■京都府■

二条城 にじょうじょう

築城年代
1603年築城
築城者
徳川家康
分類
輪郭式近世平城
遺構・復元物
本丸御殿、二の丸御殿、城門、隅櫓、蔵、水堀
現状
世界文化遺産、国宝、重要文化財、国指定史跡、特別名勝/元離宮二条城
場所
京都府京都市中京区二条通堀川西入二条城町
最終訪城日
2010年1月10日

【歴史概要】
1603年に徳川家康によって上洛時の居城が築かれたのが始まりで、以後明治まで徳川将軍家の城となった。

【感想】
城跡は本丸、二の丸が綺麗に京都市内に残っており、特に二の丸御殿の周辺は庭園や唐門などもあって見事なものだった。城内は思いのほか広く、出入り口は東大手門しか今は使用されていないため、ぐるりと1週するだけでもなかなか大変だったが、遺構や建物が比較的多くてなかなか楽しかった。

御土居 おどい

築城年代
1591年築城
築城者
豊臣秀吉
分類
城塞都市
遺構・復元物
土塁、堀
現状
国指定史跡/市街地
場所
京都府京都市北区、中京区、上京区に点在
最終訪城日
2019年1月13日

【歴史概要】
1591年の1月に豊臣秀吉の命で京の中枢を取り囲むように土塁と堀を築く工事が始まり、3月には総延長22.5kmに及ぶ御土居が完成した。御土居が出来たことで京の街は城塞都市となり、御土居の内側は洛中、外側は洛外と呼ばれた。江戸時代になると御土居は無用の産物となり、都市の拡張に従って大部分が解体された。

【感想】
現地を訪れて現存する御土居の大きさに驚かされたが、かつてはこの規模の土塁が京の都を囲んでいたというスケールにも驚嘆せざるえなかった。御土居は北部を中心に断片的に残っており、史跡指定9ヶ所中の7ヶ所と史跡に指定されていない大宮公園の御土居をこの目で確認したが、散策するだけでも半日を要した。なお、鷹ヶ峯のフェンス内の御土居が見学可能なことを後から知った為、いずれは再訪したいところ。

伏見城 ふしみじょう

築城年代
1592年築城
築城者
豊臣秀吉
分類
梯郭式近世平山城
遺構・復元物
天守閣(模擬)、城門(模擬)、石垣(残骸)、土塁、空堀、水堀
現状
伏見桃山御陵・伏見桃山城運動公園
場所
京都府京都市伏見区桃山町
最終訪城日
2010年1月9日

【歴史概要】
1592年に豊臣秀吉によって指月山に隠居城が築かれたのが始まりで、地震で倒壊したため1596年に木幡山に建て直されたという。豊臣秀吉の没後は徳川家康が城に入り、1600年の関ヶ原の合戦時には徳川家臣の鳥居元忠が守備していたが西軍に攻められて落城した。関ヶ原の合戦で焼失した城は1602年に再建されるが、1619年には廃城となった。

【感想】
城跡の中枢が今では宮内庁管理の明治天皇の御陵のため、参道以外は立ち入り禁止なのが残念だった。おかげで中心部は良く判らなかったが、運動公園になっている御花畑跡周辺には巨大な空堀が良く残っており、これだけでも城がいかに大きかったか良く判って素晴らしかった。なお、運動公園には伏見城をモデルとした模擬天守閣と模擬城門が建っているが、内部は立ち入り禁止となっている。

淀城 よどじょう

築城年代
1623年築城
築城者
松平定綱
分類
梯郭式近世平城
遺構・復元物
石垣、水堀
現状
淀城跡公園・稲葉神社・與杼神社・住宅地
場所
京都府京都市伏見区淀本町
最終訪城日
2010年1月9日

