■山梨県■

甲府城 こうふじょう

築城年代
1583年築城
築城者
平岩親吉
分類
近世平山城
遺構・復元物
城門(復元)×4、稲荷櫓(復元)、塀(復元)、石垣、土塁、水堀、空堀
現状
県指定史跡/舞鶴城公園・市街地
場所
山梨県甲府市丸の内
最終訪城日
2013年3月16日

【歴史概要】
1583年に一蓮寺のあった一条小山に徳川家臣の平岩親吉によって城が築かれたのが始まりで、その後城主が変わるが1593年の浅野長政の頃に完成したという。1724年に甲府は天領となり以後は城代が置かれて明治まで続いた。

【感想】
城の半分は甲府の市街地と化してしまっているが、総石垣造りの城の中枢は建造物以外の遺構を良く残しており、天守台からの眺めもまた素晴らしい。建造物では4つの城門と稲荷櫓が復元され、内部もちゃんと見ることができるのが良い。本丸に鉄門が出来たことで見栄えが良くなったが、隣のオベリスクのおかげで少々珍妙な景観になっているのが印象深い。

躑躅ヶ崎館 つつじがさきやかた

築城年代
1519年築城
築城者
武田信虎
分類
中世平城
遺構・復元物
石垣、土塁、水堀、空堀、井戸
現状
国指定史跡/武田神社・住宅地
場所
山梨県甲府市古府中町
最終訪城日
2010年8月28日

【歴史概要】
1519年に武田信虎によって居館が築かれたのが始まりで、以後は武田氏代々の居城となった。武田氏滅亡後は徳川氏によって改修されたが、徳川氏家臣の平岩親吉が甲府城を築くと廃城となった。

【感想】
城跡は武田神社の境内になり、本来出入り口が無かった場所に参道が造られて改変されているが、遺構は石垣や堀などが比較的良く残っている。ただ、東郭の北門跡や天守台などは立ち入り禁止区域にあるため見ることができないのが残念だった。

若神子城 わかみこじょう

築城年代
平安時代頃築城
築城者
新羅義光
分類
中世平山城
遺構・復元物
狼煙台(復元?)、土塁、空堀、掘切
現状
市指定史跡/須玉町ふるさと公園
場所
山梨県北杜市須玉町若神子
最終訪城日
2010年4月10日

【歴史概要】
平安時代に甲斐守となった新羅三郎義光が館を構えたのが始まりと伝わるが定かではない。中世には武田信玄によって遠征や狼煙の中継場所として度々使用されたという。武田氏滅亡後の1582年に起こった天正壬午の乱では新府城の徳川家康に対抗するため、北条氏直がこの城に本陣を構えたという。

【感想】
城跡は若神子の街を望む台地の東端部にあり、ほぼ全域が公園として整備されているが、台地の上に登る道が少々判り辛かった。園内には空堀の跡があって連郭式の縄張りだったことが判るが、それ以外には特に明確な遺構は無く、復元された江戸時代の狼煙台が端に設置されているくらいだった。

谷戸城 やとじょう

築城年代
平安時代頃築城
築城者
逸見清光
分類
中世平山城
遺構・復元物
土塁、空堀、掘切
現状
国指定史跡/谷戸城址公園
場所
山梨県北杜市大泉町谷戸
最終訪城日
2018年4月09日

【歴史概要】
平安時代に甲斐国市河荘へと流された源清光が、後に逸見荘へと進出し、谷戸の流れ山の上に詰の城を築いたとされる。武田信玄は棒道を整備して1548年に信濃国へと進出し、その時に谷戸城に陣を置いた。武田氏が滅亡すると1582年に北条氏の軍勢によって占領されたという。

【感想】
城跡は八ヶ岳南麓の流れ山の上に築かれており、周辺は緩やかに南に向かって傾斜しているため独特の風景が広がっている。山の頂上に土塁で囲まれた主郭があり、その周囲に二の曲輪、三の曲輪が展開して輪郭式の構造になっている。山城でここまで綺麗に輪郭になっているのは珍しいのでなかなか興味深い。あと、土塁の内側に設けられた堀も特徴的だった。

於曽屋敷 おぞやしき

築城年代
鎌倉時代頃築城
築城者
於曽光経
分類
中世平城(単郭方形居館)
遺構・復元物
石垣、土塁、空堀
現状
県指定史跡/於曽屋敷(民家)・於曽公園
場所
山梨県甲州市塩山下於曽
最終訪城日
2010年8月28日

