
猿賀館 さるがたて
16世紀に福王寺別当の乳井玄蕃が築いたと伝わる。1565年に乳井玄蕃が討たれた後は滝本氏家臣の後藤宅庸が入り、1575年に滝本勢が駆逐されてからは千徳氏家臣の木村越後が入った。現在は猿賀神社。▼遺構や見所
■ 土塁と堀跡 ■
館跡の北西付近に土塁が残っており、この土塁に隣接して堀跡と思われる窪地が見られる。江戸時代にはコの字に近い形で土塁が残っていたようなので元々は方形居館だったと思われる。
■ 猿賀神社 ■
祭神は蝦夷との戦いで亡くなった田道命で、大蛇になって蝦夷を平定した伝説がある。由緒によると初めに社殿を建てたのは807年の坂上田村麻呂だと伝わっており、現在の社殿は1826年に建てられた。由緒が正しいのであれば乳井玄蕃は館の内部に猿賀神社を祀っていたことになる。
■ 鏡ヶ池 ■
猿賀神社の東にある大きな池で、古くからあったと伝わるので猿賀館の堀も兼ねていたと思われる。ただ、一方で津軽信牧が霊夢を得て整備したとも伝わるので江戸時代以前は今のような池では無かったのかもしれない。池の中島には宗像三神を祀る胸肩神社があるが、明治の廃仏毀釈以前は弁財天宮だったらしい。
▼歴史
- 年月日出来事城主・城代・持分・守備
- 16世紀福王寺別当の乳井玄蕃が城館を築いたと伝わる。同時に玄蕃は猿賀神社の神職も務めていた。乳井玄蕃
- 1565年南部氏家臣の滝本重行は乳井玄蕃が村の争いの仲裁から帰る時を狙って襲撃し、玄蕃は重行家臣の後藤宅庸に打ち取られたという。乳井玄蕃
- 1565年?乳井城と猿賀館の間に滝本重行によって高畑城が築かれており、この時には猿賀館は既に陥落して家臣の後藤宅庸に与えられていたようだ。後藤宅庸
- 1575年大浦為信の助力を得た乳井建清は父の仇の滝本重行が籠る大光寺城を攻め落としており、猿賀館もこの前後に陥落したと思われる。後藤宅庸
- 1575年?猿賀館に千徳氏家臣の木村越後が入っている為、大浦為信の盟友の千徳勢が猿賀館を攻め落としたか。木村越後
- 1597年千徳氏と大浦氏の仲が険悪になると木村越後は千徳氏から離反して大浦為信の家臣となり、浅瀬石城攻めでは先陣を務めた。木村越後
- ~1611年鷹岡城(後の弘前城)が出来る頃には家臣の城下集住が進んでおり、猿賀館も既に廃城済みと思われる。なお、木村越後の子孫は300石の弘前藩士となっている。木村越後
▼詳細情報
最終訪城日 | 2019年5月2日 |
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別名 | - |
前身 | - |
前身の築城年代 | - |
築城・普請開始 | 16世紀頃 |
築城完了 | 16世紀頃 |
築城者 (設計者) | 乳井玄蕃 |
分類 | 中世平城(居館) |
規模 | 不明(約50m四方?) |
標高 | 標高:38m、比高:- |
文化財指定 | 猿賀神社は県指定重要文化財(県重宝) |
現存建造物 | - |
復元建造物 | - |
模擬・復興建造物 | - |
遺構 | 土塁、空堀 |
標柱・説明板 | 猿賀神社の社殿脇に標柱あり |
現状 | 猿賀神社 |
イベント | - |
注意事項 | - |
場所 | 青森県平川市猿賀石林175 |