■京都府■

二条城 にじょうじょう

築城年代
1603年築城
築城者
徳川家康
分類
輪郭式の近世平城
遺構・復元物
本丸御殿、二の丸御殿、城門、隅櫓、蔵、水堀
現状
世界文化遺産、国宝、重要文化財、国指定史跡、特別名勝/元離宮二条城
場所
京都府京都市中京区二条通堀川西入二条城町
最終訪城日
2010年1月10日

【歴史概要】
1603年に徳川家康によって上洛時の居城が築かれたのが始まりで、以後明治まで徳川将軍家の城となった。

【感想】
城跡は本丸、二の丸が綺麗に京都市内に残っており、特に二の丸御殿の周辺は庭園や唐門などもあって見事なものだった。城内は思いのほか広く、出入り口は東大手門しか今は使用されていないため、ぐるりと1週するだけでもなかなか大変だったが、遺構や建物が比較的多くてなかなか楽しかった。

伏見城 ふしみじょう

築城年代
1592年築城
築城者
豊臣秀吉
分類
梯郭式の近世平山城
遺構・復元物
天守閣(模擬)、城門(模擬)、石垣(残骸)、土塁、空堀、水堀
現状
伏見桃山御陵・伏見桃山城運動公園
場所
京都府京都市伏見区桃山町
最終訪城日
2010年1月9日

【歴史概要】
1592年に豊臣秀吉によって指月山に隠居城が築かれたのが始まりで、地震で倒壊したため1596年に木幡山に建て直されたという。豊臣秀吉の没後は徳川家康が城に入り、1600年の関ヶ原の合戦時には徳川家臣の鳥居元忠が守備していたが西軍に攻められて落城した。関ヶ原の合戦で焼失した城は1602年に再建されるが、1619年には廃城となった。

【感想】
城跡の中枢が今では宮内庁管理の明治天皇の御陵のため、参道以外は立ち入り禁止なのが残念だった。おかげで中心部は良く判らなかったが、運動公園になっている御花畑跡周辺には巨大な空堀が良く残っており、これだけでも城がいかに大きかったか良く判って素晴らしかった。なお、運動公園には伏見城をモデルとした模擬天守閣と模擬城門が建っているが、内部は立ち入り禁止となっている。

淀城 よどじょう

築城年代
1623年築城
築城者
松平定綱
分類
梯郭式の近世平城
遺構・復元物
石垣、水堀
現状
淀城跡公園・稲葉神社・與杼神社・住宅地
場所
京都府京都市伏見区淀本町
最終訪城日
2010年1月9日

【歴史概要】
1623年に松平定綱によって巨椋池近くの川の交わる場所に城が築かれたのが始まりで、以後は淀藩の藩庁となり明治まで続いた。

【感想】
現在では市街地化でほとんど失われており、本丸跡の一部に天守台と石垣、水堀が残っているのが確認できるのみだったが、天守台は石垣が二段になっていてなかなか興味深いものだった。ただ、淀駅の駐輪場から溢れた自転車が公園内にまで達しており、景観的に非常に見苦しい光景だった。(2012年には淀駅が京都競馬場寄りに移転するそうなので、景観は今よりも改善されそうな気がする)

填島城 まきしまじょう

築城年代
室町時代頃築城
築城者
真木島氏
分類
中世平城(水城)
遺構・復元物
城址碑のみ
現状
住宅地
場所
京都府宇治市填島町
最終訪城日
2010年7月17日

【歴史概要】
室町時代頃に巨椋池に浮かぶ填島に城が築かれたのが始まりで、以後は真木島氏代々の居城となった。 1573年に足利義昭が篭城して織田信長に抵抗した最後の場所。

【感想】
現在は巨椋池が消滅したため填島もただの平地になっており、今は住宅地と化して遺構は見られなかった。本丸跡とされる住宅地の中心に小さな公園があり、ここに城址碑が立っているのみである。なお、填島公園にも「填島城址記念碑」があるがそこは城の外で、元は池(湿地帯)だった場所だという。

■奈良県■

平城宮 へいじょうきゅう

築城年代
710年築城
築城者
元明天皇
分類
宮城
遺構・復元物
大極殿(復元)、朱雀門(復元)、省庁舎(復元)、築地塀(復元)、庭園ほか
現状
特別史跡平城宮跡(史跡公園)
場所
奈良県奈良市佐紀町
最終訪城日
2010年7月18日

【歴史概要】
710年に藤原京より平城京へと遷都が行われた際に造られた大内裏。平城京のやや北側に位置している。784年の長岡京遷都、または794年の平安京遷都の際に解体された。

【感想】
平城宮としての遺構はあまり確認できないが、朱雀門、大極殿、省庁等が復元され、全体像も地図で大体把握できるため、かつての都の行政府がどのような規模だったのか判ってなかなか楽しかった。

柳本城 やなぎもとじょう

築城年代
室町時代頃築城
築城者
揚本氏
分類
中世平山城→近世陣屋
遺構・復元物
水堀
現状
黒塚古墳公園・柳本小学校・住宅地
場所
奈良県天理市柳本町
最終訪城日
2010年7月19日

【歴史概要】
室町時代頃に揚本氏によって黒塚古墳に砦が築かれたのが始まりで、1577年の織田信長と松永久秀の戦いでは松永金吾が城を守っていたが、敗れて金吾は自決したという。城は1580年に一度廃城となるが、1616年に織田尚長が城跡に陣屋を構えて明治まで続いた。

【感想】
近畿地方でよく見られる古墳の上に築かれた城であるが、城の遺構はあまり残っておらず、現状は街の中に残る前方後円墳そのものであった。ただ、方円の接合部に堀切(今は埋まっている)が掘られていたり、2つに仕切られた水濠が南北で数m水位が違う等加工された跡が見られたのはなかなか興味深かった。

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