■東京都■

江戸城 えどじょう

築城年代
1457年築城
築城者
太田道潅→徳川家康
分類
中世平山城→輪郭式近世平山城
遺構・復元物
櫓、城門、石垣、土塁、水堀
現状
国指定特別史跡・重要文化財/皇居・御苑・市街地
場所
東京都千代田区千代田
最終訪城日
2012年5月21日

【歴史概要】
江戸氏が築いた館が始まりと伝わるが定かではない。1457年に太田道潅によって本格的な城が築かれ、道潅の死後は上杉氏の隠居所、次いで北条氏の拠点となった。1590年の「小田原の役」で北条氏が滅亡すると、関東には三河より徳川家康が移封され、江戸城がその居城となった。徳川氏によって江戸城は改築されて近世城郭となったが、その工事は17世紀中ごろまで続き、日本最大の城郭へと変貌した。新政府と幕府が戦った明治維新では1868年に江戸城が無血開城され、戦後は天皇の居所になったため皇城(宮城)と呼ばれた。

【感想】
首都のど真ん中にある城で、天守を始めとする重要施設が残っていないためややインパクトで他の有名な城に負けているが、それでも規模や現在残っている遺構の数でも十分素晴らしい城である。特に台地に谷のように穿たれた外堀や、今も水を湛えた大きな内堀、そして現存する櫓や城門など見所は多い。また、都市の隙間に残る外郭の石垣などの名残を探して見るのも、別の面白さがある。難点があるとすれば、範囲が広すぎて真面目に散策すると大変なことと、主要部分の立ち入りに制限があることくらい。(皇居、東御苑)

深大寺城 じんだいじじょう

築城年代
築城年不明
築城者
狛江氏?
分類
平山城
遺構・復元物
土塁、空堀、土橋
現状
国指定史跡/神代水生植物園・テニス倶楽部
場所
東京都調布市深大寺元町
最終訪城日
2010年10月11日

【歴史概要】
狛江氏が築いたと伝わるが定かではない、1537年に扇谷上杉氏は北条氏に備えて河越城の支城としてこの城を再利用したが、北条氏によって先に河越城を攻め落とされたため、前線のこの城は意味を無くして放棄されたという。

【感想】
城跡は三の郭を除く大部分が「神代水生植物園」の敷地となっているが、植物園は無料で入れるため散策に特に問題は無かった。ただ、植物園は祝日の翌日が休園日なのと、9時半前と16時以降は閉鎖されているのには注意が必要のようである。城跡は丘陵端に主郭があり、丘を空堀で区切って二の郭、三の郭が続いていた。遺構としては郭を囲む土塁と空堀が良く残っており、都内の城郭としては予想以上に城跡らしい場所だった。

滝山城 たきやまじょう

築城年代
1521年
築城者
大石定重
分類
山城
遺構・復元物
土塁、空堀、井戸、石畳、木橋(復元)
現状
国指定史跡/滝山自然公園・山林
場所
東京都八王子市高月町
最終訪城日
2019年4月6日

【歴史概要】
1521年に山内上杉氏家臣の大石定重によって築かれた山城。大石氏は後に北条氏の軍門に降り、北条氏照が大石定久の娘を娶ってこの城に移り住んだ。1558年に氏照は城を改修するが、1569年の武田軍の関東侵攻では城の二の丸まで攻め込まれて激戦となった。落城こそ免れたものの、滝山城ではこの先守り切れないと感じた氏照は1571年に八王子城を築き、後に居城を移した。

【感想】
城は多摩川と谷地川にはさまれた滝山丘陵地帯の一角に築かれており、縄張りはU字に近い形で山の神曲輪、小宮曲輪、三の丸、千畳敷、二の丸、中の丸、本丸が並んでいる為、連郭式とも言われている。なお、谷の部分はせき止めて弁天池という水場に利用していたという。遺構としては横堀と切岸、土塁がよく残っており、コの字土橋や桝形、馬出などの技巧的な部分も多く見れて素晴らしかった。ただ、本丸石畳が今は埋め戻されて写真でしか見れないのは残念だった。

片倉城 かたくらじょう

築城年代
室町時代
築城者
長井時広
分類
平山城
遺構・復元物
土塁、空堀
現状
都指定史跡/片倉城跡公園・畑
場所
東京都八王子市片倉町
最終訪城日
2017年6月18日

【歴史概要】
室町時代に長井時広が築いたとされるが、大江師親が築いた説もある。後に北条氏の城となり、1569年の「三増峠の戦い」では北条氏照と氏邦はこの城を経由して三増峠へと向かっている。

【感想】
城跡は舌状台地の先端にあり、連郭式の縄張りになっていて、今は本丸と二の丸が「片倉城跡公園」として整備されている。城としての見所としては堀や土塁が残っているが、堀は史跡保護の関係なのか明らかに埋められて浅くなっている。台地の麓の外堀相当の沼や湿地があった場所は、今は花菖蒲園のようになっており、全体的に史跡公園というよりは緑豊かな自然公園という感じになっている。

■埼玉県■

川越城 かわごえじょう

築城年代
1457年築城
築城者
太田資清・太田資長
分類
近世平城
遺構・復元物
御殿、土塁、空掘、模擬塀
現状
県指定史跡・重要文化財/市街地
場所
埼玉県川越市郭町
最終訪城日
2012年8月5日

