■静岡県■

駿府城 すんぷじょう

築城年代
1336年築城
築城者
今川範政
分類
輪郭式近世平城
遺構・復元物
坤櫓・巽櫓・東御門(復元)、石垣、水堀、土塁
現状
駿府公園・官公庁街
場所
静岡県静岡市葵区
最終訪城日
2018年3月31日

【歴史概要】
1336年に今川範政によって築かれた今川氏代々の居城で、今川氏滅亡後は武田氏、次いで徳川氏の城となり、1589年には徳川家康が居城を浜松城から移している。1590年の徳川氏の関東移封に伴い、駿府には中村一氏が置かれるが、1600年の関ヶ原の合戦後は再び徳川氏直轄の城となり、徳川家康の隠居城として天下普請で整備された。以後は徳川氏一門又は幕府直轄の城となり明治維新まで続いた。

【感想】
城は見事なまでに方形の輪郭式平城だが、さすが大御所の居城だけあって、他の輪郭式城郭とは桁違いの広さに圧倒された。三の丸は一部堀と石垣を除くと大部分が市街地化しているが、何よりも市街地のど真ん中に広大な二の丸跡が公園として整備され、遺構も残っているのが素晴らしい。なお、三の丸跡にある県警本部の最上階から眺める城跡もなかなか良かった。2018年3月の時点では天守台の発掘調査がかなり進んでおり、根本全体がほぼ判るくらいだった。

下田城 しもだじょう

築城年代
1588年築城
築城者
北条氏?
分類
海城
遺構・復元物
空堀、堀切
現状
市指定史跡/下田公園
場所
静岡県下田市3丁目
最終訪城日
2010年2月14日

【歴史概要】
1588年に北条氏によって築かれた水軍の拠点で、1589年には清水康英が城主となった。1590年の小田原の役では、康英は1万の豊臣水軍の攻撃から50日間守り抜いた末に開城降伏した。後に下田奉行所が造られると廃城となった。

【感想】
城跡はほぼ全域が下田公園となっており、随所に堀切や空堀がよく残っていたが、市の史跡に指定されている割には石碑と簡単な説明板が1つ設置されているだけなのが少々寂しかった。最南端の御茶ヶ崎の物見台跡からは海が良く見え、眼下には下田海中水族館があってなかなかの景色だった。

河津氏館 かわづしやかた

築城年代
平安時代末期頃築城
築城者
河津氏
分類
中世平城(居館)
遺構・復元物
現状
河津八幡神社
場所
静岡県賀茂郡河津町谷津
最終訪城日
2010年2月13日

【歴史概要】
始まりは定かではないが河津三郎祐泰の居館跡と伝わる。

【感想】
八幡神社のあたりが館跡とされ、境内には河津三郎や子の曾我兄弟の銅像があるものの、これといった遺構は見当たらなかった。ただ、地名にも「館」と残っているので、ここらへんにあったのは確かなのだろうと思う。

伊東氏館 いとうしやかた

築城年代
平安時代末期頃築城
築城者
伊東氏
分類
中世平城(居館)
遺構・復元物
郭跡?空堀跡?
現状
物見塚公園・伊東市役所
場所
静岡県伊東市大原
最終訪城日
2010年2月13日

【歴史概要】
始まりは定かではないが伊東祐親の居館跡と伝わる。

【感想】
物見塚公園のあたりが館跡とされ、園内には伊東祐親の銅像があるものの、開発で大きく地形が変わっており、どこまでが遺構なのかさっぱり判らなかった。

玖須美館 くすみやかた

築城年代
平安時代末期頃築城
築城者
伊東氏
分類
中世平城(居館)
遺構・復元物
現状
仏光寺
場所
静岡県伊東市和田2丁目
最終訪城日
2010年2月13日

【歴史概要】
始まりは定かではないが伊東朝高の居館跡と伝わる。朝高が住んだ後は伊東氏家臣の綾部正清によって仏光寺が建立されたという。

【感想】
仏光寺のあたりが館跡とされるが、仏現寺の言い伝えでは八郎左衛門尉の屋敷の鬼門の毘沙門堂が仏現寺の前身と伝わっており、それを信じると八郎左衛門尉の屋敷は方角的に物見塚にあったことになる。仏光寺周辺に遺構の類は見当たらないが、地形から見て玖須美館が伊東氏の平時の居館で、物見塚は文字通り見張り台などの軍事施設があった場所ではと思われる。

