■岡山県■

松山城 まつやまじょう

築城年代
1240年築城
築城者
秋庭重信
分類
近世山城
遺構・復元物
天守閣、二重櫓、櫓(復元)、城門(復元)、長塀、石垣、堀切
現状
重要文化財、国指定史跡/城址、山林
場所
岡山県高梁市内山下
最終訪城日
2017年10月9日

【歴史概要】
1240年に秋庭重信が大松山に城を築いたのが始まりで、その後は城主が何度か変わり小松山まで城が拡張された。三村元親が居城とした頃に大規模に改修されるが、毛利氏の小早川隆景によって攻め落とされた。1600年の関ヶ原の戦い後は幕府に没収され、小堀氏や池田氏、水野氏が城主や城代となるが、水谷勝宗が城主となった頃に大規模に改築され、現在見られる形の天守閣や櫓が整備された。最後の城主は板倉氏で、戊辰戦争では無血開城している。

【感想】
とにかく城は高い山の上にあり、山頂や尾根に組まれた石垣に圧倒されるが、何よりも当時人力でこの高い山の上に石材を運んだことと、天守閣や櫓などを建てたという労力に頭が下がる。現存十二天守の一つで天守閣単体では小さい方だが、そもそもこんな高い山の上にある時点で高さは要らないだろうし、十二分に絶景であった。訪城時は体調が悪かった為、鞴峠より下や大松山方面には行けておらず、いつか必ず再訪したいところ。

高松城 たかまつじょう

築城年代
築城年代不明
築城者
石川氏?
分類
中世平城
遺構・復元物
水堀
現状
国指定史跡/城址公園、住宅地、水田
場所
岡山県岡山市北区高松558-2
最終訪城日
2017年10月9日

【歴史概要】
築城年代は不明だが、三村氏家臣の石川氏の居城と伝わる。毛利氏によって三村氏が滅ぼされた後は元三村氏家臣で石川氏の親類だった清水宗治が城主となった。1582年には織田信長の家臣である羽柴秀吉に攻められるが、湿地帯を利用した要害に秀吉は攻めあぐね、城の周囲に堤を築いて水没させる水攻めに切り替えた。城は本丸まで水没して落城寸前となるが、「本能寺の変」が起きたことにより秀吉は毛利家との和議を進め、清水宗治の自害と引き換えに撤収した。その後、宇喜多氏家臣の花房氏の居城となり、一国一城令で廃城となった。

【感想】
歴史に名高い「高松城水攻め」の地であるためぜひ訪れたい場所だったが、現地はどこが何の曲輪跡なのか最初判らないほどで、たぶん城跡だと言われなければ気付かないレベルだった。首塚などの石碑のある辺りが本丸で、資料館のある場所が二の丸、駐車場のあたりが三の丸で、遺構と言えそうなものはこれらの曲輪の西側にある水堀跡の蓮池くらいだった。この時は帰りの電車の都合で築堤まで見れなかった為、いずれまた再訪したいところ。

笠岡城 かさおかじょう

築城年代
1555~1558年築城
築城者
村上隆重
分類
中世海城
遺構・復元物
腰郭跡
現状
古城山公園、雑木林
場所
岡山県笠岡市笠岡
最終訪城日
2017年10月8日

【歴史概要】
1555~1558年に能島村上氏の村上隆重によって瀬戸内海に突き出た半島に築かれた海城で、村上氏や村上氏の主となる毛利氏によって利用された。1600年の関ケ原の合戦後は没収されて、徳川家康家臣の小堀正次が城代として置かれた。池田長吉が鳥取から備中松山に移封された際に一時居城とするが、松山城に居城を移してからは廃城となった。

【感想】
城は村上水軍の拠点だったようだが、現在は周囲は埋め立てられており、しかも山頂部分は埋め立て用の土砂のため削り取られたそうで、遺構らしきものは北側の山腹に見られる曲輪跡くらいしか確認出来なかった。古城山公園中央に岩山があるため、恐らく元の山頂はこの岩山と同じかそれ以上の高さがあったと思われる。城跡としては遺構が残念な場所だが、展望台からは干拓地が見渡せるなど眺めは良かった。

笠岡陣屋 かさおかじんや

築城年代
1700年築城
築城者
徳川幕府
分類
陣屋
遺構・復元物
水堀跡、移築城門
現状
笠岡小学校
場所
岡山県笠岡市笠岡1870
最終訪城日
2017年10月8日

【歴史概要】
1698年に笠岡は幕府の天領となるが、笠岡城では代官所として不便なため、1700年に現在の場所に新たに代官所が建てられた。明治の廃藩置県後は小田県の県庁となり、戸川陣屋の城門が移築されたが、1875年に小田県は岡山県に併合され、陣屋の役目は終わった。

【感想】
笠岡駅正面のストリートの突き当りに陣屋跡はあり、敷地がそのまま笠岡小学校となっているが、南側に城門などが残っている為、陣屋の雰囲気は感じ取れる。また、城門前の水堀もちゃんと残っていて、景観的にもいい感じだった。

■広島県■

広島城 ひろしまじょう

築城年代
1589年築城
築城者
毛利輝元
分類
輪郭式近世平城
遺構・復元物
天守閣(外観復元)、櫓・城門(復元)、石垣、水堀
現状
国指定史跡/史跡公園、護国神社、市街地
場所
広島県広島市中区基町
最終訪城日
2019年7月29日