【歴史概要】
1457年に扇谷上杉氏家臣の太田資清と資長の親子によって築かれた平城で、1524年には江戸城を北条氏に追われた上杉朝興の居城になった。1537年に朝興が亡くなると子の朝定が家督を継ぐが、同年に北条氏綱の攻撃を受けて落城し、朝定は松山城へと逃れた。朝定は1546年に城の奪還を挑み、古河公方と山内上杉氏の援軍を得て約8万の軍勢で城を包囲した。だが、半年かかっても城を落とすことは出来ず、逆に北条氏康の奇襲を受けて連合軍は瓦解し、朝定は討死して扇谷上杉氏は滅亡した。1590年の「小田原の役」では北条氏家臣の大道寺政繁が城主を勤めていたが、野戦で敗れたたため城は開城したという。徳川家康の関東移封後に家臣の酒井重忠が城に置かれ、江戸開府後は川越藩の藩庁となった。その後、城には酒井氏、堀田氏、松平氏、柳沢氏、秋元氏などが入り、松井氏(松平氏)の時に明治維新を迎え廃城となった。

【感想】
関東七名城にも選ばれた城だが、都市部の平城の宿命で城跡のほとんどが市街地しているのが残念でならない。ただ、本丸御殿の主要部分が現存しており、内部も見て廻ることができるため貴重なスポットである。遺構としては「とうりゃんせ」の天神様の元となった三芳野神社に大きな土塁が残っており、富士見櫓跡付近には櫓台、土塁、空掘が確認できる。また、住宅地の中にも中ノ門跡の空掘が復元整備されており、ちょっとした飛び石的な見所であった。

河越館 かわごえやかた

築城年代
平安時代後期
築城者
河越能隆?
分類
平城
遺構・復元物
土塁、空堀、復元塚・井戸
現状
国指定史跡/河越館跡史跡公園・常楽寺
場所
埼玉県川越市上戸
最終訪城日
2012年8月5日

【歴史概要】
平安時代に河越氏が築いた居館で、河越重頼の代に源義経に連座して一時衰退するが以後も河越氏代々の居所となった。しかし、1368年の「平一揆」に河越直重が加担したため、館を鎌倉府の軍勢に攻められて壊走した。山内上杉氏と扇谷上杉氏が争った「長享の乱」では、山内上杉軍を率いる上杉顕定が川越城を攻めるために河越館跡に上戸陣を築いたという。北条氏が川越城を領してからは河越館跡は出城として使用され、1590年の「小田原の役」後に廃城となった。

【感想】
河越氏の屋敷自体は単郭方形の構造で、それが寺などの区画と共に道沿いに並んでいたというのは当時の関東の様子を知る上でなかなか興味深いものだった。館跡には堀などが平面復元されていたものの、少しだけ窪んでいるなど中途半端な感じだった。館跡の西側には立派な土塁が今も残っているが、これは「上戸陣」の頃に造られた遺構だという。

■神奈川県■

小田原城 おだわらじょう

築城年代
15世紀頃築城
築城者
大森氏
分類
平山城
遺構・復元物
天守閣(外復)、常盤木門(外復)、銅門(復元)、馬出門(復元)、櫓(復興)、塀(復元)、石垣、土塁、水堀、空堀、堀切
現状
国指定史跡/小田原城址公園・市街地
場所
神奈川県小田原市城内
最終訪城日
2018年3月24日

【歴史概要】
1412年頃に大森頼春によって八幡山に城が築かれたのが始まりで、1495年頃に伊勢盛時(後の北条早雲)が奪取してからは後北条氏代々の居城となった。戦国時代には武田信玄や上杉謙信を篭城戦で撃退しているが、1590年の小田原の役では篭城戦の末に降伏開城となった。江戸時代には大久保氏の城となり小田原藩の藩庁として明治まで続いた。

【感想】
とにかく縄張りが広いというのが第一の印象で、未だに総構えの各所に残る遺構を全て見切れて居ない。馬出曲輪から二の丸、本丸までは城址公園になっていて、特に銅門から馬出門のあたりの復元された一帯が素晴らしい。本丸の天守閣からの眺めも素晴らしいが、天守閣最上階に再現された当時の祈りの場も興味深い。八幡山東曲輪から本丸越しに海側を見る景色も絶景だが、八幡山の西側には中世の遺構が良く残っており、小峰大堀切周辺の堀や土塁はかなり見応えがある。近年は御用米曲輪や弁財天曲輪の整備が徐々に進んでいる。

玉縄城 たまなわじょう

築城年代
1513年築城
築城者
伊勢盛時
分類
平山城
遺構・復元物
土塁、堀切
現状
清泉女学院・住宅地
場所
神奈川県鎌倉市玉縄
最終訪城日
2012年10月28日

【歴史概要】
1513年に伊勢盛時(後の北条早雲)が三浦氏を抑えるために三浦半島の根元にあたる玉縄に城を築いたのが始まりで、以後は北条氏の重要拠点となった。1526年には三浦半島に上陸した里見軍の攻撃を受けたが落城せず、1560年の上杉軍の遠征でも落城しなかった。1590年の「小田原の陣」では徳川家康に包囲され、攻め落とされはしなかったが北条氏勝が降伏開城している。以後は家康の家臣が城に置かれたが1703年に廃城となった。

【感想】
現状は学園と住宅地になっているため散策が困難だが、すり鉢状の山の地形を利用して築かれた城の名残が所々で確認でき、特に普通に散策可能な七曲坂や太鼓櫓跡周辺は見所が多い。普段は入ることの出来ない諏訪壇には「築城500年祭」の日に入ることが出来たが、予想以上に高くて頂上も広く、しかも中腹には横堀も残っていてなかなか見事な遺構だった。

