
横手城 よこてじょう
築城時期については諸説あるが、中世に朝倉山に築かれた城で、小野寺氏の代々の居城となった。関ケ原の合戦後、小野寺氏が改易されると羽後国には佐竹氏が転封され、横手には城代が置かれた。戊辰戦争で列藩同盟軍の攻撃を受けて落城焼失した。現在は秋田神社と横手公園。▼遺構や見所
■ 本丸跡 ■
朝倉山の南のピークに本丸跡があり、かつては本丸御殿があったが戊辰戦争で焼失している。現在は秋田神社が鎮座しており、この社殿には大手門の部材が一部流用されている。
■ 武者溜の土塁 ■
本丸と二の丸の間の鞍部は「武者溜」だった場所で、ここには絵図にも描かれている土塁が比較的よく残っている。なお、公園の店舗が建っている場所も土塁跡の上である。現在はロータリーになっており、ここまでは車で登れるようになっている。
■ 二の丸跡 ■
朝倉山の北のピークに二の丸跡があり、本丸よりもやや広い曲輪になっている。江戸時代には城代の戸村氏の屋敷があった曲輪で、今は中央に庭園の遺構が確認できる。現在は模擬天守閣が建っている。
■ 模擬天守閣 ■
二の丸跡には模擬天守閣が建っており内部は資料館になっている。最上階からは横手の街が一望できる。
時間:9:00~16:30
休館日:12月~3月
入館料:100円、中学生以下無料
■ 大手門跡 ■
武者溜から西側の七曲坂に降りる場所に大手門跡があり、絵図を見る限りでは棟門があったようだ。
■ 七曲坂 ■
西麓から山の上に登る道があり、藩政時代はここが大手道だった。石段が残っていて雰囲気があるが、当時の石段かどうかは確認出来ず。
■ 搦手門跡 ■
武者溜から二の丸の北麓へと降っていくと搦手門跡がある。標柱には「搦手門跡」と書かれているものの、絵図を見る限りでは少々複雑な構造だったようで、画像のT字路左側に城門、右側に枡形虎口がある構造だったようだ。現在は車道になっており、枡形虎口の土塁は消失している。
■ 外郭の土塁(中央付近) ■
横手城は山の西麓に外郭を持っており、城下町(本町)との間に塁壁を設けていたことが当時の絵図で確認出来る。この塁壁の中央付近に内枡形の枡形虎口(長坂口)、南側に横矢を伴った平虎口(表町口)が設けてあったが、枡形虎口の方は住宅地になって消滅している。画像は2つの虎口の間の土塁跡で、上に建っているのは横手教会。
■ 外郭の土塁(蛇の崎) ■
外郭の塁壁の南端部で、横手川にやや突き出た感じになっているが、昔は文字通り蛇の頭のように川に突き出た地形だった。現在は観音寺の鐘突き堂が建っており、横手を代表する風景の一つとなっている。なお、江戸時代にはここに薬師堂があった。
■ 羽黒町武家屋敷跡 ■
惣構え南側の横手川右岸が武家屋敷があった羽黒町で、現在は残念ながら武家屋敷の建物は残っていないが、当時の町割りが残っている。そのため、画像のように道が食い違っている箇所が今でも確認できる。
▼歴史
- 年月日出来事城主・城代・持分・守備
- 鎌倉時代朝倉山にこの頃から城が築かれていたとも伝わるが定かではない。-
- 1300年沼館城主の小野寺忠道の子の小野寺道有が横手城を築いたとも伝わる。『和賀小野寺系図』小野寺道有
- 1467年小野寺氏の家老の横手道前が横手城を居城とした。『応仁武鑑』。横手道前
- 1552年小野寺稙道は京より帰国して湯沢城へと入ったが、横手城主の横手佐渡と金沢金乗坊が共謀して謀反を起こし、稙道は湯沢にて自害して果てた。子の輝道はなんとか逃げ延び、母の実家である庄内の大宝寺氏の元へ身を寄せたという。『奥羽永慶軍記』横手佐渡
