
堀越城 ほりこしじょう
南北朝時代に曾我貞光が津軽平野南部に築いた館を、16世紀に津軽為信が改築して拡張整備した平城。鷹岡城が完成するまで津軽氏の居城となった。現在は主要な郭が公園として整備されている。それ以外は住宅地。▼遺構や見所
■ 本丸御殿跡 ■
本丸跡にはかつて本丸御殿があり、現在主殿と玄関の跡が平面復元されている。
■ 熊野神社 ■
本丸跡の南半分には熊野神社が鎮座しており、このあたりはまだ詳しく発掘されていないが、奥御殿があった場所と推測されている。
■ 本丸東門跡 ■
三の丸から橋を渡って本丸へ入る箇所にある城門の跡で、発掘調査の結果、大きな門と門番が待機する番所、そして平屋もしくは二層の櫓跡が発見されている。規模から見て本丸大手門であることは間違いない。現在これらは平面復元されている。
■ 本丸西門跡 ■
二の丸から土橋を渡って本丸へ入る箇所にある城門の跡で、規模から見てこちらが本丸搦手口である。現在は実質熊野神社の参道になっている。
■ 内堀 ■
本丸の周囲は水堀で囲まれており、現在も内堀の部分は良く残っている。
■ 二の丸蔵跡 ■
二の丸跡は発掘調査の結果、蔵の跡や鍛冶場の跡などが発見されており、現在は蔵の跡が平面復元されている。
■ 二の丸虎口 ■
小丸跡から土橋を渡って二の丸跡へ入る部分の虎口で、土橋を渡ってから一旦犬走を移動して入る喰い違い構造になっている。
■ 外堀 ■
外堀は二の丸と三の丸北部の堀が整備されているが、現在は意図的に堀底を浅くしており、当時は内堀同様に水堀だったと思われる。城跡南側の外堀はこの時はまだ整備工事中だった。
■ 三の丸 ■
城跡東側の城内で一番大きな郭で、現在は国道が貫通して東西に分断されている。国道以外の箇所は整備されて一部の建物跡が平面復元されており、当時は家臣の屋敷があったと推測されている。
■ 二重土塁 ■
どういう意図があったのかは不明だが、三の丸の南北の土塁は二重土塁の構造になっている。
■ 三の丸虎口 ■
外構えから土橋を通って三の丸に入る場所には二重土塁があり、この土塁の部分で土橋は複雑に曲がっている。所謂、喰い違い虎口を津軽為信がアレンジしたものと思われるが、なかなか面白い構造である。
▼歴史
- 年月日出来事城主・城代・持分・守備
- 1336年北朝の曾我貞光によって堀越館が築かれる。曾我貞光
- 14世紀曾我氏が南部氏に攻め滅ぼされ、堀越館は南部氏の領する所となった。南部氏
- 16世紀南部氏家臣の武田守信の居城となる。武田守信
- 1567年大浦為則の婿養子となって跡を継いだ為信は、堀越の武田氏の生まれとされるが、久慈氏の生まれとの説もあって定かではない。大浦為信
- 1571年春大浦為信は南部氏の津軽地方の郡代である石川高信に堀越城の修理と偽って城に武器や兵糧を運び込んだ。大浦為信
- 1571年5月4日大浦為信は石川城から人を招いて修築祝いの宴を開き、その夜に石川城に夜襲をかけて攻め落とした。油断していた石川高信は討死したという。大浦為信
- 1585年大浦為信は南部氏の御家騒動で連携が取れていない南部氏家臣を次々打ち破り、津軽地方をほぼ勢力下に収め、この頃から津軽氏を称するようになった。津軽為信
- 1590年津軽為信は海路で京へ向かい、東海道を進む小田原の北条氏討伐の軍勢に追いついて豊臣秀吉から津軽の安堵を約束される。津軽為信
- 1594年津軽為信はそれまで支城だった堀越城を大名の城として改築し、大浦城から居城を移した。津軽為信
- 1600年7月津軽為信は2千の兵を率いて徳川家康の元へ参陣するが、戦力が足りないと感じたのか国元へ800の援軍を要請している。浪岡主馬など
- 1600年9月津軽為信は徳川家康に従い大垣城に入り、「関ケ原の合戦」時には大垣城で城を守備した。だが、この時に国元では石田三成派の家臣の板垣兵部、尾崎喜蔵、多田玄蕃によって城を攻め落とされ城番の浪岡主馬、土岐新助、田村左衛門らは討死した。浪岡主馬など
- 1600年10月東軍の勝利と津軽為信からの謀反鎮圧の指示が国元に伝わり、家臣の金信則が堀越城に籠城する板垣兵部、尾崎喜蔵を破って乱を鎮圧した。板垣兵部など
- 1603年津軽為信は堀越城の防備に不安があることと不幸が続いたため、鷹岡に新たに城を築くことを決める。津軽為信
- 1607年新しい城の縄張りが終わり築城工事が始まるが、為信は京にて病死する。工事は跡を継いだ津軽信牧が引き継いだ。津軽信牧
- 1611年鷹岡城が完成した為、津軽信牧は堀越城から居城を移した。津軽信牧
- 1615年「一国一城令」に従い廃城となる。-
- 1985年国指定史跡となる。-
▼詳細情報
最終訪城日 | 2019年4月30日 |
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別名 | - |
前身 | 堀越館 |
前身の築城年代 | 1336年 |
築城・普請開始 | 1594年 |
築城完了 | 1594年 |
築城者 (設計者) | 津軽為信 |
分類 | 中世平城 |
規模 | 東西400m×南北400m |
標高 | 標高:41m、比高:- |
文化財指定 | 国指定史跡 |
現存建造物 | - |
復元建造物 | 本丸東口橋 |
模擬・復興建造物 | - |
遺構 | 土塁、水堀、空堀、土橋 |
標柱・説明板 | 北側のロータリーに標柱と仮設説明板あり |
現状 | 熊野神社、史跡公園、住宅地 |
イベント | - |
注意事項 | - |
場所 | 青森県弘前市堀越 |