鎌倉城 かまくらじょう

築城年代
鎌倉時代
築城者
源頼朝
分類
城塞都市
遺構・復元物
切岸・切通
現状
鎌倉市街地と山林
場所
神奈川県鎌倉市
最終訪城日
2017年11月25日

【歴史概要】
1063年に源頼義が鶴岡八幡宮の前身となる若宮八幡を勧請したのが源氏と鎌倉の結びつきの始まりで、12世紀に源義朝が鎌倉の扇ヶ谷に拠点を置いた時はまだ小さな館でしか無かった。1180年に源頼朝が鎌倉を拠点としてから徐々に整備されていったようで、この頃の九条兼定の日記に「鎌倉城」と記述されているため、城塞都市として機能し始めたのはこの時期からと思われる。町を取り囲む三方の山の上に塁壁が設けられ、町に入るには鎌倉七口と呼ばれる7つの切り通しのいずれかを通らねばならなかった。鎌倉幕府が弱体化した1333年に新田義貞に鎌倉を攻められ、幕府軍は寡兵で切通を固めて善戦するが、稲村ケ崎を突破されて総崩れとなり幕府軍は壊滅した。以後、鎌倉は衰退し、1337年の北畠顕家の鎌倉攻めでも戦場になるが、この時は鎌倉の一角に築かれた杉本城が舞台で鎌倉そのものは城塞都市としては機能しなくなっている。

【感想】
武家の都である鎌倉は三方を囲んでいる山を利用して城塞都市を形成しており、中華やヨーロッパのように町全体を守る思想の城になっているのが面白い。後に小田原城が町全体を城内に取り込むようになったのも、もしかすると鎌倉の影響があるかもしれない。今は一部の切り通しに城塞都市の名残を留めるだけだが、周囲の山を歩いてみた限りでは所々山を削って切岸にした箇所が見られるし、稜線を移動できるようになっているのも名残と考えられるのかもしれない。

茅ヶ崎城 ちがさきじょう

築城年代
14~15世紀頃築城
築城者
不明
分類
平山城
遺構・復元物
土塁、空堀、堀切、土橋、井戸跡
現状
茅ヶ崎城址公園・住宅地
場所
神奈川県横浜市都筑区茅ヶ崎東二丁目25番
最終訪城日
2010年9月20日

【歴史概要】
『新編武蔵風土記稿』には平安時代に多田太郎が居城としたと記してあるが、発掘調査からは14~15世紀頃の築城と判明しており、上杉氏が築いて後に後北条氏が改修したのではと考えられている。

【感想】
城跡は街中の丘陵東端の上にあり、現在は「茅ヶ崎城址公園」となって綺麗に整備されているが、遺構は大小の郭に土塁と空堀が良く残っていた。特に中の郭の土塁は大きく武者走りも付いていてなかなか良かった。

榎下城 えのしたじょう

築城年代
15世紀頃築城
築城者
上杉憲清
分類
平山城
遺構・復元物
土塁、空堀、井戸跡
現状
旧城寺(舊城寺)
場所
神奈川県横浜市緑区三保町
最終訪城日
2010年9月20日

【歴史概要】
15世紀に上杉憲清によって築かれたとされる城で、1438年に子の上杉憲直が自決するまでの居城となった。その後は、後北条氏の小机衆によって利用されたと考えられている。後に佐藤小左衛門の隠居所となり、1596~1614年に城跡に旧城寺が開かれた。

【感想】
現在は城跡全体が旧城寺になっているが、遺構は比較的よく残っており、最も高い場所に本丸があって一段低い場所が二の丸や的場となっている。本丸跡は弓道場と墓地となっているが、遺構としては土塁が確認でき、二の丸跡も大手口跡に土塁と空堀が残っていた。この土塁にはカヤの大木が生えており、他の樹木と共に県指定の天然記念物となっていた。

神奈川台場 かながわだいば

築城年代
1860年築城
築城者
勝海舟(設計)、伊予松山藩
分類
台場
遺構・復元物
石垣
現状
JR貨物東高島駅
場所
神奈川県横浜市神奈川区神奈川一丁目
最終訪城日
2012年3月20日

【歴史概要】
1859年に勝海舟の設計を元にして伊予松山藩により台場が築かれた。横浜港の警備のために築かれた台場だが、祝砲には使われたものの実戦が行われることは無く、1899年に廃止となった。

【感想】
周辺は埋立地となって台場は埋もれてしまっているが、台場跡の大部分が東高島駅の敷地となっており、駅と住宅地の間や星野公園の間等に外縁部の石垣が確認できた。台場跡の標柱は住宅地の中にあり、台場公園がある場所は陸橋の跡であった。

六浦陣屋 むつうらじんや

築城年代
1722年築城
築城者
米倉忠仰
分類
陣屋
遺構・復元物
陣屋の石段?
現状
住宅地
場所
神奈川県横浜市金沢区六浦
最終訪城日
2017年11月25日

【歴史概要】
1722年に皆川藩の米倉忠仰が所領の飛び地の武蔵国の金沢六浦に陣屋を構えて移転し、六浦藩が新たに誕生した。以後、陣屋は廃藩置県まで六浦藩の藩庁となった。

【感想】
丘陵に囲まれた小さな谷地をそのまま縄張りに用いた陣屋だが、現状は住宅地で辛うじて谷地地形に面影が残るのみだった。一応、今も藩主の子孫が住宅地の一角に住んでいるらしく、その家の石段が当時の陣屋のものだとされている。確かにそれっぽい家はあったが、不審者に見られそうなので写真は遠慮した。画像は陣屋跡裏門付近。

佐原城 さはらじょう

築城年代
12世紀頃
築城者
佐原義連?
分類
丘城
遺構・復元物
曲輪跡、空堀
現状
雑木林、畑
場所
神奈川県横須賀市佐原3丁目
最終訪城日
2019年9月15日