大宮城 おおみやじょう

築城年代
12世紀頃築城
築城者
富士氏
分類
平山城
遺構・復元物
水堀
現状
大宮小学校・大宮保育園・住宅地
場所
静岡県富士宮市元城町1丁目
最終訪城日
2009年12月26日

【歴史概要】
12世紀頃に浅間神社の大宮司である富士氏によって築かれた富士氏代々の居城。1568年には駿河国に侵攻した武田信玄の攻撃を受けて落城し、以後は武田氏の城代が置かれた。武田氏滅亡後に廃城となったという。

【感想】
浅間神社に接する東側の少し高くなった丘が城跡とされるが、今では小学校や住宅地となって明確な遺構は見られなかった。ただ、丘の西側や小学校と城山公園との間に見られる水路は堀の名残とも思える。一応、蔵屋敷にあったとされる稲荷神社が今でもひっそりと残っていた。

諏訪原城 すわばらじょう

築城年代
1573年築城
築城者
馬場信春
分類
中世平山城
遺構・復元物
復元城門、土塁、空掘、井戸
現状
国指定史跡/公園、雑木林、茶畑
場所
静岡県島田市金谷
最終訪城日
2017年8月26日

【歴史概要】
1573年に武田勝頼の命で馬場信春が台地上に築いた城で、武田氏が高天神城を攻め落とす拠点となった。1575年の「長篠の戦い」で武田氏が敗北すると情勢は一変し、徳川氏の攻撃によって諏訪原城は攻め落とされて高天神城への補給線が絶たれることになった。家康は諏訪原城を改修して武田氏への備えとしたが、武田氏滅亡後は存在意義を無くして1590年に廃城となった。

【感想】
とにかく台地上に掘られた巨大な空堀が見事で、丸馬出がハッキリ判るのが素晴らしい。ただ、二の丸の郭内は背の高い草で覆われており、夏場は通路になっている場所が辛うじて通れるだけだった。北馬出に城門が復元されているが、訪れた当時はまだ門だけが建っている状態で寂しい風景だった。(一応、復元完成図を見ると門に城壁が付随して桝形を構成しているのが判る)

掛川城 かけがわじょう

築城年代
1512年築城
築城者
朝比奈秦能
分類
近世平山城
遺構・復元物
復元天守閣、二の丸御殿、復元城門、移築城門、太鼓櫓、番所、石垣、水堀、空掘、井戸
現状
国指定史跡/城址公園、市街地
場所
静岡県掛川市掛川
最終訪城日
2017年8月26日

【歴史概要】
1512年に朝比奈秦能が築いた新たな掛川城で、朝比奈氏は元の掛川城(掛川古城)から以後はこちらに居城を移した。1568年の武田家の駿河侵攻では今川氏真は居城の駿府館を捨てて掛川城へと逃げ込んだ。1569年に掛川城は遠江国に攻め込んだ徳川軍によって包囲されるが、氏真の身を保証する講和が成立し、今川氏真と朝比奈泰朝は開城して掛川から退去した。城には徳川家臣の石川氏が城代として置かれ、1590年に徳川家が関東移封になってからは山内一豊が城主として入った。城はこの時に近世城郭として大改修された。1600年の「関ヶ原の戦い」では一豊は家康に味方し、その功で土佐国に加増転封され、掛川には替わって松平定勝が入るが、以後は頻繁に交代して太田家が城主の時に明治維新を迎えた。

【感想】
さほど大きな城ではないが、木造の復元天守閣と現存する二の丸御殿、移築された太鼓櫓という貴重な建物が見られるのが素晴らしい。ただ、しいて言うと河川改修で内堀と三の丸の南側が消滅してしまっていることとか、天守曲輪の東斜面が普通のコンクリート護岸のために二の丸御殿から天守閣を見ると凄く見た目がかっこ悪いとかが残念な点である。

浜松城 はままつじょう

築城年代
1570年築城
築城者
徳川家康
分類
近世平山城
遺構・復元物
模擬天守閣、石垣、土塁、水堀、空掘
現状
市指定史跡/浜松城公園、市街地
場所
静岡県浜松市中区元城町
最終訪城日
2013年3月31日

