堀切と土橋で、堀切は結構鋭く掘ってあり、土橋を踏み外したら大変なことになる。
■ 西曲輪跡 ■
主郭から堀切を挟んで南側にある曲輪で、主郭よりもやや広いかもしれない。ここも土塁が比較的良く残っており、重要な施設があった場所だろう。今は桜が植えられた広場になっている。
■ 中館跡 ■
主郭から見て東側のやや低い空間は今は畑になっているが、ここも曲輪跡だったと思われる。右奥の屋根が見えている所が愛宕神社(出丸)で、左側の低い場所が中館跡とされる。ここは平時の居館跡の可能性がある。
■ 愛宕神社 ■
西曲輪から東に伸びる丘の小ピークに愛宕神社があり、周りを土塁で囲まれた小さな曲輪状になっている。恐らく出丸だったと思われる。西曲輪との間にある車道も、元は堀切か切通だったと思われる。
▼歴史
- 年月日出来事城主・城代・持分・守備
- 1189年「奥州合戦」での戦功により、工藤祐経が安積郡と田村郡の一部を賜ったとされる。-
- 1213年「泉親衡の乱」の鎮圧の功により、伊東祐長が安積郡を賜った。『伊東氏家譜』-
- 1189
~1244年伊東祐長は安積六郎を称し、安積郡に下向して片平城を築いたとされる。伊東祐長 - 1404年石川氏が仙道の国人領主と結んだ一揆契状の中に片平領主の沙弥慈本が参加している。沙弥は出家者のことで、慈本は出家名。伊東氏と思われるが諱は不明。『仙道諸家一揆傘連判状』沙弥慈本
- 1576年田村氏によって片平城を攻められ、伊東大和守は城を捨てて会津の芦名氏の元へと逃れた。伊東大和守
- 1576年?一説では田村氏の片平伊東氏攻めに参加した大内定綱の弟が片平を賜り、片平親綱を称したとされる。片平親綱
- 1585年伊達政宗の「小手森の撫で斬り」後、大内定綱は居城を捨てて会津の芦名氏の元へと逃れており、片平親綱も以後は芦名氏に属した。片平親綱
- 1588年大内定綱は伊達政宗に帰参を申し出て許され、片平親綱も以後は伊達氏に属した。片平親綱
- 1591年伊達政宗の所領なっていた安積郡一帯が豊臣秀吉の奥州仕置によって没収された為、片平親綱は片平郷から退去することになった。城は以後廃城となったとされる。片平親綱
▼詳細情報
最終訪城日 | 2019年3月21日 |
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別名 | 上館 |
前身 | - |
前身の築城年代 | - |
築城・普請開始 | 1189~1244年頃 |
築城完了 | 1189~1244年頃 |
築城者 (設計者) | 伊東祐長 |
分類 | 中世丘城 |
規模 | 東西250m×南北120m |
標高 | 標高:280m、比高:約20m |
文化財指定 | - |
現存建造物 | - |
復元建造物 | - |
模擬・復興建造物 | - |
遺構 | 土塁、堀切、土橋、郭跡 |
標柱・説明板 | 主郭跡に城址碑あり |
現状 | 鳴雷神社、愛宕神社、雑木林(竹林)、畑 |
イベント | - |
注意事項 | 熊出没注意の看板あり |
場所 | 福島県郡山市片平町字上舘 |