【歴史概要】
12世紀に三浦義明の子の義連が三浦半島の佐原を与えられて佐原氏を称し、この時に佐原を見渡せる丘陵に城が築かれたという。その後、孫の盛時の代まで佐原氏代々の居城となった。1247年の「宝治合戦」で三浦宗家が滅亡すると佐原盛時が三浦介を継ぎ、居城を新井城に移したとされる。

【感想】
城は佐原地区の丘陵の上にあり、南北に曲輪が連なる連郭式の縄張りだと思われるが、曲輪内部は畑になっていて遺構はハッキリとは確認できなかった。畑の南側に城址碑があるのだが、残念なことに台風が原因で城址碑は転倒してしまっていた。

新井城 あらいじょう

築城年代
鎌倉時代築城
築城者
佐原盛時?
分類
海城
遺構・復元物
土塁、空堀、堀切
現状
油壷マリンパーク、東大地殻観測所、ほか
場所
神奈川県三浦市三崎町小網代
最終訪城日
2018年10月7日

【歴史概要】
1247年の「宝治合戦」で三浦氏宗家が滅んだ後、その遺領を継いだ三浦氏一族の佐原盛時の居城だったと伝わる。その後、三浦時高の代に家督相続問題で養子の三浦義同と対立して追放したものの、大森氏の支援を受けて舞い戻った義同によって新井城を攻め落とされて自害した。義同が三浦氏当主となった後、相模国に侵攻してきた伊勢宗瑞と戦うが、次第に追い詰められ、1513年に新井城に籠城して3年戦うが戦況を覆すことはできず落城した。三浦氏滅亡後は北条水軍の基地となるが、里見水軍に一時占領されたこともあった。

【感想】
城は三方向を海に囲まれた半島の先にあり、「内の引橋」と呼ばれる橋が架かっていた堀切以外に陸路が無いというまさに天然の要害なのが凄い。内部には水族館が出来る等、開発の手が入っているが、今でも堀切内側の土塁や主郭付近の空堀などが見られる。ただ、残念なことに敷地の大半が私有地なため、見て回れる箇所が限られているというのが残念でならない。

大庭城 おおばじょう

築城年代
平安時代築城
築城者
大庭景宗?
分類
平山城(丘城)
遺構・復元物
土塁、空堀、堀切
現状
大庭城址公園
場所
神奈川県藤沢市大庭
最終訪城日
2012年4月13日

【歴史概要】
平安時代に大庭景宗によって築かれ、大庭氏代々の居城となったとされる。1213年の「和田義盛の乱」で和田方に付いたため大庭氏は没落し、大庭御厨は佐原氏に預けられたが、城がどうなったかは定かではない。15世紀には太田道潅によって城が改修されるが、伊勢盛時に攻め落とされ、以後は北条氏の城の一つとなった。

【感想】
城は台地の上に空堀を張り巡らして縄張りを形成しており、現在は城址公園となって一部の堀は埋まってしまっているが、想像以上に城跡らしい空堀や土塁などの遺構が確認できた。なお、丘の中腹には腰郭もハッキリ見えたが、柵があって立ち入れない場所も多く、ちゃんと確認することができなかったのは少々残念だった。

早川城 はやかわじょう

築城年代
鎌倉時代築城?
築城者
渋谷氏?
分類
平山城(丘城)
遺構・復元物
土塁、水堀、堀切
現状
城山公園
場所
神奈川県綾瀬市早川城山
最終訪城日
2019年3月31日

【歴史概要】
築城年代は定かではないが、鎌倉時代頃に渋谷氏によって築かれたとされている。渋谷重国の嫡子の高重は早川次郎を名乗っており、この城を居城としていたものと考えられる。1213年の和田合戦で高重は和田方に付いて討死し、早川は兄の光重の次男の実重に与えられた。1247年の宝治合戦で渋谷光重とその子供たちが手柄を立てて薩摩国に新たに所領を得ている。この時に早川実重は薩摩国の東郷に移り住み東郷氏の祖となった。

【感想】
城は2つの沢に挟まれた台地の先端部に築かれており、唯一陸続きの北側に堀切と土塁を設けたシンプルな造りの城である。なお、土塁については曲輪の周囲にもその痕跡が確認出来た。城跡内部はそこそこの広さを持った公園で、春は桜が咲いて綺麗だった。

上杉氏館 うえすぎしやかた

築城年代
築城年不明
築城者
上杉氏?
分類
平山城
遺構・復元物
空堀
現状
産業能率大学・畑・住宅地
場所
神奈川県伊勢原市上粕屋
最終訪城日
2011年1月10日

【歴史概要】
築城年は不詳だが、15世紀頃の扇谷上杉氏の居館と伝わる。1486年に扇谷上杉氏家臣の太田道灌が暗殺された「糟屋館」ともされているが、発掘調査からは城跡を示す明確な遺物や遺構は発見されていないため、城跡の場所を疑問視する声もある。

【感想】
城跡は産業能率大学のある丘の上にあり、谷地を利用した空堀があるが、限りなく自然地形に近いため遺構かどうかは少々怪しい。丘の上にも特にこれといったものは見当たらず、確かにこの場所を城跡と呼ぶには難しいものがあった。

丸山城 まるやまじょう

築城年代
鎌倉時代頃築城
築城者
糟屋氏?
分類
平山城
遺構・復元物
土塁、空堀
現状
丸山城址公園・高部屋神社・住宅地
場所
神奈川県伊勢原市下糟屋
最終訪城日
2011年1月10日

【歴史概要】
鎌倉時代に築かれた城で、糟屋有季の居城と伝わっている。室町時代以降は扇谷上杉氏の城となったと考えられており、この城を「糟屋館」に比定する意見もある。