- 1554年小野寺輝道は大宝寺氏の力を借りて沼館城へと入り、横手城の横手佐渡らを討ち取って所領を奪還した。『奥羽永慶軍記』横手佐渡
- 1577年小野寺輝道が横手城へ居城を移した。『小野寺氏系図』
※これ以前の文献に出てくる横手城は平城の方だとする説もある。小野寺輝道 - 1594年八柏道為は小野寺義道の命で横手城へと登城するが、中の橋付近で黒沢甚兵衛らによって暗殺される。この事件は最上義光の謀略により、道為が最上氏に内応していると義道が思い込んだことが原因と伝わる。小野寺義道
- 1595年最上家の楯岡満茂が小野寺氏の湯沢城へと攻め込むが、小野寺義道は八柏道為の件で疑心暗鬼に駆られて援軍が遅れ、湯沢城や岩崎城などの小野寺側の城は最上氏の手に落ちた。小野寺義道
- 1600年8月小野寺義道は徳川家康の要請に従って上杉攻めに参加するため、渋々仇敵の最上義光の山形城へと向かうが、天童付近にて家康が石田三成のために反転して関ケ原に向かったことを聞くと、一転して本領へと帰還してしまった。小野寺義道
- 1600年9月小野寺義道は上杉家の最上侵攻に連動して最上氏に奪われた所領の奪還を目論むが、最上勢の守りは固く、一部奪還できたものの湯沢城までは取り戻すことが出来なかった。小野寺義道
- 1600年10月「関ケ原の合戦」が東軍勝利で終わると上杉家は降伏し、小野寺義道は孤立無援の状態で逆に最上氏の反撃を受ける形になった。小野寺義道
- 1601年小野寺義道は西軍に加担したことで年明けに徳川家康より改易を言い渡され、石見国の津和野に配流となった。小野寺義道
- 1602年平鹿郡は出羽国へと転封された佐竹氏の所領となり、横手城には城代として伊達盛重が置かれた。伊達盛重
- 1603年佐竹氏家臣の須田盛秀が横手城の城代となる。須田盛秀
- 1624年徳川秀忠の逆鱗に触れて改易された本多正純が久保田藩の佐竹氏に預けられ、横手城にて須田盛秀が正純の監視役を勤めた。須田盛秀
- 1672年戸村義連が横手城の城代となる。以後、戸村氏が代々の城代を勤めることになる。戸村義連
- 1868年「戊辰戦争」では久保田藩は新政府軍に付いたため、列藩同盟軍の攻撃を受けることとなり、横手城には庄内藩を主力とする部隊が攻め寄せた。城代の戸村義得は約100名の兵で篭城して戦うが、多勢に無勢で城は一晩で陥落し、義得は辛うじて脱出して落ち延びた。戸村義得
- 1871年横手城が廃城となる。陸軍省
- 1998年
3月26日市の史跡に指定される。横手市
▼詳細情報
最終訪城日 | 2019年11月2日 |
---|---|
別名 | 朝倉城、阿桜城、龍ヶ崎城、韮城 |
前身 | ? |
前身の築城年代 | 鎌倉時代? |
築城・普請開始 | 1300年又は1577年 |
築城完了 | 1300年又は1577年 |
築城者 (設計者) | 小野寺道有 |
分類 | 近世平山城 |
規模 | 東西500m×南北600m |
標高 | 標高:120.5m、比高:約60m |
文化財指定 | 市指定史跡 |
現存建造物 | - |
復元建造物 | - |
模擬・復興建造物 | 模擬天守閣 |
遺構 | 曲輪跡、土塁、堀跡 |
標柱・説明板 | 武者溜跡に説明板あり |
現状 | 秋田神社、横手公園、市街地 |
イベント | 桜まつり(4月)、雪まつり(2月) |
注意事項 | 熊出没注意の看板あり |
場所 | 秋田県横手市城山町・根岸町 |