【歴史概要】
1568年に曳馬城を攻略した徳川家康は、1570年に曳馬城の西にある丘に浜松城を新たに築いた。この時、曳馬城も縄張りに取り込まれたという。1573年に武田信玄が上洛を始めると、家康は浜松城に篭城するが、信玄の挑発に乗って野戦に出てしまい、「三方ヶ原の戦い」で大敗して浜松城へと逃げ込む羽目になった。1586年に徳川家康は駿府城に居城を移して菅沼定政を城代に置いたが、1590年に関東移封となり、豊臣家臣の堀尾吉晴が入った。1600年に徳川家康が幕府を開くと譜代家臣が次々大名として入り明治まで続いた。

【感想】
浜松城は徳川家康ゆかりの城で「出世城」としても有名だが、縄張りは自然地形をよく利用し、石垣も野面積のためあまり近世城郭という感じはなく、過渡期の城といった感じがする。現在は模擬天守閣が建ってシンボルにもなっているが、当時の天守閣の記録は残っていないため、実際はどのような城だったかは想像し難い。2013年3月の訪城時は天守門の復元工事中のため、本丸の半分と大手側の一帯が立ち入り禁止となっていた。2015年まで工事は続くようなので城址を訪れる方は注意されたし。

犬居城 いぬいじょう

築城年代
鎌倉時代~南北朝時代頃築城
築城者
犬居氏
分類
中世山城
遺構・復元物
土塁、空堀、堀切
現状
山林(山道あり)
場所
静岡県浜松市天竜区春野町堀之内
最終訪城日
2009年12月27日

【歴史概要】
築城に関しては不明だが、天野氏の居城と伝わる。戦国時代には天野氏は今川氏、徳川氏、武田氏と順に主を変え、1575年に徳川家康の攻撃を受けて城は落城したという。

【感想】
城址が東海自然歩道のルートの中に含まれているおかげで迷うことは無かったが、秋葉山の山奥に「犬居城まで○○km」の標識があった時は少々驚かされた。城跡は山道が通っているとはいえ森で、空堀や虎口が確認できたが、道を外れるとすぐ藪で全体像が良く判らなかった。物見跡には展望台があるが、遠くから見ると廃墟に見えるのは少し損をしていると思う。

井伊谷城 いいのやじょう

築城年代
1032年築城
築城者
井伊共保
分類
中世山城
遺構・復元物
土塁
現状
山林、公園
場所
静岡県浜松市北区引佐町
最終訪城日
2017年4月9日

【歴史概要】
1032年に井伊共保によって井伊谷を望む山の上に築かれた井伊氏代々の居城。南北朝時代には宗良親王が一時ここに身を寄せたが、後に北朝勢によって城は攻め落とされた。井伊氏は1514年に今川氏親に敗れてからは今川氏の家臣となるが、井伊直虎の頃に家臣の謀反で城を追われた。今川氏が武田氏によって攻め滅ぼされると、徳川家康は遠江国の制圧に乗り出し、井伊直虎もこれに加勢して井伊谷を奪還した。これ以降、井伊氏は徳川の家臣となり、徳川家康の関東移封に従って井伊谷を離れて上野国箕輪に居城を移した。井伊氏が離れた後は城は廃城になったと思われる。

【感想】
大河ドラマの井伊直虎に便乗して当地を訪れたが、城の頂上からは井伊谷がよく見渡せるため、ここを居城としたのが良くわかる眺めだった。城としては頂上に土塁で囲まれた二段の郭があるシンプルなもので、あまり凝った遺構は見られず、籠城には向いていないように見える。南北朝時代は三岳城を井伊城と呼んでいたので、平時は井伊谷城に居たが、籠城する時は三岳城に移っていたのだろう。

■愛知県■

名古屋城 なごやじょう

築城年代
1609年築城
築城者
徳川家康
分類
近世梯郭式平城
遺構・復元物
天守閣(外観)、本丸御殿(復元)、櫓(現存)、城門(現存)、西の丸正門(外観)、石垣、土塁、水堀、空堀
現状
国指定重要文化財(櫓等)/名城公園・市街地
場所
愛知県名古屋市中区
最終訪城日
2018年4月1日

【歴史概要】
1609年に徳川家康はかつての織田家の居城だった那古野城跡付近に新たに城を築くことに決め、西国諸大名を動員して天下普請で築城を開始した。1612年には大天守が完成し、1616年には主要部分は完成したようで徳川義直が居城を移して尾張藩の藩庁とった。以後、明治まで徳川御三家の一角である尾張徳川家の居城となった。明治時代には新政府によって名古屋離宮として利用されたが、昭和になってから名古屋市へ下賜されて元離宮と呼ばれた。第二次世界大戦の名古屋大空襲によって城内の建物の大半を焼失したが、1959年に天守閣等が外観復元で再建された。2018年6月には忠実復元された本丸御殿が完成した。