【感想】
現在は城跡を国道246号が貫通しており、北半分が城址公園として整備されている。城址公園となった主郭には土塁が部分的に残されており、主郭の一段下を取り巻いていた横堀は公園化で埋め立てられて帯郭のようになっていた。縄張りはシンプルで判りやすかったが、南半分が住宅地で判りづらいことと、国道が貫通している点が残念だった。

波多野城 はたのじょう

築城年代
築城年不明
築城者
波多野氏
分類
平山城
遺構・復元物
空堀
現状
場所
神奈川県秦野市寺山
最終訪城日
2011年1月10日

【歴史概要】
築城年は不詳だが、平安時代から相模国波多野郷を治めていた波多野氏の一族の居城跡と伝わる。この地は『吾妻鏡』に記載された「波多野本庄北方」に比定されており、波多野義通、義景の居城跡と考えられているが、発掘調査では城跡に関連するものは出土していない。代わりに馬の歯が大量に出土したため城跡ではなく宗教的な場所だったと考えられている。

【感想】
城跡は川と空堀に挟まれた丘にあり、現在は空堀の底も含めて全体が畑となっている。丘の上野畑の中には波多野城址の石碑や説明板があり、城跡までの誘導看板もあるが、近年の発掘調査や研究ではこの場所が城跡であることは疑問視されているという。実際、学校のある丘から城跡の丘を狙いたい放題の立地であるため、城跡にしては縄張りが妙な感じがする。

東波多野城 ひがしはたのじょう

築城年代
築城年不明
築城者
不明
分類
山城
遺構・復元物
空堀
現状
弘法山公園(弘法山、権現山、浅間山)
場所
神奈川県秦野市南矢名
最終訪城日
2011年1月9日

【歴史概要】
築城年も築城者も歴史も不明だが、発掘調査から西側に備えて遺構が展開していることが判っており、弘法山が主郭であったと考えられている。

【感想】
城跡の3つの山はいずれも公園として整備の手が入っており、遺構が非常に判りづらいが、権現山の西斜面には確かに腰郭が数段に渡って展開しており、浅間山では横堀も確認できた。ただ、全体的に縄張りが広すぎる上に遺構が偏っており、誰が何のために築いたのかは謎の場所であった。

中丸遺跡 なかまるいせき

築城年代
築城年不明
築城者
波多野氏?
分類
平山城
遺構・復元物
遺構埋め立て済み
現状
東田原ふるさと公園
場所
神奈川県秦野市東田原
最終訪城日
2011年1月10日

【歴史概要】
築城年も築城者も歴史も不明だが、発掘調査で鎌倉時代の館の跡が発見されており、時代考証から波多野氏に関係する居館ではないかと考えられている。

【感想】
現在は遺跡は埋め戻されており、東田原ふるさと公園の一部となっている。ただ、全体的に見ると地形は小さな丘になっており、敷地の側にある源実朝公の首塚の伝承から、やはり波多野氏に関連する場所であることは間違い無い気がする。

荒井城 あらいじょう

築城年代
11世紀?
築城者
荒井実継?
分類
丘城
遺構・復元物
郭跡、空堀
現状
荒井城址公園
場所
神奈川県足柄下郡真鶴町真鶴
最終訪城日
2019年3月31日

【歴史概要】
築城年代は定かではないが、1083年の「後三年の役」で活躍した源義家の家臣の荒井実継の居城と伝わる。その後、湯河原の土肥氏の支城となり、戦国時代には北条氏も利用していたというが定かではない。

【感想】
城は丘陵地帯の中に開いた穴のような空間に築かれており、これを「谷戸構え」というらしい。真鶴半島という海風の強い場所に屋形を建てる為にこのような立地になったようで、なかなか面白い。平場以外では北側に空堀が確認でき、虎口があったのも北側と思われる。

湯坂城 ゆさかじょう

築城年代
室町時代
築城者
大森氏
分類
中世山城
遺構・復元物
曲輪跡、土塁、空堀
現状
山林
場所
神奈川県足柄下郡箱根町湯本
最終訪城日
2019年11月30日

【歴史概要】
室町時代に大森氏によって築かれた山城で、湯坂路を押さえる役割があったものとされる。1495年に大森氏が伊勢宗瑞に滅ぼされてからは後北条氏の城となり、1590年の「小田原合戦」の時に後北条氏によって再整備されたと考えられている。

【感想】
城跡は湯坂路のハイキングコース上に存在しており、登山道を登ってきた所の東側の曲輪群は藪化しているせいもあって城跡の実感が湧かないが、しばらく行った先にある尾根を寸断する堀や土塁のおかげでここが城跡だということがよく判る。ただ、印象としてはいわゆる籠城するような城ではなく、街道の確保や物見の連絡網のための中継拠点に見える。

鷹巣城 たかのすじょう

築城年代
室町時代
築城者
北条氏
分類
中世山城
遺構・復元物
曲輪跡、土塁、空堀
現状
山林
場所
神奈川県足柄下郡箱根町小涌谷
最終訪城日
2019年11月30日

【歴史概要】
築城年代は不明だが、後北条氏が箱根を通る街道を抑えるために築いた番城の一つとされる。1590年の「小田原合戦」の時に徳川家康によって攻め落とされた。その後、家康は今井に移る迄の間、ここに本陣を置いたと伝わる。