【歴史概要】
毛利氏は九州北部と山陽山陰の一帯に覇を唱えるが、吉田郡山城は山間部で不便になったため、1589年に毛利輝元は太田川河口の中州(広ヶ島)に平城を築いて居城を移した。1600年の「関ケ原の合戦」では毛利氏は西軍の総大将だったため、敗北後に本拠地の安芸国を没収され、替わって広島には福島正則が移されて広島藩が誕生した。だが、正則は無断改築が原因で1619年に改易となり、今度は浅野長晟が転封され、以後は明治まで浅野氏が藩主を務めた。昭和の頃まで天守閣は現存していたがWWⅡの原爆投下でダメージを受けて倒壊した。

【感想】
城は方形を基調とした輪郭式の縄張りの近世城郭だが、都市部の平城の運命には逆らえず、内堀より外側は残念ながら市街地化で失われている。なので今は方形の本丸に馬出のような二の丸が付いている部分しかハッキリ見えない。本丸の天守閣は外観復元された展望台兼資料館で、他の城址でもよく見るタイプだった。ただ、二の丸の城門と櫓はしっかりと木造で復元されており、櫓の角の窓が死角が無くなるように配置された構造なのが面白かった。

三原城 みはらじょう

築城年代
1567年
築城者
小早川隆景
分類
近世平城(海城)
遺構・復元物
城門(移築)、石垣、水堀
現状
国指定史跡/歴史公園、三原駅、市街地
場所
広島県三原市城町
最終訪城日
2019年7月28日

【歴史概要】
1567年頃に小早川隆景は三原湾に浮かぶ小島の周囲を埋め立てて新たに海城を築き、1580年頃に新高山城から居城を移した。隆景は1587年には北九州の名嶋城に居城を移すが、1595年に隠居すると再び三原城へと戻った。1600年の「関ケ原の合戦」後に毛利氏は安芸国を没収され、福島正則が新たな領主となって広島藩が誕生する。この時、三原城には子の福島正之が配置された。1619年に福島正則が改易されると、浅野長晟が広島藩の藩主となり、三原城には一門の浅野忠長が入った。以後は明治まで三原浅野家が代々の城主を務めた。

【感想】
毛利の頭脳にして水軍の指揮官として名高い小早川隆景の海城であるが、残念ながら開発と海の埋め立てによって本来の姿は失われており、かつて城内にあった船溜まりも今では街中にある池状態になっている。遺構は断片的に点在して残っており、本丸天守台の石垣とその周囲の水堀、中門跡の石垣と水堀、そして前述の船溜まりとその隣の舟入櫓の石垣が見ごたえあった。あと、外堀扱いだった和久原川に水刎と呼ばれる石垣で出来た突端が残っており、これは川の流れに渦を造って勢いを弱めるための工夫だという。

吉川元春館 きっかわもとはるやかた

築城年代
1583年
築城者
吉川元春
分類
中世丘城(居館)
遺構・復元物
台所(復元)、庭園、石垣、土塁、空堀
現状
国指定史跡・国指定名勝/史跡公園
場所
広島県山県郡北広島町海応寺255-1
最終訪城日
2019年7月30日

【歴史概要】
吉川元長に家督を譲った吉川元春が1583年頃に志路原川の河岸段丘の上に建てた館で、元春は隠居所としてここへ移り住んだ。1586年に元春が九州で亡くなると元長が館を引き継ぐが、元長も翌年に亡くなり、結局元長の弟の広家へと受け継がれた。1591年になると広家は月山富田城へと移り、館は吉川家の菩提寺の海応寺へと預けられた。1600年の「関ケ原の合戦」後、吉川広家は所領を召し上げられて長門国の岩国へと移された為、館を管理する者が居なくなり破却されたという。

【感想】
館は空堀で切り取られた単郭に腰郭が付随するシンプルな構造だったが、曲輪内部には御殿の位置が平面復元されていたり、台所だけ建物が復元されたりしていて内部構造が分かり易かった。個人的には会所跡の脇にあった庭園の池がなかなか興味深かった。あと、館跡の隣にある資料館の展示が参考になったが、場所が山間部なだけに人がほとんど来ないんじゃないかと心配である。

■山口県■

岩国城 いわくにじょう

築城年代
1601年築城
築城者
吉川広家
分類
近世山城
遺構・復元物
天守閣(模擬)、石垣、空堀、井戸、水堀
現状
史跡公園、山林、吉香神社
場所
山口県岩国市横山
最終訪城日
2019年7月28日

【歴史概要】
1600年の「関ケ原の合戦」後、吉川広家は毛利本家と共に旧領を失い、長門国岩国に3万石で移された。1601年には横山の麓で居館と城下町の建築が始まり、1602年に御土居(根小屋)が完成した。その後、1608年に横山の上に詰めの城が完成したが、一国一城の原則や既に山城が時代に合わなくなっていた事等から1615年に破却された。その後、吉川氏は麓の御土居を岩国藩の陣屋として使用し、明治まで続いた。

【感想】
山の上の城は7年ほどしか存在していなかったものの石垣が比較的残っており、枡形虎口の形状などがハッキリ判るのは良かった。ただ、今の模擬天守閣の位置が本来の天守閣の位置とは全然違う為、本丸のイメージは当時とは異なることも判った。遺構としては本丸北側の空堀が見事で、麓に残る御土居の水堀も良かった。あと、城下町の錦帯橋も独特の風景を生み出していて素晴らしかった。

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