【感想】
天下普請の城だけあってなかなかの規模で、現存する隅櫓も三階櫓でデカいし、堀もデカいのが印象に残る。今の天守閣は外観復元したものだが、外観はやはりすごく絵になる。本丸御殿が復元公開されており、4月に自分が訪れた時はまだ部分公開だったものの、それでも内部はかなり立派なものだった。なお、天守閣は老朽化のため2018年5月に閉鎖しており、解体後は木造で忠実復元される計画になっている。

犬山城 いぬやまじょう

築城年代
1537年築城
築城者
織田信康
分類
近世平山城
遺構・復元物
天守閣、城門(模擬)、櫓(模擬)、石垣、土塁、空堀
現状
国宝/国宝犬山城、神社
場所
愛知県犬山市犬山北古券
最終訪城日
2018年4月1日

【歴史概要】
1537年に織田信康によって築かれた城で、後に織田信長に攻め落とされて家臣の池田恒興が置かれた。1584年の小牧長久手の戦いの発端となった城で、小牧に布陣した徳川家康に対する羽柴秀吉側の本陣となった。江戸時代に入ると成瀬正成が近世城郭へと改築し、以後は成瀬氏が城主として幕末まで続いた。明治時代に一旦は新政府に接収されるものの、後に成瀬家に返還され2004年まで成瀬氏個人が所有する城だった。

【感想】
現存する天守閣は決して大きな方ではないが、1階から登る部分のいざとなっらた天守閣を封鎖できる構造はなかなか見事だった。また、城は川沿いの山の上にあるため、遠景も天守閣からの眺めもなかなか良かった。遺構としては石垣や堀なども残っていて良かったが、天守閣以外の建物は模擬で少々残念なところ。2018年4月に訪れた時には城下町が8年前に来た時よりも城下町っぽい景観に変貌しており、観光客も増えていて驚いた。

小牧城 こまきじょう

築城年代
1567年築城
築城者
織田信長
分類
中世山城
遺構・復元物
石垣、土塁、堀切、空堀、井戸、郭跡
現状
小牧山公園
場所
愛知県小牧市堀の内一丁目
最終訪城日
2011年4月10日

【歴史概要】
1567年に織田信長によって築かれた清洲に替わる居城で、信長が稲葉山に移るまでの間の織田家の本拠地となった。1584年の小牧長久手の戦いでは徳川家康の本陣となり、大規模な改修が行われた。江戸時代には尾張徳川家の管理下に置かれ、城は封鎖されていたという。

【感想】
濃尾平野の中にポツンと聳える小牧山に城が築かれており、山を囲むように麓に造られた惣郭は土塁が残っているためなかなか見事だった。山の上にはいくつかの郭が展開しているが、山頂付近には古い時代の石垣の一部が残っており、これは大石を単純に積み上げたもので他では見られないような石垣だった。

岡崎城 おかざきじょう

築城年代
15世紀頃
築城者
西郷稠頼
分類
近世平山城
遺構・復元物
天守閣(外復)、付櫓(外復)、東曲輪隅櫓(復元)、大手門(模擬)、石垣、水堀、空堀、土塁
現状
城址公園・市街地
場所
愛知県岡崎市康生町561
最終訪城日
2011年4月9日

【歴史概要】
15世紀に西郷稠頼が築いた城を、1531年に松平清康が攻め落として以来この城が松平氏の居城となった。1549年に松平広忠が家臣に殺害されると今川氏の城となるが、1560年の桶狭間の戦いの後に松平元康(後の徳川家康)によって奪還されている。1570年に徳川家康が浜松城に居城を移した後は、松平一門や譜代の重臣が城主となっている。

【感想】
徳川家康の始まりの城ということで、規模や石垣、堀等の遺構等に関しては素晴らしいが、真面目に復元した建物が東曲輪の隅櫓のみというのが少々残念でならない。天守閣や付櫓はコンクリートビルで外観のみ復元したものだが、資料館と展望台と割り切ればなかなか楽しめる。ただ、復元大手門と称しているあの門に関しては、位置や構造、周囲の整備状態的に疑問でならない。