【感想】
鷹ノ巣山に築かれた山城だが、城の位置は浅間山だという説もある。個人的には鷹ノ巣山の方が浅間山よりも峻険だと歩いてみて思ったので、鷹ノ巣山が城跡だと思う。一応、遺構としては曲輪跡の平場群の他に空堀も確認できる。ただ、やはり同じ北条氏の箱根を守る城(山中城など)と比べると、どうしても見劣りするのは否めない。恐らく戦闘用ではなく箱根を通る街道の監視用の砦だったのではないだろうか。

箱根関 はこねのせき

築城年代
1618年頃
築城者
江戸幕府
分類
関塞
遺構・復元物
関所、柵、空堀
現状
復元関所
場所
神奈川県足柄下郡箱根町箱根1
最終訪城日
2019年11月30日

【歴史概要】
古代から近世にかけて箱根には関所が設けられていたことが諸所の文献から判るが、時代ごとにバラバラで場所が不明なものも多い。現在見られる江戸時代の関所は1618年頃に設置されたもので、その時に箱根宿の町も人工的に造られた。1868年の幕末動乱時、江戸城開城後に小田原藩兵が関を守っていたが、旧幕府の遊撃隊に襲撃されて説得された挙句に明け渡してしまう。その後、再度新政府に従った小田原藩兵によって奪還された。翌年には政府の命で関は廃止された。

【感想】
関所があるのは屏風山の尾根が芦ノ湖に突き出た場所の先端部で、街道がここを通るしかないという絶妙な位置にある。関所本体の門や建物の他にも、関所から屏風山に向かって並んでいた柵列の一部や湖を渡ろうとする船を監視していた遠見番所も復元されて、関所の機能が一通り判る造りなのが素晴らしい。

■千葉県■

亥鼻城 いのはなじょう

築城年代
14~15世紀頃築城
築城者
千葉氏?
分類
平山城(丘城)
遺構・復元物
櫓(模擬)、土塁、堀切
現状
亥鼻公園
場所
千葉県千葉市中央区亥鼻
最終訪城日
2010年9月4日

【歴史概要】
1126年に千葉常重によって築かれたと伝えられてきたが、発掘調査からは14~15世紀頃に築かれた城と考察されている。最近の研究では常重が築いたのは堀内にあった館で、亥鼻城は後の時代に戦に備えて築かれたとされている。

【感想】
城跡は文字通り亥の鼻のように突き出た丘陵の上にあり、主郭跡とされる場所に土塁、主郭跡と神明社のある末端部との間に堀切がしっかり残っていた。主郭より東側の郭跡には郷土博物館が建っており、外観は歴史を無視した模擬天守閣であるが、入館料は安く、内部の展示もなかなか良かった。

佐倉城 さくらじょう

築城年代
1610年築城
築城者
土井利勝
分類
近世平山城
遺構・復元物
土塁、水堀、空堀、武家屋敷
現状
佐倉城址公園
場所
千葉県佐倉市城内
最終訪城日
2017年12月3日

【歴史概要】
1610年に土井利勝によって台地に築かれた平山城で、以後は佐倉藩の藩庁となった。江戸に近いため、城主は幕府の要職の譜代家臣が務めることが多く、頻繁に交代した。最終的に堀田家が入り明治を迎えた。

【感想】
城は台地の端を巧みに利用した平山城で、関東の近世の城としては珍しく石垣を使用していないのが印象的だが、土塁は大きくて堀は深いため十分圧倒される規模だった。それと、要所要所の説明板に明治に撮られた写真が掲載されており、当時の様子を想像しやすいのも良かった。他にも城と同じ台地上にある武家屋敷の路地もなかなか雰囲気があって良かった。

小見川城 おみがわじょう

築城年代
建久年間(1190~1199年)築城
築城者
栗飯原朝秀
分類
平山城(丘城)
遺構・復元物
土塁、堀切
現状
小見川城山公園
場所
千葉県香取市小見川
最終訪城日
2010年4月4日

【歴史概要】
建久年間に千葉氏一門の栗飯原朝秀によって丘陵に城が築かれたのが始まりで、以後は栗飯原氏代々の居城となった。1590年の小田原の役では栗飯原氏は北条氏側に付いていた為、豊臣氏側に攻められて落城した。役後には松平家忠が一時居城とするが1601年には廃城となった。

【感想】
公園化のおかげで遺構がわかり辛かったが、忠魂碑がある場所より北側に堀切や土塁、腰郭などがあってここら辺は城跡の雰囲気が残っていて良かった。赤橋が架かってる場所や、天満宮と立ち入り禁止区域との間の鞍部も恐らく堀切の跡で、たぶん連郭式の縄張りだったのだろうと思う。なお、園内には桜の木が植えられており、満開時はなかなか綺麗だった。

坂田城 さかたじょう

築城年代
14世紀頃築城
築城者
千葉氏
分類
平山城(丘城)
遺構・復元物
土塁、空堀、姫塚
現状
雑木林、果樹園、田畑
場所
千葉県山武郡横芝光町坂田
最終訪城日
2013年3月3日

【歴史概要】
14世紀頃に千葉氏によって舌状台地の南端に築かれたとされ、16世紀頃には三谷氏の居城となっていたが、1555年頃に井田友胤によって攻め落とされ、以後は井田氏の居城となった。1590年の「小田原の役」では北条側の城だったが、城主の井田氏は城にはおらずそのまま開城となった。

【感想】
舌状台地の端を利用したわかり易い縄張りの城郭だが、城内は広く予想以上の規模に驚かされた。空掘と土塁も良く残されており、特に虎口の両脇に横矢の張り出しがある相横矢構造は特徴的で良かった。なお、「坂田城跡梅林」という名所にもなっているが、敷地に対して梅の木の割合はあまり多くない。

