
朝日館 あさひだて
平安時代末期に信夫庄司佐藤氏一族の信夫小太郎が居城としていたと伝わる山城。現在は朝日舘公園と日吉神社。▼遺構や見所
■ 主郭跡? ■
山頂は恐らく主郭跡だと思われるが、現在は水道施設や鉄塔が立ち、おまけにすぐ裏まで「しのぶ台団地」となって削られている。ここにある朝日館の説明板だと、ここを出丸と呼んでおり、主郭は既に失われたか。
■ 山頂からの眺め ■
山頂からは信夫盆地が一望でき、なかなかの景色である。画像左奥は信夫山で、福島市街地方面を見た様子。
■ 堀切跡 ■
山頂から西の尾根に堀切が確認出来る。堀切の先の小さな曲輪には四阿と石碑がある。
■ 虎口跡 ■
東の沢沿いから登ってくる箇所に虎口と思われる構造の箇所がある。画像の登り道は奥で右に折れているが、その先が小さな郭になっている。先人の調査記録にある搦手とはここのことか。
■ 山腹の曲輪跡 ■
公園として整備した時に出来た平場だと思うが、それにしては広すぎる為、元々中腹に大きな曲輪があったものと思われる。明治の神仏分離前にあった明光院関連の跡地だろうか。
■ 日吉神社 ■
元は鳥渡山王と呼ばれていた神社で、信達三山王の一つ。何度か焼失しており、今の社殿は明治時代に再建されたもの。神仏分離以前には明光院が別当だった。
■ 下鳥渡供養石塔 ■
城跡北東にある国指定史跡。画像奥の覆堂の中にある。1258年に平氏の女性が母の供養で建てたという。当時のこの地の領主は藤原氏(二階堂氏)で平氏ではないため、二階堂氏に嫁いだ女性のものだろうか。
▼歴史
- 年月日出来事城主・城代・持分・守備
- 858年按察使の中納言藤原山蔭が鳥渡に山王社を勧請する。『日吉神社由緒』-
- 平安末期信夫庄司佐藤一族の信夫小太郎がこの地に居城を構える。信夫小太郎
- 1189年8月信夫小太郎は石那坂で佐藤基治らと共に源頼朝率いる軍勢と戦い討ち死にした。信夫小太郎
- 1240年10月二階堂行氏は父の基行から信夫鳥和田村を譲り受けており、奥州合戦の後に二階堂氏がこの地を知行していたことが判る。二階堂行氏
- 1258年平氏の女性によって城の北東部に供養石塔が建てられる。二階堂氏
- 1413年二階堂信夫常陸介が伊達持宗と戦い敗れ、以後は伊達氏の所領となった。城はこの時に廃城か。二階堂信夫常陸介
▼詳細情報
最終訪城日 | 2019年3月21日 |
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別名 | - |
前身 | - |
前身の築城年代 | - |
築城・普請開始 | 中世 |
築城完了 | 中世 |
築城者 (設計者) | 信夫小太郎? |
分類 | 中世丘城 |
規模 | 東西300m×南北300m |
標高 | 標高:175m、比高:約65m |
文化財指定 | 城跡にある「下鳥渡供養石塔」が国指定史跡 |
現存建造物 | - |
復元建造物 | - |
模擬・復興建造物 | - |
遺構 | 郭跡、堀切跡、虎口跡 |
標柱・説明板 | 頂上に説明板と城址碑あり |
現状 | 日吉神社、朝日館自然公園、山林、宅地 |
イベント | - |
注意事項 | - |
場所 | 福島県福島市上鳥渡字山王 |