■岐阜県■

岩村城 いわむらじょう

築城年代
鎌倉時代築城
築城者
遠山氏
分類
近世山城
遺構・復元物
太鼓櫓(復元)、御殿門(復元)、平重門(復元)、藩校門(移築)、土岐門(移築)、石垣、井戸、土塁、空堀、堀切、郭群
現状
山林・城址公園・歴史資料館
場所
岐阜県恵那市岩村町
最終訪城日
2010年3月22日

【歴史概要】
城の始まりは諸説あるが遠山氏の居城と伝わる。16世紀には遠山氏正室が亡き夫に代わって城を治めていたため、「女城主」の城と伝わることになった。1572年に武田氏の秋山信友に攻略され、1575年に織田信忠が城を攻め落とした後は、織田家臣川尻秀隆が城主となって石垣造りに改築された。江戸時代には松平家乗が城主となり、1601年に山の麓近くに藩主邸を新たに築いて以後は代々藩主邸が岩村藩の藩庁となった。

【感想】
日本三大山城と聞いていたので覚悟して登ったが、麓から山頂まではそれほど高さは無く、石畳の道が整備されていたため、さほど苦労することもなく登ることができた。山中に城の建物は無いが、石垣を始めとする遺構は多く、見る場所に尽きなかったが、中でも土岐門跡付近から大手門跡付近までの構造はなかなか技巧的で面白かった。景観的には本丸の斜面の石垣が見事で、さすがに名城と言われるだけのことはあるなと思えた。

明知城 あけちじょう

築城年代
1247年築城
築城者
遠山景重
分類
中世平山城
遺構・復元物
土塁、堀切、空堀、水堀、井戸
現状
山林・大正ロマン館・住宅地
場所
岐阜県恵那市明知町
最終訪城日
2010年3月22日

【歴史概要】
1247年に遠山景重によって城が築かれたのが始まりで、以後は明知遠山氏代々の居城となった。1582年の本能寺の変後の動乱で遠山氏は一時明知を離れるが、1600年の関ヶ原の戦いで居城を奪還し返り咲いている。1615年に廃城となるが、陣屋が新た建てられて代官が置かれた。

【感想】
明知陣屋跡には今では大正ロマン館があり、水堀跡が残っていて庭園の池のように利用されていたのが印象的だった。陣屋跡の大部分は住宅地で、明知城はこの住宅地の背後の山にあった。山中には明確な郭の跡と空堀、堀切などがあり、東曲輪には水の手の跡とされる大きな穴が確認できた。

馬籠城 まごめじょう

築城年代
築城年不明
築城者
木曽氏?
分類
中世平山城
遺構・復元物
郭跡?
現状
竹薮・住宅地
場所
岐阜県中津川市馬籠
最終訪城日
2010年3月21日

【歴史概要】
築城に関しては不明だが、木曽氏の支城の一つだという。1584年には菅沼定利、保科正直、諏訪頼忠の軍勢が攻め寄せたため、木曽家臣の島崎重通に城を守らせたが、重通はこの城では篭城は不利と考えて妻籠城へと撤退したという。

【感想】
馬籠宿の西向かいの丘に城跡はあるが、説明板はあるもののこれといった遺構は見られなかった。丘の東端は小さな竹薮になっていて祠があり、すぐ傍を中山道が通っている。周囲は民家で特に目に付くものは無かった。

■三重県■

上野城 うえのじょう

築城年代
1585年築城
築城者
筒井定次
分類
近世平山城
遺構・復元物
天守閣(模擬)、永倉、石垣、土塁、水堀、空堀
現状
上野公園・上野高校・上野西小学校・市街地
場所
三重県伊賀市上野丸之内
最終訪城日
2010年7月19日

【歴史概要】
1585年に筒井定次が平楽寺のあった丘に城を築いたのが始まりで、1608年に藤堂高虎が城主となって高石垣を備えた城に大改築されたという。その後、高虎は伊勢国の津城を居城としたが、上野城も一国一城令で伊賀国の城と認められたため、以後は城代が置かれた。

【感想】
小高い丘の上に築かれた城だが、丘の内側にさらに水堀があって高石垣が聳える光景はなかなか見事なものだった。ただ、西側が立派なのに対して東側は石垣も無く堀は空堀で、いかにも大阪方面に備えて造りましたという感じが出ているのが面白かった。丘の上の天守台には模擬天守閣が建てられているが、他の模擬天守閣と違って内部も木造の天守らしい造りになっており、昭和の築城と呼ばれる所以が良く判るものだった。

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