■群馬県■

沼田城 ぬまたじょう

築城年代
1532年築城
築城者
沼田顕泰
分類
平山城(丘城)
遺構・復元物
鐘楼(復興)、石垣、土塁、空堀
現状
市指定史跡/沼田公園
場所
群馬県沼田市
最終訪城日
2012年4月22日

【歴史概要】
1532年に沼田顕泰によって築かれた城だが、1560年に上杉氏と北条氏との間での帰属を巡って家中が分裂し、沼田顕泰は破れて上杉氏の元に逃れた。その後、城は北条氏と上杉氏の争いとなったが、1580年に真田昌幸によって攻略されると、藩政時代も真田氏の城となった。1682年に真田信利が改易されて廃城となった。

【感想】
城は段丘の隅を利用して築かれており、北と西側は断崖絶壁で、東と南に空堀を設けて城を区画していたようだが、現在では堀や土塁は断片的にしか確認できず少々残念だった。本丸の北西隅には櫓台とその石垣が残っており、遺構としては城内で最も印象深い場所だった。なお、この櫓台には名勝の「御殿桜」が根を下ろしており、ちょうど訪城時には満開で綺麗だった。。他には本丸跡に復元された鐘楼があったが、構造はともかくその位置が少々疑問だった。

■栃木県■

宇都宮城 うつのみやじょう

築城年代
1063年頃築城
築城者
藤原宗円
分類
輪郭式平城
遺構・復元物
櫓(復元)、塀(復元)、石垣、土塁、水堀
現状
宇都宮城址公園、市街地
場所
栃木県宇都宮市本丸町
最終訪城日
2012年4月15日

【歴史概要】
前九年の役で源頼義に従って東国に下向した藤原宗円は、1063年頃に二荒山神社(宇都宮)座主となり、門前に館を築いて土着したのが始まりという。孫の朝綱の代から宇都宮氏を称して代々続いたが、宇都宮国綱の代に豊臣秀吉の不興を買い改易させられた。その後、城主は何度か変わり、本多正純が入った頃に近世城郭として整備されたという。本多正純は「宇都宮城の釣り天井事件」で有名だが、これは後世の創作である。幕末の戊辰戦争では新政府軍の拠点となったために幕府軍の大鳥圭介の襲撃を受けて焼失し、戦後廃城となったという。

【感想】
城跡は市街地に埋没し、もともと遺構は御本丸公園に残る土塁の一部しか確認できなかったが、平成19年に「平成の築城」と言われる大工事で本丸の西半分が復元され、宇都宮城址公園として生まれ変わっている。昔、復元前に訪れた時は寂しい感じの空き地だったが、現在は現在でちょっと整備のやり方に疑問が残る城址公園で、復元された櫓に関しては内部も木造でよく出来ていて感服したが、周辺の大きな土塁がコンクリート製の張りぼて構造というのがなんとも衝撃的だった。特にまるでガレージの入り口のようなものが沢山付いているのと、エレベーターが土塁から突き出しているのがなんとも奇怪な光景だった。

上三川城 かみのかわじょう

築城年代
1249年頃築城
築城者
横田頼業
分類
中世平城
遺構・復元物
模擬石垣、土塁、水堀、井戸跡
現状
上三川城址公園・市街地
場所
栃木県河内郡上三川町上三川
最終訪城日
2012年4月15日

【歴史概要】
1249年に横田頼業によって築かれた平城で、以後は横田氏代々の居城となった。横田綱親の代の頃に一門の今泉氏が台頭して立場が入れ替わり、以後は今泉氏の居城となった。しかし、宇都宮氏の世継問題で今泉高光と芳賀高武は対立し、芳賀高武によって上三川城を攻め落とされて今泉高光は自刃した。今泉氏の滅亡の後は廃城となったとされる。

【感想】
城は輪郭式の平城だったそうだが、現状では本丸の部分しか確認できなかった。本丸跡はほぼ方形で大きな土塁と水堀に囲まれており、土塁がなかなか見事で登るとけっこう高かった。ただ、公園整備の影響で微妙な模擬石垣が入り口付近に造られており、この部分がなんとも残念な光景であった。

多功城 たこうじょう

築城年代
1248年築城
築城者
宇都宮宗朝
分類
中世平城
遺構・復元物
空掘
現状
石橋ゴルフガーデン・民家・雑木林
場所
栃木県河内郡上三川町多功
最終訪城日
2012年4月15日

【歴史概要】
1248年に宇都宮宗朝によって築かれた平城で、宗朝は1257年頃から多功氏を称し、以後は多功氏代々の居城となった。1558年には上杉謙信が宇都宮に攻め込み、多功城で合戦となったが多功氏は援軍と共にこれを撃退している。1572年と1585年には北条氏の攻撃を受けるが、城が陥落することは無かった。1592年に宇都宮氏が改易されると多功氏も没落し、城は廃城となったという。

【感想】
城跡は宿多功の住宅地やゴルフ施設、雑木林がある場所にあり、主要道路から脇道に入った突き当たりで城の標柱を確認することが出来たが、遺構まではこの目で確認することはできなかった。雑木林のあたりには空掘があるそうなので、北の畑のほうから回りこむと遺構が確認できたのかもしれない。

栃木城 とちぎじょう

築城年代
1591年築城
築城者
皆川広照
分類
平城
遺構・復元物
土塁、水堀
現状
栃木城址公園・住宅地
場所
栃木県栃木市城内町
最終訪城日
2012年4月15日

【歴史概要】
1591年に皆川広照によって築かれた平城で、山城で不便な皆川城から居城を移している。「小田原の陣」の後に徳川家に仕えた広照は、1603年に松平忠輝の傅役を命じられるが、忠輝の振る舞いに振り回された末に1609年にその資質を疑われて改易された。城はこの時に廃城となったいう。