【歴史概要】
1623年に松平定綱によって巨椋池近くの川の交わる場所に城が築かれたのが始まりで、以後は淀藩の藩庁となり明治まで続いた。

【感想】
現在では市街地化でほとんど失われており、本丸跡の一部に天守台と石垣、水堀が残っているのが確認できるのみだったが、天守台は石垣が二段になっていてなかなか興味深いものだった。ただ、淀駅の駐輪場から溢れた自転車が公園内にまで達しており、景観的に非常に見苦しい光景だった。(2012年には淀駅が京都競馬場寄りに移転するそうなので、景観は今よりも改善されそうな気がする)

填島城 まきしまじょう

築城年代
室町時代頃築城
築城者
真木島氏
分類
中世平城(水城)
遺構・復元物
城址碑のみ
現状
住宅地
場所
京都府宇治市填島町
最終訪城日
2010年7月17日

【歴史概要】
室町時代頃に巨椋池に浮かぶ填島に城が築かれたのが始まりで、以後は真木島氏代々の居城となった。 1573年に足利義昭が篭城して織田信長に抵抗した最後の場所。

【感想】
現在は巨椋池が消滅したため填島もただの平地になっており、今は住宅地と化して遺構は見られなかった。本丸跡とされる住宅地の中心に小さな公園があり、ここに城址碑が立っているのみである。なお、填島公園にも「填島城址記念碑」があるがそこは城の外で、元は池(湿地帯)だった場所だという。

福知山城 ふくちやまじょう

築城年代
室町時代頃築城
築城者
塩見頼勝
分類
近世平山城
遺構・復元物
外観復元天守閣、復元城門、移築番所、井戸、石垣、水堀跡、空堀跡
現状
福知山城公園、市街地
場所
京都府福知山市内記
最終訪城日
2019年10月21日

【歴史概要】
室町時代に塩見頼勝が築いて横山城と呼ばれたのが始まりで、1578年の明智光秀の丹波平定の際に攻め落とされた。その後、城は改修されて横山から福知山に名称も改められたという。城主は明智光満が務め、1582年の「山崎の合戦」後に羽柴軍が城に攻め寄せた際には光満の父が留守居を務めていた。明智氏滅亡後は羽柴秀勝が城代を勤め、次いで杉原家次に与えられたが、家次はまもなく病死したため小野木重勝に与えられた。1600年の「関ケ原の合戦」で重勝は西軍に付いた為に切腹となり、福知山は東軍で功をたてた有馬豊氏に与えられた。豊氏は6万石の福知山藩主となり城を改築拡張して大規模な近世城郭が完成した。有馬氏は1620年に転封となり、以後は目まぐるしく城主が交代するが、1669年に常陸国土浦から朽木植昌が転封されると以後は朽木氏が藩主を務めて明治まで続いた。

【感想】
城は本来は舌状台地に築かれた連郭式の城郭だったが、昭和の頃に二の丸のあった丘が丸ごと消滅したため本丸のある丘が独立丘になってしまっている。このため、現在は本丸に天守閣が外観復元されているものの、かなり頭でっかちで歪な城になってしまっている。昔、初めて訪れた頃はこの違和感が酷かったのだが、経緯を知ってから再訪した今回はよく観察してみると本丸の側面に二の丸の残骸が残っており、本来あった二の丸の丘がなんとなく想像できたので良かった。天守からは盆地が一望できて良い眺めだったが、同時にここに城が築かれたことがよく判る光景だった。

■奈良県■

平城宮 へいじょうきゅう

築城年代
710年築城
築城者
元明天皇
分類
宮城
遺構・復元物
大極殿(復元)、朱雀門(復元)、省庁舎(復元)、築地塀(復元)、庭園ほか
現状
特別史跡平城宮跡(史跡公園)
場所
奈良県奈良市佐紀町
最終訪城日
2019年1月12日

【歴史概要】
710年に藤原京より平城京へと遷都が行われた際に造られた大内裏。平城京のやや北側に位置している。784年の長岡京遷都、または794年の平安京遷都の際に解体された。

