
大鳥井柵 おおとりいのさく
平安時代に清原光頼、頼遠の親子によって築かれた城柵で、「後三年合戦」で陥落し焼失した。その後、藤原正衡によって城柵が再建されて関根柵と呼ばれた。現在は大鳥井山神社と大鳥公園。▼遺構や見所
■ 頂上の曲輪跡(大鳥井山神社) ■
大鳥井山の頂からは発掘調査で平安時代の大型掘立柱建物が見つかっており、用途は定かではないが重要な施設があったことだけは確かである。なお、埋め立てられてしまったが建物跡の隣からは大きな空堀も見つかっている。現在は大鳥井山神社が鎮座しており、月読大神を祀っているためか社殿と鳥居が真っ黒である。
■ 堀切と土塁 ■
中腹から頂上に続く尾根状の地形には堀切が設けられており、頂上側に土塁を設けているのも確認できる。なお、画像のような堀切の箇所は3か所ほど確認できた。
■ 二重堀跡(横堀) ■
大鳥井山の中腹に大規模な横堀跡があり、二重堀の構造になっている。画像は二重のうちの外側の横堀跡で、発掘調査後にある程度埋め戻されたがそれでも横堀跡だとハッキリ判る。
■ 頼遠居館跡 ■
大鳥井山にある曲輪の中で最も広い曲輪が中腹にあり、この場所は清原頼遠の居館跡とされている。
■ 小吉山火葬墓跡 ■
小吉山西側の高台には火葬墓跡があり、ここから石棺が2つ見つかっている。当初は廃城後に出来たものとされていたが、調査結果からは城柵が機能していた頃から既にあった可能性が指摘されている。
■ 小吉山の曲輪跡 ■
小吉山側では最大規模の曲輪があった場所で、曲輪内部を東西に横切る堀で南北に分けられていた。また、曲輪の外側には大規模な二重堀が設けられていた。ただ、残念ながら公園造成時に地形は大きく改変されており、現在は遺構は確認できない。前述の二重堀は画像のグランドの中央付近に埋まっている。
▼歴史
- 年月日出来事城主・城代・持分・守備
- 10世紀発掘調査で10世紀の遺物が出ている為、清原光頼よりも先代の頃に築かれた可能性がある。清原氏?
- 11世紀清原光頼または子の大鳥太郎頼遠によって築かれたと伝わる。清原光頼
- 1087年「後三年合戦」では清原頼遠は大鳥山(大鳥井柵)に籠るが金沢柵と同様に源義家と藤原清衡に攻め落とされた。『正平禅寺古記録』清原頼遠
- 1087~1093年清原頼遠の旧領は藤原清衡の三男の正衡に与えられ、正衡は焼け落ちた大鳥井柵を修繕して関根柵と称し居城とした。『正平禅寺古記録』藤原正衡
- 12世紀発掘調査で12世紀を最後に使用されなくなった事が判っている為、藤原正衡の没後に廃城となったか。-
- 2010年2月22日国史跡に指定される。横手市
▼詳細情報
最終訪城日 | 2019年11月2日 |
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別名 | 大鳥山柵、大鳥居柵、大鳥柵、関根柵 |
前身 | - |
前身の築城年代 | - |
築城・普請開始 | 10世紀後半 |
築城完了 | 10世紀後半 |
築城者 (設計者) | 清原氏? |
分類 | 古代城柵 |
規模 | 東西500m×南北600m |
標高 | 標高:80m、比高:約20m |
文化財指定 | 国指定史跡 |
現存建造物 | - |
復元建造物 | - |
模擬・復興建造物 | - |
遺構 | 曲輪跡、土塁、堀跡 |
標柱・説明板 | 大鳥公園駐車場付近に説明板あり |
現状 | 大鳥井山神社、大鳥公園、雑木林、住宅地 |
イベント | - |
注意事項 | - |
場所 | 秋田県横手市新坂町/大鳥町/台所町 |