
安子島城 あこがしまじょう
築城については不明だが、安積伊東氏の一門の安子島氏代々の居城と伝わる。「安子島城の戦い」で伊達成実に包囲されて開城している。現在は田畑。なお、安子島小学校のある辺りも城内とされるが不明。▼遺構や見所
■ 主郭と内堀跡 ■
主郭は河岸段丘の端にほぼ方形の縄張りで造られており、現在は残念ながら東側以外の内堀が埋め立てられて圃場整備されてしまっている。画像の右奥が主郭跡で、城址碑が立っている場所は埋められた堀の上にあたり、画像の左奥まで本来は堀があった。なお、城址碑前の車道も堀の跡でもある。この内堀は1975年の航空写真でハッキリ確認できる。
■ 内堀東部 ■
安子島城の唯一の現存遺構が内堀の東部で、この部分だけが奇跡的に埋め立てられずに残っている。本来はこの規模の堀が主郭の西と南にもあった。
■ 外郭跡 ■
『政宗記』に二の曲輪、三の曲輪を攻め落とした記述があるため、主郭以外の外郭があったことは確かだが、現状ではどこがそれに該当する場所なのかハッキリしない。画像は主郭より堀跡を挟んで西側の場所で、周囲よりやや高いためここが外郭であったことは確かだと思われる。実際、明治時代の地籍図からは主郭の西から南にかけて曲輪があった形跡が確認できる。
▼歴史
- 年月日出来事城主・城代・持分・守備
- 13世紀頃安積伊東氏一門の安子島氏の居城となる。安子島氏
- 1574年芦名盛氏が田村清顕を攻めた時に田村氏家臣の伊東右衛門(安子島右衛門大夫)が籠城するが、降伏して芦名氏の家臣となった。『続群書類従』安子島右衛門
- 1589年4月伊達政宗家臣の伊達成実が率いる軍勢に城を包囲される。安子島祐高
- 1589年5月4日安子島祐高は開城して城を伊達軍に明け渡し、会津の芦名氏の元へと逃れた。安子島祐高
- 1590年蒲生氏郷が会津領主となると家臣の蒲生源左衛門(蒲生郷成)が城代として置かれた。『続群書類従』蒲生郷成
- 1598年1月上杉景勝が新たに会津の領主となり、家臣の安田能元が浅香城(安子島城)の城代となった。安田能元
- 1600年7月上杉氏家臣の直江兼続が浅香城(安子島城)に入り、北上する徳川家康の軍勢に対処するための指揮をとった。直江兼続
- 1601年城は廃城となる。-
▼詳細情報
最終訪城日 | 2018年12月15日 |
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別名 | 安子ヶ嶋城、阿久ヶ嶋城、浅香城 |
前身 | - |
前身の築城年代 | - |
築城・普請開始 | 不明 |
築城完了 | 不明 |
築城者 (設計者) | 安子島氏 |
分類 | 中世丘城 |
規模 | 不明 |
標高 | 標高:280m、比高:約15m |
文化財指定 | - |
現存建造物 | - |
復元建造物 | - |
模擬・復興建造物 | - |
遺構 | 空堀 |
標柱・説明板 | 主郭跡に城址碑あり |
現状 | 水田、畑、住宅地 |
イベント | - |
注意事項 | - |
場所 | 福島県郡山市熱海町安子島 |