【感想】
平城宮としての遺構はあまり確認できないが、朱雀門、大極殿、省庁等が復元され、全体像も地図で大体把握できるため、かつての都の行政府がどのような規模だったのか判ってなかなか楽しかった。2019年1月12日の時点では、朱雀門の外に商業施設や観光施設等が新たに整備されており、散策がし易くなった。また、太極殿院の南門の復元工事が行われており、2022年に完成するようだ。

多聞城 たもんじょう

築城年代
1560年
築城者
松永久秀
分類
近世平山城
遺構・復元物
土塁、空堀
現状
若草中学校、住宅地
場所
奈良県奈良市法蓮町
最終訪城日
2019年1月14日

【歴史概要】
1560年に松永久秀によって眉間寺跡の丘の上に築かれた平山城で、天守に相当する櫓や石垣等の当時の革新的技術を結集して築かれた城だった。後の近世城郭によくみられる「多聞櫓」はこの城が発祥だという。1573年に織田信長は松永久秀より城を譲り受けるが、この結果信長の後の築城思想に影響を与えたという。織田信長は家臣の塙直政を置いて本願寺への備えとするが、1576年の天王寺合戦で直政は討ち死にし、城は廃城となった。廃城後の建材や石垣は筒井城や二条城に運ばれたという。

【感想】
城は当時としては最先端の技術で作られているが、現状はそれが判るものは全く残っていないただの丘である。城跡は現在は学校の敷地になっており、校門付近の説明版や城址碑くらいしか散策できる場所が無い。遺構としては丘の東に残る堀切が一番の見所だった。あと、城の縄張りに天皇陵とされる古墳を取り込んでおり、この辺りはなんとも松永久秀らしいと感じた。

郡山城 こおりやまじょう

築城年代
1579年
築城者
筒井順慶
分類
近世平山城
遺構・復元物
天守台、櫓(復元)、城門(復元)、石垣、空堀、水堀
現状
県指定史跡/城跡公園、学校、市街地
場所
奈良県大和郡山市城内町
最終訪城日
2019年1月14日

【歴史概要】
1579年に筒井順慶が郡山衆の中世郡山城跡に築いた近世城郭で、1584年に筒井順慶が亡くなると筒井氏は伊賀に移されて、豊臣秀長が大和国の太守として城に入った。秀長は城を拡張し、5層の天守閣もこの時に築かれたとされる。1595年に大和大納言家が断絶すると、五奉行の増田長盛の居城となるが、1600年の関ケ原の合戦で西軍に属して敗れたため、城地は没収されて大久保長安に預けられた。建物の一部はこの時に伏見城に移されたという。1608年に筒井定慶が移されて筒井氏が返り咲くが、1615年の「大坂夏の陣」で豊臣方の攻撃を受けて戦わずに逃亡し、戦後これを恥じて自害した。その後、城には水野氏や松平氏、本多氏などの徳川譜代家臣が移され郡山藩の藩庁として続くが、1724年に柳沢吉里が移封されてからは幕末まで続いた。

【感想】
城は現存する建物はほとんど無いものの、都市部の城にしては石垣と堀がよく残っており、特に三の丸よりも内側の曲輪群がハッキリとしていて素晴らしい。毘沙門曲輪と常盤曲輪では城門や櫓が復元されており、この付近の景観は近世城郭らしくて見応えがある。本丸の天守台は台座だけだが上からの眺めはそこそこ良く、遠く平城宮の門まで望むことが出来た。自分が訪れた時は本丸と毘沙門曲輪間にあった極楽橋の再建工事をしており、橋が完成する頃にはまた訪れたいところである。

松山城 まつやまじょう

築城年代
南北朝時代頃築城
築城者
秋山氏
分類
中世山城→近世山城
遺構・復元物
天守台、石垣、土塁、空堀
現状
国指定史跡/山林
場所
奈良県宇陀市
最終訪城日
2019年1月12日