【歴史概要】
鎌倉時代の初めに加賀美遠光の四男の於曽光経が館を構えたのが始まりと伝わる。以後は於曽氏代々の居館となり、現在も於曽氏の子孫の方の居所となっている。

【感想】
於曽屋敷は単郭方形の典型的な武士の居館跡で、土塁が良く残っているため縄張りが判りやすかった。この場所には現在も子孫の方が住んでおり、館跡の東半分ほどが一般開放されて於曽公園として整備されているが、内部は公園というよりも植物園のような感じだった。

岩殿山城 いわどのやまじょう

築城年代
16世紀頃築城
築城者
小山田信有
分類
中世山城
遺構・復元物
模擬櫓、土塁、空堀、井戸
現状
市指定史跡/岩殿山、丸山公園
場所
山梨県大月市賑岡町岩殿
最終訪城日
2013年3月16日

【歴史概要】
岩殿山は9世紀に天台宗の円通寺が建造されて修験道の聖地として栄えたが、16世紀になって小山田信有がその要害に目をつけて居城として利用したのが始まり。小山田氏は武田家臣だったが、武田氏が織田・徳川連合に敗れて衰退すると、武田氏を見限って織田氏に帰順した。しかし、武田勝頼を裏切って天目山に追い詰めて自害させたことから、織田信長に不忠者として処罰され小山田氏も滅亡することになった。城は後に甲斐を手にした徳川氏によって利用されるが、まもなく廃城となった。

【感想】
山頂に登ったのは2004年で、2013年は持病で丸山公園までしか行けなかったが、いつ見てもその巨岩の山容は圧倒される迫力がある。過去に山頂まで登った時は富士山も目前に見えるそこからの絶景に感動し、四方の断崖に足が震えた思い出がある。また、思っていたよりも山頂の平場は広く、水の手もちゃんとあったのが印象に残っている。

■長野県■

松本城 まつもとじょう

築城年代
1504年築城
築城者
島立貞永
分類
中世平城→近世平城
遺構・復元物
天守閣、小天守、櫓、御金蔵、城門(復元)、石垣、土塁、水堀
現状
国宝(天守閣群)・国指定史跡/松本城公園・市街地
場所
長野県松本市丸の内
最終訪城日
2013年4月7日

【歴史概要】
1504年に小笠原一門の島立貞永によって深志城が築かれたのが始まりで、1550年に武田晴信によって攻め落とされると、以後は武田氏の城代が置かれた。武田氏滅亡後の1582年には小笠原貞慶が旧領を回復して深志城を居城とし、この時に松本と名を改めたという。1590年には石川数正が城主となり、この時の改築時に天守閣が建てられ、以後は明治まで松本藩の藩庁となった。

【感想】
城は松本盆地の平地に築かれた平城で、二の丸より内側が城址公園として整備されており、内堀に浮かぶように聳える現存複合連結式天守閣が美しい。天守群以外では御金蔵が現存し、黒門、太鼓門が復元されている。都市部に残る城としてはなかなか見所が多くて良かったが、天守閣では観光客の大渋滞で大変な目にあったため、観光シーズンの昼間は避けた方がいいかもしれない。三の丸跡は市街地化してしまっているが、北と東西の一部に土塁が残り、東には総堀の一部も残っているため見所は多い。

井川城 いがわじょう

築城年代
1334年築城
築城者
小笠原貞宗
分類
中世平城
遺構・復元物
土塁、水堀
現状
市指定史跡/畑・市街地
場所
長野県松本市井川城
最終訪城日
2013年4月7日

【歴史概要】
1334~1337年頃に信濃守護となった小笠原貞宗によって信濃府中の井川の地に平城が築かれたのが始まりで、伊那の松尾館より居城を移し、以後は府中小笠原氏代々の居城となった。府中小笠原氏は南北朝の頃に信濃守護職を失い、その後は小笠原氏同士の内訌に翻弄されることになる。「応仁の乱」が始まる1467年頃には鈴岡の小笠原政秀が府中の小笠原清宗の篭る井川城を強襲した。府中小笠原氏はこれに危機感を持ったのか、子の長朝の頃に林城に居城を移し、以後は井川城は支城となった。