【感想】
説明を見ると当時はそこそこ大きな複数の郭から成る平城(梯郭式?)だったようだが、現状は郭のサイズも確かめることが難しいくらいの断片的遺構しか残っていなかった。その辛うじて残っている遺構は栃木城址公園の土塁と掘であるが、この公園の場所が住宅地の中にあるため、かなり場所が判り辛かった。

黒羽城 くろばねじょう

築城年代
1576年築城
築城者
大関高増
分類
平山城
遺構・復元物
土塁、空堀、水堀
現状
黒羽城址公園・雑木林・住宅地
場所
栃木県大田原市前田
最終訪城日
2012年6月30日

【歴史概要】
1576年に大関高増によって築かれた平山城で、高増は白旗城から居城を移して以後は大関氏代々の居城となった。大関氏は1590年の「小田原の役」にも参陣して所領を安堵され、1600年の徳川家康の上杉征伐時は家康に味方して対上杉戦に向けて城を改修している。江戸時代には黒羽藩の藩庁となり明治まで続いた。

【感想】
城は南北に伸びた丘の上にあり、深い堀と土塁が残っていてなかなか見事だった。城跡の中心部は公園として整備されており、紫陽花の名所としても有名で、本丸土塁沿いや堀切の一面に咲く花はなかなか綺麗だった。城の建物は残っていないが、城内にあった大雄寺が今も健在で、茅葺屋根の本堂や回廊で繋がれた境内は貴重な見所である。

■茨城県■

水戸城 みとじょう

築城年代
1190年頃築城
築城者
馬場資幹
分類
連郭式平山城(丘城)
遺構・復元物
藩校、庭園、現存城門、模擬城門、土塁、空堀
現状
弘道館、偕楽園、官公庁、学校、市街地
場所
茨城県水戸市三の丸
最終訪城日
2018年1月4日

【歴史概要】
1190~1193年頃に馬場資幹によって舌状台地の先端に築かれた城で、馬場氏代々の居城となったが、1416年に馬場氏は江戸氏に敗れて以後は江戸氏の居城となった。江戸氏は佐竹氏の傘下にあったが、後に北条氏に加担したため1594年に佐竹氏によって城を攻め落とされた。その後、佐竹氏は太田城から水戸城に居城を移すが、関ケ原の合戦時に曖昧な態度をとった為、1602年に出羽国へと転封された。やがて1609年に徳川頼房が入ってからは御三家と称される水戸徳川家が成立し、以後は明治まで水戸藩の藩庁となった。

【感想】
城は舌状台地を利用した連郭式の縄張りのお手本とも言える構造で、派手さや複雑さは無いので御三家の他の城と比較すると見劣りするが、6本の堀切(現在ハッキリ確認できるのは3本)で台地を切断しているその規模には驚かされる。建造物では藩校の弘道館と本丸の薬医門が残っており、最近は二の丸に模擬門や城郭風の塀が造られたが、二の丸大手門は模擬ではなくガチで復元するようなので完成を待ちたい。

結城城 ゆうきじょう

築城年代
1183年頃築城
築城者
結城朝光
分類
平山城(丘城)
遺構・復元物
土塁、空堀、水堀
現状
結城城跡公園・住宅地・畑
場所
茨城県結城市大字結城字城跡
最終訪城日
2012年4月15日

【歴史概要】
1183年に結城朝光によって築かれた城で、以後は結城氏代々の居城となった。1440年には鎌倉公方の遺児を担いで幕府に反旗を翻したが、篭城戦の末に結城氏朝と持朝が討死し、1441年に落城して結城氏は没落した。1447年には結城成朝が再興して復帰するが、徳川家康の次男の秀康が結城氏の養子となり、後に越前へと転封されると廃城となった。1700年に水野勝長が能登より転封されると城が再構築されるが、戊辰戦争で戦場となり焼失した。

【感想】
城は台地の端を大きく切り取った場所に築かれており、現状は大半が住宅地だったが、その住宅地の中の木々が茂ってる場所や畑の中などに空堀が残っており、予想していたよりも比較的遺構は多く見られた。城跡公園のある場所はちょうど本丸と実城のあった場所にあたるが、園内では城の説明板以外はこれと言った見所が無かった。強いて言えば、「桜が綺麗だった」ことくらい。

笠間城 かさまじょう

築城年代
1219年
築城者
笠間時朝
分類
山城
遺構・復元物
石垣、土塁、空堀
現状
佐志能神社・県立自然公園
場所
茨城県笠間市笠間
最終訪城日
2017年9月18日

【歴史概要】
1205年に正福寺と徳蔵寺の争いを調停するために派遣された塩谷時朝は、両勢力を滅ぼして正福寺跡に1219年に笠間城を築いた。以後、笠間氏代々の居城となったが、1590年に笠間氏は宇都宮氏に攻め滅ぼされた。1598年に会津から蒲生秀行が宇都宮の転封されると、蒲生家の蒲生郷成が笠間に入り、この時に城は石垣造りに改築されたという。蒲生氏が会津に返り咲いた後は城主は転々と変わり、牧野氏が城主の頃に明治を迎えた。

【感想】
城は佐伯山に築かれた山城で、山頂の岩山に石垣を組み合わせて築かれた天守台は見事だったが、3.11の震災の影響か部分的に壊れて立ち入り禁止になっていたのが残念だった。天守台の他にも本丸に残る土塁や空堀、大手門跡の桝形と石垣等のハッキリした遺構があってなかなか楽しかった。建物としては櫓と門が移築されて残っているらしいが、時間の都合で見られなかったのが悔やまれる。

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