【歴史概要】
南北朝時代頃に秋山氏によって築かれた秋山城が始まりで、1585年に豊臣秀長が大和国の太守となると家臣の伊東氏等が城代を務めている。城はこの間に近世城郭として改築されたとみられる。1600年の関ケ原の合戦後に西軍から没収されて東軍の福島高晴に与えられ、高晴はさらに改築を加えて名称も松山城に改めた。しかし、1615年の大坂夏の陣で高晴は西軍に内通していたため改易となり、城は小堀遠州によって破却された。

【感想】
山の上に残る石垣や御殿の礎石などがかつて近世城郭があったことを物語っており、横堀なども素晴らしかったが、あちこちに見られる豪雨被害の土砂崩れや倒木が痛々しかった。この先も豪雨被害が続くようなら本丸の石垣も崩れて失われそうで心配である。城跡も素晴らしいが、城下町も昔の面影を残していて非常に絵になる。そして貴重なことに城下町の関門が現存しており、これを見られたことは大きな収穫だった。

柳本城 やなぎもとじょう

築城年代
室町時代頃築城
築城者
揚本氏
分類
中世平山城→近世陣屋
遺構・復元物
水堀
現状
黒塚古墳公園・柳本小学校・住宅地
場所
奈良県天理市柳本町
最終訪城日
2010年7月19日

【歴史概要】
室町時代頃に揚本氏によって黒塚古墳に砦が築かれたのが始まりで、1577年の織田信長と松永久秀の戦いでは松永金吾が城を守っていたが、敗れて金吾は自決したという。城は1580年に一度廃城となるが、1616年に織田尚長が城跡に陣屋を構えて明治まで続いた。

【感想】
近畿地方でよく見られる古墳の上に築かれた城であるが、城の遺構はあまり残っておらず、現状は街の中に残る前方後円墳そのものであった。ただ、方円の接合部に堀切(今は埋まっている)が掘られていたり、2つに仕切られた水濠が南北で数m水位が違う等加工された跡が見られたのはなかなか興味深かった。

■兵庫県■

篠山城 ささやまじょう

築城年代
1609年築城
築城者
徳川家康
分類
近世平城
遺構・復元物
復元御殿、石垣、土塁、水堀、武家屋敷
現状
城址公園、学校、市街地
場所
兵庫県丹波篠山市北新町
最終訪城日
2019年10月20日

【歴史概要】
1609年に徳川家康の命で西国15か国の大名による天下普請で築かれた平城。縄張りは藤堂高虎が担当し、普請の総奉行は池田輝政が務めた。完成した城には(松井)松平康重が置かれ篠山藩5万石の藩庁となった。1619年に康重は和泉国岸和田へと転封になり、代わって上野国高崎から(藤井)松平信吉が移された。信吉の子の忠国が1649年に播磨国明石へと転封となると、今度は(形原)松平康信が摂津国高槻から移された。その後、松平信岑の代の1748年に百姓一揆を誘発させる失政で丹波国亀山へと移封になり、交代する形で青山忠朝が亀山からやってきた。以後は青山氏が代々藩主を勤めて明治まで続いた。

【感想】
周囲を山々に囲まれた盆地の中央に輪郭式の平城があり、内堀と外堀、そして石垣がほぼ現存しているのが素晴らしい。馬出も北を除いた2か所で残っているため、土木的な部分はほぼ残っていると言ってもいい。建物では復元された二の丸御殿(大書院)もなかなか良かったが、現存する武家屋敷も風情があって良かった。欲を言えば通行止めの二の丸埋門~三の丸間の通路が通れるようになると散策がし易くなっていいのだが、安全性の点で難しいのだろうか。

竹田城 たけだじょう

築城年代
1443年築城
築城者
山名持豊、太田垣光景
分類
中世山城
遺構・復元物
石垣、井戸、空堀、堀切
現状
城址公園、山林
場所
兵庫県朝来市和田山町竹田
最終訪城日
2019年10月21日