【感想】
「井川城」は地名にも残っているが、平城で早い段階に廃城となった為かハッキリとした遺構は確認できなかった。一応、櫓台と伝わる場所に城址説明板などがあるが、どう見ても塚にしか見えない。ただ、城址と伝わる一帯だけが畑となり、その周囲360度が住宅地という異様な空間となっている。畑と宅地の間に小川があるが、これが水濠の名残かもしれない。

福島城 ふくしまじょう

築城年代
天文年間(1532~1554年)築城
築城者
木曽義康
分類
中世山城
遺構・復元物
土塁、堀切、竪堀、郭群
現状
山林(山道あり)
場所
長野県木曽郡木曽町福島
最終訪城日
2010年3月20日

【歴史概要】
天文年間に木曽義康によって福島の町の背後に聳える山に城が築かれたのが始まりで、以後は木曽氏の詰めの城として利用されたが、1590年に木曽氏が下総国に転封となると廃城となった。

【感想】
城は町の背後の山の上にあり、林道や山道があるため登るのには苦労しなかったが、山頂は木々が覆い茂って展望は全く利かなかった。城跡は山の尾根を堀切で切ったオーソドックスなもので、本丸もあまり広さは無く、水の手も見当たらないため、短期間しか篭城できなさそうな感じだった。

上之段城 うえのだんじょう

築城年代
1509年築城
築城者
木曽義在
分類
中世平山城(丘城)
遺構・復元物
現状
大通寺・線路・住宅地
場所
長野県木曽郡木曽町福島
最終訪城日
2010年3月20日

【歴史概要】
1509年に木曽義在によって福島の町に接する丘の上に城が築かれたのが始まりで、以後は木曽氏代々の居城となった。1584年には小笠原貞慶に城を攻められて落城焼失した。

【感想】
城跡は福島の街中の上之段地区にあるが、江戸時代に福島宿が整備された関係で、城跡というよりは宿場町跡の名所となっていた。肝心の城跡は大通寺の周辺から寺の後方の線路を越えた先の住宅地一帯までらしいが、これといった遺構は見当たらなかった。

福島関 ふくしまのせき

築城年代
1600~1602年頃築城
築城者
山村氏
分類
近世関塞
遺構・復元物
関所門(復元)、番所(復元)、石垣
現状
国指定史跡/福島関所資料館
場所
長野県木曽郡木曽町福島
最終訪城日
2010年3月20日

【歴史概要】
関所の創始は定かではないが、幕府の街道整備にあたり、木曽谷の代官の山村氏によって1602年までに近世の関所として整備されたとされる。以後は明治の廃関まで山村氏が関守を勤めた。江戸時代の四大関所の一つ。

【感想】
関所は今の福島の町から見ると高台となった場所にあり、当時は山と川に挟まれた中山道の要所だったという。柵に囲まれた中にある関所跡は建物跡が平面復元されているが、関所跡の外側には復元された番所が建てられて資料館となっており、なかなか立派なものだった。

妻籠城 つまごじょう

築城年代
室町時代頃築城
築城者
木曽氏
分類
中世山城
遺構・復元物
土塁、堀切、竪堀、郭群
現状
町指定史跡/山林(山道あり)
場所
長野県木曽郡南木曽町吾妻
最終訪城日
2010年3月21日

【歴史概要】
築城に関しては定かではないが、木曽氏の城と伝わる。1584年には木曽氏家臣の山村良勝が城主を務め、菅沼定利、保科正直、諏訪頼忠の率いる軍勢から城を守りきっている。

【感想】
妻籠宿の北の外れの山の上に城はあり、城山と背後の山の間の堀切状の部分を旧中山道が通っていた。山の斜面はなかなか急で、比較的ゆるやかな北側に堀切を配した小さいながらも堅固な山城だが、中でも沢を堀切状にして土橋を架けてある部分は圧巻だった。

大草城 おおくさじょう

築城年代
南北朝時代頃築城
築城者
香坂氏
分類
中世山城
遺構・復元物
堀切、郭跡
現状
村指定史跡/大草城址公園
場所
長野県上伊那郡中川村大草
最終訪城日
2018年4月8日

【歴史概要】
築城に関しては定かではないが、南北朝時代に南朝方の香坂高宗が大河原に下向した宗良親王を守護して、天竜川を挟んで向かいの北朝方と対峙した時に使用した城と伝わる。

【感想】
大嶺山から西に延びる尾根の先端に築かれた城で、小さなピークになっている主郭と西と北の一段低い場所にある曲輪で構成されており、山に続く東側以外は急斜面なためシンプルながらもなかなかの要害だった。主郭の東側の一段低い場所は不自然に窪んでいる為、恐らく堀切の跡と思われる。現在は全域が城址公園で桜の名所となっており、ソメイヨシノや枝垂桜がなかなか綺麗だった。

前沢城 まえさわじょう

築城年代
中世頃築城
築城者
前沢氏
分類
中世丘城
遺構・復元物
土塁、堀切
現状
山林
場所
長野県上伊那郡中川村片桐
最終訪城日
2018年4月8日

【歴史概要】
築城に関しては定かではないが、前沢氏の城と伝わる。

【感想】
とりあえず城跡だというのが一目でわかる堀切が見事だったが、主郭とされる場所は藪だったので詳しく見れていない。社が祀られているため、恐らく東側の麓から登る道があると思われるが確認していない。

龍岡城 たつおかじょう

築城年代
1864年築城
築城者
松平乗謨
分類
近世平城(稜堡式)
遺構・復元物
台所櫓、石垣、土塁、水堀
現状
小学校
場所
長野県佐久市田口
最終訪城日
2018年4月9日

【歴史概要】
松平乗謨は三河国奥殿藩の藩主を務めていたが、所領の大部分が信濃国佐久郡にあった為、1863年に幕府の許可を得て本拠地を信濃国佐久の田野口村に移した。そして1864年より龍岡城の築城に着手し、1867年に大部分が完成した。松平乗謨は西洋の軍学に通じていたため、城は星型の稜堡式で築かれ、その形から五稜郭とも桔梗城とも呼ばれた。

【感想】
国内にある稜堡式城郭のうち、五稜郭と呼ばれる2つの城のうちの一つで、函館の五稜郭の半分のサイズだが遺構は良く残っており、その独特の縄張りが良くわかる。また、台所櫓という大きな建物が現存しているのも素晴らしい。ただ、函館と違ってタワーのようなものは無い為、星型の形を拝むにはドローン等で空撮するしか手段が無いというのが残念なところ。

飯山城 いいやまじょう

築城年代
中世頃築城
築城者
不明
分類
近世平山城
遺構・復元物
石垣、土塁、堀跡、移築門
現状
県指定史跡/葵神社、飯山城址公園
場所
長野県飯山市飯山
最終訪城日
2018年1月7日

【歴史概要】
築城に関しては定かではないが、14世紀頃には泉氏の居城で、後に高梨氏の城となった。1564年には上杉謙信が武田氏への備えとして改修し、一門の上杉景勝や重臣の岩井信能等が城代として入った。1578年の「御館の乱」では景虎派の城だった為に景勝派に攻め落とされ、上杉武田同盟の際に武田氏へ譲渡された。武田氏滅亡後からは城主が目まぐるしく変わり、江戸時代には飯山藩の藩庁となって明治まで続いた。1868年の戊辰戦争では衝鋒隊が城下まで侵攻してその対応で混乱があったが、結果的には町を焼失したもののなんとか撃退している。

【感想】
飯山は信濃と越後の間の要衝にあり、城は千曲川沿いの小高い独立丘陵に築かれている。麓の郭や水堀は開発で無くなっているが、丘の上は郭の形を良く残しており、本丸には石垣が残っている。特に本丸の桝形虎口の部分が見所だが、城跡は全体的に中世の造りで、本丸だけ近世風に補強した感じに見える。建物としては移築城門だけ残っているが、現在西郭に再移築されている城門は移築時に形が変わってしまったらしく、再移築時に推定の形に修復されているため本来の姿が不明となっている。

■新潟県■

高田城 たかだじょう

築城年代
1614年築城
築城者
松平忠輝
分類
近世平城
遺構・復元物
三重櫓(復興)、塀(復元)、橋(復元)、石垣、土塁、水堀
現状
県指定史跡/高田公園・公共施設
場所
新潟県上越市本城町
最終訪城日
2012年4月21日

【歴史概要】
1610年に越後60万石の藩主となった松平忠輝は福島城へと入ったが、水害に悩まされたため、内陸の高田に新たに城を築いて居城を移した。しかし、2年後に忠輝は改易となり、替わって酒井氏が入ったがその後も譜代、親藩で激しく入れ替わった。最後に榊原氏が入って明治まで高田藩の藩庁として続いた。