【歴史概要】
1443年頃に山名持豊の命で築かれた山城で、太田垣光景が城代を任じられた。以後は太田垣氏代々の居城となったが、1575年の10月に赤井直正によって攻め落とされた。その後、赤井直正は明智光秀と戦う為に黒井城へ引き上げた為、再び太田垣氏が城に戻るが、1577年の羽柴秀吉の但馬攻めの際に羽柴秀長の部隊の攻撃を受けて降伏した。一時的に秀長が城代を務めたが、後に太田垣氏へと返された。1580年に再び羽柴秀長によって占領され、以後は秀長の家臣が城代として置かれた。城はこれ以降に現在の総石垣造りに改築されたと見られ、斎村政広の頃に完成したと見られている。政広は1600年の「関ケ原の合戦」の際の不手際で切腹し、城は山名豊国預かりになるが廃城となった。

【感想】
竹田城はまだ無名だった頃に一度訪れており、以前とは違って料金所があったり、散策ルートが制限されていたりと色々変わってしまっていたが、それでも頂上から見る絶景は昔見た光景と同じだった。とにかく高い山の上に総石垣造りの城跡があるのが素晴らしいのだが、現代まで石垣が残ったという点もまた素晴らしい。そのうちいつかは雲海に浮かぶ城も肉眼で見てみたいものである。

尼崎城 あまがさきじょう

築城年代
1617年築城
築城者
戸田氏鉄
分類
近世平城
遺構・復元物
模擬天守閣、模擬水堀、模擬石垣
現状
城址公園、学校、市街地
場所
兵庫県尼崎市南城内/北城内
最終訪城日
2019年10月20日

【歴史概要】
1616年に近江国大津から摂津国尼崎に移った戸田氏鉄が翌年に築城を開始した平城で、元々あった尼崎城(大物城)よりも南西の方の海側に新たに築かれ、以後は尼崎藩の藩庁となった。1635年に氏鉄は美濃国大垣へと転封され、代わって青山幸成が遠江国掛川から尼崎へと移された。1711年の青山幸秀の代に信濃国飯山へと転封となり、代わって松平忠喬が遠江国掛川から移され、以後は明治まで桜井松平氏が藩主を務めた。

【感想】
城の本来あった場所は学校や住宅地と化しており、城址碑が立っているものの遺構はさっぱり確認出来なかった。かつての城の西三の丸北部が城址公園として整備されており、ここに「平成の築城」で話題になった尼崎城の模擬天守閣が建っている。内部は資料館で最上階のVR双眼鏡なんかは面白い展示だなと思った。なお、周囲は普通に市街地なので展望の方はお察しだった。

赤穂城 あこうじょう

築城年代
1661年築城
築城者
浅野長直
分類
近世平城
遺構・復元物
城門(復元)、隅櫓(外観復元)、米蔵(外観復元)、武家屋敷門、城壁、石垣、水堀
現状
国指定史跡/城址公園、大石神社
場所
兵庫県赤穂市上仮屋
最終訪城日
2017年10月7日

【歴史概要】
1645年に常陸国笠間から播磨国赤穂に移った浅野長直が近藤正純に命じて海岸に築いた平城で、舟入を設けるなどして海城に近い構造だった。城は赤穂藩の藩庁として明治まで続いたが、浅野氏は忠臣蔵で有名な浅野内匠頭の代に断絶し、以後は永井氏、森氏と藩主が変遷した。

【感想】
城は外堀の西側が埋められ、海も埋め立てられてしまったが、広い縄張りを取り囲む土塁や石垣がよく残っていて素晴らしかった。平地の都市部にある城は総構えや外郭などの外側にある曲輪は大抵完全消滅させられるだけに、この残りっぷりは奇跡に近いものがある。内部は現存する武家屋敷門や二の丸庭園などが見事だったが、本丸はこの時音楽フェスだかで立ち入り禁止になっており、本丸を散策出来なかったことが唯一の心残りとなった。

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