【感想】
南西に三の丸と瓢箪郭が突き出す変則的な輪郭式の縄張りが面白い高田城だが、外堀の西側と本丸内堀以外は埋まってしまっており、土塁もまともに確認できるのが本丸だけで、その本丸も半分以上が学校で立ち入り禁止というのが少し残念だった。ただ、丁寧に復元された極楽橋と外観復元に近い復興の三重櫓はなかなか絵になって良かった。

福島城 ふくしまじょう

築城年代
1607年築城
築城者
堀秀治・堀忠俊
分類
近世平城
遺構・復元物
石垣の残骸
現状
古城小学校・市街地
場所
新潟県上越市港町
最終訪城日
2012年4月21日

【歴史概要】
1598年に越後国に転封された堀秀治は春日山城へと入るが、山城で不便だったため、新たに海側の平地に福島城を築くことを計画し、堀忠俊の代の1607年に完成したため居城を移した。しかし、1610年に堀氏が改易となって、松平忠輝が新たにやってくるが、高田城を築いてそちらに居城を写したため廃城となった。

【感想】
城跡は完全に市街地に埋もれており確信が持てる遺構は見られなかった。絵図と見比べると関川の位置は大体同じと考えても他の川が完全に昔と変わっており判断に困るが、大体の位置関係だけは把握できる。一応、古城小のあたりが本丸跡で、説明板や標柱などもそこにあった。

長岡城 ながおかじょう

築城年代
1616年築城
築城者
堀直寄
分類
近世平城
遺構・復元物
なし
現状
長岡駅、市街地
場所
新潟県長岡市
最終訪城日
2017年11月3日

【歴史概要】
1602年に堀直寄が後見していた鶴千代の遺領の蔵王堂城を引き継いだ際、城は信濃川に近く水害の心配があったため、内陸の長岡に新たに城を計画した。だが、その後この地は松平忠輝に与えられた為、計画は中止になった。松平忠輝の改易後、1616年に再びこの地に戻った堀直寄は長岡城の築城を再開し、以後は長岡藩の藩庁となった。しかし、直寄は1618年には越後村上に移封され、代わって長岡には牧野忠成が移されて幕末まで続いた。幕末の戊辰戦争では長岡藩は奥羽越列藩同盟に加わった為、新政府軍の攻撃を受けて激戦となった(北越戦争)。城は陥落、奪還の末に二度落城して焼失し、戊辰戦争後は廃城となった。

【感想】
城は越後平野の南部に築かれた近世の平城で、ほぼ方形の本丸と二の丸が隣り合い、それを取り囲むように二重に郭が取り囲む、並郭式と輪郭式を合体させたような縄張りのそこそこ大きな城だったのだが、現在は市街地化して目に見える遺構は全く何も残っていない。今は駅西口前とアオーレ庁舎付近に城址碑があるだけである。

津川城 つがわじょう

築城年代
1252年築城
築城者
金上盛弘
分類
中世平山城
遺構・復元物
石垣、土塁、堀切、竪堀、井戸、郭跡
現状
県指定史跡/麒麟山公園・山林
場所
新潟県東蒲原郡阿賀町津川
最終訪城日
2017年11月5日

【歴史概要】
1252年に蘆名氏と同じ佐原氏一門の金上盛弘が会津と越後の境の津川に移り住んで麒麟山に城を築いた。その後、金上氏は蘆名氏重臣として続き、1589年に蘆名氏が伊達氏に敗れるまでここを居城とした。蘆名氏滅亡後は会津の領主の変遷とともに津川の城主も頻繁に変わり、1627年の加藤嘉明が会津藩主の頃に津川城は廃城となった。

【感想】
城は阿賀野川と常浪川が合流する地点に聳える麒麟山に築かれており、初見の遠景ではその岩山がかなりインパクトがある。ただ、実際の城は山の北側の中腹と山麓に築かれており、岩山の山頂は辛うじて見張り台に使える程度のスペースしかない。城の本丸からは越後側の様子が良く見え、眼下の水運も監視できるため会津側から見ると絶好の位置というのが良くわかる。中腹の郭の一部は石垣で補強されており、斜面も急崖で難攻不落と言った感じだが、岩山のせいか水の手(井戸等)が麓にしか無いのが難点に見える。

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